この20年、本公演をかかさず観賞しているシベリア少女鉄道の新作『どうやらこれ、恋が始まっている』(作・演出 土屋亮一)を観てきた。
数年前、このブログでシベリア少女鉄道の「ネタ」のパターンを細かく分析したことがある。
1・シリアスなドラマが後半になると異なるモノで表現される
2・前半のドラマを後半でくり返すことで異なるモノが出現する
大きく分けてこの3つのパターンがあるわけだが、この10年ほどは、いくつかの要素を掛け合わせた複雑な展開を遂げるネタが多い。
さて、コロナ期間を明けての新作はというと(公演が終わったのでネタバレで紹介する)、舞台は近未来のある研究施設。ここでバイオテロをめぐる陰謀サスペンスが展開する中、突然の閉塞状況が発生し、覆面の殺人鬼が暗躍するという、いかにもなホラーストーリーへ発展。「さぁ、どうなる!」というところで暗転して後半へ。後半になると、前半の舞台背景とはまるで異なる別セットが出現、無関係な日常ドラマが始まってしまう。ところが、その別セットのドアやら窓やら押し入れやら冷蔵庫やらを開けると、セットの向こう側では依然として前半の物語が展開中であり、前半の「謎の解明」や「劇的なクライマックス」が壁越しにのぞき見ることができるのだ。しかし部分的にしか見えないため、肝心な内容はもうひとつよくわからない。さらに、後半のドラマの登場人物たちが、前半の登場人物のセリフや行為に影響を受け始めるため、壁一枚を隔てて展開する無関係なドラマが、不思議とシンクロしてゆく、という仕掛け。「伏線回収」やら「真相の考察」を過剰に気にする現代のドラマ視聴者の心理をからかった、批評的なトリックといえよう。
前述の「ネタ」パターンで言うと、1と3の合わせ技というところか。ひさびさに劇の構造自体にユニークなトリックを仕込んだシベリア少女鉄道らしい作品だったが、前半のサスペンス劇と、後半の素朴なドラマの落差が意外に笑いにつながらず、こなれ方という点で、非常に惜しい仕上がりだった。
かつての『二十四の瞳』(2003)や『俺たちに他意はない』(2007)などの傑作では、後半で仕掛けがあきらかになるや、前半の物語の伏線だの結末だのがほとんど気にならないぐらいのグルーブ感にノセられてしまったものだが、それらに比べると、今回の新作は少し頭が勝ちすぎてしまったようだ。
そんなわけで、新作公演はシベ少としては中位の出来だったわけだが、もしかして、と思って観にいった土屋亮一脚本の『映画 おそ松さん』(監督・英勉)は、予測通り、シベ少成分の濃い非常に特殊なアイドル映画になっていた。見逃さずによかった。
私はいちおうアニメの『おそ松さん』はシーズン3まで全話観ているが、一方でジャニーズの男性ユニットSnow Manについてはなんの知識もない。しかしこの作品はSnow Manのファンやアニメ版のファン、そして赤塚不二夫ファン以上に、シベリア少女鉄道のファンこそがもっとも楽しめたのではないかと思う(というか、アニメ版もシベ少演劇も見てない人はかなりとまどったかも)。
9人組のSnow Manのうち、背格好が近い6人が主役の六つ子を演じるという設定で、演じる当人たちが開巻早々、そのムリヤリぶりにツッコミを入れるゆる〜い作り。はるか昔、月曜ドラマランドで『おそ松くん』がドラマ化されたこともあったが、やはりテレビドラマの「お約束」を茶化した作りだったことを思い出す。
六つ子のうち、誰か一人が大金持ちの養子に選ばれることとなり、玉の輿に乗るのは自分だとばかり、兄弟それぞれが独自に努力を始める。すると各人を主役とする「キラキラ系青春モノ」や「ゲーム型ギャンブル対決」、「洋画風犯罪アクション」、「黒澤風時代劇」などのパロディ的物語が展開し始める。このあたりは監督が『賭グルイ』や『未成年だけどコドモじゃない』などマンガ原作ものを多く手がける英勉監督なので、大いに遊んで撮っている。
しかし、脱線に継ぐ脱線で六つ子たちが本筋に帰ってこれなくなってしまったため、「物語終わらせ師」なる役職の3人(Snow Manの残りのメンバーが演じる)がそれぞれのドラマに介入し、各人のエピソードにエンドマークをつけようとする……というプロットは、シベリア少女鉄道の名作『永遠かもしれない』(2008)のネタを大型化したものと言えるだろう。まさにこんなところで往年のシベ少の傑作の発展系を観られるとは思わなかった。シベ少はその後の公演でも、こうした「物語の定型」を批評的に扱うメタフィクションを何度も上演しているので、あえて最も得意とする手で大舞台に挑んだと見るべきか。
赤塚不二夫もまた、『おそ松くん』では翻案ネタやパロディ作品を何度も描いた作家だったし、アニメ版『おそ松さん』は六つ子のキャラクターを使った実験的コント集のような作品だった。原作との相性の良さも、プラスに働いたようだ。
土屋亮一のパロディ作家としての才能が、ジャニーズのアイドル映画として大きく花開いたことに感慨を禁じ得なかった。