星虹堂通信

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歌舞伎町で観る松尾スズキ『ふくすけ2024-歌舞伎町黙示録-』@THEATER MILANO-Za

 

 13日のトランプ暗殺未遂事件は驚きましたな。

 幸運にも命拾いしたトランプはこの事件を逆手に不屈魂を大いにアピール、これにバイデンが対抗するには、遊説中に溺れた赤ん坊を救出するぐらいのパフォーマンスが必要では? などと思案していたら今朝「大統領選から撤退する」との表明があった。

 

 つい、そんな想像をしたのは直前に、松尾スズキ作・演出の『ふくすけ2024- 歌舞伎町黙示録-』を観たからに違いない。

 91年初演の『ふくすけ』は、双極性障害の女・エスダマスの一代記を中心に、病院から脱走する巨頭症の少年、彼を使って新興宗教を立ちあげる夫婦、吃音症のマスの夫とホテトル嬢の彷徨、風俗ビジネスで財を築く謎の三姉妹といった、いかにも80年代の悪趣味サブカル文化に登場しそうなネタのごった煮で構成されたグラン・ギニョールであり、執筆時20代の松尾スズキの才気がほとばしった作品である。

 私が劇場で観たのは少年フクスケを阿部サダヲエスダマスを片桐はいりが演じた1998年再演版と、同じく阿部サダヲのフクスケにマスを大竹しのぶが演じた2012年再々演版。今回の再々々演版では、少年フクスケが岸井ゆきのエスダマスを秋山奈津子が演じ、その代わりに、話の主軸がダメ男のコオロギ&盲目のサカエ夫妻へと移ってこれを阿部サダヲ黒木華が演じた。

 根本敬山野一が描きそうな「ガロ」風露悪マンガ的内容が、「毒気」が見せ場のエンターテインメント・ショーへと変化したわけだが、作品の持つ「怒り」をどう観客に伝えるべきか、作者の苦労が偲ばれた。

 

 語りの主軸がコオロギ&サカエ夫婦に移ったと言っても、物語の印象自体はたいして変わらず、クライマックスの展開も、ラストシーンも、エンディングにゴラン・ブレゴヴィッチが作曲した映画『ジプシーのとき』のテーマ曲がかかるのもそのままである。

 が、2012年版を観た時は、いかに劇場が大きくなりキャスティングが派手になっても、それ故にセリフや演出の衝撃度が薄れてゆくので、作品の持つ「悪意」は縮小してゆくものだな、と半ばアキラメの思いを抱いたものだった。それは細部の演出や台詞の修正が影響するといったことよりも、例えば中盤にマスが都知事選に立候補する展開があるのだが、現実の都知事選の展開がよりグロテスクになり、創作が現実に押され気味になってきたことも挙げられる。91年当時も、都知事選といえば内田裕也だったり秋山祐徳太子だったり東郷健だったりといった個性的な人々が登壇する場だったわけだが、先月の都知事選に出馬した奇人・怪人たちに比べたら、エスダマスはずいぶんと穏当な候補者にしか見えないだろう。

 また、「異端者の立場から偽善を撃つ」という行為そのものがSNSの中で娯楽として消費されてしまう昨今では、少年フクスケが前回のように「アンジェリーナ・ジョリー黒柳徹子! 俺とセックスしろ!」と叫んだところで、もはやギャグとして聞いてもらえないという問題も孕んでいる。

 

 そのような「現実」との鍔迫り合いをしつつ、「大衆が楽しめるブラックユーモア作品」を成立させなければならないという矛盾。改めて『ふくすけ』をリニューアルするのはかなりの難事業だったことだろう。それでも、『ふくすけ』の会場としてはこれ以上ぴったりな場所はない「歌舞伎町タワー」内の大劇場でかける誘惑には抗しきれなかったものと思われる。松尾スズキのその気持ちもよくわかる。

 

 しかし2024年版は、往年のテクストから安易に牙を抜いて見やすくしたものではなかった。岸井ゆきの演じる少年フクスケは、性の匂いが曖昧になることで、かつての現代版・不知火検校とは違ったよりポップなキャラクターとなり、盲目の妻に歪んだ愛情を抱くコオロギも、阿部サダヲが演じることでアングラ劇画の気配よりもアッパーな狂気がにじみ出る人物になった。黒木華の演じるサカエも存在感を増し、伊勢志摩がまたヒロミ役に戻ったのも嬉しいし、内田慈演じる看護婦が再演時の池津祥子によく似てるのも驚いた。秋山奈津子のマスは、13年前に松尾スズキが演出した『欲望という名の電車』からそのまま続投したのかと思える若々しさ。

「善意」で取り繕う世間に、意地悪な悪辣さをぶつける狂騒的なカーニバルから、「意地悪」で満ちた世間に愛されなかった者たちの悲劇をぶつけようとする、負の立場から見返したヒューマニズムの物語、というテーマ性はいっそう伝わりやすくなっていたと思う。

 そして、『ふくすけ』を通過した後で「障害者の性」を前面的に押し出した岸田戯曲賞受賞作『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』(1996)を今の松尾スズキが再演したらどうなるだろうか、という想像もさせられたのだった。