星虹堂通信

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ボックスマン フォーエヴァー〜石井岳龍監督『箱男』(原作・安部公房)合評会

 先日、都内某所に安部公房ファンが5人集まり、映画『箱男』の感想を語り合いました。

 

【原作と映画の間で】

 27年前に製作中止になったと聞いた時はとても残念だったので、今回ようやく完成した映画を観られて感無量でした。当時の脚本はかなり原作をアレンジした内容だったと聞くのですが、完成作を観ると、思いのほか原作に忠実な印象でしたね。

 うん、『箱男』の映画化なんて絶対無理だし、しょせん日本映画だからつまんないだろうとかなり期待値を低めに設定していたおかげか、意外に面白く観られたね。しかし、監督は安部公房から「娯楽にしてくれ」という注文を受けたそうだけど、これは娯楽になっているのかね?

 私は原作を知らない友人といっしょに観たんだけど、後半は何がなんだかさっぱりわからなかったって。

 2回観ればいいんじゃない? 原作だって2度読まないと何が起こっているのか把握できないんだし。

 97年版の脚本はもっとエンターテインメント寄りだったそうです。その後、インターネット社会の発展やSNSによる匿名のコミュニーケーションが普及したことで、原作のテーマがより現実的になったため、その構造を生かした方がよい、と判断したのでしょうね。

 今回の映画化に言いたいことはいろいろあるが、そもそも箱男の覗き穴が原作と違うのが気になった。本来、箱のサイズからして一回り大きいはずだし、覗き穴も幅42センチ、高さ28センチと指定されておる。さらに、上部から艶消しのビニール幕が下ろされていなきゃいかん。あのビニール幕を手で除けながら外界をうかがう様子が、重要な感情表現につながるはずなのに、それを無視するとはねぇ。

 原作は覗き穴がかなり大きいから、空気銃ライフルを箱の中から構えることもできるんだよね。映画では、えらく小さな覗き穴から銃口を出してるので、浅野忠信が大変そうだった。

 あれは「箱男のぞき屋」、というキャラクター性をより強調するために、箱も覗き穴もタイトにしたんでしょうね。ちょこまかと動き回りつつ、派手なバトルアクションを演じる箱男はなかなかキュートだったじゃないですか。

 それに、主人公の一人称が「わたし」というのも気に入らない。安部公房文学の一人称は「ぼく」だろう。石井岳龍は安部文学の魅力をよくわかっとらんのではないか。

 ノートの手記は「ぼく」の一人称で書かれていたから、あれは永瀬正敏が実は贋箱男であることの伏線だったのかもしれないがね。

 私も本当に最初の10分は絶好調だと思いました。そこからだんだん閉塞していって……。原作では後半、舞台が病院に限定されると、代わりにいろんなイメージが次々と挿入されて飽きさせないですよね。でも、映画では<Dの場合>も、<ショパンの夢>も、「時計の文字盤は片減りする」で始まる詩もカットされちゃった。あそこが肝なのに!(ドン、とテーブルを叩く音) 映画は最後まで息苦しいので、ちょっと監督との距離を感じました。

 1997年版の脚本では、もっとドタバタ要素が強くて、ミュージカル場面まであった、ということだからもしかすると例の「詩」が歌われたのかもしれません。

 

【「書く」か「見る」か】

 原作の要素を全部再現するのではなく、「このノートを書いているのは誰か?」の記述者をめぐるミステリー要素を中心に設定した脚色自体は、納得のいくものだったけどね。

 「書く」という行為をめぐる小説を、「見る」という行為をめぐる映画へと移し替えた脚色なのは、わかるんだよ。でも、それにしちゃ「書く」という行為への目配せが変に残って整理しきれていなかった。やたら「直筆」にこだわる部分とかね。映像化は「書く」よりも「見る」に徹底的にこだわるべきだった。

 でも、原作の最後に「自分の署名に必要な空白だけは、いつまでも残っていてくれる」とあるのを意識してか、クレジットタイトルの名前がそれぞれ手書きで書かれているデザインは、なかなかオシャレでした。それに、贋医者が軍医殿の筆跡を真似ようと変な機械を身につけたりする、ああいうさりげない美術も面白かったですね。『箱男』は基本SFなんだということを忘れてない気がして。

 ワニのぬいぐるみ製ブラックジャックも再現してくれたし。

 あれも、ぬいぐるみに砂をつめるところから、もう少しきちんと見せてくれれば、格闘場面がもっとユーモラスになったのになぁ。画面が暗すぎてよくわからないんだよ、もったいない。

 そうそう、看護婦が贋箱男に浣腸したりするプレイ場面も、サイケデリックロックのライブみたいなオイルショー照明がかかったりして、変にアート映画風なのはシラけました。ああいうのは、もっと普通に男たちのグロテスクさを風刺するコミカルな場面として演出してほしかったです。

 安部公房文学というのは即物的なリアリズムを突きつめた果てに出てくる超現実の世界だからさ、映像が安っぽくなるのを避けたい、という思惑でムリヤリ撮影や照明に凝ったところで、作品に奥行きは生まれないと思う。

 そうですか? わたしはあの場面、二人のラブシーンとしてなかなか刺激的だと思いました。それと、新作の日本映画を観るのはかなりひさしぶりなんですが、今でもシネマスコープの映画ってあるんですね。冒頭で、そのスクリーンのサイズと箱男の覗き穴がぐっと重なってゆくから、この映画は観客自身が「覗き見」してる世界なんだ、ということはハッキリしてましたよね。覗く側の背徳感を感じさせるための撮影や音響の工夫は、いろいろ悪ノリを感じて私は楽しかった。

 

【ラストをめぐって】

 スクリーンという覗き窓の向こうで展開する映画『箱男』の世界、ラストでは安全地帯からこの世界を覗き見る箱男とは観客自身である、という告発が描かれますが、あのオチはどうでしたか。

 こっ恥ずかしかったなぁ。なんだか寺山修司が『観客席』あたりで描いたナイーブなメタフィクション論を思い出したね。まぁ、安部公房も若い頃に書いた『どれい狩り』初演版や子供向けラジオドラマでは、あの種の楽屋オチを書いてるんだけど、『砂の女』以後の作品ではないじゃない。ああいう直截な方法でない形でメッセージを観客にフィードバックさせることはできなかったんだろうか。

 うーん、こないだシネマヴェーラ渋谷で上映した『仔象は死んだ』のトークショー鴻上尚史が語っていたことなんだけどね。

 ああ、「シネアスト安部公房」でのゲストトークですね。

 1995年の阪神淡路大震災オウム事件を経て以後、観客が「意味のわからないもの」を受け付けなくなった、という実感があるそうなんだ。つまり不条理ナンセンスみたいな、抽象的なユーモアが通じなくなったと。アンケートでも「一回で観客に言いたいことを伝えられない劇作家なんかプロ失格です!」と書いてくる若者がいる、と。

 ははぁ、ベケットやイヨネスコみたいな不条理劇なんて、今やお呼びじゃなくなったわけだ。

 この傾向が2001年の9.11、2011年の3.11を経て、さらに強まっているらしい。世の中が複雑化すればするほど、大衆は明快なものを求める。この映画は1973年に書かれた難解な原作の「難解さ」を観客へのサービスとして映画化しているけど、時代に合わせたギリギリのチューニングも必要だった。それがあのラストなんじゃないかな。

 あそこ、映画館の観客が見ているスクリーンをもう一度映し直してほしかったですね。つまり、映画館の観客が見ているスクリーンの中で、観客がスクリーンを見つめている様子が映っている、そのまた奥のスクリーンではやっぱり観客が……、という構図がずーっと入れ子になっていって。

全員 それ、『カンガルー・ノート』のラストじゃん!

 監督はたぶん、アレを意識したんでしょ?

 

【俳優たちの存在感】

 俳優の中では、看護婦・葉子を演じた白本彩奈が特によかったですね。何を考えてるのかわかんない感じが特に。

 そう、葉子は「ハコ」なんだから、彼女自身が箱なんだよね。いくら視線を向けられても内面は見えてこない。そのハコを求めて、箱男たちがみにくく奪い合う。

 少し幼すぎた気もするが……。

 いやいや、50歳過ぎたおっさんたちが、20歳そこそこの女の子の性的サービスを求めてジタバタ争うというのは、まさに現代日本の縮図じゃないですか。

 そう思うと、永瀬正敏浅野忠信佐藤浩市といった個性派のベテラン俳優たちが箱をかぶることで匿名性を得ようとするのは面白いですね。

 3人とも箱をかぶったところで個性がダダ漏れなのが笑えた。

 そこも不徹底なところでさ、箱をかぶった瞬間に、没個性で交換可能な存在になってしまう、その上で「誰が本物の箱男なのか?」を追う展開にするのが正しいと思うけどね。原作の文字上の実験(遊び)が、肉体を得たことでしょーもないコントじみてしまったのは、失笑は呼んでも本当の笑いにはつながらない。

 私は石井監督の作品は石井聡亙時代から長く追ってきているので、永瀬正敏浅野忠信の共演はどうしたって『ELECTRICK DRAGON80000V』(2001)の続編に見えて嬉しかったですけどね。正直、石井監督作品としてもあれ以来の快作ではないかと。石井監督は『狂い咲きサンダーロード』にしろ『逆噴射家族』にしろ、妄執に憑かれた人を描くと冴える方です。永瀬も浅野も監督のデザインする世界をしっかり助けているように見えました。

 特に浅野忠信箱男化してゆく過程なんて、かなり可笑しみがありましたよ。

 まぁ、永瀬正敏も97年当時、『誘拐』や『学校Ⅱ』に出ていたころの彼じゃ、このホームレスらしいクタビレ感は出せなかったろうし。

 勅使河原宏の『燃えつきた地図』では、勝新太郎渥美清といった映画スターを安部文学の主役に据えて異化効果を狙ったでしょ。今回もあの実験の発展系を狙ったのかな、という気はしたね。

 刑事役の中村優子がまた雰囲気ありすぎるので、何か話に絡んでくるのかと思ったら、取調室の部分だけだったのはちょっと残念。

 

【次に映画になるとしたら?】

 数年前に『テリー・ギリアムドン・キホーテ』を観た時にも思ったんだけどさ、実現まで長い時間がかかった企画って、監督の頭の中でいろんなイメージを試行錯誤しながら、何度も脚本を書き直すから、すごく密度が濃くてバランスのいい決定稿をモノにしたつもりでも、実は中途半端なところで妥協した内容になってる、ということはありがちなんじゃないかな。

 確かに、企画の段階から有名で、「構想◯年!」と謳われた映画を観に行ったら「あれ?」ということは普通に多いよね。

 そんな、コッポラの『メガロポリスが来る前に不吉なことを(笑)

 これまで、安部公房作品の映像化は勅使河原宏に独占された状態が続いていたのだから、ようやく新解釈の映像版を観ることができた、その喜びは確かにあります。

 この映画を観てから原作を読む人は、ずっとイメージを掴みやすいのは間違いないでしょうしね。

 次に安部作品が映像化されるとしたら、観たいものはありますか?

 そりゃ安部公房脚本による『第四間氷期でしょ。恩地日出夫の脚本を使っての『けものたちは故郷をめざす』でもいい。

 『飢餓同盟』を超リアリズムで観たいね。『狐が二匹やって来た』って安部自身の脚本も残ってることだし。

 いっそ完全オリジナルで『箱男』の続編でもいいかも。箱男の逆襲』とか『ボックスマン・リターンズ』とかの題で。

 今年は松川事件75周年なので、脚本『不良少年』を映画化してほしいですね。(一同沈黙)……えーっ、みなさん読んでないの?