公式サイト http://www.whv.jp/database/database.cgi?cmd=dp&num=15993
『スタンリー・キューブリック:マスターピース・コレクション』というBlu-rayのBOXセットが発売になりました。
既発のBlu-rayセット(スタンリー・キューブリック:リミテッド・エディション・コレクション)を持っているファンとしては、非常に悩ましい仕様のBOXです。なにしろ、ディスクの内容はほとんどいっしょ。しかし特典ディスク一枚が新たに追加されており、これがクセもの。内容は、
・『キューブリックの素顔』(KUBRICK REMEMBERED)83分
・『キューブリックの原点』(KUBRICK IN FOCUS)29分
・『「時計じかけのオレンジ」を分析する』(ONCE UPON A TIME… A CLOCKWORK ORANGE) 52分
という3編の新作ドキュメンタリー合計164分!
オマケに、スタンリー・キューブリック・アーカイブス収蔵の資料を放出した、メイキング資料満載のフォトブックがつくんですと!
前回のBOXでは、当時まだ単品発売してなかった『バリー・リンドン』で釣り、そして今回は新作特典映像とフォトブックで釣るとは……。ワーナー旦那の商売上手にゃまいったね。それでいて『シャイニング』はあいかわらず国際版(119分)のままで北米版(143分)をつけてくれるわけでもなく、『バリー・リンドン』の画角もHDサイズ(1:1.77)に合わせた既発Blu-ray版のままで、DVD版のヨーロピアン・ビスタサイズ(1:1.66)に復元してくれたわけでもないのですよ……。イケズぅ。
なお、今回のBOXセットは海外版には『博士の異常な愛情』も含まれているのですね。ところが日本ではこの映画、ワーナーではなくソニー・ピクチャーズが版権を保持しているため、あえなく外されています。そこへ来年1月、『博士の異常な愛情』もまた新仕様のBlu-rayが発売になるのですよ! それもけっこうなお値段で!
吹替洋画劇場 コロンビア映画90周年記念『博士の異常な愛情』デラックス エディション【初回生産限定】
なにが違うかと言えば、こちらには往年のテレビ放送吹替版を収録した特典ディスクがつくのですね。
現行盤の日本語吹替ではピーター・セラーズが演じる三役はすべて山路和弘が声をアテています。まぁ、セラーズは一人三役で演じているのだから考え方としては正しいですね。しかしテレビ放送版では、なんとセラーズが演じる三役を三人の声優に振り分けているのです。マフリー大統領は中村正、マンドレイク少佐は愛川欽也、ストレンジラブ博士は大塚周夫。山路和弘は達者な俳優ですが、さすがにこの面々の強烈な個性の前にはかなわない。さらにスターリング・ヘイドン演じるリッパー将軍は家弓家正、スリム・ピッケンズ演じるキングコング少佐は富田耕生、ピーター・ブル演じるソ連大使は滝口順平、そしてナレーションは矢島正明と吹替ファン歓喜の豪華キャスト。
私より年上の世代の洋画ファンは、このテレビ版吹替の面白さをよくご存知じゃないでしょうか。じつは私も最初に観たのはこの吹替バージョン。作品の持つ黒い笑い、セリフ劇としての魅力を巧みに再現した名吹替が甦ること自体は嬉しく思います。ああ、それが今回のBOXに含まれていたなら……。
でも、まぁ、結局買ってしまったわけですよ、ええ。
いや~、これはもう悪い愛人に捕まったと思う他ないですな。
で、届きました、特大弁当箱みたいなBOXが。
失われた聖櫃を開けるがごとき手つきでうやうやしく開封。まずはフォトブックを取り出します。このサイズにおさまるのだからさぞや分厚い……と思ったら底には詰め物がされており、思いのほか薄かった。とほほ。そのため資料満載とは言えませんが、相当に興味深い画像が多いので、マニアにはやはりお勧めです。キューブリック家が所蔵していた作品資料は、現在ロンドン芸術大学に設置された「スタンリー・キューブリック・アーカイブス」が保管しており、「スタンリー・キューブリック展」という展示会も全世界で開催されています。
『2001年宇宙の旅』のストーリーボード
『時計じかけのオレンジ』の衣装合わせ
『バリー・リンドン』でも綿密なストーリーボードが描かれていた模様
『アイズ・ワイド・シャット』のストーリーボードはアメコミ風
こちらは『アイズ・ワイド・シャット』撮影時の段取りコンテか
そして、3本のドキュメンタリーも観賞しましたよ。
もっとも見応えあるのは、やはり『キューブリックの素顔』(KUBRICK REMEMBERED)です。
2001年に制作された『STANLEY KUBRICK A LIFE IN PICTURES』(特典ディスク1所収)がキューブリックの評伝的内容だったの対し、姉妹篇となるこちらは、彼の人となりにスポットを当てた証言集となっています。妻のクリスチアーヌ、義弟のヤン・ハーラン、娘(長女)のカタリナ、アシスタントのレオン・ヴィターリ、アンソニー・フルーウィンら身内メンバーを中心に、好奇心旺盛でやたら人のことを知りたがる性格、その一方で人から好奇の目で見られることを極端に嫌い、ハリウッドを逃亡してロンドンで家族に囲まれながら暮らす家庭人、しかし娘のことには過干渉で反発を招いたり……といった人間・キューブリックの姿がじっくり語られていきます。
やがて作品出演者たちも登場、キア・デュリアやマルコム・マクダウェル、マシュー・モディーンらおなじみの面々のほか、珍しやライアン・オニールも登場。すっかりイイ女になったリー・リー・ソビエスキー(『アイズ・ワイド・シャット』のロリータ少女)や、すっかりオッサンになったドミニク・サベージ(『バリー・リンドン』のブリンドン卿少年時代)も顔を見せます。トーマス・ギブソンやアラン・カミングなんて『アイズ・ワイド・シャット』にほんのちょっぴりしか登場しなかったはずですが、それでもキューブリック体験は強烈だったらしく、雄弁に語ります。
『バリー・リンドン』でブリンドン卿を演じたのをきっかけに、キューブリックのアシスタントとなったレオン・ヴィターリの初仕事は、『シャイニング』でダニー少年を演じられる子供を見つける作業だったそうです。キューブリックは常に「発見」を感じられるキャスティングを求めたそうですが、これについてはクリスチアーヌも『突撃』の思い出を語っています。クリスチアーヌは『突撃』のラスト、酒場で兵士たちを前に民謡を歌わせられるドイツ娘を演じたのですが、この場面、もともと脚本にはなく、ラストシーンを探っていたキューブリックが彼女を発見するや付け加えたものだといいます(とはいえ、後に脚本のカルダー・ウィリンガムがこの場面も自分のアイディアだと主張してるそうですが)。
ここで思い出すのが、佐々木昭一郎監督がもっとも好きな監督としてたびたびキューブリックの名を挙げ、忘れ難い場面として『突撃』のラストについて言及していることですね。
佐々木 第一次大戦ものの『突撃』の最後のシーン、
ドイツ軍への突撃命令を実行できなかったフランスの兵隊たちに
銃殺刑が言い渡されるんだけど酒場にドイツ人の女歌手が
連れて来られて、歌を歌わされるんだよね。
で、その歌に、兵隊さんが心奪われちゃう。
- ── ええ。
- 佐々木 まったく素晴らしいシーンですよ。
キューブリックは、最後、あのシーンを撮りたくて
それまでの90分を撮ったんじゃないかって思うくらい。(「物語とは何か」第2回より http://www.1101.com/sasaki_shoichiro/2014-11-07.html)
ドキュメンタリータッチで即興的なイメージの広がりを重視する佐々木演出と、映像に関しては完全主義の権化であるキューブリック演出は対照的に見えますが、どちらも作品の内部に新たな「発見」が宿ることを重視し、そのための準備を怠らないこと、撮影現場でも連日脚本を書き直し、その場の発見に柔軟に対応する、という点では見事に重なります。『マザー』や『夢の島の少女』など、撮るに値する市井の人物を「発見」するところからスタートする佐々木ドラマですが、その根源には、キューブリックの『突撃』におけるクリスチアーヌの「発見」があったようです。
そして、同じテイクを数十回も撮り直すキューブリック独特の演出法、特に改善点を指摘するわけでもなく何度も同じ演技をくり返させるスタイルについては、「俳優がエゴを捨て去る瞬間が来るのを待つんだ」、紙製のセット模型を作らせては、それをアングルファインダーでのぞきこんで撮り方や照明のアイディアを探ってゆくスタイルについて、「すべての可能性を試す、そして最善のものを選ぶ」と、キューブリックの完全主義とは、思いのままにコントロールすること以上に、選択肢の可能性を探り続けることが主眼だった、と皆が証言してゆきます。
珍しいのはデザイナーのフィリップ・キャッスルが登場、『時計じかけのオレンジ』のポスターデザインを担当した時の思い出を語ってくれることでしょうか。アレックスのAの文字をあしらったデザインをキューブリックに提案したところ気に入ってもらえ、各外国語版のロゴデザインも要請されたそうです。当然、日本語版のロゴデザインも彼の手によるもの。しかし『フルメタル・ジャケット』でヘルメットだけを使ったシンプルなポスターは、キューブリック自身のアイディアだったとか。
映像素材としては、三女ヴィヴィアンが撮影した『フルメタル・ジャケット』のメイキング映像(未完成)から新たな素材が引用されており、ファンとしては興味深いところです。しかし、インタヴューに登場するのは長女カタリナだけで、『STANLEY KUBRICK A LIFE IN PICTURES』の時と同様に、ヴィヴィアンは登場しません。二女のアンヤは2009年に病気で亡くなったそうですが、ヴィヴィアンはtwitterで父の思い出を元気に投稿しているのに、いったいどうしたのでしょうか……
と思えば、じつは彼女、キューブリック存命中から家族とは疎遠になっており、いつのまにかサイエントロジーに入信、昨年は右派系陰謀論者として知られるアレックス・ジョーンズの集会に参加して気勢を上げていたとか……。『2001年宇宙の旅』でフロイド博士に猿をねだっていた少女がずいぶん遠いところに行ってしまった感じがします。
さて、このドキュメンタリーを観て、私が改めて考えさせられたのは、未完成に終った『アーリアン・ペーバーズ』に関する部分です。
ニューヨークはブロンクス地区(ユダヤ人街として有名)出身のユダヤ人であるキューブリックは、長い間、ナチスドイツのホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)の問題に興味を抱いており、映画化できる素材を探していました。そして、1991年に出版されたルイス・ベグリーの小説『五十年間の嘘』を読むやただちに映画化権を取得します。これは、ポーランドのユダヤ人である若い叔母と甥の少年が、自らをアーリア人と偽りながらナチスに征服された暴力にあふれる世界を旅してゆく物語です。1992~1993年を通じてリサーチとロケハンを行い、1994年2月ごろに撮影を開始するはずだったのですが、1993年の秋には中止が決定。これは、スティーブン・スピルバーグ監督『シンドラーのリスト』(1993)と企画がぶつかったため、前回『フルメタル・ジャケット』の公開半年前にオリバー・ストーン監督『プラトーン』(1986)が登場、なにかと比較された苦い経験を考慮し、順延したと言われています。
『アーリアン・ペーパーズ』について、そのスクリーンテストやロケハン写真を使って解説した、ジェーン&ルイーズ・ウィルソン姉妹による17分のインスタレーション映像は、その断片をこちらで見ることができます。
Unfolding the Aryan Papers
叔母タニヤ役にはヨハンナ・テア・ステーゲ、甥マチェク役にはジョゼフ・マゼロがキャスティングされ、チェコのブルノ市内を借りて戦時中のポーランドを再現、スロヴァキアのスタジオでの大掛かりな撮影を準備している最中での中止決定ですから、現場はもちろんキューブリックとしてもダメージが大きかったことでしょう。
しかしキューブリックの製作ペースならば、『アーリアン・ペーバーズ』の公開はどんなに早くても1995年後半、そんなに『シンドラーのリスト』を意識する必要があったでしょうか? そもそもスピルバーグが『シンドラーのリスト』映画化権を取得していることは、80年代から有名でした。また、当時二女・アンヤの妊娠が発覚し、クリスチアーヌ夫人が夫に付き添ってチェコに滞在することが難しくなったことも理由として挙げられるそうですが、いくら良き家庭人でも娘の妊娠というプライベートな事情で夢の大作制作を放り出すとも思えません。
これらの「公式発表」を疑問視するファンは多く、たとえばドイツ在住の明石政紀は著書『キューブリック映画の音楽的世界』の中で、キューブリックの2番目の妻ルースがナチスから逃れて来たウィーン出身者であり、3番目の妻クリスチアーヌはヒトラー体制下で育ったドイツ人で、叔父のフェイト・ハーランはナチスの御用監督として有名人だったことに注目し、「第三帝国ものは、題材に距離を置きたがるキューブリックにとって、私的・親族的に身近すぎるテーマだったのかもしれない」と推測しています。なるほど、これまでの作品で自分がユダヤ人であることをいっさい強調してこなかったキューブリックですから、可能性は高いように思われます。
また、日本のキューブリック情報サイトである「KUBRICK.blog」の管理人氏は、原作の内容がユダヤ人の本質に迫りすぎていたため、ドイツ人の妻を持つキューブリックによる映画化を危険視するユダヤ団体からなんらかの脅迫を受けたのではないか、という説を唱えています。
『時計じかけのオレンジ』公開時、その暴力描写が大きな反響を巻き起こした結果、脅迫状まで届いたことを知るや、イギリスでの上映を禁止にしたキューブリック、『バリー・リンドン』では、アイルランドロケの最中にIRAから脅迫電話があったという情報を得ると、たちまちにして撮影隊を引き揚げてしまいました。それほど危機管理に敏感で、家族に危害が及ぶことに細心の注意を払っていた彼のことですから、そんな妄想をふくらませたくもなる気持ちもわかります。
しかし、今回のインタヴューで、『アーリアン・ペーパーズ』準備中にキューブリックを直面した苦悩について、クリスチアーヌはこう語っています。
「彼はこれ以上、真実を知るのが苦痛になってしまったの。真実をすべて映画として撮るとしたら、それを俳優に演じさせ、観客に見せつけなくてはならない。そんなことをしたら、もはや映画を作るのではなく、史上最悪の犯罪に加担することになってしまう」
この証言は重要であるように思われます。私がここで思い出すのは、吉田喜重監督の発言です。2003年、広島の原爆投下によって引き裂かれた家族の再会を描く新作『鏡の女たち』を公開した吉田は、その中で原爆炸裂の瞬間、及びその被害状況をついに描かなかった理由について、同じく広島をテーマに『H story』を撮った諏訪敦彦監督を相手に、こう説明しています。
諏訪さんの世代から見ると、おそらく原爆を描くということは、ひとつの表現としてあるでしょう。現在の自分自身と原爆の関係を推し測りながら、表現することができるだろうと思います。しかし、私の場合は、非日常の極みとして原爆を捉えるしかありませんから、それは表現の対象となりうるのかという、問いかけから始めざるを得ない。描くことは不可能であり、それを拒絶することから始めざるをえないのです。もし原爆を描くことができるとすれば、あの閃光に立ち会った犠牲者、死者だけだと考えざるをえないのです。生き延びた私たちに、それを描く権利がない。
原爆投下の瞬間を再現するということは、私にとって許されないことです。原爆投下の瞬間を観客に見せる。それは「見せる」という言葉で表現してよいのか。本当は「見てはならない」映像なのではないか。そうした問いかけが、私のなかに根強くあったのです。あの瞬間を見た人は、すべて亡くなっている。これまでの原爆をテーマにした映画の多くは、原爆投下の瞬間を再現し、見せようとしています。見せようとしている以上、それはスペクタクルと言われても仕方がない。真実を伝えるという自負があるにしても、「見せる」ものである以上、それはスペクタクル映画と同じレベルで映像を撮っているに過ぎない。そうしたことに対し、私は非常に強い違和感があったのです。
映画によってすべてを描き出せる、キャメラによってすべて映し出せるという、思い上がった自負を、映画監督は抱き過ぎている。しかし、本来は絶対に撮ることのできない映像、あるいは撮ってはならない映像が前提にあって、映画が成立っているのです。たとえば暴力映画で百人殺す場面があっても、観客は黙って見ていますが、しかし一人の少年が本当に殺される場面を撮り、その死んでゆく姿をテレビのニュースで放映すれば、視聴者は必ず怒ります。その場面を撮ったキャメラマンは、なぜ少年を救えなかったのか、きびしく追及するでしょう。本当に人間が死んでゆく瞬間の映像には、人間は耐えられないのです。耐えられないということは、それが映像の描くことのできない残余であることを示しているのです。映画には映すことのできないものがある、そのことから映画を見直す、見返す必要がある、私にとってはこうした表象不能の原点が、広島でした。
以上「ユリイカ 2003年4月臨時増刊号/吉田喜重」より
人間の持つ可能性とその結果行われる愚行について、映画という表現手段を使って多義的に考察し続けたキューブリックにとって、「ナチスとホロコースト」は最大の興味だったに違いありません。
「『シンドラーのリスト』は助かった1000人の話だ。ホロコーストとは殺された600万人の話だ」
と、語ったと言われるキューブリックですが、映像表現の可能性を探り続けた彼がホロコーストの本質に迫ろうとしたその時、吉田喜重が語るところの映画における表象不能性の問題に直面したのではないでしょうか。
そう思うと、『アーリアン・ペーパーズ』の中止を経て、キューブリックが最後に撮った映画が、可視なものと不可視なものの「あわい」を描く『アイズ・ワイド・シャット』だったという事実が、いっそう重く感じられるのです。
さて、次のドキュメンタリー、『キューブリックの原点』(KUBRICK IN FOCUS)に話を進めましょう。
こちらは、スティーブン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシ、ウィリアム・フリードキン、オリバー・ストーン、スティーブン・ソダバーグ、クリストファー・ノーランといった気鋭の監督陣が、キューブリックから受けた影響について作品順に語ってゆきます。が、さほど面白い発言はないですね。
注目はカーク・ダグラスが出演していることでしょう。もはや90代後半、往年のタフガイも老境著しいようですが、よく出演を引き受けてくれたものです。自伝『くず屋の息子』では、『突撃』と『スパルタカス』におけるキューブリックの仕事ぶりについて、そのエゴ丸出しの性格を指摘し「才能あるくそったれ」と表現したカーク・ダグラスですが、ここでは、
「彼のことは大好きだったよ。才能があったからね。私は才能を重視するんだ」
と、かなり婉曲な言葉になっています。しかし、ダグラスに引き立ててもらえなかったら、そして彼との対立を経験しなかったら、キューブリックのその後の展開はかなり違ったものになっていたことは確実でしょう。ダグラスとキューブリック家の関係が回復したことはよかったんじゃないでしょうか。
『エクソシスト』(1973)の監督であるウィリアム・フリードキンは、『シャイニング』公開時、金坂健二に向かって「世界最高のホラーフィルムを作ってやるなんていっておいて、やっこさんはホラーフィルムが何だか判ってるのか? 恐怖映画を作る、ということは、観客を腰が抜けるほど脅かすことだ。誰が金を払って論理的恐怖映画なんか見にくるもんか。『エクソシスト』はきみを腰が抜けるほど脅かしたろ、え、あれがザ・グレーテスト・ホラーフィルムなんだ!」と、えらく威勢よくやっつけたらしいのですが、ここでは、
「私は恐いとは思わなかった。むしろ、心がかき乱されるような感じだね」
とずいぶん表現を和らげており、時の流れというものを感じさせます。確かに、半ばパニック映画である『エクソシスト』と『シャイニング』では恐怖映画と言っても方向性がずいぶん異なりますね。
また、『プラトーン』の監督であるオリバー・ストーンが、『フルメタル・ジャケット』を観た印象を、
「『博士の異常な愛情』や『2001年~』を観た時と同じく唖然としてしまった。熟練の米兵たちがイギリスの景色を行く後半部分があまりに非現実的に思えたんだ。前半の訓練部分はすばらしい迫真性に満ちている」
と率直に語っているのもちょっと面白いところ。
そしてスティーブン・スピルバーグは自らが監督することになった、キューブリック企画作『A.I.』(2001)について、
「彼自身が撮ればもっと感動的な作品になったと思うよ。私も彼の撮った『A.I.』が観たかったね」
とファンの思惑を先回りしたかのような発言をしてくれます。いや、私はスピルバーグ版の『A.I.』も好きですがね。
最後に、『「時計じかけのオレンジ」を分析する』(ONCE UPON A TIME… A CLOCKWORK ORANGE) 。
これはフランスの制作らしく、老舗映画雑誌「ポジティフ」編集長であり、『キューブリック』の著者である批評家ミシェル・シマンが関わっています。なのでミシェル・シマンが著書に掲載した1972年のキューブリックのインタヴュー音声が聞けることと、原作者アンソニー・バージェスの80年代におけるインタヴュー映像が見られることは目を引きます。……が、面白い話は特にナシ。
社会学者のロラン・ムキエリ、ラカンの伝記を書いた精神分析家エリザベート・ルディネスコらが登場し、68年五月革命の余波に揺れる当時のフランス、ミシェル・フーコーの思想が流行し、刑務所や精神病院が人を救済するのではなく、管理・強制するための権力機構に堕していると批判されている中、民主主義と全体主義の相克によるジレンマを描いた『時計じかけのオレンジ』が公開されたことの意義について語ってゆきます。まぁ、映像で見るよりは評論として読んだ方が面白そうなテーマですなぁ。
さて、現在カナダはトロントで展示中のスタンリー・キューブリック展、来年2015年11月からは韓国での展示開催が決まっているそうですが、東京には寄ってくれないのでしょうか。まさかそのままスルーなんてことは……。