星虹堂通信

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パトリシア・ハイスミスの「創作指南書」と森卓也の「悪口」

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『サスペンス小説の書き方〜パトリシア・ハイスミスの創作講座』を読んだ。原著は1966年に初刊行、1981年には増補改訂版が刊行され、今も読み継がれているという。

 序文の一行目に書かれている通り、この本は小説執筆についてのハウ・トゥー本ではない。作家パトリシア・ハイスミス(1921〜1995)による、彼女の創作スタイルをめぐるエッセイ集といった内容だ。そのため作家志望者が読んでも面白いかどうかはわからないが、パトリシア・ハイスミスのファンにとっては、非常に興味深い内容なのはまちがいない。

 

 かくいう私は、ハイスミスの小説は長編を全部、短編集も大部分読んでいる。なので、ハイスミスがプロットを細かく構築せず、途中までのイメージで書き出してしまうスタイルだと知ると、「そうでしょうねぇ」と深く納得してしまう。ハイスミスの長編は、プロットの発端となるアイディアは作品の前半で消化されてしまい、その後は「なんでそーなるの?」(©️コント55号)という展開になることが大半なのだが、やはり書き進めながら浮かぶ即興的なアイディアを重視しており、「プロットとは結局、作家が作品に取り掛かるときに、厳格なものとして頭に置くべきではない」とまで言い切っている。完成度の高いプロットを作るための「法則」を求める読者はこの辺でハイさようならである。

 

 また、ハイスミスが「主人公視点の三人称単数」を採用することを好むのは、「あらゆる面で簡単」であるからで、「一人称単数」は「小説を書く上でもっとも難しい形式だ」という説明も、ハイスミスが描く登場人物との距離感を考えるとうなずくばかり。

 自身の映画化作品では、『見知らぬ乗客』(監督アルフレッド・ヒッチコック)と『太陽がいっぱい』(監督ルネ・クレマン)、『アメリカの友人』(監督ヴィム・ヴェンダース)の3本が上出来と考えているのはまぁ当然として、自作が「サスペンス小説」というジャンルに押し込められていることへの違和感や、『ガラスの独房』を例に、迷いに迷った執筆過程を解説する部分も興味が尽きない。例として『見知らぬ乗客』や『殺人者の烙印』、『妻を殺したかった男』などにもたびたび触れているのだが、最高傑作のひとつである『ふくろうの叫び』にはまったく言及ナシというのも面白い。

 また、彼女が完全な失敗作と認める作品も紹介されていたのだが、さてどれでしょう?

 

 私がパトリシア・ハイスミスに興味を持ったのは、90年代、小林信彦の影響である。『本は寝ころんで』や『読書中毒』といったブックガイド集に収められた、パトリシア・ハイスミスを熱烈に紹介する文章を読んで、興味をかきたてられないミステリ好きはいまい。たぶん、小林御大がお元気ならば、先ほど連載が終了したコラム『本音を申せば』(「週刊文春」連載)で、絶対にこの本を取り上げたことだろう。

 などと考えていたら、映画評論家の森卓也が雑誌「映画叢書」59号で、小林信彦を痛烈に批判した文章を掲載しているという情報が入った。ナニッ!

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 というわけで「映画叢書」を入手し、問題の『ある作家の横顔 尾張幇間』を読んでみた。

 日本におけるアニメーション研究の先駆者であり、笑芸一般にも造詣が深い森卓也(愛知県在住)は、小林信彦とは雑誌「映画評論」で共に長い評論(小林は『喜劇映画の衰退』、森は『動画映画の系譜』)を連載した同世代の知人であり、森の初の著書『アニメーション入門』には小林信彦中原弓彦)の跋文が載っている。小林はエッセイやコラムで何度となく森卓也の仕事に言及していたし、森も小林作品の文庫解説や対談相手を何度となく務め、数年前に出た『森卓也のコラム・クロニクル1979〜2009』の中でも、たびたび小林作品を紹介している。

 両者のファンにとって二人は互いに一目おいたオタク仲間であり、固い絆で結ばれた同志なのだろう、と勝手に思い込んでいたわけだが、今回の森卓也の文章を読むと、第三者からは「同志」に見える二人の間にも、実は長年に渡る屈託が存在したのだと判明し、驚かされた。

 

 ただ、この文章で指摘されている小林信彦のふるまいというのは正直なところ「オタクあるある」というやつで、小林の性格からして意外でもなんでもない。森卓也の反応は少し厳しいのではないかという気さえする。しかし、森の視点に立てば二人の関係は小林の無神経に対し森の方が「引く」ことで維持されており、80代後半の年齢となった今、「引く」ことはもうやめたいのだ、という痛切な訴えを感じさせもした。

 批評家・森卓也は、アニメーションの細かな演出や演技に目を止める眼力を持つだけでなく、その「眼力」で観察した職場の上司や知人から受けた仕打ちを詳述した文章は、鋭くコワいものだった。森はアニメ評論だけでなく、山田太一に代表されるテレビドラマや『ER』に代表される海外ドラマの面白さを「現代の映画以上」と早くから指摘していた批評家だが、そこには必ず人間洞察と感情の機微について目ざとく触れていたものだ。木下惠介山田太一の作品に描かれた何気ない一言やセリフの語尾、トーク番組におけるタレントのちょっとした仕草を見て、傲慢、卑屈、不人情、嫌ったらしさといった複雑な感情をさっと掬いとる感受性の持ち主には、東京の人気作家による「上から目線」はさぞや腹に据えかねたことだろう。

 

 しかし、『本音を申せば』が連載終了し、小林から反論の場が失われたタイミングでこの文章を載せた森卓也、その慎重さは老いて変わらず。被害者意識の強い小林信彦が彼の「悪口」を読んだらたいそうなショックを受けるに違いないが、「数十年に渡る同志と思われた二人だが、じつは一方が鬱積を抱え続けている」という関係、パトリシア・ハイスミスが言う「アイディアの芽」になりはしまいか。長寿社会の今日、このアイディアからどんなサスペンス展開がありうるか。作家・小林信彦には「作品」で返答してもらえないだろうか。などとそれこそ無神経な妄想をめぐらせてしまう両者の愛読者なのであった。