星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

美術品と猛獣〜ふたつのドキュメンタリー

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 今年の映画見物は、2本の映画人を扱ったドキュメンタリーからスタートです。ビョルン・アンドレセンの人生と現在を描く『世界で一番美しい少年』(監督クリスティーナ・リンドストム&クリスティアン・ペトリ)と、夭折したジョン・ベルーシの生涯を描く『BELUSHI ベルーシ』(監督)。

 

 

 ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』(1971)といえば、私にとっては何をおいてもダーク・ボガードの映画であって、ビョルン・アンドレセンにさほどの思い入れはない。それは男女問わず「観賞用」のキャラクターに興味を持てないからだけど、あの映画は究極の観賞用少年を表出しえたところに、ヴィスコンティの凄さがある。

 

 レンタルビデオ世代なので、公開当時の日本におけるビョルン・アンドレセンブームというのはよく知らなかったのだが、いやぁすごいものだったんですね。60年代の貸本少女漫画など読むと、「金持ち」のイメージが完全に西欧貴族文化風だったりするんだが(天蓋付きのベッドで寝てたり、執事がいたり、メロンが丸ごと乗った晩餐が出てきたり)、ヨーロッパ文化への憧れがまだ色濃かった時代、『ベニスに死す』の美少年は西欧的美学を体現した生ける美術品として迎え入れられたようだ。それから46年、すっかり白髪長髭の老人となった現代のビョルン・アンドレセンが再来日して、当時の関係者や『ベルばら』の池田理代子と面会し、レコード発売した日本語歌詞の歌を改めてカラオケで歌うという展開はいささかグロテスクな光景だったが、あの時もたらされた「美」を表面のみ消費し、その後、美とは無縁の社会を作りあげた我が国への冷ややかな視線として忘れ難い。

 日本ではブームが去るとさっさと伝説化され、死亡説すら流れていたビョルン・アンドレセン。1988年には中井英夫ルキノ・ヴィスコンティを讃える文の中でこう書いている。

ヴィスコンティの手にかかると俳優は一作ごとにがらりと変わって、その賑やかさといったらない。ダーク・ボガードバート・ランカスターも、持っているものをすべて引き出され、己が役者の中へ埋没した。わけても嬉しいのはビョルン・アンドレセンが「二度と映画に出る気はない」といっているうちにあっさり死んでしまったことで、これでタッジオは不滅となった。

          「大アンケートによる洋画ベスト150」(文春文庫)より

 この文章が書かれたころ、実物のビョルンは愛息を突然死で失い、失意の底にあったということを今回の映画で初めて知った。ユーザーが「不滅」のイメージに浮かれるのは勝手だが、残された実体の方は残酷な現実を生き続けなければならない。

 

 ヴィスコンティをはじめ、ある種の演出家には素材の“旬”を吸い取ってしまう吸血鬼的な側面がある。ましてや同性愛者の多いヴィスコンティ組スタッフは、映画が完成するやビョルンをゲイクラブに連れ出したりしたそうなので、保護者としても問題が多かった。『ベニスに死す』以後のビョルンの芸能活動は運に恵まれなかったようだが、「世界で一番美しい少年」というレッテルに振り回されたことも強く影響していたことは間違いない。10代にして生涯の代表作を持ってしまうことの恐ろしさ。しかし、愛娘や新しい恋人とつきあいながら、『ミッドサマー』に出演したり音楽活動を続けたり、やや危なっかしい一人暮らしを続ける現代のビョルンは、伝説のレッテルから自由になって、さらに魅力的に見えた。

 

 

 一方、『BELUSHI ベルーシ』で描かれるジョン・ベルーシは、またたくまに伝説を打ち立て、33歳で夭折した破滅型のコメディアンで、今年は没後40年。私がその存在を知った時はもう亡くなって数年が経っており、やはりレンタルビデオで『アニマル・ハウス』(1979)と「サタデー・ナイト・ライブSNL)」のスケッチを集めた『ベスト・オブ・ジョン・ベルーシ』を観ることでその魅力を知った。

 

 このドキュメンタリーはジョン・ベルーシの評伝を出す際に集めた取材音声を再構成したもので、評伝の邦訳が出なかったため、ファンとしては映画版の公開は喜ばしい。が、彼の作品歴を把握している日本人でなければ、ちょっとこの内容からベルーシの魅力を知るのは難しいのではないかな、と心配になった。 

 ジョン・ベルーシ夫人のジュディスや弟のジム・ベルーシ、盟友ダン・エイクロイドをはじめとするSNLの面々、映画監督のハロルド・ライミスやジョン・ランディス……懐かしい顔ぶれの声に、過去の映像素材や遺族から提供された写真とプライベート・フィルム、そしてロバート・バレーによるアメコミ風アニメーションが挿入されて展開する。それにしても、アメリカの人というのはどうしてああも子供の頃からいろんな映像を撮ったり資料を保管していたりするものか! その一方で、映画のフィルムやブルース・ブラザースのライブ映像は使用料が高額なため、わずかしか使えない。ベルーシの「芸」を知りたい人は、現在廃盤のDVD『ベスト・オブ・ジョン・ベルーシ』をどうにか入手して観るべるーし。

 

 アルバニア移民の息子だったベルーシは、高校・大学ではアメフトの名選手、バンドを結成すれば人気ドラマーと「学校の花形」の道を邁進した。やがてコメディ劇団のスターから「サタデー・ナイト・ライブ」のレギュラー出演者へと、トントン拍子で成功を掴む。

 その芸風は、ピーター・セラーズのようなクセのある英国の喜劇役者とも、ウディ・アレンのような知的なユダヤ人ユーモリストとも異なる、明るく無邪気で破壊的、音楽活動への取り組みなど含めて、体育会系の笑いだった。日本でいえば、とんねるずの出現に近いインパクトがあったのではないか。しかしベルーシの肉体はアイドルとして可愛がれる類のものではなく、非常にチャーミングな一方、何か猛獣めいた野蛮なところがあった。

 実際、芸だけでなく人格もマッチョでお山の大将タイプのベルーシは、現場のふるまいも極めてワガママ、女性ライターが書いたスケッチを嫌い、女性の共演者への振る舞いも乱暴だったという。そういや日本でもベルーシファンを公言する人って男性ばかりだな。現代の女性観客があのキャラを「キュート」に感じるのは困難かもしれない。

 が、尊大に振る舞う男はえてして卑屈で繊細な部分があるもので、ベルーシにとっては「移民の息子」という部分が大きかったようだ。また若くして成功したための不安も大きく、聡明であるがゆえに「次」をいつも気にしていた。不安をかき消すため、当時流行のドラッグにのめり込んで行く。この辺はボブ・ウッドワード『ベルーシ最後の事件〜ハリウッドスターたちとドラッグの証言』にくわしいが、アメフトで鍛えた体による豪快な破壊芸が見ものだったのに、スピルバーグの『1941』(1979)の撮影時にはすでにドラッグでフラフラ、『ブルース・ブラザース』(1980)の現場では撮影を続行させるのが大変だったという。しかし、トレーナーをつけて薬物治療はかなりの部分まで成果を上げていたとはこの作品で初めて知った。ジュディス夫人の苦労が忍ばれるが、それでもベルーシが薬物を断てなかったのは、「陽気で豪快で才気煥発のコメディスター」を演じ続けなければならないプレッシャーにあったようだ。

 1982年3月、ベルーシが過剰摂取で死亡した夜、そばにいたのはロックバンドのグルーピー兼麻薬の売人だったキャシー・スミスという女性だが、今回の映画には登場しない。キャシーは服役後、法律関係の仕事をしながら子供たちに麻薬の悪影響を語る活動を続け、2020年に亡くなったと先ほど検索して知った。

 

 ジョン・ベルーシの暴力的な個性は、SNLでのスケッチと『アニマル・ハウス』の怪演、ブルース・ブラザースのライブで燃え尽きており、性格俳優としての第一歩を模索しているうちにパンクしてしまった。予定通り『ゴーストバスターズ』(1984)に主演できていたら、どんな展開があり得たかわからないが、21 世紀は彼にとって居心地の良い時代ではなかった気がする。

ブルース・ブラザース』は音楽権利の関係で日本ではなかなかビデオが出なかった。中学生の私はどうしても見たくて、代わりにサウンドトラックのLPレコードを買ってきた。当時すでにCDの時代だったのに、発売が数年前なのでレコードしか出てなかったのだ。それが私の初めて自分で買ったレコードであり、R&Bとの出会いだった。

 ジェイク&エルウッド兄弟に感謝。