星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

夢みる機械〜安部公房、キューブリック、ピンク・フロイドの眼 (その1)

偶然、直近の記事に安部公房ピンク・フロイドスタンリー・キューブリックをテーマにしたものが並んだので、ここで昨年、「もぐら通信 第10号」に掲載したエッセイを加筆修正の上、採録します。長いので、3回に分けて掲載。

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夢みる機械安部公房キューブリックピンク・フロイドの眼〜

 

Chapter 1

「HAL」との遭遇

 船外作業中に漆黒の宇宙に放り出された副長を、船長は母船から小型ポッドに乗って追いかけ、回収する。
 が、宇宙船に戻ろうとする船長を待ち受けていたのは、制御コンピュータの反乱だ。人工冬眠中の船員を抹殺したコンピュータは、船長を船外に閉め出したまま葬り去ろうとする。副長を殺したのもコンピュータの仕業だった。船長は強引な方法で船内へと帰還する。
 立場を逆転させた船長は、コンピュータの命乞いを無視して、その機能を切断する。やがて、自分が参加した木星探査計画の真の目的を知った船長は、黒い石板・モノリスに導かれ、別の時空間に突入する。
 極彩色の光の奔流の果てに、船長がたどり着いたのはロココ調の様式で整えられた白い部屋だ。彼はその部屋で年老いた自分を目撃し、さらに老衰してベッドで死を迎えつつある自分へと移り変わる。部屋に出現したモノリスを前に、彼は人類を超越した「スター・チャイルド」へと転生する……。
 スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968)の最終部はこのように展開する。SF映画の枠を越え、映画史に屹立するのみならず、各芸術分野に多大な影響を与えた文字通りの名作だ。 人類の始まりから未来まで言語説明を極力排した構成、結末で描かれる進化のイメージは、2001年を過ぎ去った現在も謎が謎をはらみ、新たな観客を解釈の誘惑にかり立てずにおかない。
 安部ねり安部公房伝』には、父・公房に連れられて『2001年宇宙の旅』を観賞したエピソードが語られる。また、安部公房は監督のスタンリー・キューブリックを高く評価していたという。

父はキューブリックが大好きだった。それは二つの点で二人に共通点があったからだと思う。ひとつは大衆性である。一般的に受けをねらう方法を排除して、あくまで独自の方法で一般の観客や読者が興味を持つ作品を作ろうとする姿勢だ。もう一つは作品のジャンルをずらすこと。SF、ミステリー、現実的展開、幻想的展開と、キューブリックは戦争物も創っている。作り続けることは、作家にとって難しいことだと思うが、ジャンルをずらすことによって、新鮮な作品を提供し続けることが可能なのだろう。             (安部ねり安部公房伝』p142)

 空想科学小説を愛読し、発達したコンピュータと人間の対立を『第四間氷期』(1959)ですでに描いていた作家が、『2001年宇宙の旅』を気に入るのはさほど意外ではないだろう。なお、安部公房キューブリックが日本の映画ファンの間で知られるきっかけとなった犯罪映画『現金に体を張れ』(1956)を公開時にいち早く批評した一人でもある。同時期に公開された『気違い部落』(渋谷実監督)と並べて取り上げているのだが、意外やその評価は辛いものだった。
現金に体を張れ』は、競馬場の売上強奪を企む一味を、メンバーそれぞれの視点から時間軸を錯綜して描くことで、サスペンス効果を高める構成が採用されている。この技法は後に、クエンティン・タランティーノが『レザボア・ドッグス』(1992)や『パルプ・フィクション』(1994)で再利用することで有名となり、最近でも吉田大八監督『桐島、部活やめるってよ』(2012)で使用され、今ではそう珍しくないものになっている。
 しかし安部公房は、そのような斬新な構成技法を導入しながら、定型の「犯罪映画」の枠におさまっていることに不満を述べている。

 時間の流れを無視して、一人一人について、何度も同じ時間や情景をくりかえしてみせるところなど、なかなかの発明もあるのだが、つまりは物語であって、べつに無意味な偶然をその物語りの「裏切りもの」として追求するわけでもなんでもない。裏切るのは、あいもかわらぬ浮気女なのである。事実を追うというスタイルのかげにかくれて、ちっぽけな無意味と、ちっぽけな意味とが、仲よく共存しているのだ。                          (全集8巻p99)

 安部公房にとって、新たな発明とは常に既存の枠の革新に向かわなければならないのだった。キューブリックがさまざまなジャンルを手がけながら、その枠におさまらない多義性に満ちた映画作りに向かうのは、1962年の『ロリータ』からである。
 安部公房は、多様なジャンルに取り組みつつ、その枠を批評的に逸脱する作風を獲得したキューブリックを、自分の期待に応えてくれた映画作家として好ましく思っていたのだろうか。確かにその可能性はある。しかし彼らの作品それぞれから嗅ぎ取れる共振性、それはただ主題のとらえ方や指向するスタイルが似ている、という段階にとどまらない。
 例えば『2001年宇宙の旅』公開の前年、1967年に発表された安部公房の長編小説は『燃えつきた地図』だった。思い出していただきたい、この小説もまた、ある目的に向かって旅を続ける探偵が、最終部において新たな存在に「転生」もしくは「進化」する姿が描かれていたということを。
 依頼人の部屋にひらめく黄色いカーテンは主人公にとってのモノリスであり、最終場面の直前で彼が立ちすくむ、団地前のカーブはスターゲイト(光の奔流)の場面に相当する。
 いや、さらに重要なことを言えば、『2001年宇宙の旅』で宇宙船の船長が対峙する制御コンピュータの名は「HAL9000」だった。そしてまた、『燃えつきた地図』で探偵が対峙する依頼人の名も「根室波瑠(ねむろはる)」なのだ。
 1960年代後半、安部公房スタンリー・キューブリックは、共に「ハル」という謎めいたキャラクターとの関わりを通過することで、新たな次元に生まれ変わる人類の姿を描いていたのである。

「エコーズ」と「入れ子構造」

2001年宇宙の旅』には、安部公房が愛好したもうひと組のアーティストの参加が予定されていたという噂がある。イギリスのロックバンド、ピンク・フロイドだ。しかしこの噂を証明する資料はどこにもなく、信憑性に欠けた情報として重くは見られていない。『2001年宇宙の旅』の仕上げ期間において、ピンク・フロイドはまだデビューアルバム『夜明けの口笛吹き(The Piper At The Gates Of Down)』(1967)を発表したばかりの新進バンドだったし、その上『2001年宇宙の旅』の音楽においては、キューブリックは早くからクラシック曲の使用を決めており、それ以外の箇所の劇伴音楽をアレックス・ノースに依頼するも、最終的にノースが作った新作音楽はすべてボツにしてしまったという事実が厳然と存在するからだ。
 だが、『2001年宇宙の旅』制作初期において、テレビアニメ『アストロボーイ(鉄腕アトム)』の原作者・手塚治虫美術監督就任の依頼をしたというキューブリックのことだ、才能に敏感な彼ならその可能性も皆無だったとは言い切れないのでは……という思いがファンに夢想の翼を広げさせるからだろう、『2001年宇宙の旅』の最終部とピンク・フロイドの代表曲「エコーズ(Echoes)」は、音楽と映像が完全に一致する、という発見がまことしやかに語られたりもしている。『2001年宇宙の旅』に不参加となったことを悔やんだフロイドが、曲にそのような仕掛けを施したのだろうか。細かく確認すると、非常によくシンクロする箇所がある反面、まったく重ならない箇所も多いのだが、動画サイトには検証動画も投稿されているので、興味のある方は実際に視聴していただきたい。

 

 (注意・どちらの作品も未見未聴という方は観てはいけません)

 

 野暮を承知で付け加えれば、「エコーズ」の制作はメンバーが思いついたさまざまなモチーフの断片“nothing parts”を繋ぎ合わせることで構成され、ライブでの演奏をくり返しながら修正し、練り上げられたものだ。レコーディングの際にわざわざ映画の最終部を参照したとは考えにくいが、『2001年宇宙の旅』が彼らになんらかの影響を与えた可能性はある。それに、「エコーズ」の初期バージョンの歌詞は惑星と宇宙のイメージから始まっていたものだったし、ライブ映画『ピンク・フロイド/ライブ・アット・ポンペイ』のDVD版(2003年発売)では、その冒頭に演奏される「エコーズ」に、監督のエイドリアン・メイベンがわざわざ追加制作した、ロケットの打ち上げフィルムと宇宙空間のCG映像(まさに『2001年宇宙の旅』の影響を感じさせるものだ)がつけ加えられている。
 そして、もうひとつ見落とし難い事実が存在する。ピンク・フロイドが「エコーズ」を収録したアルバム『おせっかい(Meddle)』を発表した1971年、確かにスタンリー・キューブリックと彼らが「共演」する可能性があった。キューブリックは当時製作中だった『時計じかけのオレンジ』に、フロイドの「原子心母(Atom Heart Mother)」(1970)の使用を申し出ている。しかし、その使用条件はキューブリックが映画に合わせて曲を自由に編集できる、という内容だったため、フロイド側は断ってしまった。キューブリックがどの場面でどのように使用するつもりだったのかは謎のままである。
 ところで「エコーズ」と言えば、安部公房『カンガルー・ノート』(1991)の最終章に登場する音楽として、ファンの間では広く知られている。自走ベッドによって廃駅にたどり着いた主人公。そばに現れた垂れ目の少女は、音楽が聞こえると言う。それは彼女が「むかし、サーカスのときよく聞いた」曲で、主人公にとっても「大好きな曲」である「エコーズ」だ。安部公房は、1984年のインタヴューでも、ピンク・フロイドと「エコーズ」の愛着についてこのように語っている。

 僕はね、ビートルズよりもピンク・フロイドのほうが、時代というものの、過酷さともろさを非常にシンボリックに出してると思う。そりゃ、ロックのなかでは、プログレッシブだっていうレッテル貼られただけで終ってるけどね、音楽的才能としてはピンク・フロイド、抜群だよ。『エコーズ』とかね、ああいう曲は、おそらく将来ね、不朽の名作として評価される時が来ると思う。しかしね、あれだけの才能が、雑巾のように使い古される時代は、あまりにも残酷だよ。ピンク・フロイドのこと考えると、僕はいまでも胸がいたいよね。       (全集28巻p11)

 安部はなぜ、最晩年の長編『カンガルー・ノート』のラストシーンに「エコーズ」を配置したのだろう。一見、手近な小道具として愛聴する曲の題名を無意味に書き加えたようにも見えるが、それ以上の設計が存在したと考えられなくもない。最終章において主人公は、垂れ目の少女とランニングシャツの小鬼たちによって、ダンボール箱に入れられる。箱の「のぞき穴」から見えたもの、それはおびえながらのぞき穴をうかがう自分の後ろ姿だった。彼もまた「のぞき穴」をのぞく自分の姿を見ているにちがいない。
 この無限に続く「入れ子構造」のイメージ……。これがまさに「エコーズ」そのものなのだ。
「エコーズ」は合計24分弱の大曲だが、その冒頭と終局部には「ピーン」と響くソナーの発信音のような音がくり返され、曲全体が巨大な円環構造を築いている。エコーのかかったソナー音の誘いから、おだやかなボーカルによって曲が波打ち、海のイメージへと誘われる。やがて風のノイズと鳥の鳴き声のようなギター音、そして謎めいた反響音によって構成される嵐の世界へと突入、そこを突き抜けると、ふたたびボーカルが始まり、落ち着きを取り戻したメロディは空に向かってどこまでも昇天して行くコーラスに導かれ、ソナー音は遠くに響いてゆく。
 この最終部における「どこまでも昇天してゆくコーラス」とは、人声で作られた「無限音階」にほかならない。無限音階とは、音の最高域から最低域まですべてを鳴らしながら、音を上げ続けたり下げ続けたりすると、まるで音が無限に上昇し続けたり下降し続けたりする錯覚に陥るというもので、いわゆるエッシャーのだまし絵である「上昇と下降」、およびそのヒントとなった「ペンローズの階段」(図)を音で行ったものを思えばいい。床屋の店先にある赤青白のサインポールと同じく、ずーっと一方向に動き続けているように見えるが、じつは同じ場所から一歩も動いてはいない。



(図)ペンローズの階段

「エコーズ」もやはり「入れ子構造」を強く意識した曲だった。自走ベッドによって冥府巡りの旅を続けてきた主人公が、最終的にびくつきながら外界をのぞく自分自身の姿に果てしなく向き合うその瞬間、「エコーズ」は最終部の無限音階を響かせているにちがいない。
 
さらに「エコーズ」の歌詞は、他人との関わりの困難を象徴的に歌ったものだった。2番の歌詞を引用する。

 街を通り過ぎる見知らぬ者同士の 目と目が偶然に合う
 
するとぼくは君でありぼくの目に映るのは自分
 ならばぼくが君の手をとり
 この地を案内してあげれば
 ぼくの最良の手助けとなってくれるのか
                           (訳・今野雄二

 描かれるのは、群衆の中に発見する自分自身の姿。人や世界からはじき出された孤独な魂の彷徨を歌う「エコーズ」の歌詞を書いたのは、ピンク・フロイドのベーシスト、ロジャー・ウォーターズだ。ロジャーによれば、「エコーズ」を書いたころから現在まで追い続けているテーマとは、「他者との結びつきを深めることについて」であり、「人が互いの人間性を認め合うことは可能なのか」なのだった。まさに、「他者との通路の回復は可能か」を模索し続けた作家の「白鳥の歌」となった長編の結末を飾るにふさわしいサウンドトラックというほかない。
 しかも、この曲が聞こえるのはあくまでも垂れ目の少女であり、主人公には聞こえていないという設計が周到だ。最後に主人公が聴く音楽は、垂れ目の少女が歌う「人さらい」の歌と、オタスケクラブの子供たちの囁き。「エコーズ」のイメージを借りつつも、最後に聞かせるのは自らのオリジナルの肉声だ。もしかすると「人さらい」の歌とは、安部公房が「エコーズ」のメロディを借りつつ独自に歌詞をつけた、幻の共作だったのかもしれない。

 安部公房スタンリー・キューブリック、そしてピンク・フロイド。文学・映画・音楽と活動の主体ジャンルは異なるが、その作品群はそれぞれ巨大な山脈を形成し、頂上のあたりには霧が立ちこめて全体像の把握を拒んでいる。創作面で直接コラボレートすることはなかった彼らだが、そのスタイルにはいくつもの共通項が容易に挙げられるだろう。例えば、「前衛」とくくられがちな強靭な作家性と、多数の熱心なファンを獲得する「大衆性」を併せ持つ作風。現実への鋭い観察眼と飛躍した幻想性を共存させた描写力。新しいテクノロジーへの積極的関心の持ち主であり、厳格な完全主義者でもあること。キャリアの上でそれぞれ『砂の女』、『2001年宇宙の旅』、『狂気』と飛び抜けた知名度を誇る決定的な代表作を持っている……。
 実際の影響がどうこうという事実関係は横におき、作品を通じて不思議なシンクロニシティを感じさせる彼らの、その「想像力の共鳴」に注目し、そこから見える景色とはどんなものなのか、その見聞録を私なりに綴ってみたいと思う。