星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

『友達』問答〜劇作家・安部公房は甦るか


 

 2014年9月18日(木)から21日(日)にかけて、笛井事務所プロデュースによる『友達』(作・安部公房)が高円寺の明石スタジオで上演される。昨年3月、花組芝居の水下きよしを演出に迎えて上演したものの再演である。
 水下きよしは『友達』に続いて、昨年11月には同じく笛井事務所プロデュースで安部公房の『棒になった男』を演出したが、癌のため今年1月に急逝した。今回の再演では、水下演出を原案としながら、新たなキャストを迎え、文学座の望月純吉が演出を手がけるという。
 なお、笛井事務所プロデュースでは、『友達』、『棒になった男』に続くさらなる安部公房戯曲の上演も検討しているそうなので、ぜひ実現してもらいたいところだ。

 昨年は安部公房没後20年ということもあってか、東京はまさに『友達』の当たり年。あちこちの劇団で上演され、私は6つの公演を観劇した。当然ながら、面白く仕上げたところもあれば、まったくつまらなくしてしまったところもある。
 以下のエッセイは、そのうちの最初の2公演である、新宿サニーサイドシアターと、笛井事務所プロデュースの初演を観た直後に書かれたものだ。


 劇作家としての安部公房の代表作である『友達』は、今後もさまざまな劇団で採り上げられることだろう。このエッセイが『友達』公演を観たばかりの人、戯曲は読んだけれど公演は観たことがない人、あるいはこれから上演しようと考えている人に向けて、なんらかのヒントとなってくれれば幸いである。

 

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『友達』問答


終電車を気にする客と、へそ曲がりの安部公房ファンの会話です。

 

2013年・帰ってきた『友達』

 

  今年は安部公房没後20年ということで、この3月には東京で『友達』がふたつの劇団によって連続上演されました。あなたはひどく安部公房がお好きだそうだから、今回の公演と『友達』という作品の魅力についていろいろうかがってみたいと思います。そういえば去年世間を騒がせた、尼崎連続殺人事件の犯人グループの手口が、『友達』に似ている、という声があちこちで聞かれましたね。

  おっと、この出だしは江戸川乱歩の『カー問答』のいただきだね。乱歩の名調子には及ぶべくもないが、過去にわたしが観ることのできた公演の記憶もまじえて、なるべく努力してみるよ。乱歩で思い出したけど、君はヒュー・ウォルポールの『銀の仮面』という短篇小説を知っているかな。いわゆる“奇妙な味”の代表作として乱歩が絶賛した作品だ。

  いいえ、それはどんな話なんですか。

  ネタバレであらすじを話すが、主人公は一人暮らしを続けてきた初老の裕福な婦人。ある日、みすぼらしい乞食の青年を見かけ、慈悲心から屋敷に連れ帰り食事と金を与えてやる。その後、青年は自分の絵を売りつけようとしたり、秘書の役を買って出たり、なにかと婦人の屋敷に出入りするようになる。婦人が警戒して追い払おうとしても、彼の魅力に抗うことはできない。やがて青年は妻と子供、果てには妻の下品な家族たちまで呼び寄せ、全員で屋敷内に居座ってしまう。心臓に持病のある婦人は昏倒し、屋根裏部屋に閉じ込められる。青年は彼女のコレクションだった銀の仮面を屋根裏部屋の壁にかけてやりつつ言う。『さびしいだろうと思ってなにか眺めるものを持ってきましたよ』……。発表は1933年。後に演劇化もされている名作だ。

  へぇー、ちょっと『友達』と似てますね。

  未訳だった『銀の仮面』を乱歩は雑誌「宝石」の1950年4月号で詳細に紹介している。『友達』の元型である短篇小説『闖入者』の発表は1951年の末だから、勉強熱心で探偵小説ファンでもあった安部公房が乱歩の文章を目にしていた可能性はあるね。

  なるほど、こういう“軒を貸して母屋を取られる”式の怪談は、はるか以前からも書かれていたのですね。しかしジワジワと怖い存在になってゆく『銀の仮面』の青年と違って、『闖入者』の家族たちはいきなり暴力的に部屋に入ってきますよ。

  その通り。安部公房は家族たちをだしぬけに“闖入”する、非リアリズムの存在とすることで『闖入者』を一種の象徴劇として描いた。その後のやり取りを読めば、1951年当時の読者はあきらかに米軍占領下の日本、そして「民主主義」を押しつけられる日本人の姿が諷刺されているととらえただろう。同時に正しい抵抗の手段を持たない一市民が、天井裏から必死にビラ撒きを行うものの、最終的に自殺という手段でしか解放されない、という結末にゾッとしたはずだ。

  読みくらべると『闖入者』の家族たちはほとんど押し込み強盗ですが、『友達』の家族はだいぶおだやかだし、家族の描き分けも細かいですね。

  そう、『闖入者』の16年後に発表された『友達』の家族は“微笑み”と共に現れるのが特徴だね。相手の警戒を解くための笑顔、選挙ポスターや銀行のCM、グラビアの少女たちまで、人に親しみを与える“微笑み”の裏に隠蔽されている暴力性を描くのが、『友達』の主題となっている。いきなり主人公の腹にパンチをくらわせる『闖入者』の家族と違って、『友達』の家族は表面的には暴力を嫌い、とても論理的な会話をする連中だし、『闖入者』の家族たちがほぼ“群体”だったのにくらべ、『友達』の家族たちにはそれぞれ背景がありそうだ。あの尼崎事件の場合、犯人グループは『友達』よりも『闖入者』に近い、というのが正確じゃないかな。なにかと金のことばかり気にするあたりも含めてね。

 

『闖入者』から『友達』へ

 

  ところでぼくは今回、初めて『友達』を読んだのですが……。

  その顔から察するに、あまり面白くなかったようだな。

  正直ちょっと古めかしいな、と思いました。『孤独』を愛する主人公と『おせっかいな世間』を代表する家族たちの対立が図式的というか、あまりにわかりやすすぎるように感じてしまって……。特に主人公対家族の対立がずいぶん食い足りなく感じたんですよ。そりゃあ、いきなり現れた“いじめっ子集団”にからめ取られてしまう人の恐怖は理解できますよ。でも、それならもっと抵抗のドラマが描かれてしかるべきなんじゃないでしょうか。主人公があまりにもあっさり打ちのめされてしまい、その後もずっと負けモードなのは、単なる被害者意識の強調でしかないように思えたんです。『闖入者』ではまだ弁護士に相談したり、ビラを作ったりしてますが、『友達』になるとその辺の抵抗活動もセリフであっさり処理されてしまうじゃないですか。かと言ってその後、奇抜な展開が起こったり予想もつかない結末を迎えるわけでもありません。

  なるほど、「不条理劇の傑作」という前触れを聞いて読むと、そういう違和感を抱くのもわからないでもないよ。ま、その辺の話をする前に、『友達』のテキスト成立の過程を振り返ってみようか。短篇『闖入者』が発表されたのは1951年。これが1955年にはラジオドラマ化されて、1963年にはテレビドラマにもなった。そして1967年に青年座のために戯曲としてタイトルを改め『友達』が完成。1974年には安部公房スタジオでの公演用に『友達(改訂版)』が書かれている。新潮文庫に収録されているのは改訂版の方だ。

  ジャンルを越境しながら同じテーマを煮詰めてゆくのは、安部公房の得意パターンですね。

  1963年のテレビドラマ版の台本は、全集17巻に収録されている。『闖入者』から『友達』への進化過程をうかがう上で興味深いテキストだ。大筋では『闖入者』と同じだが、主人公が娘の運んでくる牛乳によって毒殺されてしまうラストはここから登場した。“人知れず首を吊る”という小説の結末では映像化しづらいと考えて新たなアイディアを導き出したのか、安部の内部でテーマのとらえ方が変わって来ていたのか……。

  キャスティング表を見ると、テレビドラマ版で主人公を演じるのが俳優座小林昭二ですね。『ウルトラマン』のムラマツキャップや『仮面ライダー』の立花藤兵衛で特撮ファンにはおなじみです。

  ラジオドラマ版の台本は、俳優座の演出家・沼田幸二と共作クレジットなので全集には収録されていないが、まぁテレビドラマ版とほぼ同じらしい。俳優座と縁の深かった安部は、『闖入者』の戯曲化を何度も要請されていたようだ。しかし長い間温存しておき、つきあいがありながらこれまで作品を提供したことのなかった青年座のために、とっておきのネタとして執筆したのが『友達』なんだよ。じつは『友達』にはほかの安部戯曲にはない特徴があってね。登場人物紹介のページを観てごらん。

  ええと、「男(三一歳、商事会社の課長代理)」、「父(一見、宗教家タイプの紳士。くたびれてはいるが、礼儀正しい服装。鞄を抱えている)」、「母(オールドファッションの帽子と眼鏡がよく似合う)」……なんだか妙に情報が細かく書いてありますね。

  いつもの安部戯曲では登場人物表はそっけなく、「男」とか「女」とか役名が書いてあるだけなんだが、なぜか『友達』だけ履歴や風貌、年齢が細かく指定されている。こういうのはイプセンストリンドベリなどのいわゆる近代劇でよく見かけるものでね。近代劇とは個人主義・市民主義に基づき、社会問題や人生問題を描くドラマをさす。安部公房としては『幽霊はここにいる』や『お前にも罪がある』のような、日ごろ俳優座に提供しているファンタスティックな戯曲とは異なり、あえて近代劇のパロディを書こうとしていたのではないだろうか。『友達』は二幕の舞台だけど、場面は全部で三つの三幕構造だし、いわゆる「演劇らしい演劇」、1967年当時の時点ですでに「ちょっと古くさいお芝居」のイメージを装いつつ、いかにそこからジャンプできるかに挑戦した、ねじれた戯曲とも言える。多くの読者が安部公房という名前からすぐ“前衛”を期待してしまうのかもしれないが、あいにく『友達』は逆の方向からアプローチした芝居なんだ。

 

『友達』におけるメビウスの輪

 

  そういえば、同じ1967年の秋には『燃えつきた地図』を発表してますね。関連があるんでしょうか。

  いい質問ですねぇ、『友達』が『燃えつきた地図』の執筆中に書かれているのは重要だとわたしは思う。『燃えつきた地図』では失踪者を追う探偵の視点を通して、都市という人の海の中で生成される孤独と焦燥感が描かれていたが、『友達』もまた同じテーマの変奏曲と言えないだろうか。大量の他人に囲まれていても、コミュニケーション不全に陥ってしまう現代人の孤独……。あの家族たちはもはや米軍であるとか民主主義であるとか、そのようなアレゴリーを越えて、個人を包み込む正体不明の他人の海へと発展してしまったんだ。だから『迷いっ子、迷いっ子』と歌われるのは、とらえどころのない状況そのものが相手で、闘争のやりようがなくなったわれわれであり、安住の地を探すかのように彷徨する彼らでもある。すでに対決の構造が崩れているところから始まるのが『友達』なんだ。

  『燃えつきた地図』の探偵も、あちこち動き回ったのにまるで手がかりは集まらず、失踪者の居場所へ接近できた様子は感じられませんでしたね。

  『友達』の家族の中には、“かつて興信所に務めていたこともある”長男がいたね。もしかすると『燃えつきた地図』の探偵が新たに生まれ変わった先が、あの家族の一員になることだったのかもしれないぜ。それに、『友達』では第一幕で家族闖入の夜がじっくり描かれ、第二幕になると婚約者との出会いと、さらに時間が飛んで主人公が脱出に失敗して檻に閉じ込められる一夜が描かれる。第一幕のラストで、主人公がハンモックにくくりつけられ、宙吊りにされてしまうだろう。彼が“蜘蛛の糸”にからめとられた状態をわかりやすく象徴した演出だ。

  ぼく、あそこにも古くさい象徴主義を感じてしまったんですけど……。

  テキストで筋だけ追ってるとそう思うかもしれない。しかしね、主人公が蜘蛛の巣に宙吊りにされた状態から第二幕が開ける、と視覚的に認識する舞台においては、その後のドラマの省略があまり気にならなくなるんだよ。逆に舞台においては君のような不満を抱く客が出ないよう、一幕の段階で脅しにしろ泣き落としにしろ、主人公がじゅうぶん家族に抵抗した結果、すべて無駄だったことを演技で示さなくてはならないから、主役を演じる役者には相当な力量が必要とされるんだ。今回、新宿サニーサイドシアター版では、初演にあった幕間の場面をカットして一幕と二幕をつなげるだけでなく、なぜかハンモックの登場まで省略していた。二幕で元週刊誌のトップ屋と家族たちがノリノリで踊り狂う場面が登場したが、その段階で主人公は毛布にくるまれて置物のように部屋の隅に転がされていたんだ。あれはいけない。なんだか主人公が檻に入れられる前からひどい虐待を受けているように見えてしまう。ハンモックに吊るされる、という行為が父親のセリフ「こうした処置が、ほかでもない、ただひたすら君の安全と無事を願ってのことだってことが、君にはまだよくわかっていないらしいね」そのままに、本当に善意でなされているように見えないとまずいね。

  なるほど。でも、『友達』の主人公はなぜ殺されてしまったんでしょう。『闖入者』の自殺なら、最後の抵抗のように読むこともできるのに、なんとも煮え切らないですねぇ。『砂の女』や『燃えつきた地図』のような“メビウスの輪”構造のパターンなら、男もこの家族の一員として同化するのかと思ったのですが。

  確かに家族の行動としても妙だよね。主人公を監禁したり殺したりしては、給料にたかって生きていくことができなくなるんだから。この家族たちを「寄生虫」と認識している人は多いかもしれないが、寄生虫というのはその大部分が宿主と「共生」の関係を築き上げる、優れた機能を有した生物なんだよ。しかし中には成虫になるために宿主の体内を食い荒らしてしまう奴もいてね……。この家族たちというのは、共生が目的なのか、はなから主人公の財産を奪取して始末するつもりだったのかはわからないが、彼を家族が結束するための対立者として設定していることは確実なようだ。どうも彼らの仲間になるには“血縁”が必要らしい。その違いを説明するために、初稿版では「元週刊誌のトップ屋」、改稿版では「婚約者の兄」という人物が登場する。

  二幕で現れて、自分も仲間入りしたい、と言い出すキャラクターですね。家族たちにはあっさりかわされてしまったけど。

  『砂の女』や『燃えつきた地図』のような、“ミイラ取りがミイラになる”パターンの結末では、主人公が状況と格闘した結果、今自分を取り巻いている状況がそれ以前となんら変わらない、ということに気づくのがポイントだ。ところが、『友達』の主人公は、そのような認識の更新すら許してもらえない。大量の家族たちが築いた“正統”の価値観によって、主人公は最後まで“異端”でしかなく、排斥される。ごく平凡な社会人に思えた主人公でさえ、この家族たちの前では“異端”とされ、檻に入れられてしまうことが恐ろしさの根源なんだよ。ついでに言うと例の尼崎事件だが、わたしはあの家族たちの犯行手口よりも、脱走を企てた家族がベランダの小屋に監禁され、衰弱死させられているという状況が衝撃的だった。連合赤軍が山岳キャンプで起こした凄惨なリンチ事件でもそうだが、“正統”の側にいる連中というのは、“異端”のレッテルを貼った相手を監視下に置き、そこへ懲罰を与えなければ気がすまないようだ。おそらく、その行為が彼らの結束を促すからなんだろう。現実においては、“正統”の場に属すという集団化に必要なのは血縁に限らない。マスコミやインターネットの論調を通じて、常に“正統”と“異端”の区分けが行われているし、今ではそれがさらに複雑化している。「空気を読む」ことをなによりも重用視して、常に自分の身を多数派におくことでやっと安心できる社会。そんな社会の到来が見通された結末と言えないだろうか。

  檻に入れられた主人公が、新聞を読みたがるのは印象的でしたね。

  あそこもいいね。情報から隔絶されることで真の孤独を感じる現代人の心理を如実に表現している。だから演出家は、最後に父親が『今日の新聞』を読み上げる一景をどう演出するか、腕前が問われるところだ。以前、文学座の研究室公演での『友達』を観たことがあるが、そこでは面白い演出がなされていたよ。舞台のセットも衣装も、戯曲が書かれた昭和40年代の雰囲気でまとめていたんだ。戯曲のセリフが現代の日本語ではないから、研究生の若者が演じると無理が生じるのを防ぐため完全に時代劇として設定したんだろうね。しかし、そのおかげでラストに「今日の新聞」がいきなり読み上げられるインパクトは絶大だった。あれはなかなか秀逸なアイディアだったね。

 

怪獣映画としての『友達』

 

  いくつか演出の話が出たところで、具体的な各公演についてうかがってゆきましょう。今回上演された『友達』は、新宿サニーサイドシアターでは初演版、笛井事務所では改訂版をテキストとしているそうですね。やはりその違いは大きいんですか。

  いや、大筋に変化はないが細部が異なるんだ。そもそも新宿サニーサイドシアターの方では初演版をテキストとしつつも細部の多くをカットしてテンポアップを図っていたし、笛井事務所の方では改訂版を用いつつも、初演版にのみ存在する幕間の“管理人の告白”を取り入れていた。その辺の差異をチェックするのもまたファンにとっては楽しいものだよ。落語だって同じ題でも噺家によってぜんぜん違うだろ。例えば、冒頭の電話の使い方とか……。

  主人公が婚約者に電話しているところに、家族が部屋をノックする、あの場面ですね。

  たいていの公演では昭和風の黒電話を使っていて、それは今回の二公演どちらも同じだった。ところがね、2004年に青年座で再演された『友達』では携帯電話を使っていたんだよ。初演を行った劇団として自信があったのか、その時の公演は思い切って現代的にアレンジした『友達』を見せてくれたのだが、べつに問題は生じていなかった。

  その前に、オープニングとなる「友達のブルース」と家族たち登場の一景がありますよ。あそこはどうでした。

  新宿サニーサイドシアター版では、流れる「友達のブルース」と共にいきなり家族が最前方に一列に並ぶんだが、劇場が非常に狭かったので観客たちの前に巨大な壁がそびえ立ったような、妙な威圧感を出すことに成功していた。一方、笛井事務所版では舞台の奥の方に並んで、戯曲に指定されたシルエットの効果を出そうとしていたね。テキストでは家族たちの「影」が背景に伸び、『客席にのしかかる巨人のようになる』と指定してある。あの家族が「砂」や「布」と同じく安部が執着する「不定形」なイメージの象徴であることを示すのは言うまでもない。そうそう、2008年にチェルフィッチュ岡田利規が演出した公演では、このオープニングの一景をまるまるエンディングに移動する、という大胆な改変をしていたな。

  へぇー、どうしてまたそんなことをしたんですか。

  それは岡田氏が別役実による『友達』の批判論文「演劇における言語機能について」を強く意識したからだね。『言葉への戦術』に収録されたこの論文は、雑誌「季刊評論」に1970年から72年まで1年以上に渡って連載された、単行本にして100ページ近い伝説的な長編論文だ。現在は『ことばの創りかた・現代演劇拾い文』という本に入っているよ。この中で、別役は『(略)不条理的な装置を見事に整えながら、一方でそれを文学的に付与する事により単なるオハナシとしてしまう傾向を、私は安部公房の作品からぬぐい去る事は出来ない様な気がする』と安部戯曲をはっきり批判、『友達』を例に“演劇的”とはなにか“文学的”とはなにかを展開ごとに逐一チェックし、鮮やかに解体してみせた。ダメ出しした箇所についてはわざわざ「こうすればよかったのに」と改訂例まで提示している徹底ぶりだ。ここまで明晰かつ論理的、そして説得力豊かな筆致で安部公房を否定してみせた論文はその後も皆無じゃないだろうか。安部ねりさんは、『安部公房を評価してくれたのは評論家じゃなくて作家ばかりだった』と指摘していたが、傾聴に値する批判論を展開できたのも、やはり評論家ではなく作家だったようだね。この中で、別役はまず家族が自己紹介する一幕一景を「不要」と断言する。要約すれば、強盗が最初から“強盗です”と名乗って現れるのは退屈じゃないか、ということだ。あの家族たちが発する「脅威」を演劇的に描きたいのであれば、彼らが「意図的な寄生虫」なのか「善意のボランティア団体」なのか、その本質規定は観客にゆだねられなければならない、とね。だからさっき言った、家族たちの「影」が巨大に伸びてゆく、という仕掛けも別役論によれば、家族たちが本来はらむべき「大きさ」を、最初から視覚的な意味に還元してしまう、つまらない記号化にすぎない、ということになる。

  それはまったく同感ですねぇ。いきなり「千切れた首飾りの紐」と寄生虫の「ヒモ」をかけたダジャレで自己紹介して出てきちゃうというのは、なんとも説明的というかダサいというか……。やはり、謎めいた人たちとして登場して、だんだんその怖さがわかってきた方が効果的ですよ。

  だから最初に言ったじゃないか。そのパターンのサスペンス劇は、すでに『銀の仮面』で描かれてしまっている、とね。

  あ、そうか。

  安部公房は、『友達』において、家族を正体不明の存在として描く気はさらさらなかった。家族を最初から「不気味な微笑みを浮かべた脅威の存在」に本質規定してしまうことが目的だったんだ。だから私は『友達』という作品は、不条理劇だともスリラー劇だとも思っていない。強いて近いものを挙げるなら「怪獣映画」だね。しかも怪獣を退治できない怪獣映画だ。あの家族たちがゴジラと同じ怪獣であることを高らかに宣言するために、冒頭の「名乗り」と「巨大感」の演出はやはり必要なんだよ。「不条理劇」の正しさを説く別役と、不条理劇の意匠を借りつつ「怪獣映画」を語っている安部では最初から立ち位置が違うのさ。

  すると、岡田演出は失敗だったということですね。

  いや、それが舞台の不思議なところで、岡田版ではわたしの観たところ、そこだけはとてもうまくいっていた。すべてのドラマが終った後、改めてあの家族たちが暗闇に笑顔を浮かべながら「孤独を癒す、愛のメッセンジャー」と宣言するのはなかなか皮肉な効果をあげていたよ。岡田利規は別役論をばかに深刻に読み込んでしまったようで、テキストから感じる非演劇性を俳優の肉体で埋めようと画策したあげく、かえって劇空間を弛緩させていたと思う。が、一幕一景をエンディングに持って行くのは効果的だった……。

  なら、けっこうなことじゃないですか。

  ……が、それゆえに問題が大きいと後で考え直した。

  妙なケチの付け方をしますねぇ。これだからマニアは。うまくいっていたのになにがいけないのですか。

  そこで君が言った「メビウスの輪」構造が浮かびあがるのだよ。じつは『友達』という芝居も、やはりこの構造が生かされたエンディングだったんだ。ここでひっくり返って出発点に帰ってくるべきなのは主人公じゃない。われわれ観客なんだ。さっき、この戯曲は冒頭で家族が「怪獣」として規定される怪獣映画だと言ったが、ではなぜ彼らはゴジラのように、キング・コングのように退治されないのか。それは、彼らがわれわれ自身でもあるからだ。男を理不尽に殺した「世間」を代表する家族とは、われわれ自身を映す鏡でもあった。冒頭でおそろしげな「影」と共に「微笑み」を浮かべて現れる家族たちは、水爆実験が生み出したゴジラと同じく、人類の共同体の歴史が生み出した怪獣なのだが、そのエンディングで、死んだ主人公に声をかけてから去ってゆく彼らの姿は巡礼に向かう聖者そのものであり、真実のユートピアを求めて冒険の旅に出るヒーローたちのように見えなくてはならない。最後に浮かび上がる微笑は、それはもう崇高かつ慈愛の精神に満ちた美しいものとして演出されるべきじゃないかな。最後になってから不気味そうな「微笑み」をショーアップしたところで、皮肉な落し噺としか受け取れない。岡田氏の演出は野心的だったし、「主人公を殺した家族=観客自身である」という作品の本質を理解していたとも思うのだが、別役論に幻惑されて戯曲の効果を卑小化させたのは残念だった。

  なるほど。じつはさっき、大江健三郎の『友達』評を読んでいたのですが、彼は初演を観て、アメリカで公演する時は主人公を健康な白人で家族たちを衰弱した黒人一家に、沖縄で公演する時は主人公を米軍の兵士、家族たちを貧乏な労務者一家にしたらどうか、と提案していましたね。普通に作品の比喩を解釈すればその逆になるはずだけど、そうではないのが安部戯曲の特徴なのだ、と。

  『友達』がつまらない、退屈だと思う人の多くがごくシンプルなアレゴリーの文脈でしか読み取れていないと思う。しかし、安部公房が仕掛けるアレゴリーというのは常に裏返しの設計がされ、その奥からなにをひっぱり出せるか、表現できるか、常に読者に対し挑戦を誘っているんだ。軽くノックアウトしたつもりで、実はリングに上がれてすらいないやつがなんと多いことか。

  いやぁ、どうも……。

  そうそう、青年座版のエンディングでは、大胆な仕掛けをしていたよ。なんと家族がゆっくり去ってゆくところで、舞台奥のスクリーンに中東やアジアの紛争地域の映像が映し出されたんだ。まるで彼らが「友達のブルース」のメロディに乗って、戦争の絶えない醜い世界に「孤独を癒す、愛のメッセンジャー」として飛び出してゆくかのようにね。いや、もしかすると世界各地の紛争の火種には、この「家族」のような連中が一枚噛んでいるものだ、と言いたかったのだろうか。説明過剰のようで説明不足な気もするが、驚かされた仕掛けではある。

 

別役実の『友達』批判を受けて

 

  ちょっと話が横にそれますが、別役実の批判論についてもう少し聞かせて下さい。別役は安部と同じく満州育ちで詩人でもありますね。“不条理劇”の先輩に向かって、どうしてそんなに長大な批判を行ったのでしょう。これに対して安部公房はなにか反応してないのですか。

  この論文が書かれたころ、別役実はすでに早稲田小劇場での鈴木忠志との共同作業を解消し、文学座のアトリエ公演などをメインの発表場所にしていた。スタイルを確立する上で、彼がいちばん意識した劇作家はサミュエル・ベケットだ。しかし、ベケット的な方法論はなぜか日本に定着していない。不条理劇の第一人者とされる安部公房の作品も、彼の目によるとどうもおかしい。その違和感を一度、精密に論理化する必要があったんだと思う。だからあの論文はベケット論としても非常に秀逸だ。加えて、別役は『友達』の一年前に『マッチ売りの少女』という戯曲を発表している。これはね、かつて幼い娘を亡くした老夫婦の家に、その“娘”を自称する若い女が訪れる、という話なんだ。

  ほう、別役実も“闖入者”の話を書いてるんですか。

  その娘と名乗る女は何者なのか最後までわからない。さらにいるはずのない“弟”まで登場し、平凡な老夫婦に見えた二人が送って来た「戦後の生活」を告発してゆくのだ。舞台空間と言葉の力で、人間が内面に抱える欺瞞と偽善をあぶり出す、これこそが日本における「不条理劇」の代表作だろう。そんな別役の目を通せば『友達』は不条理劇としては落第だ、ということをきっちり論証したかった。安部と別役の違いを強く感じる指摘をひとつ紹介してみようか。一幕の途中で、管理人と警官が出てくるところがあるだろう。

  ああ、男が不法侵入を訴えても、管理人も二人の警官もちっとも味方になってくれない、というところですね。

  別役はそもそもこういう芝居で警官を出すのはよくない、と指摘している。さらに出してしまった以上、「警官が期待を裏切りまるで機能しない」場面は見ものになってなくてはいけない、とも主張する。しかし現れた管理人と警官は、はなから男に対し非協力的でやる気のなさそうな連中だった。別役はこう書く。

 

  云うまでもなく、この場は、警官の無能ぶりと、事なかれ主義と、非積極性を非難する場所であってはならない。この場だけでなく、あらゆる場を通じて、しなければならないのは、八人家族の本質に迫ることである。そして警官が有能であり、積極性があればあるほど、その本質に迫り得るのだ。もちろん警官は遂には失敗するであろう。しかし、最初からやる気がなくて失敗するよりは、やる気充分で失敗した方が、演劇的ダイナミズムは緊張するのである。

 

 これは有効な指摘ではないだろうか。警官の態度は、安部公房の「警官ぎらい」な性格がナイーブな形で表れてしまった、この戯曲の弱点だと思う。ゴジラに向けての自衛隊の攻撃は、常に真剣そのものであるべきさ。しかし全世界で公演されている『友達』だが、観客から「あんな警官リアルじゃないね」といった類いの非難はほとんど挙がってない、とわたしは確信している。それはまさに、先日の尼崎事件の犯人グループや、桶川で起こったストーカー殺人に対し、警察が長期に渡って機能しなかったという現実を、われわれがいくつも知っているからだ。もちろん現実がそうだからと言って、舞台上の論理構築が不徹底になってよいわけではない。でも実際のところ、もし自分になにかあったとして、日ごろ付き合いの薄い管理人や交番の警官たちが自分の味方になってくれるだろうか。君にその実感はあるかい。

  うーん、そう言われるとおぼつかないですね。

  安部公房はこの場面において、家族のキャラクター強調以上に、都会人が抱く、管理人や警官といった「他人」との関係の希薄さを描くことを優先している。そして、その感触自体は現代人にとっても未だにリアルなものとして受け止められ続けていると思う。これが安部公房のスタイルなんだ。もちろんベケットの演劇理論を正しく理解し、それを継承している優等生は別役実のほうだろう。安部公房カフカベケットへの親近感をくり返し表明してはいるが、じつは彼らとはまったく資質が異なる作家だった。こんなことを言うと怒り出すファンがいるかもしれないが、安部公房は、“不条理”の芸術表現に向けて、ストイックに思索を深める哲学的な作家というよりは、ヴァリエーション作りに長けた職人作家としての魅力がその本質だという気がする。鮮やかな“補助線”の発見という技巧によって読者・観客にさまざまなイリュージョンを展開する手腕は、芸術家というよりも奇術師に近い。安部公房は若いころから晩年まで、やれ条件反射だ、動物行動学だ、大脳生理学だ、分子生物学だ、クレオールだと最新の科学理論を敏感に学習してきた。それは一貫して「言語」というテーマを追い求めていたからだが、その学習で得た成果を常に創作に反映してもいる。だが、それらの理論を正しく理解したのかどうかは少々疑問の余地があるところで、自分の内部に抱えたアイディアに向けてかなり恣意的に解釈する傾向が見受けられる。しかしそれこそ作家としての誠実さの表れじゃないだろうか。学習の過程で奇術のネタを発見し、華やかなイリュージョンに昇華して現実の世を映し返す。そのイメージが形を変えた詩となってわれわれ読者の内部に残ればいいのさ。少々強引な部分があったとしても、既成の秩序や論理の矛盾を無視して、新たな現実構築へ向かおうとするこの姿勢、まさにバロック的なエンターテイナーと言ってもいいだろう。

  『友達』がいまだくり返し上演されるのは、その奇術の効果が多くの人に忘れられないからでしょうね。

  安部公房は自分の批評に敏感だったから、もちろん別役の批判に気づいてはいただろう。しかし、表立った反論はしてない。だが、別役論が出版された翌年の1973年に安部公房スタジオを旗揚げし、自作自演出の道に踏み込んだ。他人の演出への不満解消と、自分の創作を前進させるためだ。そしてスタジオの活動後期では、舞台でのみ表現可能な抽象劇「イメージの展覧会」のシリーズも始めている。こうした活動そのものが、安部なりの“演劇的”表現の追求であり、自分の作品を正しく理解してくれない劇壇への反論代わりだったんじゃないだろうか。

  安部公房スタジオでの公演用に書き直された改訂版『友達』には、別役批判を意識した要素はありますか。

  初演版では幕間に管理人がビラを撒く場面があるね。まぁ実際に観客全員にビラを撒くのは大変だから、管理人が一人芝居で「自分はべつにあの家族たちに買収されたわけじゃありません」と観客に向けて語るように演出されるのが定番なのだが、あれは別役の指摘通りあまりに言いわけがましいと思ったのが改訂版ではカットされている。でも笛井事務所の公演ではわざわざこの場面を改訂版の幕間に挿入していたね。管理人を演じる役者に見せ場を与えたかったのかもしれないが。そして二幕で家族たちを絶賛する「元週刊誌のトップ屋」の登場も、別役から「あまりにストーリーテラーでありすぎる作者によるフォルム無視」と指摘されていたが、「婚約者の兄」という無難な存在に変更しただけで、役割自体は継承している。やはり、「主人公が家族に仲間入りする」可能性を観客の心から摘み取っておくためだろう。それから初演版で長女がハンモックに吊られた主人公を誘惑しようとする場面。別役はこの場面をほめていたのに、改訂版ではバッサリとカットし、いきなり次女が長女と主人公の脱走計画に気がつく場面に飛ばしている。

  ほう、ぼくは文庫に入っている改訂版で読んだのですが、初演版ではそんな場面があったのですね。

  その代わり、改訂版では「三男」という存在が新たに登場し、公園の場面で婚約者に去られた主人公と会話する芝居がつけくわえられている。ここで三男は初演版の長女と同じく、主人公の味方になってくれるのかもしれない、と錯覚を抱かせる会話をしているね。ところが三男が去った後に現れる「婚約者の兄」の態度がさらに主人公の絶望を深くする。そして一気に脱走発見の一夜に飛ぶ、と終局に向けての構成はなかなか目まぐるしい。もしかするとこの後半、安部公房は機会があれば何度でも手を入れたかったんじゃないかな。さまざまな可能性を模索しているように感じられる。『友達』はまだ発展過程の戯曲なのかもしれないね。

 

劇作家・安部公房は甦るか

 

  そろそろ終電の時間が近づいてきました。最後に、ひさしぶりに上演された『友達』を観て、改めて気になった場面などありますか。

  そうだね、じゃ残り二分で解説するよ。笛井事務所版は過剰な装飾を避け、シンプルな舞台に戯曲の印象を折目正しく再現しながら、終局までボルテージが減じることなく駆け抜けた。これだけ端正な出来の『友達』は、過去に観た公演の中でも屈指だ。あまりにもスマートな出来映えで、もう少し夾雑物を混ぜてもよかったんじゃないかと思うほどだよ。一幕で男の周囲を激しく移動する家族たちの動きも、そのつどユニークな構図を形成する“群衆の詩”と設計した水下きよしの演出力には、戯曲への敬意と確固たる美意識を感じたな。ちょっと気になったところを挙げると、ラストで主人公を毒殺した次女が、「もう逃げなくてもいいの……もう、どこにも、邪魔をする人なんかいなくなったの……」と、その檻の前で泣くところがあるよね。ト書きでは「静かにすすり泣く」と指定されているのだが、水下演出の次女はまるで自分自身も檻から解放されたかのような、慈愛の精神を感じさせる表情を浮かべていた。「善意を結晶させたような、清楚で可憐な娘」と人物紹介で規定されているキャラクターとしては、違和感のない演技ではある。かたや、新宿サニーサイドシアター版のほうでは、次女は檻に取りすがり、涙で顔を歪めながら、かなり力強い調子で愁嘆場を演じてみせたんだ。新宿版は、小屋も狭く、演者の技量もバラつきが目立つ粗っぽい出来ではあったが、この場面に関しては、こちらの方が深く心に刻みこまれたね。われわれを含む今の大衆・世間一般は、気持のいい「涙」のためにわざと犠牲者を生み出す性質があるからだ。この場面はよくある難病ものドラマのように、次女は主人公の死を心から嘆き、観客の「集団化」を誘うベタな涙を流すのが正解ではないだろうか……というのがわたしの見方。君はどう思うかな。

  『友達』なんてもはや古典だから、どこがやってもそう変わりないだろうと思っていたんですが、けっこう違いが生じるものなんですねぇ。ぼくも、次に上演される時は必ず観に行こうと思います。

  安部公房と言えば、小説では『砂の女』、戯曲では『友達』が代表作となっているね。もちろんそれは正しいのだが、あまりにもそのイメージが先行しすぎているのは、安部作品を理解する上でマイナスではないかと思っている。どちらも比喩の喚起力が強力でわかりやすい作品に見えるが、そのわかりやすさの奥にさらなる複雑な世界が広がっていることに気づく人がどれだけいるのか。特に劇作家・安部公房を評価する上で『友達』は避けて通れない作品かもしれないが、ほかの作品を無視してよいということにはならないぜ。テキストの変遷という点では『友達』以上にややこしい展開を遂げた『どれい狩り』や、執拗にこだわり続けた日本人の戦争犯罪テーマの総決算である『城塞』、精神病院を舞台にした安部公房版『ドグラ・マグラ』とも言える『愛の眼鏡は色ガラス』、これらの作品が上演されれば、現代の読者も劇作家・安部公房の万華鏡のような魅力にいやでも気づかざるを得ないだろう。

  そうですね、『どれい狩り』が上演されたらぜひまたお話をうかがいたいものです。では、これから駅まで駆け足ですよ。

  うちに泊まっていけばいいのに。「友達」じゃないか。

  いやぁ、待っている「家族」がいますからねぇ……。では、おやすみなさい。

                                       (終)
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 このエッセイを書いた後に、シェル=オーケ・アンディション監督のスウェーデン映画『友達』(1987)を観る機会に恵まれた。
 主演は『ヤング・ゼネレーション』のデニス・クリストファー、長女を『蜘蛛女』のレナ・オリン、長男を『奇跡の海』のステラン・ストルスガルドが演じるという今思えばなかなかの豪華キャスト。全編英語で、カナダはカルガリーの無機質な近代都市でロケを行っている。主人公と婚約者だけアメリカ人俳優だが、闖入する家族たちは、スウェーデン人俳優で占められているというキャスティングだ。
 映画用にかなり大胆な改変が加えられ、原作の持つブラックユーモアの味を拡大しようとしているものの、その工夫がどこか中途半端に終わってしまい、作品世界にプラスの要素をもたらさないのが苦しい。なんでも当初予定されていた監督が撮影中に降板、脚本を担当した(安部公房の指名だったという)シェル=オーケ・アンディションが監督も兼任することでどうにか完成させたそうで、現場の混乱がフィルムに表れてしまったようだ。
 とはいえ、北欧の人々があの「家族」をどうとらえたか、日本の安部公房ファンにとって興味の尽きない作品ではあることはまちがいない。ソフト化されて多くの人が観られるようになることが望ましい。