星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

透明人間の告白〜書評・山口果林『安部公房とわたし』

 2013年に出版された山口果林の『安部公房とわたし』が、3月21日に改めて文庫化されました(講談社+α文庫)。kindle版も出ています。解説は、生物学者福岡伸一が担当。
 文庫化に併せて、刊行当時、WEB同人誌「もぐら通信」に執筆した書評を再録します。


山口果林安部公房とわたし』(講談社+α文庫)

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透明人間の告白〜書評・山口果林安部公房とわたし』

 山口果林安部公房作品を演じる姿を、一度だけ観たことがあります。

 2006年の日本大学芸術学部NAP公演『周辺飛行<ボクたちの安部公房>〜イメージの展覧会より〜』(演出・加藤直)。さまざまな安部公房作品のイメージをパッチワークのように紡いだ舞台の中で、山口果林は学生中心の若い出演者に混じって『友達』の祖母役や、『箱男』の少年にアングルスコープでのぞかれる女教師役をしなやかに演じていました。
 特に強く印象づけられたのは、『笑う月』の一篇『鞄』を一人芝居で演じた場面です。山口果林は『鞄』全編を暗唱しながら、舞台中央に置かれた鞄にゆっくりと近づき、本文と同じタイミングで持ち上げて見せました。その瞬間、山口果林は鞄の独特な重量感を表現するとともに、鞄そのものに支配されてしまった男の「嫌になるほど自由」な姿を舞台上に出現させました。観客の間に走った戦慄が忘れられません。それはまさしく「安部メソッド」の成果を、遅れてきたファンに向けて披露してくれた貴重な瞬間だったのです。

 本書は、山口果林の自伝的エッセイの集積です。中心となるのは、安部公房との出会い、そして作家のパートナーとしての日常。1969年、安部公房はそれまでの「詩人」、「小説家」、「放送作家」、「劇作家」というキャリアに加え、「演出家」としての活動も開始しようとしていました。ちょうどその進化過程に出会った山口果林が目撃したのは、『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』といういわゆる<失踪三部作>を完成させ、数々の戯曲や放送ドラマで賞を獲得しつくし、海外からも国際的前衛として注目される作家が、新たな創作のために真摯に苦悩する姿でした。「ただひたすら深夜の高速道路を走り続け、ブラックホールに飲み込まれてしまいたい気分になる」と正直に吐露する安部公房連続テレビ小説の主演が決まり、多忙になった山口果林とは、お互いの声を吹き込んだカセットテープを交換し、率直な心情を聞かせあったといいます。盟友・三島由紀夫が自決した翌日には、その知らせから身を遠ざけるかのように東北旅行に向かいました。

 数々の描写の中には、安部公房ファンにとって見逃せない情報がまぎれこんでいます。1970年の戯曲『ガイドブック』上演時において、女1を演じた山口果林は、安部公房からジュール・シュペルヴィエル『沖の小娘』を読むように薦められたといいます。シュペルヴィエルウルグアイとフランス、二つの国籍を持つ詩人・作家。『沖の小娘』は最近でも、『海の上の少女』や『海に住む少女』というタイトルで新訳が出版されている幻想的な短編集です。その表題作は大西洋に浮かぶ架空の町に、たった一人で住む少女の物語。存在するのか妄想なのか、すべてがあいまいな少女のイメージからは、安部作品に登場する数々のヒロインが連想されますが、もしかすると安部公房自身の理想像だったのかもしれません。

 やがて、演出家・安部公房が腕をふるうための実験工房として、劇団「安部公房スタジオ」が旗揚げ。山口果林はその看板女優として活躍することになります。中でも、「言語化しにくい、暴力的といってもよい」公演『イメージの展覧会Ⅱ 人さらい』について、舞台上のイメージが詳述されているのはファンにとって貴重な情報です。『人さらい』は安部公房全集においても、使用された詩しか資料が残されていない謎の公演であり、遠く長編『カンガルー・ノート』につながっている作品なのですから(なお、前述したシュペルヴィエルにも『ひとさらい』と訳された長編小説が存在します)。
 こうした活動が細かく語られる一方、山口果林安部公房が指導した演技論・安部メソッドの解説や、稽古から上演に至る具体的なプロセス、あるいは晩年の安部公房が執着したクレオールに関する興味については触れません。そのため、安部文学の理念的な部分について、なんらかのデータが得られるのでは、と期待したファンは失望することでしょう。しかし、ここに描かれるのはあくまでも山口果林の人生に現れた具体的な記憶としての安部公房であり、文学論の出番はないのです。文中においても、「この『自分史』も、私の記憶を辿る思い出のかけらにすぎない」と語る山口果林ですが、作家のことを「安部さん」や「彼」などとは一度も表記せず、すべて「安部公房」で統一し、微妙な距離感が設定されています。まさにここに描かれているのは、「沖の小娘」から見返された安部公房の姿と言ってもよいでしょう。

 1979年、山口果林安部公房スタジオの退団を決意します。それと同時に、安部公房はスタジオを休眠させ、演出家から隠遁者へと姿を変えることになります。安部公房スタジオの休止については、複数の事情が重なっていると思われますが、演出家としての出発点からそばで共闘してくれた役者の退団は、モチベーションの低下につながったことは想像に難くありません。
 その後は、箱根の山荘で一人、創作と思索に没頭する安部公房の、情感あるスケッチが展開します。
 お気に入りのバッハやピンク・フロイドのほか、バルトークの「弦楽四重奏」やゲルハルト・ヒュッシュが歌うシューベルト「冬の旅」を愛聴する一方、邦楽は大嫌いだった……。
 一般向けの科学雑誌「科学朝日」や「ニュートン」、「クォーク」、「ポピュラー・サイエンス」、さらには「オムニ」や「ムー」まで目を通し、チェスやオセロ、ダーツなどの勝負事が大好き……。
 丸山健二『惑星の泉』に感心し、激賞するつもりで著者に電話をかけるが、安部公房の名を認識しない無愛想な対応にすっかり不機嫌になってしまう……。
 カーレースの中継を愛し、山口果林が車を購入する際には熱心に車選びに口を出し、運転の個人教授も買って出る……。
 映画『霊幻道士』に出てくるキョンシーを真似て出迎えたり、エミール・クストリッツァ監督『パパは出張中!』の夢遊病の少年を真似て夜中にトイレに立つなどの茶目っ気を見せる……(クストリッツァの最高傑作『アンダーグラウンド』をぜひとも安部公房に観せたかった!)。
 モノマニアで、アイディア商品やジョークグッズが大好き、エコスフェール・テクノロジーの水槽など、小さな世界で完結するものを特に愛した安部公房の姿を読むと、『方舟さくら丸』に登場するユープケッチャの着想源だけでなく、『箱男』の写真に添えられたキャプション「小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う」を想起せずにはいられません。
 執筆の合間にも、手を動かしてなにかを創作することを好んだ安部公房の口癖は「人間はサルじゃない」。『方舟さくら丸』でも主人公がつぶやく一言ですが、この言葉には『2001年宇宙の旅』の冒頭に登場する、「進化した猿たち」の姿が念頭にあったのでしょうか。しかし山口果林は、そんな彼をミツユビナマケモノに例えます。省エネルギーに徹してゆっくり動き、群を作らない単独行動の習性。安部公房が自称した「もぐら」と比較すると面白いですね。かつて日本が戦後復興から経済成長に至る時代、未来への期待と不安で混沌とした時代において、過剰な創作エネルギーを発散した安部公房も、システムが固定化し、バブルへの狂騒や思想のファッション化など、社会の流動性が失われた80年代においては、もぐらやナマケモノとして生きるほかなかったのでしょうか。

 そして癌告知。谷信介・編『安部公房評伝年表』によると、1986年初頭ニューヨークでの国際ペンクラブ大会に出席した時点で、安部公房は深刻な体調不良を自覚していたとのことですが、正式な前立腺癌の告知は1987年11月だったそうです。
 闘病するかたわら、安部公房山口果林に文章を書くことを薦め、その指導役を受け持ちます。そして二人で作品の共作を夢想したことまで語られます。80年代、「PLAY BOYドキュメント・ファイル大賞」の審査員を引き受けた理由を、「筆名で応募して、自分で自分に賞金を与えてやろうと思って」と冗談で答えた安部公房ですが、実際に推理小説やサスペンスドラマへの応募で賞金を獲得しようと考えていたとは意外です。これにより、全集29巻に収録された謎の創作メモの正体が判明しました。未完となった長篇『飛ぶ男』の断片かと思われましたが、二人で共作するサスペンス小説のプロット案だったとのこと。また、仁木悦子の短篇『山峡の少女』を脚色したシナリオを執筆したともいいます。
 ここで二人の共作ペンネームが紹介されているのですが、推理作家は「麻須久須麻(ますくすま)」、シナリオ作家は「世見古呂夢(せみころん)」でした。当時執筆中の『飛ぶ男』に登場する人物たちは、「保根治(ほねおさむ)」、「小文字並子(こもじなみこ)」、「剣呑悠慢(けんのんゆうまん)」などの奇妙な名前の持ち主ばかり。この時期の安部公房はこうした珍名を発明するのに凝っていたのでしょうか?

 やがて病状は進行、安部公房は入院体験を元に『カンガルー・ノート』を執筆、「新潮」に連載します。癌闘病中であることを世間に知られることを極端に嫌がる安部公房。世間から哀れみの目を向けられたり、「闘病しながら執筆に励む老作家」という月並みな美談の構図にはめられたりすることが堪え難かったのと同時に、その後の創作と自分の病気を安易に結びつけられ、解釈の多様性を限定させてしまうことを恐れたのでしょう。確かに、安部公房の癌闘病を知ってしまうと、『カンガルー・ノート』の「脛から生えてくるカイワレ大根」というモチーフが、癌の暗喩だという印象を取り払うことは難しい。しかし、結果的に生前最後の長編となった『カンガルー・ノート』に漂う死の臭気は、今さら拭いようのないものでもあり、癌の事実が判明したところで、それは読者が作品から受け取ったイメージをさらに飛躍させるためのクッションとして作用することはあれど、足枷にはならないはず、と私は信じています。
 それよりも、私には安部公房がミュリエル・スパーク『死を忘れるな』を愛読していたという事実の方が、より興味深く感じられるのです。『死を忘れるな』は、邦訳が1964年、1981年、そして『カンガルー・ノート』の執筆開始年にあたる1990年7月にも出版されています。この老人ばかり登場する不思議なコミカル・サスペンスの記憶が甦ったことが、執筆に難渋する安部公房に新たな刺激を与えたのではないか……、と想像がふくらむのを抑えられそうにありません。
 闘病の末、1993年1月22日に安部公房は力尽きます。同じころ、山口果林の母親もまた、末期の膵臓癌を患い、予断を許さない状況でした。そして2月4日に逝去。その後、山口果林は深い喪失感に陥ります。そこから描かれるのは、海外への逃避、ファミコンに熱中、『完全自殺マニュアル』を愛読……といった日々を送り、友人らの支えを受けて、仕事での再起を決意するまで。そう、この自伝的エッセイは、二人の大事な人をほぼ同時に癌で失った人物が、自分自身の生活を取り戻すまでの再生の記録でもあったのです。

 安部公房の遺作となった『さまざまな父』には、ふたつの薬が登場します。ひとつは空を飛ぶ薬、もうひとつは透明人間になる薬。重力の支配を離れて空を飛ぶ姿同様、他者から見られることなく、自分だけが見る存在になれる透明人間へのあこがれは、安部公房が初期から執拗に描いてきた夢でした。しかし「世間から私は透明人間にされてしまった」と書く山口果林にとって、安部公房の評伝から「いないもの」とされる状況は決して待ち望んだものではなかったでしょう。安部公房の死から20年が経ち、ふたたびその肉体を取り戻した山口果林は、透明人間になることを渇望した作家に向けて、ひと筋のライトを浴びせかけました。そのライトは複雑な多面体である作家の一側面をあざやかに照らし出しますが、プリズムの内部で屈折し、分散して吐き出されることになるでしょう。そこで浮かび上がるスペクトルの幅の広さは、読者がどれだけ安部公房の文学を理解しているかによって、差が生じるにちがいありません。


安部公房が箱根で作っていたというピザトーストを再現したもの

 本編中に紹介されているレシピ、安部公房が箱根で朝食用に作っていたという、「食パンにとろけるチーズ、白髪ネギ、その上に金山寺味噌を加えて焼いたピザトースト」を私も作って食べてみました。チーズと味噌の味が混ざりあっておっそろしく味が濃い! 満州で肺浸潤の療養をしていた少年時代には半ポンド(200g強)のバターを毎日食べていたという安部公房、朝からこれほどに濃厚な栄養を摂取しながら、豊饒な夢想にふけっていたのかと思うと、妙に納得させられるものがあります。
 さらには、表紙や口絵に使用された、安部公房撮影による山口果林ポートレート、見返しに掲載された、「山口果林」の芸名をひねり出すために芸名候補の数々を書き散らした筆跡など、山口果林の人生を追体験しながら、さまざまな要素で安部公房という作家の息づかいを感じさせてくれる贅沢な一冊に仕上がっています。

 冒頭に記した日大芸術学部の公演は、山口果林にとって安部公房からの卒業を意味する舞台だったとのこと。この本を読みながら、私は山口果林が見た安部公房の記憶を通して、改めて作品世界のイメージを何度も何度も反芻していました。そしてそれは、今後も続けられることになるでしょう。