星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

前田陽一監督の演出を受けながら多摩川でボートを漕いだ話

 ラピュタ阿佐ヶ谷で特集「起きて転んでまた起きて 前田陽一の反マジメ精神喜劇ぱらだいす」が開催中だ。まだまだ数多い未見作をこの機会にできるだけ潰そうと、仕事の合間にぼちぼち通っている。

 じつは私、19歳の時に前田監督に会っている。通っていた専門学校での演出実習、16㎜の白黒フィルムを使って俳優科の学生らが主演する5分の短編を作る、というカリキュラムで私の班の指導監督が前田さんだったのだ。

 すでに小林信彦のエッセイ「和製B級映画はどう作られるか?」を読んでいたので、前田陽一の名前と小林が脚本に参加した『進め! ジャガーズ 敵前上陸』(1968)という作品の存在は知っており、その監督の指導を受けられると知って「ラッキー!」と喜んだ。律儀ものの私はさっそくレンタルビデオで『喜劇 大誘拐』(1976)を観て、「なかなか悪くないじゃないの」などとえらそうな感想を抱いたりもした。

 

 現れた前田さんは下町の職人みたいな雰囲気の方だった。撮影の題材は、確か脚本ゼミの学生が書いた何本かの候補脚本から班ごとに選択するシステムで、私を含む班全員が自ら選んだ作品をリライトした原稿を持ち寄り、前田さんと検討した。前田監督ならコレを選ぶだろうな、というコメディには乗らず、選ばれたのは若い男女のサド・マゾヒズム関係を描いた奇妙な恋愛劇だった。ところが前田さんはこれを日本人のマゾヒズム感覚に拡大した話にできないか、と突拍子もないことを言い出した。『家畜人ヤプー』の例など出され、いろいろ説明を受けたが、どういう発想をする人なんだろうと思いつつ、班全員で何度も書き直しをやらされたものだ。

 当時の前田さんはテレビドラマにドキュメンタリー番組にと忙しく、教室に現れないことも多かったが、打ち合わせでは気さくに雑談に応じてくれた。すでに『Let’s豪徳寺!』(1987)から4年、監督作がなかった前田さんに私はずけずけ質問した。

「映画を撮る予定はないんですか?」

「今、漫画の『美味しんぼ』をやらないかって話が来てるんだけどね、気が乗らなくてさぁ~」

「神坂次郎の『元禄御畳奉行の日記』を映画化するって記事を古いキネ旬で見たんですけど」

「よく知ってるね、脚本の田村孟とケンカしてやめちゃったよ」

美味しんぼ』はその後、森崎東の監督、丸内敏治と梶浦正男の脚本で実現したが、前田監督が進めていた時点では馬場当が脚本を担当していたらしい。馬場氏の元に出入りしていたクラスメートが「シノプシス読んだけど面白いぞ」などと言っていたが……。

 

 さて実習の脚本は、私が修正した原稿を監督が引き取って直してくれたのだが、仕上がった決定稿を読んで驚いた。

 題名は『日本マゾヒズム時代』。内容は「日の本組」なる暴力団の組長が、カウボーイハットをかぶった「洋鬼組」の親分にアゴで使われており、ついには海上の危険物処理という命がけの仕事にも若い組員を差し出す始末。終わって洋鬼組の親分を招いてパーティーが開かれるが、親分は突然の食中毒で倒れてしまい、助け起こした日の本組長の顔面に向かって激しく嘔吐する。吐瀉物まみれになった組長は恍惚の表情で悶絶するのだった……というもので、つまり湾岸危機においてアメリカのブッシュ大統領が日本の海部首相に自衛隊の派遣を強く要求した一件と、その一年後、来日したブッシュが晩餐会の最中に体調不良で倒れ、宮沢首相の膝上に嘔吐した事件をパロディ化したものである。ヒロインを予定されていた女優は、情けない組長に蹴りを入れる女事務員(そこはかとなく土井たか子風)を演じることになった。ちなみに組長の名は「財布」である。

 原型脚本どころか私の修正稿からも大きくアレンジされていた。オチは前田さんが書いたものだが、ブッシュが晩餐会で倒れたのって、つい先週のことなのだ。 仕事早すぎ!

 三億円事件三島事件日本沈没もさっさと取り込んで笑い飛ばす、前田陽一の反・マジメ精神健在なり、と今なら喜ぶところだが当時はあまりにぶっ飛んだ内容に唖然とするばかりだった。

 

 撮影が始まった。金がないのでセットはすべて教室の飾り変えである。エキストラも全員内トラなので私もサングラスをかけて組員になったり、当時のバイト先の制服を着てボーイになったり全シーンに出演した。撮影現場での前田監督は常に笑顔で楽しそうに芝居をつけていた。絵コンテはないんですか、と訊くと「そんなもの書いてるのは市川崑だけだよ!」と笑われた。

 せっかちな前田さんは興が乗って来ると、テストの合図のカチンコを自分で叩いてしまうのだが、これがカチーン! と気持ちよく響き渡る音で、撮影所育ちの人は違うなぁ、などと思ったものだ。

 唯一のロケ撮影は、海上の危険物処理の場面。舞台は多摩川である。スタッフ演じる組員が掃海艇のつもりで3艘のボートを漕ぎ、入江に渡した風船玉の羅列をモリで突いて破裂させる、というチープ感丸出しの芝居になった。時は2月、数日前に積もった雪があちこちに残る中、われわれはTシャツ一枚の姿でボートを漕ぎ、凍えながら風船玉に向かって演技をした。それが私のボート初体験である。アンゲロプロスタルコフスキーを愛する撮影担当のHくんがやたらアングルに凝るので時間がかかって大変だった。釣りをする老人たちに「若いからできるんだねぇ」と感心されてしまった。

 前田さんが70年前後に撮っていた喜劇映画を先に観ていれば、もう少し軽快な演技ができたかもしれない。河岸に立った前田さんは、撮影指導の先生と共に「これ、いつもなら昼までに撮り終わってるよね」などと苦笑しながら我々の奮闘を眺めていた。

 上映会でのウケはまぁまぁ、といった感じだった。主演の連中よりも多摩川でジタバタする我々の場面の方がウケがよく、妙な手応えを感じたのは笑止である。マジメにドラマ演出の勉強をしている班が多いのに、なんで悪フザケの学生8㎜みたいなのを撮っているのか、と呆れた者も多かったと思う。そうそう、在日韓国人本多勝一ファンの学生からアメリカへの批判精神が欠けている」なんて指摘を受けたっけ。かなり後に佐藤武光監督から「あの短編は面白かった。さすがは前田陽一だよ!」と絶賛してもらえたので監督のファンには納得の出来栄えだったようだ。とにかく、「不マジメならぬ反マジメ」の精神に10代で触れられたことは大きかった。

 

 製作の終わりごろ、前田監督から声をかけられた。

「君はホンが書けるね。うちは今、日テレの『追跡』って情報番組やってるんだけど、使えそうな企画あったら持ってこないか? 採用されたら構成作家として雇ってあげるよ」

 前田さんは当時、脚本家の永原秀一とラグスというライターの事務所を運営していたので、そのヘッドハントだったのだろう。しかし私は監督に才能を認められたことを単純に喜んだだけで、せっかくの誘いを無視してしまった。当時はまだ一年生。ドキュメンタリー実習を受けるのは二年からだったし、『追跡』のようなテレビの情報ドキュメンタリーにまったく興味がなかったせいもある。しかしこの時、前田さんの誘いを真に受けて彼の下から業界に足を踏み入れていたら、どんな人生が始まっていただろう、と思うことも時どきある。まったく、選択肢が無数にある若者とは、時に怠惰なものである。

 

 前田陽一最後の監督作『新唐獅子株式会社』(1998)は封切で見逃し、今回初めて見た。病身ながら11年ぶりの劇映画の現場に臨んだ前田さんは、開始から一週間、全体の1/3を撮り終えたところで倒れ、そのまま亡くなっている。小林信彦原作のこの作品に、自分だったらどんな「反マジメ」なアイディアを足せたかな……とどうしても考えながら観てしまうのだった。