CHAPTER 3
実験動物はつらいよ
安部公房が、『カンガルー・ノート』に取りかかる直前まで書き進め、未完に終った長編が『飛ぶ男』(1993・未完)だ。主人公・保根治は睡眠薬がわりにある音楽を聞いている。バッハの「ブランデンブルク協奏曲」。と言ってもオーケストラの演奏ではない。演奏者はウェンディ・カルロス。モーグ・シンセサイザーの開発者の一人であり、バッハの曲をアレンジした「スイッチト・オン・バッハ」(1968)で一躍有名になった。『飛ぶ男』に書かれている通り、性転換手術を受けており、女性になる前の名はウォルター・カルロスという。
このウォルター・カルロスこそ、スタンリー・キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』の音楽担当者として、ロッシーニ「ウィリアム・テル序曲」やベートーヴェン「交響曲第九番」など数々のクラシック曲のシンセサイザーアレンジを行った人物だ。『時計じかけのオレンジ』にふさわしい「未来の音楽」を求めてピンク・フロイドに接触し断られたキューブリックだが、最新鋭のシンセサイザーを駆使するカルロスに出会うことで問題は解決した。ウォルター・カルロスは、ウェンディ・カルロスに改名した後も、キューブリックの『シャイニング』(1980)に参加、「怒りの日」のシンセサイザーアレンジのほか、いくつかの曲を提供している。
キューブリックファンでシンセサイザーマニアでもあった安部公房が、ウォルター・カルロスの名を『飛ぶ男』執筆時点まで知らなかったことはありえないだろう。安部公房はバッハなどのバロック音楽の愛好家でもあったので、そのシンセアレンジに取り組むカルロスの仕事は早くから意識していたはずだ。
【動画】ウェンディ・カーロスによるバッハ「ブランデンブルク協奏曲第三楽章」
そんな作曲家の縁でつながった『時計じかけのオレンジ』だが、物語は暴力とセックスに明け暮れる不良少年アレックスが殺人罪によって逮捕され、刑務所で「ルドヴィコ療法」という治療を受けることになる、というものだ。その結果、肉食系男子のアレックスは、暴力やセックスに拒否反応を起こす草食系男子に改造される。だが、生まれ変わったアレックスに対し、家族も世間も冷たかった。反政府主義者たちはアレックスを「体制の犠牲者」として祭り上げるため自殺に追い込もうと画策する……。パンク・ファッションを先取りしたアレックスのキャラクターの斬新さ、そして「人間の自由意志とは、権力が管理しなければ保証されないのか?」、という矛盾に切り込むシニカルなSFとして、『2001年宇宙の旅』に劣らぬ高い評価を獲得している。
科学による人間の「改造」は、医学部出身である安部公房が好んだモチーフである。しかし『時計じかけのオレンジ』公開後に彼が執筆した作品に注目してみよう。
1974年に発表した戯曲『緑色のストッキング』。この作品は、もともと短編小説『盲腸』(1955)、テレビドラマ『羊腸人類』(1962)でくり返し描いてきたアイディアの戯曲版だが、内容は大きく変更されている。元のプロットはこうだ。食料不足解消のため羊の盲腸を失業者の男に移植する実験が行われる。その結果、草や藁を食べられる草食人間となった男はマスコミから注目されるが、人間的な欲望もなくなり、人格まで羊のようになってしまう。失敗を悟った医者は嫌がる男から羊の盲腸を排除する。もと通りになった男は現実の飢えを前に、羊腸人類でなくなったことを心底悔やむ……。人間の動物化を試みる科学の傲慢と、それに進んで寄りかかろうとする大衆の姿を諷刺的に描いている。
ところが『時計じかけのオレンジ』は、逆に動物的な人間から科学の力で獣性を排除しようとする物語だ。最終的にすべてもと通りになってしまうのは同じだが、『時計じかけのオレンジ』のアレックスは、ラストシーンで非人道的なルドヴィコ治療を許可した内務大臣と和解し、彼と握手する姿がマスコミに大々的に報じられる。つまり本来の凶暴なアレックスが復活した結果、政府公認のマスコットとして人気者になってしまうのだ。
この稿の冒頭に述べたように、安部公房は『2001年宇宙の旅』を観ることで、『燃えつきた地図』と酷似した構造を描いたスタンリー・キューブリックの存在を強く意識したことだろう。キューブリックの次回作『時計じかけのオレンジ』がまたしても自分の旧作を彷彿とさせる物語であり、その諷刺性においてより難易度の高い結末を描いていることに刺激を受けなかったはずがない。それゆえか、『緑色のストッキング』には、『盲腸』・『羊腸人類』ではたんなる失業者だった主人公の性格に新たな要素がつけ加えられている。
それは「下着泥棒」だ。
緑色のストッキングへの偏愛を語る下着フェチの教師は、それが妻子に露見して自殺を図る。救われた彼は医者の依頼により草食人間になる手術を受ける決心をする。生まれ変わった彼にもはや下着へのフェティシズムは必要ない。科学が生んだ「新しい人類」としてマスコミの注目を浴びることになるが、その結果、主人公は欲の皮の張った妻子、そして名声欲にかられた医者たちの思惑に翻弄されたあげく失踪する。医者や息子たちがあわてて探すと、背景に掲げられた巨大な草原の風景、緑一色の世界へと逃走する主人公らしい「点」が発見される。しかし医者はあっさりその点をスリッパで叩きつぶし、「虫だよ、虫。つまらない、ただの虫けら!」と叫ぶ。
『盲腸』と『羊腸人類』では「結局すべてもと通り」の結果、科学に翻弄された主人公の徒労感に満ちた姿でオチとなる。一方、『時計じかけのオレンジ』のアレックスは、凶暴な人格を取り戻すと同時に権力から認知され、存在を許される価値の逆転現象が発生する。アレックスが最後に夢想するのは、18世紀風の衣装を着た人々の喝采を受けながら、豪快なセックスショーを繰り広げる自分の姿だ。
一方、『緑色のストッキング』の主人公は、もと通りの下着泥棒に戻ることはない。草食人間となったまま、性欲から食欲へとそのエネルギーを転換し、絵の中の草原、食べ物でいっぱいにあふれた夢の世界へと一人脱出しようとしたあげく、自分を改造した医者にあっけなくつぶされてしまうのだ。科学によって存在が「捕獲」された個人は、その科学に役立たないとなるや、失踪することすら許されずに抹殺される現実。
『緑色のストッキング』が、先行作品である『盲腸』、『羊腸人類』とくらべてもいっそう苦い結末となったのは、『時計じかけのオレンジ』の先を描こうとして着想されたのかもしれない。
『緑色のストッキング』(1974) 主演の田中邦衛
知を吸うカメラ
安部公房とスタンリー・キューブリック、この二人の最大の共通点は、カメラへの偏愛と言えそうだ。
ファインダーという「のぞき穴」を通してものを見ることで、はじめて現実に参加できる臆病者の視線。しかしその目は決して優越者の視点、神の視点へと高められることはなく、対象の本質と変化を冷静にかつ情熱的に、粘り強く分析しようと試みる科学者の視点でもある。安部公房が連載した写真エッセイのタイトルは「都市を盗る」。都市の現実に向かって広角レンズを絞り込み、カメラをのぞかずにノーファインダーで盗み撮るのが、彼の得意とした手法だった。
僕は、時間の中で変形してゆく空間、結果だけ求めているようなときには、ないにも等しいような変形のプロセス、それに非常に関心をもっている。そして、文学の場合でも同じ関心をもっている。写真というものは、そういう関心にとってはまことに都合のいい道具なんだ。だから、いわゆる芸術写真風なものよりも、僕にとってはむしろ自分の意識しないような瞬間の切り取り、つまりスナップ・ショットが、何よりも重要な行為なんだ。 (全集26巻p215)
若き日のスタンリー・キューブリックが撮っていた写真も、まさにニューヨークという「都市を盗る」スナップ写真群だった。キューブリックは13歳で写真を撮り始め、16歳で雑誌「ルック」の売り込みに成功、高校生にして契約カメラマンとなった天才少年である。キューブリックは、ニューヨークという都市の現実を中心に、5年間で1万枚以上の写真を撮りまくった。一見、無造作な構図に見えるがそれでいてなにかフレーム外への広がりを感じさせる点が、どこか安部公房の写真と共通する。
撮影 スタンリー・キューブリック
撮影 安部公房
撮影 スタンリー・キューブリック
撮影 安部公房
撮影 スタンリー・キューブリック
撮影 安部公房
写真に必要なのは、事実以上に真実味であることを若くして熟知していたキューブリックは、時にかなりの演出を加えたヤラセ写真の撮影も行っている。例えば壁に向かって若い女性が口紅で描いた「I HATE LOVE!(愛なんて大嫌い!)」の文字。まさに「ルージュの伝言」であり、あからさまに作為的な写真にちがいないが、観る者に前後の物語を空想させずにおかず、まるで映画のワンシーンのようだ。
撮影 スタンリー・キューブリック
また、キューブリックはなにかイベントの撮影に行くと、イベントの内容よりも集まった群衆にレンズを向けることが多かったという。彼の連作群のひとつに、「サルを見る人たちの考察」がある。動物園のサルをにこやかに見物する人々を撮ったものだが、レンズの視線はサルの檻側から向けられ、肝心のサルはほとんど映っていない。むしろ、そこで笑顔を見せている人々の方が、サルから見た檻に入れられた動物そのもののように見えてくる。「見物しているつもりが見物されていた」視点の逆転現象。
『箱男』の有名なフレーズ、「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。(略)見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ」を思い出さずにはいられない。
撮影 スタンリー・キューブリック
キューブリックは映画に進出した後も、当時の写真の撮り方とスタイルを変えていない。基本は即物的なリアリズムの追求である。彼の映画では、常に自然光照明、つまりわれわれが普段目にしているのと同じ状態に酷似したライティングが心がけられる。都合のいい場所から不自然なライトが当たることを極力避け、人工照明を仕込む必要がある場合は、あらかじめセットに光源を設計して配置しておく。18世紀を舞台にした『バリー・リンドン』(1975)の撮影は、夜の室内場面を蝋燭の灯りだけで行えるよう、NASAで開発されたばかりのF0.7レンズを使用した。『時計じかけのオレンジ』では、ワイヤレスマイクを使った台詞の全編同時録音にも挑んでいる。建物や室内など、未来的なデザインにあふれた『時計じかけのオレンジ』だが、人工のセットを建てたのは冒頭のコロバ・ミルクバー、作家の玄関と風呂場、刑務所の入所検査室の4シーンのみで、あとはすべてロケ撮影である。
その一方で、『フルメタル・ジャケット』(1987)で戦闘が行われるベトナムの都市風景はすべてイギリスのガス工場跡地に作られたオープンセットである。『アイズ・ワイド・シャット』(1999)で描かれるニューヨークの街も、イギリスのパインウッド撮影所に再現された幻のニューヨークだ。やはり「必要なのは、事実以上に真実味」なのである。
そして、キューブリック映画と言えば、その雄弁な移動撮影の魅力で知られている。カメラマン時代から、連続写真を多く撮り、映像の時間経過を演出してきたキューブリックは、現実をフレームで切り取り固定化することよりも、現実をフレームの外に拡大させ、映像の中で現実と同じ時間が流れることを意識して演出する。それゆえ、映画を撮り始めてからも、『突撃』(1957)での狭い塹壕の中をえんえんと前進・後退移動してゆくカメラや、『2001年宇宙の旅』での宇宙ステーションの内部をジョギングする船長を仰角で追い続けるカメラなど、映画でしか表現できない独創的な長回し撮影を生み出してきた。『シャイニング』(1980)では、手持ちカメラでブレを出さないためのシステム「ステディカム」の採用により、登場人物の動きをドキュメンタリーのようにどこまでも追ってゆく粘っこい映像を実現させた。
安部公房は1960年代、勅使河原宏と組んで『おとし穴』、『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』と自作の映画化に協力したが、勅使河原演出の「フレームを意識してしまう傾向」に不満を抱いていたようだ。
先にも言った通り、彼は絵画から出て来た男なので、どうしてもフレームを意識してしまう傾向があるんだね。「おとし穴」や「砂の女」など一部では様式的だとか、テーマ性を云々されるが、どうしても画面の流れみたいなのが止まってしまう。(略)確かに彼の課題もその辺のあるとは思うけれども。フレームの背後に流れるものを掴むということだ。 (全集20巻p129)
美術家出身であり、映画演出を松竹撮影所で学んだ勅使河原の映像は、どうしても構図の美しさが優先されすぎていると思えたらしい。安部公房はそのような視覚的な美意識で完結する映像ではなく、絵画的なフレームを無視してなお現実の生々しさ、荒々しさをとらえ、真にカットの中に連続する感情が発生する演出を志向していた。
そして1971年、安部公房は監督として自ら短篇映画『時の崖』を自主制作する。ラジオドラマ『チャンピオン』、短編小説『時の崖』、戯曲『棒になった男・第二景』とくり返し表現してきた、あるボクサーの内的独白の映像化である。『時の崖』は31分の短篇だが、その前半は徹底した長回し撮影が行われている。タイトルバック後、主人公の男(井川比佐志)が現れるやカメラはえんえんボクシングジムにおける彼の動きを移動しながら追い続ける。シューズの紐を結び、牛乳に文句をつけ、木村さんに話しかけ、縄跳びを行い……この長回しはなんと14分にも及ぶ。『時の崖』は16ミリカメラで撮影しているので、400フィートのフィルムを使っても最長11分しか回せないはずだ。じつはこの長回しの間には、「歩道橋の階段を上る女」や、「ロードワークに勤しむ男」の映像が、数度に渡って短くインサートされている。そのどこかのタイミングでフィルムチェンジを行っているのだろう。
観客はこの長回しを通じて、試合前にトレーニングに励むボクサーの時間を共有させられる。そして後半、場面が男の試合に転じてから描かれるのは、彼がノックアウトされるほんの一瞬、その一瞬の意識が、10分以上に渡って引き延ばされ、複雑なモンタージュ効果によって積み重ねられてゆくのである。男の膨大な「意識の流れ」を表現する台詞。CM風の映像や、実際のボクシング試合において怒声を上げるトレーナーのストップモーション。そして男がダウンする瞬間が何度となくくり返される。音の効果もあいまって、息苦しさに満ちた崖っぷちの「一瞬」を、観客はじっと体験しなければならない。
ラジオドラマ版でも小説版でも戯曲版でも描かれた、一人のボクサーが過ごした時間を追うことで彼の本質が追求される実存的な演出が、ここでは映像・音声・演技という3つの要素が重なり、最も豊かな形で完成している。
安部公房監督『時の崖』(1971)チラシ
奇しくも、1951年にスタンリー・キューブリックが21歳で撮った初の映画作品は『拳闘試合の日』というタイトルの短篇ドキュメンタリーだった。内容は、試合を控えたボクサー、ウォルター・カルティエの一日を追うものだ。朝、双子のマネージャーといっしょに目覚め、礼拝に行き、食事をし、試合場へ向かう、この過程をキューブリックのカメラは舐めるように追い、試合前のボクサーの感情、内的時間へと観るものを誘い込む。さらに言うと、起床から計量までの時間がおよそ半日、そこから会場入りするまでが数時間、控室で準備を終えるまでが1時間あまり、リングに上がるまでが15分と徐々に描かれる時間の間隔が切り詰められ、緊迫感が高められてゆく。そして試合は数台のカメラで切り返す短いモンタージュで、主人公はあっさりKO勝利をおさめるのだ。この卓越した時間操作のテクニックの主は、その後『2001年宇宙の旅』で、人類の誕生から別次元への進化の瞬間までの数百万年を一気に描くことになる。
カメラの魅力に取り憑かれた二人の作家、安部公房とキューブリックは、ただ切り取った映像の中に時間を凍結させるのではなく、その映像の背後に流れる時間をいかに表現するか、そして人間や物が変身してゆく過程、映る対象の背景を探り、その感触を観るものに追体験させてくれる。演出のセンスにおいても彼らは非常に近しい場所にいたのだった。
【動画】キューブリック『拳闘試合の日』(1951)
CHAPTER 4
未来から見返される現代
1992年、『カンガルー・ノート』を発表した安部公房が、最後の作品『さまざまな父』に取りかかろうとしていたころ、ピンク・フロイドを脱退したロジャー・ウォーターズが3作目となるソロアルバムを発表した。タイトルは『死滅遊戯(Amused To Death)』(1992)。90年代前後の混乱する世相、レバノンの紛争や天安門事件、湾岸戦争などの現実をすべてテレビモニターに映し出されたショーとして消費しながら滅亡に向かう人類の黙示録的状況を描く、壮大なコンセプト・アルバムである。
そして、『狂気』、『ザ・ウォール』に続く「人が互いの人間性を認め合うことは可能なのか」というテーマのひとつの到達点でもあった。なお、このアルバムにはデヴィッド・ギルモアに代わるギタリストとしてジェフ・ベックが参加している。ジャケットに描かれているのは、モニターを見つめる、しかしモニターに映った巨大な眼から見返されているサルだ。
じつはここでまた、ロジャー・ウォーターズとスタンリー・キューブリックの接近遭遇が起こっている。『死滅遊戯』の一曲「完全真理part1(Perfect Sense part1)」の冒頭の効果音として、『2001年宇宙の旅』の最終部における船長の呼吸音とコンピュータ「HAL」の声を使用させてほしいと申し出たのだ。しかしキューブリックはこれを断った。彼は20年前に自分が『時計じかけのオレンジ』に「原子心母」の使用を申し出て断られたことを、忘れてはいなかったようだ。「完全真理」の歌詞は骨を持って星空を見上げるサルのイメージから始まり、あきらかに『2001年宇宙の旅』を意識して作られた曲だ(じつはそのサルとは兵士でもあり、戦場へと送られてゆく)。
キューブリックの死後、新たに許可を得ることができたのか、1999年から始まったロジャーのライブツアーで「完全真理」が演奏される時は、HALの声を冒頭に聞くことができる。ライブ盤『イン・ザ・フレッシュ(In The Flesh)』(2001)に収録されたバージョンも同様だ。
【動画】Roger Waters - Perfect Sense (Live)
(冒頭に『2001年宇宙の旅』のHALの声が使用されている)
そして、『死滅遊戯』の最後を飾るタイトルナンバー「死滅遊戯(Amused To Death)」では、はるか未来、地球を訪れた宇宙人が、テレビの周辺に集まったまま滅亡を迎えた人類の痕跡を発見する姿が幻視される。戦争や貧困、発達しすぎた文明が抱える数々の問題点を、すべてテレビモニターの向こう側に見るエンターテインメントとして放置した人類は、自分が滅亡したことさえ気づかずに「死ぬほど楽しんで」最期を迎えたのだ。
同じころ、スタンリー・キューブリックは80年代からずっと温めていた企画『A.I.』の実現に向けて動いていた。しかし、コンピュータグラフィックによる特撮技術の発展を待ってから改めて製作に取り組むこととなり、もうひとつの懸案の企画『アイズ・ワイド・シャット』(1999)が優先されることになったが、この作品の完成直後にキューブリックは亡くなってしまった。遺族の依頼で『A.I.』はスティーブン・スピルバーグが脚本・監督を引き継ぎ、2001年に公開されることとなる。
映画『A.I.』とは、地球温暖化が進んで陸地が減り、妊娠や出産が制限された未来、愛情をインプットされた「人間そっくり」な少年型ロボット・デイヴィッドの物語だ。ある夫婦の元に派遣されたデイヴィッドだが、事情が変わって母親に捨てられてしまう。デイヴィッドはふたたび母の愛を取り戻すこと、そして自分も人間になることを目標に、旅を続ける。しかしその望みは得られないまま、デイヴィッドは海中に転落し、2000年という時が過ぎる。デイヴィッドを救出したのは、彼よりもはるかに進化したロボットたちだ。人類はとっくに消え去っており、デイヴィッドは人類文明を知る貴重なサンプルとして迎えられる。彼は所持していた髪の毛をもとに、母親をクローン再生してもらうが、技術の限界で再生した彼女は一日しか生きられない。デイヴィッドは再生された母親と幸せな一日を過ごし、ベッドの中で「夢の世界」へと入ってゆくところで終る。ロボットが夢を見る(眠る)ことはありえないので、このラストは望み通りデイヴィッドが人間になれたととらえることもできるし、逆についに機能の停止、つまり「幸福な死」を迎えたと見ることもできる。不気味な結末である。仮にデイヴィッドが人間になることができたとしても、そこに「人間」はただ一人しかいないのだから。
それにしても、デジタルそのものであるロボットしか存在しない世界において、旧式ロボットのデイヴィッドだけが「愛」というアナログな感情を保持しており、その再現を望むというのがキューブリックらしい皮肉な構図である。つまり、ここでは『2001年宇宙の旅』における人類の別次元への進化を遂げる展開とはまったく裏返しのイメージが描かれているのだ。
キューブリックは、2000年後に未来のロボットによってデイヴィッドが救出され、彼のメモリーに基づいてかつての母親との生活を再現してもらう部分まで構想していたが、ラストシーンを決めきれずにいたらしい。「死と再生」のどちらとも受け取れるエンディングを用意したのはスピルバーグのアイディアと思われるが、キューブリックの思想を的確に継承した脚色と言うほかない。
キューブリック企画作品『A.I.』 クリス・ベイカーによる水没したN.Y.のイメージボード
『死滅遊戯』と『A.I.』、このふたつの終末感を並べると、人類以外の何者かによって、かつての文明が遺跡として発見される構図が共通している。そしてこの構図は、やはりある安部公房の小説の有名な場面を連想させずにおかない。そう、『第四間氷期』のラストシーン。
『第四間氷期』に登場するコンピュータ・予言機械は、開発者の勝見博士に火山活動の活発化による陸地の水没を予見する。人類は生き延びるために水棲人間へと進化し、独自の社会を築いてゆかねばならないのだ。予言機械がシミュレートした未来の映像では、いつしか地上人(人類)は少数派となり、水棲人間の新たな文明が取って代わっている。その中に、直に皮膚に触れる風の感覚に憧れる少年が現れる。少年は禁忌を犯して一人で陸地に向かい、念願の風を感じながら涙を流して死んでゆく。肌に当たる風の感触、そして涙腺の痕跡から流れる水。かつての人類の感覚が、このような形で甦る。
この小説から希望を読み取るか、絶望を読み取るかは、むろん読者の自由である。しかしいずれにしても、未来の残酷さとの対決はさけられまい。この試練をさけては、たとえ未来に希望を持つ思想に立つにしても、その希望は単なる願望の域を出るものではないのだ。希望にしても絶望にしても、ぼくらの周囲にはあまりにも日常的連続感の枠内での主観的判断が氾濫しすぎているのではないだろうか。
(全集8巻p142)
『第四間氷期』のあとがきにこう書いた安部公房。「現実の延長」でしか未来を語れないのであれば、それはすでに想像力の敗北であり、来るべき未来から糾弾された場合、抗弁の余地はない。ここで「いや、『未来』なんて改変可能なものじゃないか」と反論する行為じたいが、「人間」及び「近代文明」が、今後も安定して存続することを前提とした思想であり、既成の神話の再生産でしかないのだから。
もちろん、『第四間氷期』に映し出された未来の姿は、すべて予言機械が見た「夢」にすぎなかった、という可能性は残されている。『A.I.』のデイヴィッドがはたして最後に「夢」を見ることができたのか、という謎と同じ程度に。
安部公房とスタンリー・キューブリック、そしてロジャー・ウォーターズらは日常的な連続感が途絶えたその先、人間が人間でなくなる瞬間を幻視することができた表現者だった。
彼らの小説・映画・音楽は、克服し難い絶望を描くわけでも、楽天的な希望を描くわけでもなかった。内面における夢と現実を見つめる超現実の眼で、改めて外部の「リアル」を見返してみせる独自のメカニズム。それによって、彼らの作品世界は表面だけを観察する現実追随者や、奇矯な空想に耽溺するだけのモダニストとは異なる豊饒なリアリティに満ち、時に円環し、入れ子になり、メビウスの環を描きながら、その入口は誰に向けても広く開かれている。それゆえに、とりあえず敬意を持って接しておけばよい「古典」の棚にしまいこまれることもなく、今なお不穏な存在感を放つ作品群として、新たな世代を刺激し続けるのだろう。
(終)
『第四間氷期』(1959) 挿画・安部真知(単行本版)