星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

2018年に1968年の『2001年宇宙の旅』を観る




 間もなくブザーが鳴る。千人の人々は席に着く。満席の場内が静まりかえる。リゲッティのアトモスフェール、「無限の宇宙」が場内に流れ出す。神秘的な音響に包まれた場内はやがて次第に暗くなり、幕が静かに、左右に開いて行く。場内は闇となり、幕が開き終わったとき二分五十秒続いた音楽は消え、二階席の下部にある映写室からシネラマの大スクリーンに向かって水平に光線が投与される。

 以上の文章は、1988年発行の「月刊イメージフォーラム4月増刊号 キューブリック」(ダゲレオ出版)に収録された石田タク「完全上映『2001年』」というコラムからの引用だ。2001年にシネラマ劇場が再現され、『2001年宇宙の旅』が初公開以来の完全上映が実現した、という体で書かれたものだが、残念ながらシネラマ方式(画面比率1:2.88の湾曲スクリーン)での再現上映は未だ実現していない。
 が、この夢想に極めて近いイベントが実現した。国立映画アーカイブにおける、「製作50周年記念『2001年宇宙の旅』70㎜版」の上映がそれだ。オリジナルネガから復元し、修正・修復を施さない「アンレストア版」によるフィルム上映。しかも上映回数は12回のみ。企画の発表から映画ファンの間で大いに話題を呼び、私もひさびさに気合いを入れてチケット争奪戦に参加、運よく整理番号一桁台のチケットを手に入れることができた。


国立映画アーカイブス長瀬記念ホールOZU(スクリーン下部に日本語字幕が投影された)

 当日はなるべくスクリーンを大きく感じる席を、と前方から7列目中央をすばやく確保。国立映画アーカイブ主任研究員である富田美香さんによる思い入れたっぷりの前説が終わると、1000人の1/3ほどの観客数ではあるが満席の場内にリゲッティが流れ出す。やがて場内が暗くなって幕が開く……流れは冒頭のコラムとまったく同じ。青地に白のMGMライオンマークが映し出され、心のシートベルトをしっかり締める。
 ひさしぶりにフィルムで観た『2001年宇宙の旅』は、これまでに抱いていた優雅にして無機質な印象とはほど遠い、野蛮な映像の力を剥き出しにした作品だった。「白・赤・黒」をキーカラーとして設計された色彩の粘っこさは、さながら動く油彩画のごとし。特に宇宙空間の黒はしっとりと階調豊かに、宇宙船の白はじんわり黄味がかった色が感じられたのが新鮮で、荒野の大地も、めくるめく光の奔流さえも、アナログの質感を受け止めることができた。オリジナルの磁気6チャンネルのサウンドトラックはすでに再生不能だそうだが、それでも当時のサウンドデザインに基づいて復元された音響は、よく言えば荒々しい迫力に満ち、悪く言えば音がダンゴになって一部割れたように聞こえる箇所もあったのだが、昭和世代にとってはどこか懐かしい音圧で、カセットテープで音楽を聴いた日々を思い出す。ネガの劣化によるものか意外に大きなフィルムのヒビ割れや傷があちこち目についたし、ときおり微妙にフォーカスが甘くなる箇所もあるのが、いかにも「名画座」での映画体験。とにかく伝説のオリジナルフィルムが、発掘されたモノリスさながらに目の前にドンと出現した迫力は何物にも代えがたい。

 これを観てしまったら、当然のことながら、10月19日から始まった『2001年宇宙の旅IMAX版がどういうものか、この目で確かめてみたくなるのが人情というもの。そこで上映初日に新宿TOHOシネマズへと駆けつけた。どういうわけか、こちらでは簡単にチケットが取れる。
 IMAX版はこの秋発売になる「4K ULTRA HD ブルーレイ」の素材を元とするもので、70㎜版同様、客電が落ちる前にリゲッティ「無限の宇宙」が流れ出すところからきちんと再現されている(すでに幕が開いてしまっている状態なのがちょっと残念)。
 肝心の映像は、全体に修復済みなので傷ひとつない、ヌケのよい(明るいという意味)高画質。フィルム版にあった粒子感や色の深み、アナログ的な生々しい匂いは失われたが、クリーンにまとまった特撮映像の連続は、巨大画面によってさらに豪華絢爛な印象を与えられる。宇宙シャトルの客室乗務員の制服や、宇宙船のモニター映像など、あきらかに古めかしくなった箇所まで、レトロフューチャーの一種としてハイセンスに感じさせるほどだ。1:2.21のスクリーンサイズはきちんと守られ、色味もフィルム版に近づけているのか、さほど異なった印象を受けなかった。改めてブルーレイ版を見返すと、どうも全体に青味が乗っているのか、クールかつスタイリッシュな雰囲気を強く打ち出そうと調整されているように思える。
 IMAX版でもっとも素晴らしいのは音響だ。BGMのクラシック曲も未来の機械から発せられるノイズも、宇宙空間で響く呼吸音も、ひとつひとつクリアに迫ってくる。特にスターゲートの場面、刺すような光の輝きとともにリゲッティの音楽に包まれる臨場感は、体験型アトラクションとしても上々の出来映え。キューブリック作品はじつは大半がモノラルなので(上映館によって音の印象が異なるのを嫌ったらしい)、シネラマ上映を前提にステレオが採用された『2001年』はむしろ異色の作品。IMAX上映館のサウンドシステムは、この作品にひそむ低音の魅力を存分に味あわせてくれる。


1Fの受付にいた小型のHAL9000くん

 私の『2001年宇宙の旅』初体験は、1978年リバイバル上映の時だ。残念ながらこれが中日シネラマ劇場での70㎜版だったのか、豊橋の映画館での35㎜スコープ版だったのかは幼すぎて記憶にないが、生肉をかじり、骨を大地に叩きつける類人猿たちの姿や、ボーマンやプールたちがペースト状の宇宙食を食べながらモニターを見ている様子や、ルイ王朝風の部屋で老いたボーマンが一人で食事している場面などは強烈で(特撮よりもモノを食う場面ばかり目が行っていたらしい)、特別な映画体験として記憶に残っている。
 その後、中学生になってから左右トリミングされたビデオソフトで復習したし、学生時代には大教室で35㎜シネマスコープ版の上映を観ているが(16㎜だったかな?)、この作品ほど上映環境が印象を左右する作品はないようで、貧弱な設備で観た『2001年宇宙の旅』は、その未来予測が現実から乖離しているせいもあって、『スター・ウォーズ』以前の「往年の実験映画」という痩せた印象が拭えなかった。ウナギの寝床のような画面でスターゲートの場面を観ても、「サイケデリックの時代だったんですねぇ」と思うだけでどうということもない。私がこの作品の持つ「大きさ」に改めて向き合うことができたのは、2001年にル・テアトル銀座の大画面で公開された新世紀特別版からだった。

 とはいえ今回、『2001年宇宙の旅』を70㎜版、IMAX版と続けて観て、改めてこれが「60年代の映画」である、とその体臭を強く嗅ぎ取る部分はあった。それは例えば、言語説明を廃した独特の構成である。公開当時から「難解」という評がついて回るこの作品、確かに話の展開を追うには不親切なつくりで、一回観ただけで完全に理解するのは困難だ。が、スクリーン上で起こった出来事を頭に入れてもう一度観賞すれば、話の展開はおおよそ掴めるようになっており、決してフィーリングに頼った抽象映画ではない。キューブリックがナレーションや人物の背景を説明する描写を取り払う決断を下した裏には、共作者アーサー・C・クラークによる小説版の出版が決まっていたことが大きいと思われる。シネラマ上映によって映画を「体験」してもらった後は、物語を追うためにもう一度観てもいいし、小説版でチェックしてもらってもいい。映像でのアナログ的な視覚体験を基本に、描かれたイメージについて、観客が自由にデジタル的な意味づけを楽しむ、そんな大型映画があってもいいはずだ、とキューブリックが考えたのは、この時代のヨーロッパでは、アラン・レネ監督去年マリエンバートで』(1961)をはじめ、映画が文学におけるヌーヴォー・ロマンと並走しながら映像芸術の可能性を探ることが盛んに行われていたからだろう。


イングマール・ベルイマン監督『仮面/ペルソナ』(1967)

 さらに先日、イングマール・ベルイマン監督の生誕100年特集で『仮面/ペルソナ』(1966)を再見したのだが、大写しになる目や避暑地の岩場のゴツゴツした質感、全体を貫く前衛映画風のモンタージュ編集などが、『2001年宇宙の旅』のスターゲート後半の展開と通じるものがあるように思えた。『仮面/ペルソナ』は失語症に陥った女優と看護師の女性が、避暑地の別荘で暮らす物語で、愛憎の果てに二人の境界はやがてあいまいになってゆく。2人の主人公がユング心理学でいう「外的側面」と「内的側面」を象徴する、などと分析されるが、「ペルソナ」を外すことで新たな自己に生まれ変わるという結末も、ボーマン船長が新たな人類であるスター・チャイルドへと進化・転生するイメージに共通する。1966年といえば『2001年』の特殊撮影真っ最中の時期。ベルイマンの大ファンであるキューブリックは、尊敬する巨匠の新作を観て、似たような「自己変革」の映画的描写を模索していることに驚き、刺激を受けたかもしれない。
 キューブリックは映画青年時代、N.Y.のアンダーグラウンド映画の運動にはまるで興味を惹かれなかったそうだが、「アングラだの前衛だのやるなら、最高の技術と大衆を魅了するだけのアイディアがなくっちゃね」と冷ややかに考えていたのだろう。その上で、「映画における叙述の実験」や「人間の革新」という60年代的テーマを、宇宙人とのファースト・コンタクトを描くSF超大作映画に実装してしまう大胆さに繋がってゆく。しかし、『2001年宇宙の旅』が「往年の前衛映画」という枠に捕まることなく、20世紀の文化史を代表する一作として今も存在感を増しているのは、説明ナレーションなし、登場人物の性格描写なし、ドラマに情熱的な要素なし、宇宙人登場なし、オリジナルの映画音楽もなしで既成楽曲のみ使用、という引き算の演出設計と、「HAL9000」という最高にユニークなキャラクターの造形に成功しているからだ。そこに到るまで狂気じみた量の可能性追求を行い、最終的には「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と言わんばかりのシンプルかつ強力なイメージを発見する。『2001年宇宙の旅』はその魔法がもっとも効果的に現出した作品と言える。

 人間の愚行をスタイリッシュに表現するブラックユーモリストとしてのキューブリックの個性は、『博士の異常な愛情』や『時計じかけのオレンジ』の方により強く発揮されているだろう。『2001年宇宙の旅』は、『博士の異常な愛情』のラストで人類を滅亡させてしまったキューブリックが、では人類を新たに「再生」させるには、と思案したところでアーサー・C・クラークが『幼年期の終わり』などで描いた進化図式、地球外知的生命体を一種の「超越者(神)」ととらえるアイディアに出会い、まとまった作品と見ることもできる。それでも、クライマックスとして盛り上がるべき「宇宙人との遭遇」をオミットし、類人猿の時代には骨を使ってどつきあい、その数百万年後には、開発した人工知能と宇宙で殺し合いを演じるはめになる人間のどうしょうもなさへの視点が一貫しているのは、まさにキューブリック印。
 宇宙ステーションの回転運動や無重力空間でスローに動く人々に「美しき青きドナウ」を流す、というのもなにか皮肉めいたものに感じられる。この曲はエンディングで改めてかかり始め、客出し音楽としてもえんえん続くのだが、もし『2001年宇宙の旅』に新たなエンディングテーマをつけるなら、モンティ・パイソンの「Garaxy Song(銀河系の歌)」がぴったりなように思った。人生に嫌気がさしたら銀河のことを考えよう、という内容だが、

So remember, when you're feeling very small and insecure,
(だから思い出して、自分がちっぽけな存在だと不安になったとき)

How amazingly unlikely is your birth;
(あなたの誕生がどんなに素晴らしく神秘的だったことか)

And pray that there's intelligent life somewhere out in space,
(そして祈ろう、宇宙のどこかに知的生命体がいることを)

'Cause there's bugger all down here on Earth!
(だって地球にいるのはバカばっかりなんだもん!)

 なんていう最後の歌詞は、これまた『2001年宇宙の旅』と根っ子の部分を共通するように聞こえてならないのだ。

モンティ・パイソン復活ライブ!」で歌われる“Galaxy Song”(ホーキング博士も登場!)