星虹堂通信

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特撮は爆発だ〜追悼・中野昭慶

 先週の訃報ラッシュはすさまじいものがあり、ついには安倍元首相の暗殺という大ニュースまで飛び込んできた。が、その中でも個人的に思い入れが深いのは、特技監督中野昭慶さんの訃報である。

 じつは私が今の仕事を始めて最初に取材した人物こそ、中野監督だったのだ。初仕事はテレビ朝日紺野美沙子の科学館」の4週にわたる映画特集。その第1週のテーマが「特撮」だった。中野監督をはじめ、『ゴジラVSデストロイア』完成間近の川北紘一特技監督、元アニメーターで特殊メイクも手がけていた和田卓也さん、CG合成の古賀信明さんらにも取材することができた。まぁ、私は担当ディレクター氏や先輩ADたちのお供としてくっついて行っただけだが、子供の頃からの特撮マニアとしては、なんという役得かと大興奮。見習いのくせに先輩たちを差し置いてさまざまな質問をぶつけたものだ。

 

 私と中野特撮の最初の出会いは『地震列島』(1981)。次から次へと展開するえげつない災害描写と、主人公を取り巻く泥臭い人間ドラマは子供心に恐ろしかった(特に村瀬幸子!)。監督の名前を認識したのは1984年にリメイクされた『ゴジラ』のメイキング記事を読んでからだろう。実際の作品を観て「あの巨大フナムシの生物感のなさはいかがなものか」とか「サイボットゴジラと着ぐるみのゴジラがはっきり別物とわかるのはどうも」などと一緒に観た友人といろいろツッコんだものだ(イヤなガキだね)。その後も『竹取物語』(1987)や『首都消失』(1988)などで、映画の出来にはブーブー文句を言いつつも中野監督の特殊効果の数々にはずいぶん楽しませてもらってきた。先輩のマニアから「火薬に頼りすぎで繊細さや計算に乏しい」という趣旨で中野特撮への批判を聞かされることもあり、非常に説得力を感じたものの、そういう面も含めて個性の感じられる特撮マンとして、私は好きだった。

 取材で会ったご本人は話芸巧み、サービス精神旺盛な人柄で、特撮の美学を熱く繊細に語る理論家だった。当時はお台場にあった「船の科学館」に『連合艦隊』(1981)で使用された全長13メートルの戦艦大和が展示されており、その前でもインタヴューを撮影したのだが、

特撮の鬼門は水と炎。建造物はミニチュアを作れても、火や水の粒子は小さくならないので、火災や海戦の場面はすぐミニチュアがバレてしまうんですね。それならあえて大きなミニチュアを作ってみよう、という考え方です」

 と、ミニチュア特撮の基本精神を分かりやすく解説、その直後に科学館の屋上に移動し、お台場から見える海の風景を眺めながら、

「ほら、遠くの景色ってぼんやりかすんで見えるでしょう。間に空気があるからです。この空気の粒子を表現するため、現場ではスモークを炊いて吹き流す。ミニチュアに空気感を演出することで、『嘘』とわかってる映像にリアリティが出る。ここが面白さなんですよ」

 と、科学番組に向いたコメントを語ってくれた。

 当時、中野監督は代々木アニメーション学院の特撮コースでも講師をしており、その実習現場も撮影させてもらったのだが、その日やっていたのはクラウド・タンク特撮。つまり、水がつまった水槽に火山の模型を逆さまに設置し、カメラを逆さまにした状態で真上から色絵具を垂らすと、火口から水中に広がる色絵具が、火山の噴煙に見えるというテクニックだ。

『緯度0大作戦』の水槽特撮で撮影された海底火山の噴火

中野監督の「本番!」の大声でカメラが回るが、気負った学生は色絵具を一気にぶちまけたため、白煙はズドーンと火山のてっぺんから光線のように突き出し、すぐにフレームを突破、スローをかけてもあまりリアルとは言えない仕上がりになってしまった。しかし中野監督、

「うーん……まぁ、最初から上手くできたらこんなところに勉強しに来る必要はないからな! だんだん覚えてきゃいいんだよ!」

と豪快に笑い飛ばし、かつては「すごく怖い厳しい監督」と紹介されていた人物とは思えない、優しく愛情あふれる指導が印象に残った。

このクラウド・タンク特撮、今年の春に東京都現代美術館で開催された「井上泰幸展」でも、展示用に再現したメイキング映像が紹介されていたが、往年の円谷特撮を支えた井上美術監督指揮のもと、現在活躍中のベテラン特撮マンたちが何度もテストを行ない、試行錯誤を重ねながら完成映像に仕上げてゆく様子を見て、あれは時間と手間暇と優れた人材が揃って完成する贅沢な技法だったのだなぁ、と改めて思い知ったのだった。

 

 時は流れて十一年後、今度はETVの「こだわり人物伝・円谷英二」のゲストとして改めて中野監督を取材した。この時はディレクターとして何度か打ち合わせを行い、撮影収録を行ったのは東宝撮影所。かつて円谷組御用達だった特撮用大プールの跡地や第8・第9ステージを中野監督の案内で巡ったロケの楽しかったこと。戦前から残る第2ステージ(2011年に取り壊された)にて、唐沢俊一さんをMCに、『ウルトラマン』のフジ隊員こと桜井浩子さんともトークをしていただいた。

円谷英二から学んだことは?」と訊ねると、

「ひらめきの人だから、なにかを具体的に教える、という感じじゃないんだよ。稲垣浩監督との特撮打ち合わせについて行ったんだけど、顔を合わせるなり、稲垣さんが『英ちゃん、頼むわ』、円谷さんが『あいよ!』、これでおしまい。サイレント映画時代からの付き合いだから阿吽の呼吸が成立してる」

 と言っていたが、これは稲垣監督の性格をふまえてのことで、『ゴジラ』の名コンビ本多猪四郎監督とは円谷英二も綿密な打ち合わせをしていたらしい。

「円谷さんは本編班から『こんなことできます?』とリクエストが出ると、まず『できるよ!』と言っちゃうの。えっ、どうするんだろうと心配になるけど、円谷さんもその時点では解決法はわかってないわけだ。撮影までにどうするか考えるつもりなんだね。特撮スタッフみんなでブレーンストーミングすることもあって。円谷さんの右腕といえば美術監督渡辺明さんだったけど(後に東宝を離れ、日活で『大巨獣ガッパ』の特撮を担当した)、彼は決してあわてることなく『ウンコとアイデアはいつかは出るんだ!』という名言を残したな。照明の岸田九一郎さんもすばらしいアイデアマンだった。個性豊かなスタッフがみんなでイメージをふくらませてゆけたのが、円谷組の強みだったね」

 そのほか、『キングコング対ゴジラ』に出てくる大ダコの撮影で悪戦苦闘した話などはトークショーでも定番のネタだったが、ご本人がボヤきながらの回想は抱腹絶倒のおかしさだった。

「そうそう、円谷さんからは『絵を見なさい』とよく言われたね。『絵はいいよー』と。美術館へ行くことをスタッフに勧めていた」

 やはり視覚芸術の原点は絵画。70年代、東宝が特殊技術課が廃止し、リストラによるスタッフ流出、急激な低予算化に苦しみながらも、豪快で華のある「絵」を描き続けることで、東宝特撮の伝統を、その後の川北紘一監督や樋口真嗣監督へと橋渡ししてくれた人物だったと思う。