星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

「日本」という壁〜ヤマザキマリ『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』

 

『ノッホホン氏』や『すってんころりん劇場』で知られるナンセンス漫画の大家・秋竜山は伊豆の半農半漁の家の長男として生まれた。過酷な労働に追われていた少年時代のある日、彼は観光客が読み捨てていった一冊の文庫本を拾った。フランツ・カフカ『変身』。 一読して「これは自分のことだ」と衝撃を受け、人生観が一変したという。

 同じことが、フィレンツェに留学中のヤマザキマリにも起こった。彼女が読んだのは安部公房砂の女』のイタリア語版。そこに描かれていたのは、まさにフィレンツェというすり鉢でもがく自分自身の姿だった。その読書体験をきっかけに、彼女は安部公房の「人間観察眼」というカメラ・アイによって描写される世界から多大な影響を受けることになったという。

 カフカ安部公房も、寓話の設定に「世界の真実」を投影する技法に長けた作家だ。自分の「絵」で世界を表現しようとする画家や漫画家にとっては、彼らの作品はリアリズム文学以上に受信しやすかったのかもしれない。

 ここでふと思い出すのは、安部公房が『第四間氷期』の「あとがき」に書いた一文。

たとえば室町時代の人間が、とつぜん生き返って今日を見た場合、彼は現代を地獄と思うだろうか? 極楽と思うだろうか? どう思おうと、はっきりしていることは、彼にはもはやどんな判断の資格も欠けているということだ。この場合、判断し裁いているのは彼ではなくてむしろこの現代なのである。

 この思想、ヤマザキマリの代表作『テルマエ・ロマエ』に通底しているように思えてならない。最近は歴史上の偉人が現代社会に出現したり転生したりする作品がやたら多いのだが、その多くが「過去」の偉人の視点で現代を風刺するに留まっているのに対し、『テルマエ・ロマエ』は「風呂」に注目することで二つの時代の接合を試みる秀逸な文化批評になっていた。ラストで古代ローマに残ることを選択した日本人ヒロインは、『第四間氷期』に登場する「先祖返り」の水棲人少年が生まれ変わった姿かもしれない。

 

『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』は、そんなヤマザキマリによる本格的な安部公房論だ。三島由紀夫に比べ、作品研究が乏しすぎる印象のあった安部公房だが、21世紀に入ってようやく風向きが変わったようで、主に若手研究者から複数の安部公房論が出版されるようになった。しかしそれらの研究は安部作品の発想の源泉を探り出そうとする、興信所の調査報告めいたものが多くエビデンス(証拠)を重視するあまり、作品の豊穣性を取り出すどころか矮小化に向かっている印象すらあった。しかしヤマザキマリは、西欧文化に関する該博な知識と、豊富な海外在住経験、複雑な職業遍歴に照らし合わせながら、自身が作品をどう読み解き何を受け取ったかを実践的に提示してくれる。第一線のクリエイターによる安部作品の活用法が綴られているのがまず貴重だ。

 

 この本で安部作品の解読のために用意されたのは「壁」という缶切り。壁とは文字通りの「障壁」であり、国境に代表される「境界」であり、他人との人間関係の間に存在する「断絶」でもある。

 この缶切りを使って『砂の女』(「自由」の壁)、『壁』(「世間」の壁)、『飢餓同盟』(「革命」の壁)、『けものたちは故郷をめざす』(「生存」の壁)、『他人の顔』(「他人」の壁)、『方舟さくら丸』(「国家」の壁)といった安部文学の蓋をこじ開け、豊かな味わいを次々と取り出して見せる手つきは、熟練のキュレーターさながら。作品未読の読者にも刺激を与えてくれることだろう。また、年季のいった安部公房ファンならば、ここで章を割かれなかった『終わりし道の標べに』や『幽霊はここにいる』、『第四間氷期』、『石の眼』、『榎本武揚』、『箱男』、『カンガルー・ノート』などの作品群を、新たに解読してみたくなるに違いない。

 

 中でも印象に残ったのは、安部作品の普遍性を認めつつ「日本という特殊な国でしか生まれなかった文学だとも思っている」と指摘した件り。

安部公房文学は、日本人という、個人主義よりも協調性や調和に圧倒的な比重を置く国民の性質に着眼することによって、世界全体におけるデモクラシーの矛盾や「弱者」が生み出される構造を、俯瞰で考察し続けた記録でもあるのだ。

 安部文学というと、すぐに「無国籍性」とか「国際派」という紋切り型の用語でくくられがちなのだが、その独特なカメラ・アイは、日本人という民族と戦後の復興という時代の中で揉まれることによって育まれた。

 最晩年の安部公房は、異質なものの混合から発生する「クレオール」という親なし文化の研究に熱中していた。それは自分の作品もクレオール文学ではないかという仮説から来るものだろう。定住を嫌い、様式と予定調和を疑い、狩人の感覚で現状の変化を敏感に察知する遊牧民的作家が、定住と協調を尊び、集団の維持のために築かれた権力装置を安定させるため、過剰に儀式を行う農耕型社会で悪戦苦闘した研究記録。情緒に飲まれず、冷徹な視点を貫き通した安部文学は、社会風俗が移り変わっても、新型コロナウィルスの流行や、ロシアによるウクライナ侵攻など、世間に混沌の裂け目が生じるたびによりなまなましさを持って甦り、決して古びることがない。

 

 今月のETV「100分de名著」はヤマザキマリがゲストで安部公房砂の女』が取り上げられる。発売されたテキストを読んだ限りでは『壁とともに生きる』の第一章をさらに掘り下げた内容になるようだ。放送を期待すると同時に、中断されている漫画『ジャコモ・フォスカリ』(60年代日本が舞台で安部公房三島由紀夫をモデルとする人物が登場する)の再開を願ってやまない。