星虹堂通信

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デジタル世代の安部公房?〜シス・カンパニー公演『友達』

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 シス・カンパニー公演『友達』(上演台本・演出 加藤拓也)を観た。

 安部公房の戯曲としてはいちばんの知名度を誇るこの作品、やたらあちこちで上演されている印象があるが、有名俳優を揃えたメジャー公演として取り上げられるのは、2008年の世田谷パブリックシアター公演(演出・岡田利規)以来ではないだろうか。

 その時の世田谷パブリックシアター公演はハッキリ言って失敗作だったが、岡田を支持する批評家やファンの反応は「演出は健闘したが、いかんせん戯曲が古臭すぎて……」といった感じの、退屈の原因はテキストにある、と言いたげなものが目についた。

「違うよ、演出家の狙いがズレてるからつまんないんだよ!」

 と反発心を抱いた私は、その後の『友達』公演をマメにチェックするようになり、『友達』の魅力を分析するエッセイ「『友達』問答」を書くに至った。

 


 そんな『友達』評論家(笑)としては、今回の公演は見逃せない。観劇を終えての率直な感想をメモしておく。

 今回のシス・カンパニー版の特徴は、戯曲を完全に改変していることだ。セリフを現代口語に修正しているだけではなく、『友達』の初演版(1967)、改訂版(1974・新潮文庫に入ってるのはコレ)、そして原型になった短編小説『闖入者』(1951)を素材に、独自の脚色を行なっており、ほぼ「翻案」と言っていい。かつて世田谷パブリックシアターでの『友達』公演が構成を一部変更したことに激怒し、その後の公演では「テキスト改変不可」を厳命したと伝え聞く著作権継承者が存命だったら、ちょっと許されなかったかもしれない。

 しかし、今後の安部戯曲の上演においては、これは必要な作業ではないかと思う。特に、現代の言葉遣いから遠すぎるセリフの処理で若い俳優たちが苦労を強いられているのはしょっちゅう観ているし、外国人による『友達』の上演で「君、土足はひどいじゃないか」というセリフまで愚直に演じている例を観たこともあるが、テキストを大事にする姿勢は立派なものの、演者自身の「現実感」から遊離した舞台に仕上げたのでは、作品が持つテーマの現代性すら損ねる結果になりかねない。作品を「生かす」ための演出の第一歩として戦略的に行うのなら、テキストの改変・脚色はあってもよいだろう。

 

 問題は、その「脚色」の中身である。

 今回は舞台装置をほぼ使用せず、素劇に近いスタイルで上演される。音楽も冒頭と幕間につんざくノイズ音のみ。外部との通路となるドアを舞台中央の床に設置し、家族たちが床下から侵入してくるイメージを見せるのだが、これは同じ新国立劇場で2017年に上演した安部公房『城塞』(演出・上村聡史)でも、やはり「父親の部屋」に通じる重要な出入口を床に設定していたのを思い出し、いささか損をしている。

 セットや衣装がシンプルな分、台本も削ぎ落としたものになっており、上演時間は90分。家族たちが現れて「微笑み」を浮かべるオープニングも、闖入した家族たちがくり広げる 「泥棒猫」論争も、主人公の足を引っかけた長男に次男が制裁を加える場面も、一幕の最後で主人公がハンモックにくるまれるのも、婚約者の兄(初演版では週刊誌のトップ屋)の登場も、ラストの「今日の新聞」の朗読もばっさりカットしている。

 9人の家族として現れる「世間」と、孤独を愛する「個人」である主人公の対立から抹殺へと至る寓話を、現代の怪談として淀みなく運ぼうとしているのだが、要素を落としすぎてあの家族が「友達」を自称する皮肉が立ち上ってこない。いささかデジタル的に過ぎる、と言いたくなるほどの図式の明快さは原型短編『闖入者』への回帰を意図しているようだ。『友達』が改訂をくり返しながら社会と共に変化し続けた戯曲であることを考えると、面白い場面をほぼ省略して先祖返りしてしまった脚色を「欲がないなぁ」と思ってしまう。

 代わりに、主人公が弁護士に相談に行く場面(『闖入者』)、三男が主人公に語りかける場面(改訂版)、長女が主人公に脱走を呼びかける場面(初演版)などは残しているのだが、9人の家族たちのグルーブ感が不足気味なので、それぞれの細部が家族たちの存在感を大きくする効果へとつながらない。テーマ曲「『友達』のブルース」も、主人公が檻に入れられてからとってつけたように合唱されるのだが、唐突な印象しか与えないし、ラストで次女が主人公に渡す飲物を「牛乳」から「赤ワイン」に変更したのも、私には疑問だった(最後、次女に声をかけるのを次男から祖母に変更したのはよかったが)。

 これだけホンをいじるのなら、主人公が内心で抱いている「共同体への忌避感」をすくい取り、お互いの「善意」がどうしてもすれ違う構造を肉付けしていったほうが、今日的だったのではないだろうか?

 意地悪な見方をすれば、今回の翻案には山崎一キムラ緑子浅野和之鈴木浩介といった達者な俳優たちと、経験の浅い俳優たちとの技量の差がつきすぎることを避ける意図があったのかもしれない。その意味ではアンサンブルに乱れを感じることのない、まとまった舞台だったが、ベテランたちは本来の技量をかなりセーブしている気配が感じられたし、林遣都有村架純らの若いスターも、まだまだ伸び代を残しているようだった。

 

 今回の翻案は、『世にも奇妙な物語』的なテレビドラマの脚色と考えれば、それなりに効果的な出来といえるだろう。スウェーデンで映画化されたシェル=オーケ・アンデション監督の『友達』(1988)も、独自の解釈によるオリジナル場面がたくさん挿入され、映像化に不向きな場面は大胆にカットされていたものだ。しかし、テキストとの格闘が感じられたスウェーデン映画版と比べても、今回の『友達』は演出家が理解可能な範囲でこぢんまりと剪定した内容に見えてしまった。

 2021年に現れた『友達』は、まさに新型コロナウィルスへの対応の混乱まっただ中という環境のため、「多数者正常の論理」や「異者排除の思想」に対する疑問が皮膚感覚で伝わりやすかったと思う。しかし、だからこそ「世間」と「個」の対立構造の先にあるもの、「同調圧力」という流行りの言葉への違和感だけでは収まりきらない、まだ名付けられていない感情を、あのラストから打ち出してほしかったと思う。