星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

コメディアンたちとの再会〜小林信彦『決定版 世界の喜劇人』

 小林信彦『決定版・世界の喜劇人』が出版された。

 もともと香港映画のホイ兄弟から入ったコメディ好きではあったけど、いわゆるクラシック喜劇に目覚めたのは、中学生の時に実家の書庫で発見した『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』がきっかけだ。そこからどうやって新潮文庫版の『世界の喜劇人』を発見したのかはよく思い出せない。とはいえ、隣町の本屋で購入したそれが、小林信彦およびマルクス兄弟とのファースト・コンタクトだった。つまり私はスクリーンやテレビ放送ではなく、「文献資料」から喜劇人を認識した世代なんですね。

 しかし幸運なことに、時代はレンタルビデオ全盛期。ど田舎でも『我輩はカモである』や『マルクス兄弟デパート騒動』に加え、『キートンの大列車追跡』に『キートンの蒸気船』、『ロイドの牛乳屋』、さらには『ダニー・ケイの天国と地獄』や『ル・ミリオン』(ルネ・クレールですよ)といった作品はすぐさま観られたし、テレビをつければ深夜映画や午後の洋画劇場で往年の喜劇映画を放送する文化が残っていた。ボブ・ホープディーン・マーティン&ジェリー・ルイスウディ・アレンの初期作品などを「答え合わせ」のごとくチェックすることもできたのだ。

 上京してからはあちこちのマニアックなレンタルビデオに遠出してはマルクス兄弟アボットコステロのビデオを探して回り(当時は『キートンの月ロケット』なんてメキシコ映画までソフトになっていた)、アテネ・フランセ文化センターの「バスター・キートン特集」にせっせと通った。これで海外からのフィルム収集の世界に踏み込んでいれば完全にKERAの青春時代とダブってしまうところだが、インターネットの時代が始まり、さまざまな情報入手が容易になったおかげで「笑い」の方向性も多様化したせいか、クラシック喜劇ばかりにのめり込んでいるわけにもいかなくなった。また、それぞれの喜劇人に対する小林御大との評価のズレを感じるようになってきたのも大きい。

 しかし1970年前後にニューヨークやヨーロッパのシネマテークを回って旧作喜劇の観賞を行った小林信彦の努力と啓蒙活動については、21世紀に今になるほど感服するばかりである。

 

 今回復刊した「決定版」は、前半部が新潮文庫版『世界の喜劇人』の復刻で、1960年初頭に書かれた「喜劇映画の衰退」を中心にスラップスティック・コメディが中心に語られ、後半部が「『世界の喜劇人』その後」と題して、『アニー・ホール』以後のウディ・アレンや、ビリー・ワイルダープレストン・スタージェスなどのソフィスティケイテッド・コメディ、80年代以降に登場したスティーブ・マーティンジム・キャリーなどについて書かれたエッセイやコラムを集めたパートになる。喜劇映画ファンには嬉しい編集だが、ここまでするなら「マンハッタンに赤潮が来た夜~マルクス兄弟の方へ」や「リチャード・レスターの新しさ」、「サイレント喜劇の系譜を辿ろう」といった文章も収録してほしかったなぁ。まぁ、厚くなりすぎるし、やたらに増やしても編集が混乱するのもわかるけど。

 再読して感じたのは、「サタデー・ナイト・ライブ」出身の芸人たちは取り上げているのに、モンティ・パイソン」への言及がないこと。やはりあの露悪的なブラックユーモアは江戸っ子には「粋」ではない、と思えたのだろうか。御大は『Mr.ビーン』も認めてないし。


 この出版を機にシネマヴェーラ渋谷で開催された「小林信彦セレクション/ザッツ・コメディアンズ・ワンス・モア!」にも何度か通って、珍しい作品の劇場上映に立ち会った。わけても嬉しいのは『進めオリンピック(Million Doller Legs)』(1932)が入っていたことで、ポーリン・ケール大絶賛という触れ込みのスポーツ喜劇、ようやく観賞できましたゾ。製作にハーマン・J・マンキウィッツ、原案がジョセフ・L・マンキウィッツの兄弟、監督はバスター・キートン短編時代の共作者エディ・クライン。

 1932年開催のロサンゼルス五輪を茶化した内容で、財政破綻を目前にした国にやってきたアメリカ人セールスマン(ジャック・オーキー)が、大統領はじめ異常な身体能力を持つ国民を五輪に出場させれば賞金は総取りだ、と思いつくというお話で、閣議に出席するなり閣僚全員を腕相撲でねじ伏せる大統領(W.C.フィールズ)とか、あちこちに出没する謎のスパイ(ベン・ターピン)がついには室内の「絵画」の中に入っているとか、追ってくる使者から逃れようと馬や車やボートを駆使してはるか遠くまで疾走するが、その先で使者が悠然と待っている、といった漫画的なギャグの鶴瓶打ち。これ、基本的にはマック・セネットが20年代に量産した狂騒的なドタバタのトーキー版で、サイレント時代のユーモアをいかにトーキーで再現するかの試みが興味深かった。

 ところが改めて『決定版・世界の喜劇人』に収録された「『進めオリンピック』のおかしな世界」を読み返すと、(2024年になってもう一度観たら、面白いのはベン・ターピンの謎のスパイのみだったが)なんて注釈が書き加えられていて吹き出した。いやいや、そこまで下方修正しなくてもよいのでは、と思ったけれども私ももう一度観たらどう思うかはわからない。

 

 そして4月8日には御年91歳の小林信彦トーク付き『モロッコへの道』(1942)の上映というイベントが。劇場に入ると、小林御大が新潮社スタッフらしき人と「ウチの父はドロシー・ラムーアのファンだったんですヨ……」などと会話している声が流れているので、客入れ音楽の代わりにトークを流すのか斬新だなと思いつつ聞き耳を立てていたところ、やがてそれはスピーカーの切り忘れだったと判明するというずっこけギャグがいきなり炸裂。

 別室からのリモート中継でスクリーンに現れた小林信彦、声は弱々しいが数年前の脳梗塞重篤だったとは思えないほどしっかりした様子で、『モロッコへの道』に出会った中学三年生の時の記憶を切々と語っていった。やはり娯楽映画の「お約束」を茶化したパロディ(危機があってもパラマウントと5年契約を結んだばかりだから大丈夫〜、と歌ったり、ミュージカルシーンでボブ・ホープビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアの歌声が入れ替わったり、などのギャグ)にびっくりして影響を受けた、とのことで、これがパロディスト小林信彦の出発点となったことを再確認。さらに、

「あの当時はなんでも略していたので『アラスカ珍道中』も『アラ珍』なんて呼んだもんです。公開一作目の『モロッコへの道』がもし珍道中シリーズで題名ついていたら、『モロ珍』でちょっとアブなくなっちゃう……」

 なんてギャグで客席を沸かせたのち、車椅子で場内に入場、『モロッコへの道』を観客と共に観賞していった。

『世界の喜劇人』の著者と珍道中シリーズを共に観られた感慨で、映画の面白さも三割増しになった気分。今回の上映で『モロッコへの道』と『アラスカ珍道中』を観た後、DVDでシリーズ全作を再見したが、今見て面白いのは『アラスカ〜』で、マシなのは『モロッコ〜』と『南米〜』ぐらい。しかし、その後の「オレたちひょうきん族」や「とんねるずのみなさんのおかげです」で多かったパロディコント、あの基本はだいたい珍道中シリーズにありますね。

 

平たく言やぁ、意地ってやつだ〜前田啓介『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』

 2024年は映画監督・岡本喜八(1924〜2005)の生誕100周年。

 ということで、年始に出版された前田啓介『おかしゅうて、やがて悲しき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』を読んだ。著者は1981年生まれの読売新聞記者だが、映画記者ではなく、文化部で近代史を担当しているという。すでに『辻正信の真実 失踪60年—伝説の作戦参謀の謎を追う』や『昭和の参謀』などの著作がある。

 

 これは岡本喜八の「評伝」ではない。なので、映画製作の話を期待して読むと肩透かしを食うだろう。本書のテーマは岡本喜八という個人を通して、「1924年生まれの戦中派の心情を探る」というもの。しかし、監督の作家性に興味のあるファンや、『独立紅蓮隊』シリーズに『日本のいちばん長い日』、『肉弾』などに感銘を受けたファン、さらに戦時中の日本に関心のある近代史マニアには、非常に興味深い一冊であることは間違いない。なんせ岡本監督学生時代の日記などという貴重資料が発掘され、そこには東京で青春を謳歌する喜八青年の姿や、黒澤明のデビュー作『姿三四郎』や小津安二郎『戸田家の兄妹』を観た感想などが記されているのだ。

 

 数多くの戦争映画を撮った岡本喜八だが、じつは実際の戦場に立った経験はない。強烈な戦争体験としてくり返し語ったのは、1944年に召集され陸軍工兵学校に入学した後、豊橋陸軍予備士官学校へと転属となった時のこと。1945年4月30日、学校に到着した彼らに米軍機が一発の爆弾を落としていった。喜八はこれを「生存者三人」の大惨事だったと書き、この時の経験が、生と死を紙一重で分ける戦争の現実として深く刻み込まれたとくり返し語るのだが、著者はまずこれを事実か否か、執拗に確認する。

 豊橋の空襲といえば6月19日の空襲が有名だが、この4月30日の事件はほとんど知られていない(豊橋出身で当時小学生の母に訊ねたが聞いたこともない、との返事)。この事件、本当に岡本喜八が記すような大惨事だったのか、同窓生の中には疑問を抱く者もいるという。はたして実際の被害規模は? 監督は証言を「盛った」のか?

 この疑問を皮切りに、喜八映画の「戦争観」に切り込んでゆく過程はなかなかにスリリング。そんな著者なので、『日本のいちばん長い日』で描かれる、8月15日未明の児玉飛行基地から日本のポツダム宣言受諾を知らされぬまま、神風特攻隊の青年たちが飛び立ってゆく場面の「史実」や、『激動の昭和史・沖縄決戦』に向けられた、「日本軍による沖縄人差別が希薄」という批判を無視しない。

 戦争映画における史実とその脚色例をチェックすると同時に、戦争体験を引きずった「戦中派」キャラクターへの監督の思い入れも読み解いてゆく。『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満、『にっぽん三銃士』の黒田忠吾、『近頃なぜかチャールストン』の陸軍大臣……。一方、こうした<戦中派の感慨>をノイズととらえる人もいて、『江分利満氏の優雅な生活』よりも『ニッポン無責任時代』を採ると語る村上春樹や、『ダイナマイトどんどん』の失敗はクライマックスにおける「戦中派の心情吐露」だとする小林信彦らの意見も紹介され、なぜ監督がそう描かざるを得なかったかを理解する一助となる。

 岡本喜八が1970年代後半、徴兵忌避者に関するリサーチをかけていたことは知らなかった。これは『近頃なぜかチャールストン』の一場面へと結実するのだが、戦中派が「徴兵忌避者」をどう見ていたかの分析から、戦争を否定しつつ仲間を見捨てることは許さない岡本映画の「心意気」に迫るのも鋭い。『どぶ鼠作戦』のラスト、主人公たちが“逃亡した”と受け取る人がいて弱った、と監督が語っていたのを思い出す。その辺りの岡本映画の独特の温もりは、実際の戦場を経験していないからなのかもしれない。

 

 本書では『にっぽん三銃士』の原作者である五木寛之にまで取材しており、五木は「喜劇は非人間的な撮り方をしないとできない。人間を人間として尊重しすぎたら、喜劇は撮れないと思います。(略)それがやっぱり、岡本さんは人間的にできなかった」と語っている。その喜劇作家としての致命的弱点が、逆に今も岡本ファンを生み出し続けているのだ、と結論づけられる部分は出色で、同じ喜八ファンとして深くうなずかされた。

 ちなみに私、五木寛之がよく講演などで「生かされる命」と語るのを「誰が生かしてんだよ!」といささか気色悪く感じていたのだが、その発言の裏には12歳の終戦時に朝鮮の平壌から開城まで徒歩で脱出し、2年かけて日本に引き揚げたという過酷な体験から来ていると知った。1932年生まれの五木は世代的には戦後派だが、岡本喜八と同じく「死んだ者と生き残った者の運命の相違」についての屈託を共有していたのだ。

『にっぽん三銃士』二部作を改めて見返してみようかと思う。

安部公房生誕百年〜『飛ぶ男』の文庫化と「作家の誠実さ」について

 2024年3月7日は安部公房100回目の誕生日。

 新潮社を先頭に、生誕100年フェアがあちこちで進行中だ。『新潮』でも『芸術新潮』でも安部公房特集が組まれているし、長いこと待たされた安部作品の電子書籍化もついに実現。さらに1994年に刊行されたきりだった未完の遺作『飛ぶ男』が30年目にして文庫化され、2013年刊行の初期作品集『(霊媒の話より)題未定』も3月末に文庫化される。その他、石井岳龍監督の映画『箱男』の公開や、神奈川近代文学館安部公房展、鳥羽耕史による評伝『消しゴムで書く』の刊行も控え、安部ファンとしてはすこぶる忙しい一年になりそうだ。

 

 文庫になった『飛ぶ男』をひさびさに読み返したが、これは初掲載が「新潮」の1993年4月号、つまり「安部公房追悼特集号」の巻頭だった。発売当日に買って勇んで読み耽ったものの、「なんだよ、全体の半分にも達してねぇじゃん!」と拍子抜けしたものだ。まぁ、『死に急ぐ鯨たち』に収録されたインタヴューを読んでいたので、安部の次回作が「スプーン曲げ」をテーマにしたものであることは知っていた。しかしユリ・ゲラー来日に始まる超能力ブームは1974年、「お爺ちゃん、トレンドに乗るの遅くね?」というのが正直な印象ではあった(ユリは1983年にも再来日してテレビ出演しているので、安部はこの時に改めて関心を抱いたのかもしれない)。

 ところが安部公房が没して2年経った1995年、空中浮遊の能力者と自称する男による大規模テロが発生したので仰天した。後に、安部の構想の内には「飛ぶ男」である少年が父親からカルト集団の御本尊に祀り上げられそうになっている、という設定があったと知り、彼の時代を読む嗅覚がいささかも衰えていなかったことを思い知ると同時に、つくづく事件前に完成していれば、と残念に思ったものだ。

右・初刊版、左・文庫版 「親父ですよ、決まっているでしょう」の後の文章に注目

 なお、今回文庫化された『飛ぶ男』は<オリジナル版>である。安部公房の死後、ワープロフロッピーディスクから発見されたこの作品、「新潮」掲載版と単行本版は、じつは妻の安部真知が文章を全面的に修正したものだった。さらに原稿をプリントアウトした際にノンブルの書き間違いによる順番ミスが発生し、冒頭の主人公と飛ぶ男の会話が妙なことになっている(にもかかわらず、刊行時に気づいた者が誰もいなかったのが面白い)。

 安部公房全集にはオリジナル版が収録されたものの、やはり手に取りやすい形で多くの人に読まれてほしい。特にラスト、未完の小説といえば普通、書きかけの部分でプツンと途切れて終わるものだが、『飛ぶ男』の第9章は少しずつ文章の欠落箇所が増えてゆき、まるで受信状態の悪いデータがところどころ虫喰いになってゆくような、奇妙な溶け方を見せながら小説が消えてゆくあたり、安部公房は絶筆の方法まで独特だった、と多くの読者を驚かせるのではないだろうか。欲を言えば、『飛ぶ男』の草稿版である『スプーン曲げの少年』(1985)や『スプーンを曲げる少年』(1989)も収録してほしかった。読み比べれば、安部の創作過程を知ると同時に、物語の続きを推理する、重要な手がかりを与えてもらえるのだから。

右・初刊版(真知夫人修正稿)、左・文庫版(オリジナル原稿)

 それにしてもなぜ真知夫人は『飛ぶ男』の原稿に手を入れたのだろう? 推敲に推敲を重ねる夫の執筆スタイルを熟知しているがゆえに、未完成の文章を世間にさらすことが忍びなかったのか。あるいは安部が最後に手がけた『カンガルー・ノート』や『さまざまな父』に衰微を感じ、「手助け」するつもりで作品に参加してしまったのか。

 そう、先に『飛ぶ男』を安部公房の遺作と書いたが、実際のところ、生前最後に手がけた文章は短編小説『さまざまな父』である。1992年12月発売の『新潮』新年号に「第一話」が掲載され、てっきり『カンガルー・ノート』のような連作になるのだろうと期待していたところ、その翌月号でいきなり完結したのでずっこけた。それも前作以上に文章の厚みは乏しく、全体にシノプシスめいた寓話だったので、晩年の星新一同様、安部公房もいよいよ枯れてきたのかしらん、と心配になっていたところ、その月の23日に訃報が届いた。なるほど、あの作品は断末魔だったのかと納得すると同時に、安部公房は最後は詩の世界に戻ったのだな、という実感が胸に迫り、作品の見え方も変わった。

 

 読めば一目瞭然だが、『飛ぶ男』、『カンガルー・ノート』、『さまざまな父』と続いた安部最晩年の創作活動は連動しており、全集に収録されたテクストを順番に羅列するとこのようになる。

 

1.『スプーン曲げの少年』(未完・1984年9月〜1985年3月)

 ※1987年11月に前立腺癌の告知を受ける

2.『「スプーン曲げの少年」のためのMEMO』(1988年3月)

3.『MEMO--「スプーンを曲げる少年」』(1988年9月〜1989年春頃)

4.『スプーンを曲げる少年』(未完・1989年2月〜1989年10月)

5.『飛ぶ男』(未完・1989年12月〜1990年8月)

 ※1990年7月に箱根で倒れ2ヶ月入院

6.『カンガルー・ノート』(1990年12月〜1991年6月連載)

7.『さまざまな父』(1992年12月〜1993年1月連載)

 ※1992年12月25日に脳内出血のため入院、翌1993年1月22日死去

 

 1984年7月に『方舟さくら丸』を完成した安部は、すぐさま次のテーマである「超能力」を扱った作品に取りかかる。試し書きとして執筆されたのが1の『スプーン曲げの少年』で、スプーン曲げを売り物にする超能力少年・津鞠左右多(芸名マリ・ジャンプ)を調査するため、「ぼく」がテレビ番組制作会社のスタッフを装って接近を試みる、ルポルタージュの体裁を取っている。

 しかし後に書かれた2と3の創作メモでは構想が大きく変化したようだ。主人公は保根治という中学教師となり、冒頭に超能力者を名乗る少年から謎めいた電話がかかってくる。その後、保根は校内暴力を恐れるあまり、通学バスの中で不良生徒Aに向かってスプレーガスを噴出する事件を起こす。教師による暴力として学校が非難されることを恐れた校長は、保根に精神病院への仮入院を勧め、補導員である女医の診察を受けさせる。後にまた例の少年から電話がかかり、喫茶店で対面。奇術師の養父から逃亡中の身だと語る少年は、保根の部屋に転がり込み、窓ガラスのパテをつつきにくる鴉たちを動物行動学の知識で撃退してみせる。そこへ体罰否定派の美術教師と生徒Aの父親が襲来、入院を装って自室に蟄居している保根を糾弾し、証拠としてビデオカメラで撮影してゆく。保根は少年にビデオテープの消去を頼むが……という物語のプロットと、そのディティールとなるべき資料が羅列されている。

MEMO--「スプーンを曲げる少年」(1988〜1989)

 4の『スプーンを曲げる少年』は創作メモに従って執筆された原稿だが、構成がさらに変化している。少年は保根の自称・弟となり、措置入院することになった保根が病院のベッドに横たわり、補導員の女医・穴子の診察を受けるところで途切れている。全体構成を作らず、見えたイメージを書き進めながら、何度となく行きつ戻りつするのが安部の執筆スタイルだった。

 1986年から89年にかけて、安部は超能力少年に押しかけられる中学教師の物語を模索しながら、「スプーン曲げ」や「奇跡」に関する思索を続けていたようだ。執筆ペースがずいぶん遅いが、おそらく癌の進行による体調不良や、クレオールと人間の言語学習機能に関する研究、山口果林のコンクール応募用脚本の執筆を手伝っていた影響もあるのだろう。

 5が今回文庫化されたもので、1989年末から翌年にかけ、すべてを書き直し題名も『飛ぶ男』に改められた。少年は冒頭から空を飛び、携帯電話で保根に電話をかけてくる。ヒロインは女医から保根の隣人・小文字並子に設定変更。発酵研究所に勤務する二九歳の独身女性が、空気銃で飛ぶ男を狙撃する展開が付け加えられた。

 しかし第9章まで進んだところで安部は倒れてしまい、2ヶ月入院。その時の体験をふまえリハビリ用に書き出したのが6の『カンガルー・ノート』である。どうやら『スプーンを曲げる少年』の末尾に登場する病院のベッドや女医・穴子のイメージは『カンガルー・ノート』に注入され、「自走ベッド」や「トンボ眼鏡の看護婦」へと発展したらしい。

 初期の『S・カルマ氏の犯罪』や『バベルの塔の狸』に回帰したようなナンセンス・ファンタジーである『カンガルー・ノート』を完成させた安部は、自信を回復させたのか、インタヴューで懸案の小説『飛ぶ男』と構想中の『アメリカ論』への意欲を語ったものの、執筆が再開されることはなかった。次に安部が書き始めたのは、『飛ぶ男』の中から少年が超能力を得るきっかけとなるエピソードや、空を飛ぶ少年を狙う空気銃の女というイメージを流用した短編『さまざまな父』だった。もはや『飛ぶ男』を完成させる力が残されてないことを悟ったのかもしれないし、『方舟さくら丸』の前身となった短編『ユープケッチャ』のように、単純に『飛ぶ男』の予告編にしようと思ったのかもしれない。

 

 最晩年の安部と連絡を取っていた渡部聡の著書『もうひとつの安部システム〜師・安部公房 その素顔と思想』の中に、1992年11月24日の電話で安部から「書き下ろしが昨日、終わった」と告げられる記述がある。これは『さまざまな父』の完成を誤解したものか、安部にとってはすでに『飛ぶ男』=『さまざまな父』という認識に立っていたかのどちらかだと思う。『さまざまな父』を編集者に渡したのが12月10日。その15日後に、安部は脳内出血による意識障害を起こして再度入院、翌月22日に死去している。

 全盛期には往年な創作力を発揮したものの、晩年は「書けない巨匠」になってしまう作家は多い。安部が『飛ぶ男』の冒頭から先に進めなくなったのも、もしかするとその種のガス欠だったのかもしれない。しかし安部は筆を捨てることなく、死の直前までモチーフと格闘し続けた。小林信彦の評論『小説世界のロビンソン』では、「作家の誠実さとはどういうものか」という章にこのような一文が書かれている。

 

 作家の誠実さとは、生き方なんかではない。生き方や態度や社会的発言の<誠実さ>は、とりあえず、疑ってみる必要がある。

 語りたいこととかある思い(フット・フェティシズムでもなんでもいい)を一つの幾何学的な物語に組み立てること、読者にあたえる効果を考えながらエピソードの順序を入れ替えること、語り手をどうするか(一人称か三人称か)を考えること、伏線をフェアに張ること、眠る時間を削って何度も細部を考え、ノートを書き換えること—作家の誠実さとはそれしかない

 

 この観点に立てば安部は晩年に至るまで「誠実」な作家だったと言えるだろう。昨今では「生き方や態度や社会的発言」で作家の人間性を測ろうとする風潮が強まっているが、『飛ぶ男』を再読して改めてこの文章を思い出す。

佐藤哲也『イラハイ』読書会に参加して思い出したこと

 先日、知り合いがオンラインでやっている読書会で、8月に亡くなった佐藤哲也のデビュー作『イラハイ』(1993)を課題本にするというので、参加してみました。

 

 普段は思想書をメインとする読書会なので、常連のみなさんがサトテツ作品をどう受け止めるのか、愛読者としてはやや心配だったのですが、作中でひんぱんに展開するソ、ソ、ソクラテスプラトンか的思弁ギャグよりも、「架空の歴史書叙事詩のパロディ」というスタイルに注目する人が多かったのが、「へぇ」と思いましたね。ここぞとばかりに『熱帯』(2004)や『サラミス』(2005)の宣伝をしてもよかったのだけど、突然マニアがえんえんと語り出すわけにもいかず、ぐっと抑えながらみなさんの意見を楽しく拝聴しておりました。

 また、『イラハイ』の冒頭は「その昔、とあるところにひとつの家に住むふたりの男があった。」で始まり、結末は「双子の兄弟は(中略)、ひとつの家を建ててふたりで暮らしたと伝えられる。」と終わる、円環構造になっているのですが、この構造の中に、キャラクターやギャグや文体の遊びが精緻に配置されている点が、非常に音楽的に感じた、という意見があり、これは蒙を啓かれた思いがしました。

 佐藤哲也作品は『沢蟹まけると意志の力』(1993)や『トポス』(2020)でもリフレイン(くり返し)ギャグを効果的に使用したし、『下りの船』(2009)や『シンドローム』(2015)などの後期作品になると、同じ長さの文章を一行ごとにえんえん並べたり、リズム重視の文章をページいっぱいに展開したりという技法を多用しているのですが、一種の音楽的演出として持ち込んだ、独特の技法だったのかもしれません。そもそもネタ元であるギリシャ古典は吟遊詩人が語ったものですからね。

 また、ユーモアたっぷりなのに、キャラクターに萌え要素を抱かせないのがサトテツ作品のクールなところですが、音楽的な計算のもとにキャラが配置されているところに秘密がありそうです。

 

 かくいう私は『イラハイ』を刊行当時に読んでいます。日本ファンタジーノベル大賞の受賞作は第一回から欠かさずに読む習慣があったからですが、もっとも衝撃の大きかった作品をひとつ挙げるとするとコレですね。

 構想の巨大さ、小説の完成度以上に、「文学でモンティ・パイソンをやっている人が現れた!」という喜びが勝りました。ユーモアを得意とする作家は、その出自というか源流が作品からにじみ出ることが多く、例えば小林信彦筒井康隆は、マルクス兄弟や珍道中シリーズなど、終戦直後に公開されたハリウッド製の喜劇映画から強く影響を受けていたし、横田順彌古典落語の教養と杉浦茂谷岡ヤスジなど戦後ナンセンス漫画の味を感じさせ、とり・みきが80年代に描いていたギャグ漫画は、ZAZトリオのパロディ映画に通じるものがありました。

 その中で、佐藤哲也の源流はあきらかにモンティ・パイソンで、『イラハイ』を『ホーリー・グレイル』(1976)や『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)に例えるなら、次作『沢蟹まけると意志の力』は『人生狂騒曲』(1983)にあたるでしょうか。サトテツファンはこの発展にいっそう喜んだものだけど、これが『熱帯』になると、扱う思弁はより雄大に、登場するギャグはより脱力的になり、それでいて『イーリアス』のパロディという、とてつもない作風を確立され、どこまで鑑賞できているか自信がなくなったものです。

 フラン・オブライエンやデヴィッド・ロッジ、トマス・ピンチョンらの潮流を受け継ぎながら、さらにスマートかつ俯瞰的な作品を紡ぎ出す、唯一無比の作家として畏敬の念を抱いていました。

 

 10年あまり前、初めて佐藤哲也さんにお目にかかった際に、よくあれだけ独特な小説を今の出版界で発表できますね、と訊いたところ、

「いや、私の長篇で(出版社から)頼まれて書いたものはありませんよ

 と言われ、改めて孤高な存在であることを知ると同時に、どれだけの困難の中であのレベルの作品を描き続けているのか、慄然としたものです。

 10月に行われた佐藤哲也さんの追悼ミサは、なんと私が結婚式を挙げた教会で行われるという、不思議な縁を感じさせました。参列者には、夫人の佐藤亜紀さんから『下りの船』が手渡されたのですが、これはSFのスタイルを借りて描かれる、移民たちのエピソード集であり、まさに後期の代表作といえる架空の歴史小説。ロシア・ウクライナ紛争やイスラエルのガザ攻撃が現在進行中に今、間違いなく理不尽な暴力に満ちた「現代」を照射した文学として読めることでしょう。

 そういえば、怠惰なことに佐藤哲也さんから強くお薦めされたトーマス・ベルンハルトを未だに読んでないことも思い出しました。来年こそは読みましょう。でもこれは哲也さんの薦め方にも問題があったと思うのです。

「私はベルンハルトを読んで5年小説が書けなくなりましたよ!」

 と言われて読書欲が高じるものでしょうか?

“意地悪ばあさん”の素顔〜『パトリシア・ハイスミスに恋して』

 エヴァ・ヴィティヤ監督『パトリシア・ハイスミスに恋して』を観た。

 25年以上も前に亡くなった作家の評伝が、ドキュメンタリーとして成立するのかと思いきや、意外に映像資料が豊富に残されていたことに驚いた。そして未発表(近年、書籍化された)の日記の記述の朗読と、3人の“恋人”たちや親類たちによる回想インタビューを織り交ぜながら、展開してゆく。

 

 パトリシア・ハイスミス(1921~1995)が同性愛者であることは『キャロル』(1952)の翻訳出版と映画化が公開されたことで日本でも有名になったが、その家庭環境と母親との複雑な関係については全然知らなかったので、親類たちが語る証言は新鮮だった。若い頃のハイスミスには結婚歴や男性との交際歴があるが、母親の期待に応えようとしてのことらしい。

 恋人の一人が「トム・リプリー(『太陽がいっぱい』の主人公)は彼女の分身」と語っていたが、キャリアの後期になるほどリプリーシリーズの執筆が増えてゆくのは、あれが一種の私小説であり、鬱屈がたまるほどに理想化された自分を描きたくなったからなのだな、と腑に落ちた。

 

 1960年代に入り、母親と絶縁したハイスミスアメリカを離れ、ロンドン、フランス、スイスと彷徨しながら恋を重ね、書き続ける。主人公の「よるべなさ」や「奇妙な妄執」への切り取り方が絶妙なハイスミス作品もまた故郷喪失の文学といえるのかもしれない。そして、「サスペンス作家」というジャンル小説の書き手としか評価されないことへの苛立ちも。

 その昔、女友達に『ふくろうの叫び』を貸したところ、

「“覗き”を趣味にする男が相手の女性にバレる、そしたら女性が優しく部屋に招き入れてくれるなんて展開、オッさんの妄想でしょ! と思ったけど作者が女性なのが信じられなかった」

 と感想を述べられたことがあったが、女性に限らず読者の生理的嫌悪にあえて突っ込んでゆくハイスミスの感覚は、こうした日々の苛立ちの中で練り上げられていったのだろう。

 

 作家としては『太陽がいっぱい』(1955)、『ふくろうの叫び』(1962)、『殺人者の烙印』(1965)、『プードルの身代金』(1972)あたりがピークで、その後の作品は長大化し、かつてのような引き締まった印象が失われてゆくのだが、映画の中でも、アルコールへの依存と相次ぐ恋愛の破綻で精神の荒廃が進んでいった様子が語られており、切なくなる。

 スイスに建てた「要塞のような家」に籠もった80年代後半以降、私的ノートには有色人種やユダヤ人への差別的な罵倒が書き連ねてあったというのは悲しい。が、そうした鬱屈をSNS(当時なかったけど)で吐き出すのではなく、晩年の作品集『世界の終わりの物語』(1987)に収められているような、悪意に満ちた諷刺短編の数々に結実させたのは、作家としてアッパレと言えなくもない。

 

 それでも、晩年期の長編では『孤独の街角』(1986)は全盛期の代表作に肉薄する傑作だったと思うし、遺作となった『スモールgの夜』(1994)も、私は好きだ。これは『キャロル』以来の明確なゲイ小説で、ゲイが集まる居酒屋の常連客の人間模様が綴られる、いたって静謐な作品だ。『キャロル』は当時、ゲイ小説としては初のハッピーエンドを描いた作品として注目されたそうだが、『スモールgの夜』もまたハッピーエンドである。そのラストから浮かび上がる奇妙な“ほのぼの”感は『キャロル』以上に感慨深いものがあった。

『キャロル』から『スモールgの夜』へと成熟していった作家として、改めてハイスミス作品を読み直したい気もする。

幻のドラマを楽しむ〜『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路<オートバイ>・山田太一未発表シナリオ集』

 

 先週、『ふぞろいの林檎たち男たちの旅路<オートバイ>~山田太一未発表シナリオ集』(国書刊行会)を読んでいる最中に、著者である山田太一の訃報が届いた。享年89。

 

 なぜこの脚本集を読んでいたかというと、12月2日に西荻窪の今野書店にて開催された、編者の頭木弘樹氏を迎えて、會川昇(脚本家)、樽本周馬国書刊行会)両氏が聞き役を担当するトークイベントに行くためだ。図らずも追悼の会となってしまったイベントだが、決して湿っぽくなることなく、取材時の裏話と登壇者それぞれの山田作品への熱い思い入れを聞くことができた。

 収録作品に『男たちの旅路・第4部』の未発表作品「オートバイ」(第2話になるはずだった)が入っているため、どうしても『男たちの旅路』の話が多くなる。「本来このドラマは、第4部まで陽平(水谷豊)と吉岡司令補(鶴田浩二)の関係性の変化を描くつもりで構想されていたのだろう」と、作品の細部の読解が述べられたり、「アシスタントディレクターに(『四季・ユートピアノ』を撮る前の)佐々木昭一郎がついていて、演出に対する指摘が面白い」とか、へぇ~、と思う話もいろいろ飛び出す。

 

 頭木弘樹さんは山田太一が全自作を語るインタヴュー本を作成するため、6年かけて毎週山田邸に足を運んでいたという。作品について私見を述べても、「そういう考え方もありますね」と穏やかに返される山田さんだったが、じつはこれは「違う」という意味なんだ、ということがわかった、というのが面白い。はっきり「それは違います」と意思表示をしてもらえるまで2年かかったそうだ。

 相手が信頼に足る相手と見定めるまで、やすやすと自作について本心を明かさない周到さ、まさしく一筋縄ではいかない人間たちを描いてきた作家らしいふるまいで嬉しくなる。また、山田ドラマは局に提出する企画書と実際の展開がまるで違ってしまうことがしょっちゅうだそうで、あの傑作『想い出づくり。』においても、加藤健一が演じた森昌子の見合い相手になる男、彼の登場場面は本当にあの見合いの場面だけの予定だったそうだ。加藤の演技があまりに素晴らしいので、その後、重要なキャラクターに発展し、クライマックスの展開につながっていったという。

 じつは学生時代に山田太一の特別講義を聴講したことがあり、そこでも似たような話を聞いてはいた。ドラマの企画を事前に練り込んでいることはほとんどなく、打ち合わせ当日まで白紙の状態のことも珍しくない、と。家を出るころにぼんやりと書きたいイメージがわいてきて、電車の中でじわじわとふくらまし、局のエレベーターの中でどうにかまとめて、会議室で「次はこういう話を書きます」とずっと構想していたかのごとく語るのです、とユーモラスに語られたが、そんな即興性重視な姿勢も、師・木下惠介から譲り受けたものかもしれない(木下はメモも構成もなしに助監督に脚本を口述筆記させる)。

 

 そういえば、パトリシア・ハイスミスもアイディアの芽を書きながら育ててゆくタイプで、執筆前に結末を決めることはないそうだが、今回の『山田太一未発表シナリオ集』に収録された2時間サスペンス用の『今は港にいる二人』、これは姉夫婦の悲劇に巻き込まれたしっかり者の弟が、復讐をするか否かで逡巡する話で、かなり変な物語。「英雄」をめざすもそうはなれない人間の弱さを扱って、ある意味ハイスミス的な心理サスペンスなのだが、ハイスミスとは違って悪意ある破綻には向かわない。ある人物の行動で「え〜?」という展開になり、じつに山田太一らしい大団円を迎えるのだ。最後にタイトルの意味がわかる構成も洒落ている。

 サスペンスでいうともう一作、『殺人者を求む』という山田太一が最初に書いた習作シナリオが最後に収録されているが、これもまたかなり変な話で、登場人物は殺し屋とその同伴者と依頼人の3人だけ。映画というよりも、ハロルド・ピンターの『ダム・ウェイター』あたりを思わせる短編室内劇なのだが、何気ない会話の応酬がだんだん不気味なムードを形作ってゆく手つきはさすがだし、新人助監督がいきなりこういう特殊な内容のものを撮影所の同人誌に掲載するのも勇気がある。これを読んだ木下惠介はすぐに助監督室を訪問、山田太一を呼び出し「君の脚本のト書はすごく良かったよ」と励まして去ったという。簡潔にして的確、それでいて想像力が広がる山田脚本のト書にいきなり注目していたとはすごい。

 

 と、書きつつ私自身が山田太一の熱心なファンだったかというと、ぜんぜん違う。ちゃんと見た最初の作品はTBSの連ドラ『大人になるまでガマンする』だったろうか。TBSの金曜ドラマは、その前年に放送した伴一彦脚本の『うちの子にかぎって…』が、小学生の目にも大変面白いポップな世界だったので、似たようなものかと思ってチャンネルを回してみたところ、居酒屋家族とサラリーマン家族が子供の教育方針をめぐって対立するという、シブすぎるドラマが展開して困惑させられた。

 そんな第一印象だったせいか、80年代はリアルタイムでは山田ドラマにはまったく触れずじまい。よく再放送されていた『ふぞろいの林檎たち』は軽薄なトレンディドラマかと思い込んでいたし、『男たちの旅路』は鶴田浩二が元特攻隊員を演じるという設定を聞いただけで観賞意欲を失っていた。

 それが変わったのは、先述した山田太一本人の特別講義を聴いたことと、映画評論家の森卓也の文章だ。森はある時期からしきりに日本映画への失望と、「それにひきかえ……」と山田太一ドラマへの賛辞を書き連ねることが多くなった。『早春スケッチブック』に出てくる死期の迫ったカメラマン(山崎努)のセリフを引用し、こう書いたことがある。

「現役で撮りまくっていた頃は、なにを見ても、この角度で、この絞りで、このレンズでいける、なんてことしか頭にない。撮り終えると同時に、他に目をやっている。物でも人でも、ほんとうにじっくり見ることはない。本当には見ていない」

 むろん、ドラマの寓意のセリフである。けれど一面の真理ではあろう。そうであってはならない、が、ファインダーをのぞく“プロの眼”が、時として“優越の眼”になってしまうことが、ありはしないか。

                    森卓也「カメラマンの眼」

早春スケッチブック』を観ることができたのはそれからだいぶ経ってからだが、確かにこれはすさまじいドラマだと思ったし、実際の劇中でははるかに長く、味のあるこの部分のセリフもリアルな感覚として理解できるようになっていた。亡くなる直前の寺山修司(早稲田で山田太一の同級生だった)が熱心に観ていたというエピソードと共に忘れ難い作品だ。

 この辺りから、『今朝の秋』や『ながらえば』といった過去作品のビデオを観たり、NHKやテレ東の単発ドラマにチャンネルを合わせるようになった。今世紀に入ってからのBSやCS再放送で、『男たちの旅路』や『岸辺のアルバム』、『高原にいらっしゃい』、『想い出づくり。』、『日本の面影』など数々の傑作を確認することができ、ようやくセリフやアフォリズムに込められた含蓄にとどまらぬ、山田ドラマの人間洞察の深さが楽しめるようになった。

 が、万事怠惰な私のことで、未だ見られてない作品もたくさんある。じつは『ふぞろいの林檎たち』シリーズも、放送時に「Ⅳ」をおおよそ追いかけただけで(中谷美紀が目当てでした)、「Ⅰ」~「Ⅲ」は未だ手付かず、という体たらく。

 しかし未制作に終わった『ふぞろいの林檎たちⅤ』を読んだおかげで、彼らの青春に俄然興味がわいてきた。40代の「林檎たち」の落ち着き方を知った上で、遡って確認するシリーズというのも、リアルタイムで追ってきたファンとはまた違った楽しみ方ができるに違いない。

『ゴジラ-1.0』合評会

 

 司会者 「えー、このつどいも前回から4年ぶり4度目となりました。山崎貴監督『ゴジラ-1.0』が公開されましたが、みなさん正直なところ、いかがでしたか? ネタバレ全開で参りましょう」

 ゴジラファンA 「いやぁ、『シン・ゴジラ』が画期的なゴジラ映画だっただけに、はたして次回作はどうなるのかと心配だったけど、<1954年以前>の世界にゴジラを出現させるとは、まったくコロンブスの卵。これを思いついただけでも大したものです」

 ゴジラファンB 「『シン・ゴジラ』では完全に意思疎通が不能な怪物だったゴジラ、こちらではまさに<悪意の猛獣>というイメージになって重量感も十分、人を襲う描写にかなりのインパクトがありました。大満足!」

 ゴジラファンC 「そ、そうかなぁ? ゴジラというのは『核』を背負った人類全体の脅威であるべきなのに、あれじゃ『特攻隊として死に損ねた男』のトラウマを象徴する存在に成り下がっていたんじゃないかしら。あれだけスペクタクルなゴジラ上陸が描けたのに、ゴジラの存在感がもう一つ薄いのは、ゴジラ像が個人的な記憶に閉じ込められているからだと思ったけど」

 反政府主義者 「銀座で大暴れしたゴジラが次は国会か皇居を踏み潰してくれるものと期待したのに、いつのまにか帰っちゃったらしいのは拍子抜けだったぞ」

 測量士 「おそらく、ゴジラが吐いた熱戦の先に国会があったものと思われます」

 新堂靖明 「私がラゴス島で出会ったゴジラザウルスは米軍を蹴散らしてくれたんだが、その点、敷島クンは不運でしたね。でも、おかげでゴジラを救世主と思いこむ、というとんでもない勘違いをせずにすんだのだから、そこは幸運とも言える」

 脚本家志望者 「それはシンプルにヒネりが足りないというべきでは……。寄る辺なき復員兵のところに、一気に女子供が転がり込んでくる強引な展開も、後半の<泣かせ>に使う手が見え見えでシラけました」

 警察官 「あのヒロインは登場時になんで追いかけられていたんですか? てっきり子供をダシに使った女スリかペテン師だろうと目を光らせていたのだけど、特にそんなキャラ付けもありませんでした」

 SF映画マニア 「いいんだよ、細かいことは。前回も言ったけど、大型特撮映画における人間ドラマとは『家族の再生』と『自己犠牲』、これで決まり! 舞台設定が斬新な分、ドラマ作りや人物配置が様式的なのは、山崎監督のバランス感覚を強く感じました。それに、今回のVFXは彼の到達点でしょう」

 特撮マニア 「確かにそうですね。上陸したゴジラの足元を描く粘っこい描写はもちろん、海上戦闘時の海や水の質感表現、日本のデジタルVFXもここまで来たか、と嬉しくなりました」

 スピルバーグファン 「突然、『ジョーズ』へのオマージュと思われる展開が始まったのには泣けました」

 ノーランファン 「クライマックスで突然、『ダンケルク』へのオマージュみたいな展開になったのは笑いました」

 バラン 「それにしても、民間が考案した作戦があまりにうまくいきすぎじゃないですか? やはり怪獣たるもの、私のように爆雷作戦も特殊火薬作戦も、まずは一度はねのけてみせる強かさがほしいですね」

 バルゴン 「そうそう。作戦が実行され、失敗し、怪獣もまた学習する、それに対しどうするか、そういう知恵比べ的な展開がないのはちょっと食い足りない」

 理科教師 「1947年にはまだ自衛隊すらないんだもの、あまり無茶言いなさんな。そんな時代の日本人がどうゴジラを退治するか、という点で頭をひねったのを評価してあげなきゃ。しかも、安易にSF超兵器に頼るのではなくて、フロンガスと浮袋を使った水圧+減圧の理屈でゴジラをやっつけるアイディアも面白いじゃないの。今度授業で使わせてもらおう」

 ミリタリーマニア 「メーサー砲のような超兵器が出ない代わりに、幻の戦闘機である『震電』が飛び回るクライマックスもアツいです。でも、整備班が登場するわりに、あまりマニアックなメカ描写はなかったですね。」

 アニメファン 「庵野監督は昔から<ミッション遂行>のドラマとそのメカニズムに執着する人で、樋口監督は<大状況>の描写に深くこだわる人。『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦は二人の個性が噛み合って、霞ヶ関の独立愚連隊チーム結成から無人在来線爆弾まで、短い時間で印象強く見せていましたよね。でも、山崎監督は、『永遠の0』の宮部教官といい、『STAND BY MEドラえもん』ののび太といい、『アルキメデスの大戦』の戦艦大和といい、名誉回復のドラマを盛り上げたい演出家なんでしょう。今回は主人公の悔恨がいかに解消されるかが焦点です。そこにノレないとしんどい」

 興行関係者 「オタク的なディティールよりも、エモーショナルな『物語』の方が観客に届きやすいのは間違いないと思いますよ。でも、今はベタな<泣かせ>よりもまず、作り手の<熱>がなくっちゃね」

 映画音楽家 「とはいえ、『シン・ゴジラ』での伊福部昭音楽の使用は、ずいぶんマニアの自己満足臭を感じたけど、こちらで『ゴジラの恐怖』が鳴り響いた瞬間は、かなりハマって聞こえたなぁ」

 惑星ピスタチオファン 「佐々木蔵之介の濃厚すぎる演技はもう少しでパワーマイムが始まってしまうのではないかとハラハラしました」

 政治不信の男 「政治家も進駐軍もいっさい出てこない、というのは『シン・ゴジラ』と同じことはしない決意の表れかな。それはそれでいいんだけど、その結果、元軍人たちの<敗戦ショック>をゴジラ撃退によって慰撫する物語のようにも見えてしまい、指導者の命令で始まる戦争の問題点が、巨大災害であるゴジラ出現とごっちゃにすることでごまかされた気持ち悪さはあったなぁ」

 ジャーナリスト 「命を賭して家族や国民を守る、という行為が侵略戦争ゴジラ襲来でいっしょくたにできるのか、という問題ですね。『人命を軽視してはいけない』とタテマエを語りつつ、彼らは死地に向かわざるを得ない矛盾。そこにテーマを置くなら、橘整備班長の<転向>がしっかり描かれるべきだとは思いました。それがラストの意外性要素でしかないというのは……」

 A級戦犯 「ウム、巣鴨プリズンに捕まっている者たちに恩赦をかけてくれれば、クライマックスではもっと人材が集まったし、皇軍兵士の名誉回復にもつながったはずなのにねぇ。じつに惜しいヨ」

 映画史家 「初代『ゴジラ』は水爆実験、『84’ゴジラ』は米ソの核状況、『シン・ゴジラ』は東日本大震災、とゴジラ映画はそれぞれの時代の<危機>を反映してきたわけだけど、『ゴジラ-1.0』はコロナ禍を通過した上でのゴジラ映画ですよね。その結果導き出されたのが『国難に対しては政治は頼りにならないから、民間でがんばろう!』というのでは、『シン・ゴジラ』以上に楽天的な印象があります」

 自民党代議士 「いや、『自助を基本とし、共助・公助が補う安心の社会づくり』の反映だと思えば納得できるのではないかね?」

 体操選手 「あれだけの目に遭いつつ五体満足なヒロインのタフネスぶりには賞賛を惜しみません」

 マタンゴ人間 「ラスト、ヒロインが包帯を解いたらじつはすでに……という展開にしてほしかったです」

 未見の女 「あのー、結局この映画は面白いんですか、つまらないんですか。観た方がいいの?」

 小美人 「ゴジララドンも『俺たちの知ったことか、勝手にしやがれ』と言っています」

 映画ファン 「これでゴジラ映画の次回作がまた一段とハードルが上がったことは間違いないですね。円熟期を迎えた山崎監督にはそろそろオリジナル企画の特撮映画を期待したいところです」

 

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