星虹堂通信

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真夏に観た『シャイニング』(143分北米版)

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「シャイニング 北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」上映作品詳細 - 午前十時の映画祭11 デジタルで甦る永遠の名作

 

 なんだかメダルの数を競っているのか感染者の数を競っているのかよくわからない日々の間、私は冷房の効いたオフィスの一室に閉じこもって毎日仕事をしていた。

 その間にこなした仕事以外の重大事といえば、ひとつはワクチンの接種、もうひとつは「午前十時の映画祭」で上映される、スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』(1980)を観賞することだ。

 なにしろ緊急事態宣言の真っ最中。『シャイニング』の上映開始時間も、新宿TOHOシネマズにおいては午前10時どころか午前8時20分上映開始という挑戦的なタイムテーブルに前倒しされていたわけだが、そのおかげで多忙の日々の中でもどうにか観賞かなったのだから、なかなか皮肉な事態である。

 

 さて、今回上映された『シャイニング』は「北米版」。つまり最初にアメリカで公開されたバージョンだ。この作品、公開当初は上映時間146分だったが、プレミア上映での観客の反応を見たキューブリックは、5日後にラストシーンのひとつを削除させ、143分で決定版とした。

 その後、北米以外の国で公開されたのが「国際版」で、こちらは上映時間119分。日本でもこの国際版が公開され、その後、流通しているDVDも119分版である。つまり、143分の北米版が日本で劇場公開されるのはこれが初めてのことなのだ。

 

 ややこしいことに、公開後にビデオソフト化された『シャイニング』は北米版だったため(正確にいうと最初に発売されたDVDも)、私のような初公開に間に合わなかったレンタルビデオ世代にとって、『シャイニング』といえばこの北米版を指す。最初の出会いが「143分版」だったのは非常に幸運だったと思っているが、やはり映画は最初に観たものが刷り込まれるらしく、初公開を観たリアルタイム世代や、国際版のDVDで出会った若い世代からは、北米版は「説明的でテンポがのろい」という声を聞くこともある。

 それはつまり、国際版がそれだけ上出来だったということでもある。

 確かに119分版におけるキューブリックのハサミの入れ方は非常に巧みで、20分以上も短縮してオリジナルの味わいを失っていない点では、勅使河原宏監督『砂の女』の国際版(124分・初公開版は147分)と双璧ではないかと思う。

 

 はたして、初めてのスクリーン観賞となる『シャイニング』にはどんな印象を抱くものか。大きな画面でクリアに映し出された映像は、改めてこの作品を観た中学生のころの記憶を呼び覚ましてくれた。なにしろ私の父は作家志望の鬱病持ちで、定職は持たず、主に自宅に引きこもり、家では飲まぬよう抑えていたものの酒乱の気があり、あちこちに迷惑を撒き散らしながら突然死した人物だった。なので、私にとって映画『シャイニング』とはまずホームドラマであり、どこか私小説的な匂いすら感じるリアルな作品だったのだ。

 119版ではカットされてしまった、幻覚を見て昏倒したダニーを小児科医が診察する場面。ここでは父親ジャックが酔ってダニーに怪我をさせた事情や、ダニーのイマジナリーフレンドである“トニー”出現の背景について語られており、この父子の関係が、いずれ破綻をきたすことの伏線になっている。そして、この場面がないと、ホテルの広間でダニーの首に怪我の跡を見つけた母親ウェンディが、「あなたがやったのね!」とジャックをなじる展開がいささか唐突に感じてしまう。

 そして、黒人シェフのハロランが、トランス一家の危機を予感し、難儀してホテルに戻ってくる過程も、119分版ではほぼカットされていたが、この描写が残っていた方が、ホテルに足を踏み入れたハロランがいきなりジャックに殺されてしまう展開のショック度がはるかに高い。「はるばる戻ってきたのにすぐ殺されるのかよ!」という黒いユーモアが漂うのも絶妙だ。

 そして、今回の上映版では映像に増して音響がすばらしく立体的になっていたのだが、BGMに使用される、バルトーク、ペンデレツキ、リゲティらの現代音楽名曲集も、緩慢な演出テンポに忍び寄るように貼り付けた143分版の方が、よりマッチしているように聴こえた。

 

「北米版」はわかりやすさを好むアメリカ人向けのヴァージョンで、キューブリックとしてはヨーロッパに向けた国際版の方こそ決定版ではないか、という説もあるようだが、改めて劇場で143分版を観てみると、完成度が高いのはやはり北米版の方だと思う。キューブリックとしては英語圏の観客や批評家に最初の印象を与えるアメリカでは長尺版を公開し、その他の国では興行収入を稼ぐため、短縮版を流通させたのだろう。その背景には、前作『バリー・リンドン』(1975)で製作費を回収できなかったことに責任を感じていた、という事情もあった。公開後に発売したビデオソフトが北米版だったことを考えても、やはり143分版こそ「オリジナル」という意識を持っていたと思う。

 

 ヴィンセント・ロブロッドの評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)によると、スティーブン・キング原作の結末(ホテルの爆破炎上)を気に入らなかったキューブリックが最初に構想した結末とは、このようなものだったらしい。

 いろいろあった末に穏やかな日常を取り戻したトランス一家が食事をとっていると、そこへ支配人が「次の管理人」とその家族を案内して入ってくる。そして、彼らはトランスたちの体をすり抜けてしまう……。つまり、家族全員が「地縛霊」に転生する展開だ。

 ところが実際に採用されたのは、ジャックが1921年のホテルのパーティー写真に映り込んでいるというあのラスト。「ジャックは最初から幽霊だったの?」と混乱する人も多いようだが、似たような父親に悩まされた私にとっては、「作家としての才能もなく、家族とのコミュニケーションにも失敗した男が、ホテルの幽霊の仲間入りをすることで救いを得る」という、スピルバーグ未知との遭遇』の裏返しとも言える皮肉なハッピーエンドとしてすんなり受け止められたのだった。

 

 その後何度か見返すと、どうやらジャックは「もともとこのホテルの住人が転生した存在」であったらしく、ホテルに着いてから奇妙な既視感にとらわれる描写や、幽霊バーテンのロイドとの出会い、そして幽霊ウェイターのグレイディとの会話(彼もまた転生して管理人を務めた)などにその伏線が散りばめられていることがわかってきた。ネイティブ・アメリカン(インディアン)の墓地に建つホテルには、住んだ白人たちに輪廻転生の呪いがかけられていた、というわけだ。

 そうなると、ホテルの支配人はそれをわかった上で生贄として「転生者」の中から管理人をスカウトしているということになる。実際146分版からキューブリックがカットしたラストというのは、支配人がホテルから脱出したウェンディとダニーを見舞う場面で、そのあたりを匂わせる描写になっていたようだ。

 おそらく、「理屈は通るが無理のある説明」に受けとられかねないラストよりは、「輪廻転生の呪い」をボカしてしまったほうが、ジャックの狂気が多義的になる、とキューブリックは気づいたのだろう。確かに、幽霊屋敷ホラーに呪いの背景説明など必要ない。狂気の原因が「前世からの因縁」と判明した途端、底の浅さが露呈する。

 

2001年宇宙の旅』のラストに浮かぶスター・チャイルドは「新人類」の誕生だったが、『シャイニング』の写真におさまったジャックは、古き良き20年代への「回帰願望」を果たした男。むしろあの笑顔は、21世紀のアメリカに巻き起こった、新反動主義の台頭を予見するものに見えないか。

「皮肉なハッピーエンド」と納得していたラストの、さらに奥に潜む不気味さを感じとることとなった、劇場での再見だった。

 

f:id:goldenpicnics:20210809150051j:plain『シャイニング』撮影風景(「スタンリー・キューブリックスターピース・コレクション」の特典より)