星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

佐藤哲也『イラハイ』読書会に参加して思い出したこと

 先日、知り合いがオンラインでやっている読書会で、8月に亡くなった佐藤哲也のデビュー作『イラハイ』(1993)を課題本にするというので、参加してみました。

 

 普段は思想書をメインとする読書会なので、常連のみなさんがサトテツ作品をどう受け止めるのか、愛読者としてはやや心配だったのですが、作中でひんぱんに展開するソ、ソ、ソクラテスプラトンか的思弁ギャグよりも、「架空の歴史書叙事詩のパロディ」というスタイルに注目する人が多かったのが、「へぇ」と思いましたね。ここぞとばかりに『熱帯』(2004)や『サラミス』(2005)の宣伝をしてもよかったのだけど、突然マニアがえんえんと語り出すわけにもいかず、ぐっと抑えながらみなさんの意見を楽しく拝聴しておりました。

 また、『イラハイ』の冒頭は「その昔、とあるところにひとつの家に住むふたりの男があった。」で始まり、結末は「双子の兄弟は(中略)、ひとつの家を建ててふたりで暮らしたと伝えられる。」と終わる、円環構造になっているのですが、この構造の中に、キャラクターやギャグや文体の遊びが精緻に配置されている点が、非常に音楽的に感じた、という意見があり、これは蒙を啓かれた思いがしました。

 佐藤哲也作品は『沢蟹まけると意志の力』(1993)や『トポス』(2020)でもリフレイン(くり返し)ギャグを効果的に使用したし、『下りの船』(2009)や『シンドローム』(2015)などの後期作品になると、同じ長さの文章を一行ごとにえんえん並べたり、リズム重視の文章をページいっぱいに展開したりという技法を多用しているのですが、一種の音楽的演出として持ち込んだ、独特の技法だったのかもしれません。そもそもネタ元であるギリシャ古典は吟遊詩人が語ったものですからね。

 また、ユーモアたっぷりなのに、キャラクターに萌え要素を抱かせないのがサトテツ作品のクールなところですが、音楽的な計算のもとにキャラが配置されているところに秘密がありそうです。

 

 かくいう私は『イラハイ』を刊行当時に読んでいます。日本ファンタジーノベル大賞の受賞作は第一回から欠かさずに読む習慣があったからですが、もっとも衝撃の大きかった作品をひとつ挙げるとするとコレですね。

 構想の巨大さ、小説の完成度以上に、「文学でモンティ・パイソンをやっている人が現れた!」という喜びが勝りました。ユーモアを得意とする作家は、その出自というか源流が作品からにじみ出ることが多く、例えば小林信彦筒井康隆は、マルクス兄弟や珍道中シリーズなど、終戦直後に公開されたハリウッド製の喜劇映画から強く影響を受けていたし、横田順彌古典落語の教養と杉浦茂谷岡ヤスジなど戦後ナンセンス漫画の味を感じさせ、とり・みきが80年代に描いていたギャグ漫画は、ZAZトリオのパロディ映画に通じるものがありました。

 その中で、佐藤哲也の源流はあきらかにモンティ・パイソンで、『イラハイ』を『ホーリー・グレイル』(1976)や『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)に例えるなら、次作『沢蟹まけると意志の力』は『人生狂騒曲』(1983)にあたるでしょうか。サトテツファンはこの発展にいっそう喜んだものだけど、これが『熱帯』になると、扱う思弁はより雄大に、登場するギャグはより脱力的になり、それでいて『イーリアス』のパロディという、とてつもない作風を確立され、どこまで鑑賞できているか自信がなくなったものです。

 フラン・オブライエンやデヴィッド・ロッジ、トマス・ピンチョンらの潮流を受け継ぎながら、さらにスマートかつ俯瞰的な作品を紡ぎ出す、唯一無比の作家として畏敬の念を抱いていました。

 

 10年あまり前、初めて佐藤哲也さんにお目にかかった際に、よくあれだけ独特な小説を今の出版界で発表できますね、と訊いたところ、

「いや、私の長篇で(出版社から)頼まれて書いたものはありませんよ

 と言われ、改めて孤高な存在であることを知ると同時に、どれだけの困難の中であのレベルの作品を描き続けているのか、慄然としたものです。

 10月に行われた佐藤哲也さんの追悼ミサは、なんと私が結婚式を挙げた教会で行われるという、不思議な縁を感じさせました。参列者には、夫人の佐藤亜紀さんから『下りの船』が手渡されたのですが、これはSFのスタイルを借りて描かれる、移民たちのエピソード集であり、まさに後期の代表作といえる架空の歴史小説。ロシア・ウクライナ紛争やイスラエルのガザ攻撃が現在進行中に今、間違いなく理不尽な暴力に満ちた「現代」を照射した文学として読めることでしょう。

 そういえば、怠惰なことに佐藤哲也さんから強くお薦めされたトーマス・ベルンハルトを未だに読んでないことも思い出しました。来年こそは読みましょう。でもこれは哲也さんの薦め方にも問題があったと思うのです。

「私はベルンハルトを読んで5年小説が書けなくなりましたよ!」

 と言われて読書欲が高じるものでしょうか?

“意地悪ばあさん”の素顔〜『パトリシア・ハイスミスに恋して』

 エヴァ・ヴィティヤ監督『パトリシア・ハイスミスに恋して』を観た。

 25年以上も前に亡くなった作家の評伝が、ドキュメンタリーとして成立するのかと思いきや、意外に映像資料が豊富に残されていたことに驚いた。そして未発表(近年、書籍化された)の日記の記述の朗読と、3人の“恋人”たちや親類たちによる回想インタビューを織り交ぜながら、展開してゆく。

 

 パトリシア・ハイスミス(1921~1995)が同性愛者であることは『キャロル』(1952)の翻訳出版と映画化が公開されたことで日本でも有名になったが、その家庭環境と母親との複雑な関係については全然知らなかったので、親類たちが語る証言は新鮮だった。若い頃のハイスミスには結婚歴や男性との交際歴があるが、母親の期待に応えようとしてのことらしい。

 恋人の一人が「トム・リプリー(『太陽がいっぱい』の主人公)は彼女の分身」と語っていたが、キャリアの後期になるほどリプリーシリーズの執筆が増えてゆくのは、あれが一種の私小説であり、鬱屈がたまるほどに理想化された自分を描きたくなったからなのだな、と腑に落ちた。

 

 1960年代に入り、母親と絶縁したハイスミスアメリカを離れ、ロンドン、フランス、スイスと彷徨しながら恋を重ね、書き続ける。主人公の「よるべなさ」や「奇妙な妄執」への切り取り方が絶妙なハイスミス作品もまた故郷喪失の文学といえるのかもしれない。そして、「サスペンス作家」というジャンル小説の書き手としか評価されないことへの苛立ちも。

 その昔、女友達に『ふくろうの叫び』を貸したところ、

「“覗き”を趣味にする男が相手の女性にバレる、そしたら女性が優しく部屋に招き入れてくれるなんて展開、オッさんの妄想でしょ! と思ったけど作者が女性なのが信じられなかった」

 と感想を述べられたことがあったが、女性に限らず読者の生理的嫌悪にあえて突っ込んでゆくハイスミスの感覚は、こうした日々の苛立ちの中で練り上げられていったのだろう。

 

 作家としては『太陽がいっぱい』(1955)、『ふくろうの叫び』(1962)、『殺人者の烙印』(1965)、『プードルの身代金』(1972)あたりがピークで、その後の作品は長大化し、かつてのような引き締まった印象が失われてゆくのだが、映画の中でも、アルコールへの依存と相次ぐ恋愛の破綻で精神の荒廃が進んでいった様子が語られており、切なくなる。

 スイスに建てた「要塞のような家」に籠もった80年代後半以降、私的ノートには有色人種やユダヤ人への差別的な罵倒が書き連ねてあったというのは悲しい。が、そうした鬱屈をSNS(当時なかったけど)で吐き出すのではなく、晩年の作品集『世界の終わりの物語』(1987)に収められているような、悪意に満ちた諷刺短編の数々に結実させたのは、作家としてアッパレと言えなくもない。

 

 それでも、晩年期の長編では『孤独の街角』(1986)は全盛期の代表作に肉薄する傑作だったと思うし、遺作となった『スモールgの夜』(1994)も、私は好きだ。これは『キャロル』以来の明確なゲイ小説で、ゲイが集まる居酒屋の常連客の人間模様が綴られる、いたって静謐な作品だ。『キャロル』は当時、ゲイ小説としては初のハッピーエンドを描いた作品として注目されたそうだが、『スモールgの夜』もまたハッピーエンドである。そのラストから浮かび上がる奇妙な“ほのぼの”感は『キャロル』以上に感慨深いものがあった。

『キャロル』から『スモールgの夜』へと成熟していった作家として、改めてハイスミス作品を読み直したい気もする。

幻のドラマを楽しむ〜『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路<オートバイ>・山田太一未発表シナリオ集』

 

 先週、『ふぞろいの林檎たち男たちの旅路<オートバイ>~山田太一未発表シナリオ集』(国書刊行会)を読んでいる最中に、著者である山田太一の訃報が届いた。享年89。

 

 なぜこの脚本集を読んでいたかというと、12月2日に西荻窪の今野書店にて開催された、編者の頭木弘樹氏を迎えて、會川昇(脚本家)、樽本周馬国書刊行会)両氏が聞き役を担当するトークイベントに行くためだ。図らずも追悼の会となってしまったイベントだが、決して湿っぽくなることなく、取材時の裏話と登壇者それぞれの山田作品への熱い思い入れを聞くことができた。

 収録作品に『男たちの旅路・第4部』の未発表作品「オートバイ」(第2話になるはずだった)が入っているため、どうしても『男たちの旅路』の話が多くなる。「本来このドラマは、第4部まで陽平(水谷豊)と吉岡司令補(鶴田浩二)の関係性の変化を描くつもりで構想されていたのだろう」と、作品の細部の読解が述べられたり、「アシスタントディレクターに(『四季・ユートピアノ』を撮る前の)佐々木昭一郎がついていて、演出に対する指摘が面白い」とか、へぇ~、と思う話もいろいろ飛び出す。

 

 頭木弘樹さんは山田太一が全自作を語るインタヴュー本を作成するため、6年かけて毎週山田邸に足を運んでいたという。作品について私見を述べても、「そういう考え方もありますね」と穏やかに返される山田さんだったが、じつはこれは「違う」という意味なんだ、ということがわかった、というのが面白い。はっきり「それは違います」と意思表示をしてもらえるまで2年かかったそうだ。

 相手が信頼に足る相手と見定めるまで、やすやすと自作について本心を明かさない周到さ、まさしく一筋縄ではいかない人間たちを描いてきた作家らしいふるまいで嬉しくなる。また、山田ドラマは局に提出する企画書と実際の展開がまるで違ってしまうことがしょっちゅうだそうで、あの傑作『想い出づくり。』においても、加藤健一が演じた森昌子の見合い相手になる男、彼の登場場面は本当にあの見合いの場面だけの予定だったそうだ。加藤の演技があまりに素晴らしいので、その後、重要なキャラクターに発展し、クライマックスの展開につながっていったという。

 じつは学生時代に山田太一の特別講義を聴講したことがあり、そこでも似たような話を聞いてはいた。ドラマの企画を事前に練り込んでいることはほとんどなく、打ち合わせ当日まで白紙の状態のことも珍しくない、と。家を出るころにぼんやりと書きたいイメージがわいてきて、電車の中でじわじわとふくらまし、局のエレベーターの中でどうにかまとめて、会議室で「次はこういう話を書きます」とずっと構想していたかのごとく語るのです、とユーモラスに語られたが、そんな即興性重視な姿勢も、師・木下惠介から譲り受けたものかもしれない(木下はメモも構成もなしに助監督に脚本を口述筆記させる)。

 

 そういえば、パトリシア・ハイスミスもアイディアの芽を書きながら育ててゆくタイプで、執筆前に結末を決めることはないそうだが、今回の『山田太一未発表シナリオ集』に収録された2時間サスペンス用の『今は港にいる二人』、これは姉夫婦の悲劇に巻き込まれたしっかり者の弟が、復讐をするか否かで逡巡する話で、かなり変な物語。「英雄」をめざすもそうはなれない人間の弱さを扱って、ある意味ハイスミス的な心理サスペンスなのだが、ハイスミスとは違って悪意ある破綻には向かわない。ある人物の行動で「え〜?」という展開になり、じつに山田太一らしい大団円を迎えるのだ。最後にタイトルの意味がわかる構成も洒落ている。

 サスペンスでいうともう一作、『殺人者を求む』という山田太一が最初に書いた習作シナリオが最後に収録されているが、これもまたかなり変な話で、登場人物は殺し屋とその同伴者と依頼人の3人だけ。映画というよりも、ハロルド・ピンターの『ダム・ウェイター』あたりを思わせる短編室内劇なのだが、何気ない会話の応酬がだんだん不気味なムードを形作ってゆく手つきはさすがだし、新人助監督がいきなりこういう特殊な内容のものを撮影所の同人誌に掲載するのも勇気がある。これを読んだ木下惠介はすぐに助監督室を訪問、山田太一を呼び出し「君の脚本のト書はすごく良かったよ」と励まして去ったという。簡潔にして的確、それでいて想像力が広がる山田脚本のト書にいきなり注目していたとはすごい。

 

 と、書きつつ私自身が山田太一の熱心なファンだったかというと、ぜんぜん違う。ちゃんと見た最初の作品はTBSの連ドラ『大人になるまでガマンする』だったろうか。TBSの金曜ドラマは、その前年に放送した伴一彦脚本の『うちの子にかぎって…』が、小学生の目にも大変面白いポップな世界だったので、似たようなものかと思ってチャンネルを回してみたところ、居酒屋家族とサラリーマン家族が子供の教育方針をめぐって対立するという、シブすぎるドラマが展開して困惑させられた。

 そんな第一印象だったせいか、80年代はリアルタイムでは山田ドラマにはまったく触れずじまい。よく再放送されていた『ふぞろいの林檎たち』は軽薄なトレンディドラマかと思い込んでいたし、『男たちの旅路』は鶴田浩二が元特攻隊員を演じるという設定を聞いただけで観賞意欲を失っていた。

 それが変わったのは、先述した山田太一本人の特別講義を聴いたことと、映画評論家の森卓也の文章だ。森はある時期からしきりに日本映画への失望と、「それにひきかえ……」と山田太一ドラマへの賛辞を書き連ねることが多くなった。『早春スケッチブック』に出てくる死期の迫ったカメラマン(山崎努)のセリフを引用し、こう書いたことがある。

「現役で撮りまくっていた頃は、なにを見ても、この角度で、この絞りで、このレンズでいける、なんてことしか頭にない。撮り終えると同時に、他に目をやっている。物でも人でも、ほんとうにじっくり見ることはない。本当には見ていない」

 むろん、ドラマの寓意のセリフである。けれど一面の真理ではあろう。そうであってはならない、が、ファインダーをのぞく“プロの眼”が、時として“優越の眼”になってしまうことが、ありはしないか。

                    森卓也「カメラマンの眼」

早春スケッチブック』を観ることができたのはそれからだいぶ経ってからだが、確かにこれはすさまじいドラマだと思ったし、実際の劇中でははるかに長く、味のあるこの部分のセリフもリアルな感覚として理解できるようになっていた。亡くなる直前の寺山修司(早稲田で山田太一の同級生だった)が熱心に観ていたというエピソードと共に忘れ難い作品だ。

 この辺りから、『今朝の秋』や『ながらえば』といった過去作品のビデオを観たり、NHKやテレ東の単発ドラマにチャンネルを合わせるようになった。今世紀に入ってからのBSやCS再放送で、『男たちの旅路』や『岸辺のアルバム』、『高原にいらっしゃい』、『想い出づくり。』、『日本の面影』など数々の傑作を確認することができ、ようやくセリフやアフォリズムに込められた含蓄にとどまらぬ、山田ドラマの人間洞察の深さが楽しめるようになった。

 が、万事怠惰な私のことで、未だ見られてない作品もたくさんある。じつは『ふぞろいの林檎たち』シリーズも、放送時に「Ⅳ」をおおよそ追いかけただけで(中谷美紀が目当てでした)、「Ⅰ」~「Ⅲ」は未だ手付かず、という体たらく。

 しかし未制作に終わった『ふぞろいの林檎たちⅤ』を読んだおかげで、彼らの青春に俄然興味がわいてきた。40代の「林檎たち」の落ち着き方を知った上で、遡って確認するシリーズというのも、リアルタイムで追ってきたファンとはまた違った楽しみ方ができるに違いない。

『ゴジラ-1.0』合評会

 

 司会者 「えー、このつどいも前回から4年ぶり4度目となりました。山崎貴監督『ゴジラ-1.0』が公開されましたが、みなさん正直なところ、いかがでしたか? ネタバレ全開で参りましょう」

 ゴジラファンA 「いやぁ、『シン・ゴジラ』が画期的なゴジラ映画だっただけに、はたして次回作はどうなるのかと心配だったけど、<1954年以前>の世界にゴジラを出現させるとは、まったくコロンブスの卵。これを思いついただけでも大したものです」

 ゴジラファンB 「『シン・ゴジラ』では完全に意思疎通が不能な怪物だったゴジラ、こちらではまさに<悪意の猛獣>というイメージになって重量感も十分、人を襲う描写にかなりのインパクトがありました。大満足!」

 ゴジラファンC 「そ、そうかなぁ? ゴジラというのは『核』を背負った人類全体の脅威であるべきなのに、あれじゃ『特攻隊として死に損ねた男』のトラウマを象徴する存在に成り下がっていたんじゃないかしら。あれだけスペクタクルなゴジラ上陸が描けたのに、ゴジラの存在感がもう一つ薄いのは、ゴジラ像が個人的な記憶に閉じ込められているからだと思ったけど」

 反政府主義者 「銀座で大暴れしたゴジラが次は国会か皇居を踏み潰してくれるものと期待したのに、いつのまにか帰っちゃったらしいのは拍子抜けだったぞ」

 測量士 「おそらく、ゴジラが吐いた熱戦の先に国会があったものと思われます」

 新堂靖明 「私がラゴス島で出会ったゴジラザウルスは米軍を蹴散らしてくれたんだが、その点、敷島クンは不運でしたね。でも、おかげでゴジラを救世主と思いこむ、というとんでもない勘違いをせずにすんだのだから、そこは幸運とも言える」

 脚本家志望者 「それはシンプルにヒネりが足りないというべきでは……。寄る辺なき復員兵のところに、一気に女子供が転がり込んでくる強引な展開も、後半の<泣かせ>に使う手が見え見えでシラけました」

 警察官 「あのヒロインは登場時になんで追いかけられていたんですか? てっきり子供をダシに使った女スリかペテン師だろうと目を光らせていたのだけど、特にそんなキャラ付けもありませんでした」

 SF映画マニア 「いいんだよ、細かいことは。前回も言ったけど、大型特撮映画における人間ドラマとは『家族の再生』と『自己犠牲』、これで決まり! 舞台設定が斬新な分、ドラマ作りや人物配置が様式的なのは、山崎監督のバランス感覚を強く感じました。それに、今回のVFXは彼の到達点でしょう」

 特撮マニア 「確かにそうですね。上陸したゴジラの足元を描く粘っこい描写はもちろん、海上戦闘時の海や水の質感表現、日本のデジタルVFXもここまで来たか、と嬉しくなりました」

 スピルバーグファン 「突然、『ジョーズ』へのオマージュと思われる展開が始まったのには泣けました」

 ノーランファン 「クライマックスで突然、『ダンケルク』へのオマージュみたいな展開になったのは笑いました」

 バラン 「それにしても、民間が考案した作戦があまりにうまくいきすぎじゃないですか? やはり怪獣たるもの、私のように爆雷作戦も特殊火薬作戦も、まずは一度はねのけてみせる強かさがほしいですね」

 バルゴン 「そうそう。作戦が実行され、失敗し、怪獣もまた学習する、それに対しどうするか、そういう知恵比べ的な展開がないのはちょっと食い足りない」

 理科教師 「1947年にはまだ自衛隊すらないんだもの、あまり無茶言いなさんな。そんな時代の日本人がどうゴジラを退治するか、という点で頭をひねったのを評価してあげなきゃ。しかも、安易にSF超兵器に頼るのではなくて、フロンガスと浮袋を使った水圧+減圧の理屈でゴジラをやっつけるアイディアも面白いじゃないの。今度授業で使わせてもらおう」

 ミリタリーマニア 「メーサー砲のような超兵器が出ない代わりに、幻の戦闘機である『震電』が飛び回るクライマックスもアツいです。でも、整備班が登場するわりに、あまりマニアックなメカ描写はなかったですね。」

 アニメファン 「庵野監督は昔から<ミッション遂行>のドラマとそのメカニズムに執着する人で、樋口監督は<大状況>の描写に深くこだわる人。『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦は二人の個性が噛み合って、霞ヶ関の独立愚連隊チーム結成から無人在来線爆弾まで、短い時間で印象強く見せていましたよね。でも、山崎監督は、『永遠の0』の宮部教官といい、『STAND BY MEドラえもん』ののび太といい、『アルキメデスの大戦』の戦艦大和といい、名誉回復のドラマを盛り上げたい演出家なんでしょう。今回は主人公の悔恨がいかに解消されるかが焦点です。そこにノレないとしんどい」

 興行関係者 「オタク的なディティールよりも、エモーショナルな『物語』の方が観客に届きやすいのは間違いないと思いますよ。でも、今はベタな<泣かせ>よりもまず、作り手の<熱>がなくっちゃね」

 映画音楽家 「とはいえ、『シン・ゴジラ』での伊福部昭音楽の使用は、ずいぶんマニアの自己満足臭を感じたけど、こちらで『ゴジラの恐怖』が鳴り響いた瞬間は、かなりハマって聞こえたなぁ」

 惑星ピスタチオファン 「佐々木蔵之介の濃厚すぎる演技はもう少しでパワーマイムが始まってしまうのではないかとハラハラしました」

 政治不信の男 「政治家も進駐軍もいっさい出てこない、というのは『シン・ゴジラ』と同じことはしない決意の表れかな。それはそれでいいんだけど、その結果、元軍人たちの<敗戦ショック>をゴジラ撃退によって慰撫する物語のようにも見えてしまい、指導者の命令で始まる戦争の問題点が、巨大災害であるゴジラ出現とごっちゃにすることでごまかされた気持ち悪さはあったなぁ」

 ジャーナリスト 「命を賭して家族や国民を守る、という行為が侵略戦争ゴジラ襲来でいっしょくたにできるのか、という問題ですね。『人命を軽視してはいけない』とタテマエを語りつつ、彼らは死地に向かわざるを得ない矛盾。そこにテーマを置くなら、橘整備班長の<転向>がしっかり描かれるべきだとは思いました。それがラストの意外性要素でしかないというのは……」

 A級戦犯 「ウム、巣鴨プリズンに捕まっている者たちに恩赦をかけてくれれば、クライマックスではもっと人材が集まったし、皇軍兵士の名誉回復にもつながったはずなのにねぇ。じつに惜しいヨ」

 映画史家 「初代『ゴジラ』は水爆実験、『84’ゴジラ』は米ソの核状況、『シン・ゴジラ』は東日本大震災、とゴジラ映画はそれぞれの時代の<危機>を反映してきたわけだけど、『ゴジラ-1.0』はコロナ禍を通過した上でのゴジラ映画ですよね。その結果導き出されたのが『国難に対しては政治は頼りにならないから、民間でがんばろう!』というのでは、『シン・ゴジラ』以上に楽天的な印象があります」

 自民党代議士 「いや、『自助を基本とし、共助・公助が補う安心の社会づくり』の反映だと思えば納得できるのではないかね?」

 体操選手 「あれだけの目に遭いつつ五体満足なヒロインのタフネスぶりには賞賛を惜しみません」

 マタンゴ人間 「ラスト、ヒロインが包帯を解いたらじつはすでに……という展開にしてほしかったです」

 未見の女 「あのー、結局この映画は面白いんですか、つまらないんですか。観た方がいいの?」

 小美人 「ゴジララドンも『俺たちの知ったことか、勝手にしやがれ』と言っています」

 映画ファン 「これでゴジラ映画の次回作がまた一段とハードルが上がったことは間違いないですね。円熟期を迎えた山崎監督にはそろそろオリジナル企画の特撮映画を期待したいところです」

 

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ロジャー・ウォーターズのソロアルバムとして甦った『狂気』〜『ダークサイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』

Roger Waters - Speak To Me / Breathe (Official Lyric Video, DSOTM REDUX) - YouTube

 

 今年はピンク・フロイドの代表作である『狂気』こと“THE DARK SIDE OF THE MOON”(1973)の発売50周年。発売◯周年のたびに新たなBOXセットを買わされるファンとしては、今年は何が飛び出すのかと戦々恐々としていたところ、なんとロジャー・ウォーターズによる新録音版『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』なんてものが登場した。そう来たか!

 すでに昨年、新アレンジ版の「コンフォタブリー・ナム2022」を聴いていたし、「マネー」や「タイム」など何曲かがYouTubeで先行公開されていたので、アレンジの方向性はおおよそ理解したつもりでいた。が、改めて全編通して聴くと、唸りましたね。ピンク・フロイドのキャリアどころかロック史に残る奇跡の完成度を誇るオリジナル版の『狂気』が、コンセプトはそのままに完全にロジャー・ウォーターズのソロアルバムとして生まれ変わっていたからだ。

 オリジナル版の『狂気』は、誰もが人生に抱く不安や疑問を色彩豊かに描いた音の大迷宮。そのわかりやすさと彩り豊かな曲調が、あれだけの大ヒットにつながったのだろう。しかし『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』はロジャー個人の内省を追ってどこまでも意識下に沈んでゆく地獄巡り。これは例え話ではなく、ロジャーの狙いとしてもあきらかなのね。冒頭の『スピーク・トゥ・ミー』で聴こえてくるロジャーの独白、なんとピンク・フロイド『雲の影』の一曲「フリー・フォア」の歌詞(年老いた男が思い出すのは、若かりし頃のふるまい〜で始まる)なのですよ。「フリー・フォア」はロジャーが初めて戦死した父について触れた歌であり、その後の「マネー」や「アス・アンド・ゼム」の助走となった曲。29歳で仕上げたアルバムへの、79歳からのアプローチとして、この上なく周到な仕掛けが施されている。

 

 今回の『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』は、ロジャーのソロ作品を『ヒッチハイクの賛否両論』、『RADIO K.A.O.S』、『死滅遊戯』、『イズ・ディス・ザ・ライフ・ウィ・リアリー・ウォント』と聴き続けた者ならば、すんなり5枚目のロジャー音響劇場として受け止めることができるだろう。2014年発売のライブ盤兼映像作品『ロジャー・ウォーターズ ザ・ウォール』がピンク・フロイド版『ザ・ウォール』の私家版として35年ぶりに「完成」させたものだったように、今回の私家版『狂気』は、迫りつつある「死」をコンセプトに、混沌収まらぬ21世紀を前にしての、偏屈老人ロジャーの慨嘆が堂々たる説得力で迫ってくる。

 一方で、過去のロジャーのソロを受け付けなかった人にはかなりの忍耐を要することは間違いない。ここにはギルモアのギターソロも、リックの押しっぱなしのキーボードも、ニックのタムタムも、クレア・トリーのスキャットも、ディック・パリーのサックスもなく、ぶつぶつと呪文のように呟かれるロジャーのボーカルがスモッグのように全編を覆い尽くしているのだから。例によって新規挿入の歌詞にはギー・ラリベルテシルク・ドゥ・ソレイユの創設者)だのアティカス・フィンチ(『アラバマ物語』の主人公)だの、英語圏の人でなければ馴染みのない人名がぽんぽん飛び出すし、「虚空のスキャット」でスキャット代わりに語られる、晩年の友人であるドナルド・ホール(詩人・作家。日本でも『死ぬより老いるのが心配だ〜80を過ぎた詩人のエッセイ』がベストセラーになった)への追悼の言葉など、「知らんがな!」と言いたくなるほど私小説的な内容でもある。

  だが、オリジナルを凌駕しようとも若者にウケようなどとも一切考えず、ただただ現在の心境を自らの最高傑作に乗せてくる素直さ、ストリングスをはじめ、テルミンやハミングなど様々な音色を駆使しつつひたすら抑えた曲調に構築されてゆく、社会への「静かな怒り」は、後半部に行くほど切迫さを増してゆく。まさに、コンセプトメーカーにして全曲の作詞者でなければ許されない挑戦だ。

 それにしても『狂人は心に』の直前の一言には笑ってしまったし、あまりにも有名なオリジナル版のラストの一言を発したスタジオのドアマン、Gerry O’Driscollに向けた50年ぶりの返答にはニンマリさせられた。決して深刻一辺倒でもありません。

 

 今日、ロジャーはロンドンで『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』ライブ版を披露する予定だが、その二日前、ガザ地区ハマスによる大規模テロをきっかけに、イスラエルが報復攻撃を開始した。この十数年、熱心なパレスチナ支援者としても知られるロジャーがどんな声明を発表するか、そこを期待して会場に足を運ぶ者も多いだろう。

 動きを見せるだけで騒ぎの方がついてくる、“ヤバいロッカー”であり続けるロジャー。この男が好々爺に落ち着くことはないだろう。そんな確信を与えてくれる新譜である。

初夏愚忙日記〜原始神母・シベリア少女鉄道・吉田喜重

×月×日

 

 日比谷野外音楽堂にて、原始神母のライブを聴く。

 今回は前半が「ピンク・フロイド/ライブ・アット・ポンペイ」の再現、後半は今年50周年を迎える「狂気」の全曲演奏。夏の黄昏時から夕闇に変わる頃合いに響くピンク・フロイド音楽は最高のかけ合わせ。「ライブ・アット・ポンペイ」はエイドリアン・メイベン監督による、ポンペイ遺跡での無人コンサートフィルム通りに曲が進むが、フィルム通りのアレンジ再現にこだわったかと思えば、このバンドらしい遊び心を加えてきたりで油断ならない。問題は途中の一曲「マドモアゼル・ノブス(アルバム『おせっかい』では「シーマスのブルース」)」で、リックが犬にマイクを向けて吠え声をSEとして使用していたのだが、あれはどうするのかと思ったところ、今回は「グリーン・イズ・ザ・カラー」と「シンバライン」のメドレーに差し替えだった。確か以前にこの曲をやった時は誰かが犬の声を担当した記憶があるので、そこも再現してほしかったなぁ。

 後半の「狂気」はもはや安定のクオリティ。2012年の旗揚げ公演を汐留ブルームードで見ているのだが、まさかあんな趣味的な集まりが野音を満員にするバンドに成長するとは思わなかった。

 初期曲で統一するのかと思いきや、アンコールは「あなたがここにいてほしい」で、昨年急逝したコーラスの一人、ラブリー・レイナへの想いが伝わった。さらにセット背後に隠していたミラーボールが登場して「コンフォタブリー・ナム」、最後は定番の「ナイルの歌」。年末には一般参加のコーラスを集って「原子心母」を吹奏楽つきでやるという。「第九」かよ!

 それにしても今年はロンドンのロジャー・ウォーターズ“This Is Not A Drill”でピンク・フロイドの現在進行形を、野音の原始神母で往年のピンク・フロイドへの熱いオマージュを、存分に堪能できた特別な年となった。

×月×日

 

 再来年の閉館が決まった俳優座劇場で、シベリア少女鉄道の新作「当然の結末」(作・演出 土屋亮一)を観る。

 開幕直前にアナウンスがあり、少し前に出演者が数名降板したと告げられる。冒頭にも土屋氏が挨拶に登場し、事情を説明した上でスタートするのだが、内容的にはごく普通のリビングを舞台にした二組のカップルの恋愛模様。今回は坂本裕二ドラマあたりを意識しているのかな? と思いつつ観ていると、唐突に吸血鬼やら蛇女やらサメの怪物やらが「役を演じながら」登場する。どうやら降板した役者の代わりに急遽かき集められた代役が彼ららしい。

 とんだ七色いんこが揃ったものだが、そんな連中を交えながら神妙にドラマが進んでゆくのが可笑しい。とはいえ以前、この劇団は『今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事』(2001、2018再演)で、壮大化する劇世界に対し、さまざまな代替品を駆使して強引に「見立て」で乗り切る演出をギャグにして見せたことがあり、その時の「演劇のお約束」に対するパロディ精神に比べると、今回は最初から仮装したキャラクターが「代役」を演じつつ登場するだけなので、劇構造の破綻感は薄い。

 その辺の弱さは作り手も感じたようで、後半、さらに「リビングで展開する男女のドラマ」と「必殺技を連呼するバトルもの」がなぜかシンクロしてゆくという大胆な展開になるのだが、トリックとしての爽快度は今ひとつ。しかし、バカバカしい展開を照れることなく必死に演じる姿はあいかわらずキュートで、若い観客にはウケていた。未だに「文学性」がまといつくことを拒否し、「90分かけて演じるコント」であり続けようと苦心している土屋氏の姿には、20年に渡って観ているファンとしては頼もしく思うのだ。

×月×日

 

 だいぶ忙しくなってきたので、なかなか映画館に行けないのだが、シネマヴェーラ吉田喜重追悼特集では、未見だった2本の作品、『知の開放 知の冒険 知の祝祭~東京大学 学問の過去・現在・未来』(1997)と『夢のシネマ 東京の夢~明治の日本を映像に記録したエトランジェ ガブリエル・ヴェール』(1995)を観られた。

『知の開放 知の冒険 知の祝祭』は、東京大学創立120周年を記念して制作されたPRビデオ。夏目漱石の『三四郎』の主人公が、現代の東大を訪問するというコンセプトだけ知っていたが、なるほど明治の漱石が直面した苦悩を追いながら、現代の東大を“見返す”という吉田喜重らしい試み。再現パートでセリフとして発せられるのは、美彌子がつぶやく「ストレイシープ」のひと言のみ、というのも巧い。漱石の神経衰弱とは、西洋の近代思想との葛藤の結果だったのか……? と、三四郎が作者の「脳」をじっと見つめるラストまで、ぼやけたビデオ映像を忘れて楽しく見られた。唯一、蓮實重彦のコメントは要らなかった気がするが、PR映画なだけに企画プロデューサーである学長挨拶は必須だったのかもしれん。

 もう一本、『夢のシネマ 東京の夢』は、リュミエール兄弟に派遣され、明治期のメキシコを撮影した後、日本を訪問。京都から北海道はアイヌの人々まで撮影し、フランス帰国後にモロッコへ渡ったカメラマン、ガブリエル・ヴェール(1871〜1936)の物語。吉田は彼の撮った映像・写真を見返しながら、ヴェールがある顔を伏せたインディオの女性が、カメラに顔を向けるよう白人男性に首を引っぱられた直後に撮影を止めたことを見逃さない。

 そして、ヴェールがメキシコで実際の処刑場面を撮影したのち、観衆の非難を受けてフィルムを破棄したエピソードにも注目する。つまり、ヴェールは映像の持つ本質的な暴力性・権力性を意識し、その限界を感じ取った男なのではないか、と考察してゆくのだが、吉田が『鏡の女たち』(2003)公開時のインタヴューで、広島の原爆投下の瞬間を描かなかったことについて、

本当に人間が死んでゆく瞬間の映像には、人間は耐えられないのです。耐えられないということは、それが映像の描くことのできない残余であることを示しているのです。映画には映すことのできないものがある、そのことから映画を見直す、見返す必要がある、私にとってはこうした表象不能の原点が、広島でした。

 と、語っていたことを思い出した。ガブリエル・ヴェールのフィルムを仔細に考察したことで、その思いは強固になったに違いない。

 スタンリー・キューブリックが『アーリアン・ペーパーズ』を断念したのも、同じ理由かもしれない、ということは以前ブログに書いた。

ロジャー・ウォーターズ「This Is Not A Drill」ツアー観賞記〜6/6@O2アリーナ

公式サイト 2023 European tour - Roger Waters

 

ピンク・フロイドの黄金期クリエイター”ことロジャー・ウォーターズのツアー「This Is Not A Drill」を6月6日、ロンドンはO2アリーナで観てきました。今回はそのライブレポートです。

 前回の「US +THEM」ツアー(2017)のレポートについては、過去記事を参照ください。 

「US +THEM」ツアーが終わったのが2018年。映像版も製作され、ロジャーはこれでライブ活動からは引退するのではないか……という予感がよぎったのだけど、いやいや世界情勢がこの男を黙らせてはいなかった。

 新ツアー「This Is Not A Drill(これは訓練ではない)」は 2020年7月からスタートと発表されましたが、それは11月のアメリカ大統領選における反トランプキャンペーンを意図してのもの。しかし新型コロナウイルス流行による公演延期とトランプの大統領選敗北、さらにロシア・ウクライナ紛争の勃発を経て、2022年10月の北米公演からようやくスタートを切ったこのツアーには“First Ever Farewell Tour”の副題がついてます。え、「最初のお別れツアー? 2度目があるの?」とビックリしますが(フィル・コリンズも確か2004年ツアーの時にそんなこと書いてあったけどその後も何度もツアーやったよな)、さすがに今年9月で80歳となるロジャー、今度こそパフォーマンス・アーティストとしての幕引きを意識しているのかもしれません。

 そして実際、今回のツアーは演奏内容においてもステージ表現においてもキャリアの到達点といえる「US +THEM」の張りつめた完成度とは異なり、ちょっとタガをゆるめて、よりおおらかに、よりシンプルに自らの“人生”を総括する構成にも見えました。

会場のO2アリーナ(「ワールド・イズ・ノット・イナフ」のOPでボンドが落ちた建物)

 受付開始時間は18:30。会場のO2アリーナに着けばすでに長蛇の列ができています。列の傍らにはイスラエルの国旗を掲げ、“Hey,Roger! Leave those jews alone!”とシュプレヒコールを挙げるユダヤ人団体がおり、その一方で「ジュリアン・アサンジウィキリークス創始者・現在ロンドン刑務所に収監中)に自由を!」と書かれたチラシを次々押し付ける活動家女性もいて、ロジャーのコンサートとは実に「政治的」なイベントであることを改めて思い知らされます。

イスラエルの旗を掲げる抗議団体

 荷物チェックがまた厳しかった! 6年前のN.Y.公演でも麻薬の持ち込みに注意している他、大きな荷物はクロークにいったん預ける必要があったのですが、ここではまず「A4サイズ以上の荷物は持込禁止」の看板が出ており、手荷物検査を経た上で会場外の保管所に預けなければいけませんでした。しかも預かり賃10ポンド(高い!)。ようやくチケットをスマホで表示して中に入ろうとするとここでもボディチェックがあり、カメラの持ち込みは禁止とのことでこれまた預けなくてはいけません(スマホはOK)。N.Y.では普通に持ち込めたのに。ショックを受けてスタッフに食ってかかっているブロガーらしき人もいました。

 まあ、5/28のフランクフルト公演では、会場に忍び込んだユダヤ人団体が公演中にイスラエル国旗を掲げ、一人がステージによじ登ったという事件があったばかり、ピリピリするのもわからなくはないですね。実際、この翌日の公演では、やはりイスラエル国旗を引き出して警備員に取り押さえられた人が出たそうだし、マンチェスター公演では逆にパレスチナ支援団体が会場前に出現、ロジャー熱烈支持のシュプレヒコールを上げ、イスラエル支持団体と睨み合いになったそう。

熱気あふるる会場内部

 いろいろあった末に辿り着いた席は1Fスタンド最後列。おおっ、ステージがけっこう近い! 奮発した甲斐がありました。時刻はすでに19時45分。周囲は依然、大根雑なのでウロウロせずに大人しく席で待つことに。

 目の前には十字型のステージにそびえ立つ巨大な「壁」。開演15分前になると、この壁に字幕で「『私、ピンク・フロイドの音楽は大好きだけど、ロジャーの政治姿勢にはムカつくんだよね〜』という方は、さっさと会場を出てバーにでも行っちまってください」と出るのがこのツアーのお決まりなのですが、今回はこれに加えて「フランクフルトで悲しいトラブルがありました。公演中に私がファシストの仮装をするのは諷刺でありナチズムへの批判です。1980年の『ザ・ウォール』公演から長く採用している演出で、反ユダヤの意図はありません。私の両親は大戦中ナチスと戦った世代です」といった内容の注意書きが追加されています。もちろんロンドンっ子たちは「んなこたぁ、わかってるよ!」という雰囲気で軽く笑い飛ばします。

「コンフォタブリー・ナム2022」

 

 20時10分、客電が落ちて十字型の「壁」に、戦禍を思わせるビルの廃墟の映像が映し出されます。そして、ゆっくり聴こえてくるのが「コンフォタブリー・ナム2022」。ギルモアのギターソロを外し、女性コーラスと雷鳴のSEを加え、ダークな雰囲気が増したアレンジで素晴らしい完成度。前回まではライブの大トリの一曲として演奏した定番曲をあえてオープニングに持ってきたのは、社会の現状を前に“心地よく麻痺してていいのか? 快楽に閉じこもって世の中に対して鈍感になってはいないか?”という問いかけからスタートしたい、という意図が感じられます。

ロジャー・ウォーターズ登場!

 曲が終わると同時に、ステージ上の「壁」が音もなく上昇、見晴らしが良くなると聞こえてくるのは、「バラバラバラ……」とヘリコプターのSE。

“You! Yes,You! Stand still laddie.”

 の叫び声と共に、ロジャー・ウォーターズ登場。「ザ・ハピエスト・デイズ・オブ・アワ・ライブズ」から、「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォールPart2」「同Part3」のメドレーです。

 79歳のロジャー御大、1Fステージから間近に見ると、相変わらず巨大でエネルギーに満ちあふれています。このメドレーは2010年の『ザ・ウォール』ツアーや2017年の『US +THEM』ツアーでは、公演地の子供たちと共演して歌ったものですが、今回はそうしたイベント的演出はせず、オープニング・アクトとして「権力者の思想コントロールを拒否せよ!」という今回のテーマを強烈に打ち出します。

歴代アメリカ大統領が「戦争犯罪者」として糾弾される

 続けざまに演奏されるのはソロアルバムから「予知能力」「勇気ある撤退」のふたつ。『RADIO.K.A.O.S.』(1987)の一曲である「予知能力(Power That Be)」は、核競争に狂奔する政治家たちのパワーゲームを批判した内容で、これを暴力装置と化した警察機構が民衆に暴行するスタイリッシュなアニメと共に演奏されます。

『死滅遊戯』(1992)の一曲である「勇気ある撤退(The Bravery of Being out of Range)」は、老いた戦争指導者が指揮する戦争を大衆が娯楽として愉しむ姿を風刺する歌。映像では「戦争犯罪者」としてレーガングアテマラ攻撃・ニカラグア事件)、ブッシュ(死のハイウェイ事件)、クリントンイラク制裁)、ブッシュJr.(大量破壊兵器の嘘からイラク戦争)、オバマ(ドローン兵器採用)、トランプ(オバマ政策を継続)、バイデン(今、やってるとこ)とアメリカ大統領が次々映し出されてゆくのが強力です。

ロジャーのMCコーナー

 終わってロジャーがマイクを持ってMC。「いやー、最近はこんなメッセージがSNSで届くんだよ〜」と若者から届いた自分をナチス支持と誤解したメッセージを紹介。ベルリン公演ではイスラエル支持派の謀略で警察から調査を受けるハメになり、自分がファシストであるかのように報道されたトラブルに触れ、「んなわけあるか〜い!」とツッコむ内容ですが……な、長い! 10分あまり続いたので、途中から話の内容がよく聞き取れませんでした。しかし「イギリスの前労働党党首ジェレミー・コービンも『反ユダヤ』の言いがかりをつけられ辞任させられたんだ。あいつらのやり方、許せん!」と怒りを表明、観客から喝采が起こっていたのは覚えています。

 ほぼファンミーティング状態のMCを終えたロジャーがおもむろにピアノに向き直り、静かに弾き語るのが新曲「Bar」。酒場に集まる傷ついた人々、後悔を背負った人々に寄り添ううちに、思いはダコタ・アクセス・パイプラインに抗議するアメリカ先住民やオーストラリアのアボリジニ、そして生後三ヶ月の時に父を戦争で失ったロジャーが兄と過ごした幼少期の記憶へ移ってゆく。バンドメンバーたちがピアノを囲んで静かメロディを合わせてゆく様子にもしみじみさせられます。

ピンク・フロイド初代リーダー、シド・バレットが大写しになる

 個人の記憶に還ったタイミングで、ここからピンク・フロイド『炎〜あなたがここにいてほしい』B面メドレーが展開します。まず「葉巻はいかが」では、シド・バレット在籍時の「アーノルド・レーン」から「ようこそマシーンへ」や『ザ・ウォール』ライブで使用したアニメーションをモンタージュした映像が流れ、フロイドの歴史を総括、さらに字幕でシド・バレットとの友情の始まりとバンド結成の思い出を語ると「あなたがここにいてほしい」へ。さらにシドに変調を感じるようになった哀しい記憶が字幕に映ると、クレイジー・ダイヤモンドPartⅣ〜Ⅶ」へ。これらの曲について、ロジャーはこれまで「シド個人について歌った曲ではない」と解説しているし、前回「US +THEM」ツアーでも「不在の人」に向けた曲というコンセプトを強調していたのですが、今回はシドへの思い入れをたっぷりと聴かせ、ファンもみんなで合唱します。

会場を飛ぶ「羊」

 しかし、シドの呪縛を相対化したロジャーは、オーウェルの『動物農場』や『1984年』、ハクスリー『すばらしき新世界』を読むことでピンク・フロイドを新たなバンドに生まれ変わらせました。その代表曲として前半部しめくくりに演奏されるのが『アニマルズ』の「シープ」。従順な羊であることをやめ、権力に抵抗せよ、とのメッセージを改めて訴えます。

 演奏中に巨大な羊の風船が登場、ゆっくりと会場を一周しながらくるりと一回転して見せます。この風船は一種の小型飛行船で、ドローン技術で操縦しているようですね。スクリーンに展開するアニメも凝っており、空手を学ぶ羊の群舞は圧巻でした。

空手を学ぶ羊たち

 最後にスクリーンに大きく「RESIST(抵抗せよ)」の文字が大写になるのは前回と同じ。ここで20分の休憩に入ります。

ヘイトスピーチをぶちかますロジャー総統

 後半戦は、観客の掛け声のSEが高まってくると同時に客電が落ち、バ・バーン! と「イン・ザ・フレッシュ」がスタート。ハンマーのマークがスクリーンを覆い、ファシスト風のコスプレをしたロジャー総統がヘイトスピーチをぶちかまします。クライマックスは宙に向けての機関銃の撃ちまくり。いくらユダヤ団体から抗議を受けてもこの演出はやめません。むしろ「ネトウヨ」や「Qアノン」に代表される“差別的な盲信者”が増えるほどにこの曲はアクチュアリティを増してゆくようです。

おなじみハンマーの行進

 続けざまに「ラン・ライク・ヘル」へとつながり、トランプ的ファシズムが幅を効かせる世界をノリノリのロックンロールで表現。おなじみのハンマーの行進が映し出され、目を光らせた巨大なブタが浮き上がって会場をゆっくり一周するところまで定番の演出です。

 今回のブタさんには「Fuck The Poor(貧乏人なんぞクソだ)」「Steal From The Poor Give to The Rich(貧乏人から盗み、金持ちに与えよ)」と大書されているのにご注目。

会場を舞う「豚」

 10年ほど前にあるチャリティ団体が、ロンドンの路上で男性に「Fuck The Poor」と書いた看板を掲げさせる実験をしました。道ゆく人からは「なんでそんなひどいことを言うんだ?」、「貧しい人には支援が必要でしょ?」と抗議され、意識高い人が多いな……と思わされるのですが、数時間後に同じ男性が「Help The Poor(貧困者に支援を)」と看板を掲げて募金箱を持つと、道ゆく人々は誰も立ち止まらずに通り過ぎていく、というもの。つまり「貧しい人を助けよう」と正しく主張しても関心を得られないが、侮辱的な態度を取ると、「それは間違ってる!」と人々は声を上げる気になる。つまり、ほとんどの大衆は実際に募金をしなくても、支援の必要性を理解はしているわけで、では実際の支援への一歩をどう進めればいいのか? という問題提起です。

 ロジャー・ウォーターズのコンサートも、これを同じ「問題提起」のパフォーマンスなんですね。だから露悪的な歌詞を使い、ファシストの仮装もする。音楽の力で観衆を心地よく陶酔させることだけが目的の産業ロックバンドやトリビュートバンドとのいちばんの違いはそこでしょう。

「Fuck The Poor?」のチャリティー広告

 

 さて「ラン・ライク・ヘル」の終わりに映し出されたのは、2007年に米軍の軍用ヘリがバグダッドの住民を攻撃する映像です。「クソッたれ、誰が彼らを殺したんだ? なぜこんなことが起こる?」、「この映像はどこから来たって?」、「勇気ある米軍の元兵士チェルシー・マニングがリークした」、「同じぐらい勇気ある出版人・ジュリアン・アサンジ」、「ジュリアン・アサンジに自由を!」との字幕から、始まるのは2017年の最新ソロアルバム『イズ・ディス・ザ・ライフ・ウィ・リアリー・ウォント?』の反戦バラード「デジャ・ヴ」。さらに新譜のタイトル曲「イズ・ディス・ザ・ライフ・ウィ・リアリー・ウォント?」へと続き、ロジャーはピアノを弾きながらぶつぶつと世界への呪詛のように歌い上げ、歌詞を表現したアニメーションがスクリーンに展開してゆきます。「恐怖」が人の心を支配したことで未だに紛争・差別・格差問題が終わらぬ世界に対する焼け跡世代の嘆き。改めて聞くとこの曲、昭和精吾が寺山修司の詩をJ・A・シーザーの曲をバックに歌い上げるパフォーマンス(「アメリカ」や「人力飛行機のための演説草案」)を思い出しますね。

「マネー」を熱唱するジョナサン・ウィルソン

 動きが止まったステージに絶望感が充満したところで、おなじみ「マネー」のコインが落ちるSEが響き渡ります。ライティングもお金イメージの緑色となり、醜悪なブタが踊り狂いながら立ち小便するアニメがにぎやかに展開。ギターのジョナサン・ウィルソンがボーカルを取るのは前回のツアーと同じですが、今、最も多才なジャズ・プレイヤーの一人と注目されるシェーマス・ブレイクによる伸びのよいサックスが絶好調。紛争や経済危機の裏でほくそ笑む連中を景気よく笑い飛ばします。

ベースを弾くロジャー

 そこからアルバム『狂気』のB面通り、「アス・アンド・ゼム」「望みの色へ」と続きます。前曲から続いてジョナサン・ウィルソンのボーカルで静かに歌い上げつつ、映像では世界各地の紛争地の様子が。そこで被害に遭う人々の「顔」がカシャッとコレクションされ、画面を少しずつ覆ってゆくのが今回の特徴です。「望みの色へ」ではロジャー自身がベースを弾くので、暇になったベースのガス・セイファートとサックスのシェーマス・ブレイクがタンバリンでリズムを取るのが可愛らしい。

ガス・セイファート(ベース)とシェーマス・ブレイク(サックス)

 そして「狂人は心に」「狂気日食」のメドレーで『狂気』終盤部へ。戦争犠牲者の「顔」が収集された映像に、さらにいろんな人種・性別・年齢の人々の「顔」が現れ、画面を埋め尽くしてゆきます。曲の最終部になると、十字のスクリーンをレーザーライトが描く三角形のプリズムがくくり、七色の波動が画面上を波打ちます。そうする間にも人々の「顔」は増え続け、「ぼくは君を月の裏側(狂気の世界)で見つけるだろう」の歌詞に呼応するように、戦争によって奪われる「顔」が七色のモザイクとなってモニターを埋めつくしてゆくのです。

「狂気日食」で三角形プリズムに囲われる「顔」たち

 会場は拍手、歓声で大盛り上がり。笑顔のロジャーは軽く挨拶するとアコギに持ち替え、最後の一曲をスタートします。聴こえてきたのはなんとロジャー在籍時のフロイド最後のアルバム『ファイナル・カット』の最終曲「トゥー・サンズ・イン・ザ・サンセット」

 正直、この曲をエンディングに聞かされて喜ぶフロイドファンがどれだけいるかは疑問ですが、ロジャーにとってはピンク・フロイドのラスト・ソングであり、ロシアの核使用の危機が高まる今、まさに歌っておくべきものなんですね。

「トゥー・サンズ・イン・ザ・サンセット」のアニメ

 映像のアニメがまた上出来で、歌詞の内容である「車で走っていたら背後にもう一つの夕日が出現した。よく見たらそれは核爆発の閃光だった」という物語をグラフィックに表現、核爆発ですべてが塵となってけし飛んでゆく過程を細密に描き切り、「敵も味方も灰になってしまえばみんな平等なんだ」というメッセージを堂々と見せつけます。

 演奏が終わり、バンドメンバーとピアノ上の酒で乾杯するロジャー。ここからまた最後の長〜いMCが入りますが、くだけた英語なのでほとんど聞き取れない……。が、最後に「もう一度、2年前に亡くなった兄・ジョンに捧げる歌をやります」とピアノに向き直り、新曲「The Bar」の兄の記憶についての部分を改めて弾き語り。メンバーもめいめい楽器を取って、メロディに合わせて行きます。

「The Bar」が終わりに向かうとシームレスに「アウトサイド・ザ・ウォールのメロディへと移って行きます。アルバム『ザ・ウォール』の最後の曲。ロジャーは立ち上がってメンバーを先導。それぞれの名前を紹介しながらステージを一周し、退場してゆきます。楽屋口に入ったロジャー一行がスクリーンに大映しになって幕。

エンディングのロジャーとバンド一行

 前回の「US +THEM」の時のようなしつこいほどの“連帯”のメッセージ性は一歩後退し、「This Is Not A Drill」はより内省的な、ロジャー・ウォーターズの自伝を観賞しているようなショーでした。ドナルド・トランプという明確な悪役がいた前回と異なり、各地での紛争問題が絶えない現状についての憂いと絶望、そんな時代への平和の希求を、自らの音楽史を俯瞰しながら訴える。まさに「ロジャー・ウォーターズの遺言」とでもいうべきステージだったのです。

 

 さて、2006年以降パレスチナ支援運動に関わるようになり、BDS(イスラエル・ボイコット)運動を支持するロジャーに対し、ユダヤ人コミュニティからの批判がくり広げられているのは相変わらずですが、今回のツアーでさらなる盛り上がりを見せているのは、昨年始まったロシア・ウクライナ紛争について、ロジャーが一貫して「これは西側諸国の対東欧政策の失敗である」と主張し、邪悪なロシアVS善玉のウクライナというイメージ操作に対する批判を繰り返しているため、西側メディアからプーチン擁護者というレッテルが貼られているからですね。この機に乗じて彼のイスラエル批判も封じてしまいたい、という意図が見え見えのパフォーマンスなのに、そんなことも読み取れずにロジャーへの「失望」を表明するウカツな左派が日本でもずいぶん見受けられました。

 ロジャーの「ロシア・ウクライナ問題の責任はむしろアメリカにある」という認識はシカゴ大のジョン・ミアシャイマー教授の主張をベースとしたものでしょう(エマニュエル・トッドノーム・チョムスキーらも支持している)。私なんかは世代的にNATOコソボ紛争を理由にセルビア空爆を行った際、ドイツの作家ペーター・ハントケがほぼ唯一人NATOを批判し、スーザン・ソンタグサルマン・ラシュディらリベラル派の西側知識人から袋叩きにされた一件を思い出します。ハントケ同様、若い頃から常に「反抗的」だったロジャーは、欧米の動きの背後に必ず軍需産業が張りついていることを見逃さず、くり返し音楽で批判してきました。西側資本が演出する広告宣伝が世論を誘導し、爆弾とミサイルがそれを実現する。ユーゴやイラクで起こったことが、今またウクライナで起こっている。それが世界の日常であり、日常を支配するのは政治である。政治に対し音楽で何ができるのか? ロジャー・ウォーターズはずっとそれを考え続けたアーティストです。

 もちろんロジャーのファンが全員彼の政治思想を支持するわけでもありません。欧米への苛烈な批判者であるロジャーは逆にシリアのアサドやベネズエラマドゥロといった独裁者たちへの評価が甘い傾向があり、彼はよく作品で難民問題を取り上げますが、その原因となる独裁者に批判の目が向けられないのは矛盾しているのではないか、という批判を常に突きつけられています。

 これは、戦没兵士の息子であるロジャーにとっては「戦争によって人命を奪う政治家」こそが最大悪だからなんですね。なので、「例え中国が台湾に侵攻したとしても、台湾を国として認めている先進国が皆無である以上、それは中国の内政問題に過ぎず、アメリカの軍事介入など絶対に認められない」というのがロジャーの主張ですが、専守防衛の日本であっても、これを支持できる人は今や少数派でしょう。当然、「それじゃ侵略やったもん勝ちになりゃせん?」という疑問が浮かぶはず。この先にあるのは「正義の戦争」と「不正義の平和」のどちらがマシか、という議論です。

 しかし、中国・台湾問題に関していえば重要なのは「まだ起こってはいない」ということですね。なので「中露の危険が迫っているんじゃあー、改憲待ったなし!」と叫ぶ扇動者に乗せられることなく、最悪の事態を避けるにはどうすればいいのか。それを誰もがじっくり、さまざまな情報を得て思考し続けることが必要なのです。“This Is Not A Drill(これは訓練ではない)”という気持ちで。

 これこそがロジャー・ウォーターズの、ひいてはピンク・フロイドの遺言なのかもしれません。

「クレイジー・ダイアモンド」を歌うロジャー

 さて、この「This Is Not A Drill」ツアーは11月に南米ツアーが組まれていますが、その後はオセアニアに行くのか、アジアツアーはあるのか、今のところまったく不明。

 ロジャーはアルバム『狂気』の50周年である今年、完全に自分でアレンジし直したニュー・バージョンの製作を行ったことを発表しており、今年中にリリースされることと思われます。その後の活動はどうなるのか? 本当にツアーから引退してしまうのか? 新作アルバムはもう作られないのか? 

 ともあれ、80を超えてもロジャーが尖った問題児であり続けることは間違いなさそうです。

 

Set 1

1.Comfortably Numb 2022

2.The Happiest Days of Our Lives

3.Another Brick in the wall Parts2

4.Another Brick in the wall Parts3

5.The Powers That Be

6.The Bravery of Being out of Range

7.Roger MC

8.The Bar Part 1

9.Have a Cigar

10.Wish You Were Here

11.Shine On You Crazy Dimond Parts Ⅵ~Ⅸ

12.Sheep

 

Set 2

13.In The Flesh

14.Run Like Hell

15.Déjà Vu

16.Is This The Life we Really Want?

17.Money

18.Us and Them

19.Any Colour you Like

20.Brain Damage

21.Eclipse

22.Two Suns in the Sunset

23.Roger MC

24.The Bar Part 2

25.Outside the Wall