星虹堂通信

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没後20年・勅使河原宏の特集上映に通う

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 今年は勅使河原宏(1927〜2001)の没後20周年。ということで、シネマヴェーラ渋谷では、その映像作品の特集上映「アートを越境する〜勅使河原宏という天才」が開催されている。

 

 映画監督としての勅使河原宏は、これまでまとまった評価がされてきたとは言い難く、研究書も友田義行『戦後前衛映画と文学 勅使河原宏×安部公房』の一冊しかない。そもそも勅使河原蒼風という大芸術家の息子で、草月流の家元を継承した人物だからだろう、ひがみ癖の強い日本では、映画や陶芸・舞台演出に渡る多彩な活動もすべて「ボンボンの道楽」と受け取られがちなところがあったようだ。

 まぁ、父・蒼風もまた活花・彫刻・書と多彩な活動をした巨匠であり、勅使河原宏の活動は実家の後援あってこそという部分は確かにあった。それでも父親とは異なる道をとまず絵画の世界を志ざし、小林古径梅原龍三郎について修行したり、木下惠介亀井文夫の元で劇映画や記録映画の助監督を務めたり、共産党に接近して山村工作隊としてダム建設現場へ潜り込んだりと、終戦直後に出現した芸術青年らしい紆余曲折を経て自分のスタイルを確立したその活動家ぶりは、例えるならルキノ・ヴィスコンティ山岡士郎。それだけでもきわめてユニークな存在なのである。

 そんな勅使河原宏映画作家としての活動は、安部公房の映像版翻訳者という印象があまりにも強く、70年代に本人が映画の現場を離れてしまったこともあって、前衛の季節が過ぎ去ると同時に急速に忘れられてゆく。映画で「芸術」を掲げるなんてダサいという空気が広がり、映画的な冒険の最前線がロマンポルノや8㎜制作に移ったせいもあるが、私がリアルタイムで観ることのできた『利休』(1989)のころ、勅使河原宏といえばやはり草月流の華道家であり、当時流行の異業種監督の一人として受け取めていた。真価を知ったのは上京してレンタルビデオで旧作を発見してからだ。

 60年代における勅使河原作品は、かつてDVD-BOXが発売されたが現在は絶版、国内盤でBlu-rayが出たのは松竹製作の『利休』と『豪姫』だけで、「前衛」の看板を掲げていた頃の作品がなかなか観ることができないのも、いまいち知名度が広まらない原因だった。満を持して開催された今回の特集上映、ようやく観賞かなった未見作品について、メモしておこう。

 

『十二人の写真家』(1955)

 写真雑誌「フォトアート」の6周年記念として製作されたPR映画。

 木村伊兵衛は、手持ちのライカで街行く人をすばやくスナップ(今やったら問題だぞ)、三木淳は花を活ける勅使河原霞をニコンで連続して撮りまくり、秋山庄太郎はスタジオで婦人雑誌用のモデルを丁寧にライティングしながら撮影、大竹省二ローライフレックスで海岸に横たわるモデルとにこやかに語らい、林忠彦武者小路実篤の仕事場をきびしい目つきで取材撮影、土門拳は戦災の跡が残る風景で子供たちが遊ぶ様子を笑顔でスナップ……という感じで、レジェンド級のカメラマンたちの撮影風景が数分ずつ綴られる。

 彼らが撮った作品のインサートはいっさいなし。現場の音声もなく、写真家たちによる「今回、被写体になってみて」のコメントがナレーターに朗読されるのみという、じつにシンプルなドキュメンタリー。しかし、これが非常に面白い。写真家たちの「眼」と彼らが見ているモノ・風景を自分も逃さずに記録してやろうという気迫に満ちたカメラがすばらしい。写真家が変わるとそれぞれBGMが変わるというのもニュース映画風の処理なのだが、その音楽とのマッチングも批評的でよかった。

 

『インディレース 爆走』(1967)

 公開時は岡本喜八監督『殺人狂時代』と同時上映。記録的な不入りだったとかですぐに封印されてしまったらしい。今回の上映でどうしても観たかった一本。

 冒頭、スピード狂の青年たちの描写とその会話がコラージュされるのは、短編『白い朝』(1965)で採用した、ドキュメンタリーの素材を編集して新たなフィクションを構築する試みの発展形。しかしその仕掛けは徹底されず、すぐに1966年富士スピードウェイでの「インディ200マイルレース」の記録へと移ってしまい、狙いは不鮮明なものになる。

 ジム・クラークマリオ・アンドレッティ、ジャッキースチュワート、グラハム・ヒルといった伝説の名ドライバーたちが集結しての大レース、彼らの来日からレーシングマシンのエンジンの仕組みまで、くわしく解説してくれるのだが、なにしろレース自体は同じ場所をぐるぐると80周するもので変化に乏しく、優勝候補のジム・クラークマリオ・アンドレッティがマシントラブルで脱落するというアクシデントなどあるが、膨大なカメラ台数の中に、『十二人の写真家』や『ホゼー・トレス』にはあった、作者の記録に向けた「眼」も埋もれてしまったようだ。

「スピード時代に向かう人類」を批評的に見つめようとする、トボけた調子のナレーションは、小沢昭一。小沢に技術解説をするコメンテーターはどういうわけか作家の安岡章太郎。車好きの安岡は安部公房といっしょに富士スピードウェイの撮影現場も訪問している。安部も自動車狂で鈴鹿にも通ったそうだが、安岡は自分では運転しないとのこと。

「人間と自動車」をいかに撮るかの模索は、次の安部公房原作『燃えつきた地図』(1968)へと引き継がれてゆくことになる。

 

『1日240時間』(1970)

 日本万国博覧会・自動車館における展示映像。前方・左右・上方の4面スクリーンで展開する、セリフなしの短編ミュージカルである。2014年に修復版が完成したが、その上映イベントには行けなかったので今回ようやく観ることができた。

 内容は、X博士と助手Aが、飲めば時間感覚を実際の10倍に引き延ばせる薬「アクセレチン」を開発。つまり、仕事や作業を10倍のスピードでこなすことができるようになるので、世の中から歓迎されるが、当然ながら薬を悪用する連中も出現する。深刻なトラブルが発生し、博士は「アクセレチン」の販売を中止、この映画もオシマイ……になるはずが、薬を求める欲深い人々の手はスクリーンを引き裂いて博士と助手に迫ってくる。薬を飲んで逃げる博士は、猛スピードで走るうちに、やがて車輪へと変身してしまう。

「車輪の発明は人類の時間感覚を劇的に変化させた」というテーマから発想された内容で、安部公房には『棒』や『なわ』、『鞄』など、道具についての短編が複数あるが、これなどは『車輪』と付けられるべきものだろう。しかし、そのテーマを称揚するわけではなく、スピード時代の行き着く先を不気味に暗示するエンディングは、よくも自動車館で上映できたものだと思う。しかし一方で、安部公房勅使河原宏も、50年代的なアヴァンギャルド精神による寓話風ファンタジーに、そろそろ飽きがきているような印象も如実に感じさせた。

 勅使河原宏としては、『インディレース 爆走』で突きつめられなかった、「スピード時代へ向かう人類」を改めてテーマとして設定したものだろう。スピード化=機械化=オブジェ化へと向かう人間たちを、不気味かつエロティックなダンスで彩ってみせる(女性ダンサーのヌードが映るのは驚いた)。また、4面のスクリーンがそれぞれ別映像を映すマルチ画面になったり、4面でひとつの風景を描く拡大画面になったり、登場人物や小道具がスクリーンをまたがって移動したり、映像の「枠」を拡大する実験が次々と試みられるのは、かつて『完全映画(トータル・スコープ)』を書いた安部公房好みの実験精神。

 しかし、途中で博士と助手が「『アクセレチン』の製造は中止! この映画もオシマイ!」とカツラと衣装を脱ぎ捨て映像も暗転するや、劇場の客席からゲバ棒を持った全共闘学生が登場、スクリーンをゲバ棒で引き裂いて、その奥にいる博士と助手の顔をさらす、という演出は脚本にはない仕掛けだ。そこから博士と助手に差し出される無数の「手」は、観客の側から奥へと向かう構図になり、観客は「強欲な大衆」の視点で二人を追う。

 後に寺山修司が短編『ローラ』(1974)で客席の俳優が切れ目を入れたスクリーンに飛び込むと、映画の中に登場するという実験映画を撮っているが、勅使河原は万博展示映像というメジャーの場で、そのアイディアの先取りに近いメタフィクション劇を撮っていた。

 イベント映像で大いに遊んだ勅使河原は、続いてセミ・ドキュメンタリーの手法を取り入れた自主制作『サマー・ソルジャー』(1972)へと向かうのだが、一方で安部公房は、より「ストーリー」を解体させ、独自のメタフィクション構造を用いた『箱男』へと向かってゆく。二人の共同作業の最後を飾る作品として、『1日240時間』は非常に象徴的な存在かもしれない。

 

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長嶌寛幸(左)と石井岳龍(右)

 

 そのほか、6月12日に行われた、映画監督・石井岳龍と、音楽家長嶌寛幸トークイベントも聴くことができた。

 この二人といえば、映画『エンジェル・ダスト』(1994)の監督と音楽家。なんとその時以来の邂逅だそう。

 石井監督は、安部公房勅使河原宏も「ジャンルを越境して活躍した芸術家」であり、二人の本質は言葉を使わない「詩人」であると評価。長嶌氏は川崎弘二の著書『武満徹電子音楽』に触れ、草月ホールの録音技師・奥山重之助の存在と、武満・奥山コンビが勅使河原作品で行った音響実験の数々、特に『おとし穴』(1962)はオールアフレコで、音響上のクリエティビティが豊穣に感じられる作品なので、ぜひ多くの人々に観てほしいと強調。

 二人とも、勅使河原作品は、撮影・録音機材の性能が乏しい時代、制約の多い中でいかにリアルな「現実」を記録・表現するかで試行錯誤を行っており、記録的リアリズムを突きつめた上で、「超現実」の表現へと達しているのが、21世紀の観客も感動させる強度を持ちえた理由だろう、現代はスマホでなんでも撮影・録音できてしまう分、そこに映らない・録れない「現実」をどう構築してゆくかが重要、もう一度、制約の多い環境に立ち戻ってみてもよいのかもしれない、と盛り上がり40分は瞬く間に過ぎた。

 しかし石井監督、いちばん気になる箱男』映画化のため安部公房に会った話や、撮影直前に製作中止となった話については、最後まで触れずじまい……。いつかはこの話も聞けるのだろうか。

 

 そして会場では、『フィルムメーカーズ22 勅使河原宏宮帯出版社)を先行発売していたので、これも購入。てっきり存命の映画人が対象だと思っていたこのシリーズに、いきなり勅使河原宏の名が連なるのも面白い。本人のエッセイから気合いの入った論考の数々、少しずつ読み進めている。

 勅使河原宏の美意識に満ちた映像感覚と時代を見つめる「眼」は、スマホでアニメや漫画を楽しむSNS世代に、むしろ生なましく迫ってくるのかもしれない。