星虹堂通信

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安部公房文学の“演劇的”解釈〜ケムリ研究室公演『砂の女』

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 何年も前からケラリーノ・サンドロヴィッチが上演の意思を表明していた『砂の女』の舞台化が、緒川たまきとの夫婦ユニット「ケムリ研究室」でついに実現した。

 大いなる期待と若干の不安を抱きつつ観劇してきたので、その報告を。

 

 安部公房の代表作『砂の女』は、よくよく演劇人の上演意欲をかき立てるものらしく、これまでに何度か舞台化の試みがなされている。限定状況における男女の密室劇だから、つい手を出したくなるのもわからなくもない。私も、この数年の間に小劇場での上演を二つ観ている。

 しかし、いずれも原作のダイジェストか勅使河原宏監督の映画版のなぞり返しに終始してしまった印象が強く、俳優が熱演すればするほど、演劇という表現による『砂の女』の新たな側面を見せてもらった、という気分にはひたれなかった。

 

砂の女』の核となるのは、主人公を外の世界から阻むものでありながら、じつは外の世界そのものでもある「砂」。この砂の存在を舞台上でまず表現できていなければ、演劇にする意味がない。今回、上演台本と演出を担当したケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、KERA)はさすがに手練れで、明快に砂の世界を舞台上に出現させた。実際の砂の使用はほんのわずか、代わりに巨大な布を変幻自在に活用し、プロジェクション・マッピングによる映像投影と、回り舞台を使った家のセットの組み合わせで、作品の背景を見事に具象化した。布をさまざまに駆使するアイディアは、かつて安部公房スタジオが『イメージの展覧会』で、白布を唯一の背景美術としていたことを彷彿とさせ、どこか遺伝子を継承しているようにも見える。シアタートラムの上演なのに、パブリックシアターで観ているかと錯覚するほどの広がりを感じさせた美術は、加藤ちか。生演奏で聴かせる上野洋子の音楽も忘れ難い。

 

 一種の幻想譚(ホラ話)である『砂の女』の世界を、勅使河原宏はまず徹底的なリアリズムで写実的に接触し(なにしろ冒頭は「砂」の顕微鏡写真なのだ)、後半で御陣乗太鼓を大胆にインサートするなど表現主義的に飛翔してゆく戦略で、映像化を成功させた。

 一方、KERA版の舞台は変化する布や、マリオネット人形を使ったイメージ処理、黒子ならぬ「砂子」の面々の動きやリフレイン(くり返し)ギャグの挿入などで、作品が内包するブラックユーモアの要素を舞台上に打ち立ててゆく。

 主人公の男の夢や回想として、別役実風のコントが強引に挿入されるのもユニークだが、そんな大胆な脚色をしながら、原作の「あいつ(男の妻)」の存在を、きちんと残しているのも特徴的。なぜ「あいつ」の存在を忘れていないかというと、KERA版『砂の女』は、男女の愛憎劇として構築されているからで、背景の象徴性が高い分、演者にはリアリスティックな表現が求められる。

「女」を演じる緒川たまきは、私にとっては未だに「文學と云フ事」の『箱男』予告編で葉子を演じた人、という認識だったが、それは今回見事に更新された。『砂の女』の「女」には、安部公房が好んだシュペルヴィエル『海に住む少女』のヒロインが投影されている、と私はニラんでいるのだが、緒川たまきもどこかその面影がある。一方、「男」を演じる仲村トオルは、「戦後のインテリ」だった映画版の岡田英次に比べると、いかにも「平成の青年」という感じでこの舞台には合っている。しかし、女性とのコミュニケーションの中で、オタク風であるとか打算的であるとか、何かもう一味のびしろを見せてくれた方が、スタイリッシュな舞台空間をより生々しくできたのではないかとも思う。

 

 原作は、男が砂穴にやってくる初日から数日間にかけてを細密に描写し、砂穴での生活が始まる後半になるにつれ、どんどん時間の経過が早くなってゆくのが特徴なのだが、編集という技が使える映画と違い、ライブ(生)である演劇では「時間」の操作が難しい。物語を男女の関係性の劇としてとらえ直し、劇的緊張を二人の愛憎に絞った脚色は、カフカ別役実を愛する演出家が、彼らとは異質な原作と格闘しながらひねり出したものだろう。

 その結果、原作のラストを改変し、男が「希望」と名付ける装置への意味づけがかなり異なる脚色になっている。「砂」のイメージが転換する重要な要素をあえて省略することで、「砂」と「女」の本質規定を観客に投げ出すのが、KERA版『砂の女』の新解釈なのだ。正直なところ、原作愛読者の私には、前半での期待が思いのほか飛距離が伸びず、情緒でまとめられてしまったようにも見えたのだが、「演劇的」とはこういうことだ、とひとつの答えを突きつけられた思いもある。

 

 見終わって、安部文学の演劇化を達成したケラリーノ・サンドロヴィッチが、改めて安部戯曲の演出に挑んだら、どうなるだろう、と想像させられもした。その場合、ふさわしい作品は『砂の女』の9年後に、やはり限定状況の男女を描いた『ガイドブック』(1971)ということになるだろうか。登場するのは男一人と女二人。エチュードで建て込まれた無意味な会話の羅列で構成されている。はたして、KERA流ナンセンスが入り込む余剰はあるか?