星虹堂通信

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クールだが無機質ではない安部公房コメディ〜パルコ・プロデュース2022『幽霊はここにいる』

 年またぎの年末進行に追われる中、どうにかPARCO劇場の『幽霊はここにいる』を観ることができた。

    安部公房の戯曲としては『友達』(1967)と並ぶ代表作であり、岸田演劇賞受賞作でもある『幽霊はここにいる』(1958)は、戦友の「幽霊」を連れ歩く男・深川と、目には見えないその幽霊を使ってひと儲けを企む詐欺師・大庭をめぐる諷刺喜劇だ。

 過去の上演を何度か観ているが、終戦から10年余り、高度経済成長への狂奔が始まった当時(1958年初演)の世相をリアルに描こうとすると、重くなってミュージカルの要素が窒息するし、ポップでオシャレなコメディにまとめようとすると、日本人の戦争の記憶をめぐるテーマが肉離れを起こしてしまう、なかなかやっかいな戯曲でもある。

 この作品がジャニーズタレントを主演に迎えた商業演劇として蘇るとは思わなかった。演出は文学座の稲葉賀恵で、企画も彼女のものらしい。「新進気鋭」の若手が背伸びして手を出したところで、去年のシス・カンパニー版『友達』のような大惨事になるのでは……と心配になったが、イヤイヤどうして、テキストの多重構造を取りこぼすことなく、きれいに着地を決めた見事なエンターテインメント劇に仕上がっていた。客席を埋め尽くした若い観客たちも、この作品の幽霊が「死者の魂」そのものだけではなく、見えないものに価値がつく「資本主義」や、見えないものに触れるシャーマンが権力を握る「信仰」のメカニズム、さらに過去の記憶(妄執)や将来の可能性(未知数)まで広く視野に入れていたことを、しっかり受け取ることができたと思う。

 

 舞台装置は砂を敷き詰めた円形の空間と、その空間を囲むカーテンだけが設置されたシンプルなもの。カーテンが閉じたところにシルエット(影絵)が浮かぶ仕掛けはあるが、流行のCGアニメーションやプロジェクション・マッピングなどは使用せず、パフォーマンス主体のアナログな手触りでまとめ上げている。

 キャスティングはカムカムミニキーナ八嶋智人大人計画田村たがめ阿佐ヶ谷スパイダース伊達暁、唐組の稲荷卓央、「天才てれびくんYOU」でレギュラー出演してもらった堀部圭亮といった、ずいぶん昔から馴染みの深い役者陣が勢揃い。彼らが安部公房スタジオの定小屋だったPARCO劇場(当時は西武劇場)で安部作品を演じるとはなんとも感慨深いものがある。

 詐欺師・大庭三吉を八嶋智人とは、ちと貫目が軽くないかという不安が脳裏をかすめたが、八嶋はいつものメガネに大きな口ひげを加え、その身のこなしはさながらグルーチョ・マルクスいきいきとした詐欺師の登場にすっかり嬉しくなってしまった。そうすると、姿が見えず声も出さない「幽霊」がハーポで、その通訳である深川がチコか。この作品が海外でも人気あるのは、マルクス兄弟風の幽霊喜劇として受け入れられているからかもしれない、と初めて思い至った。

 大庭が始めるビジネスは「幽霊」を使った一種の信用詐欺なのだが、彼が何かと振り回す緑のハンカチも印象的。緑の布きれ=greenbacks(ドル紙幣)にかけているのかもしれず、そう思うと円形の舞台装置も貨幣の象徴に見えてくる。アンサンブルの面々の服装も幽霊ビジネスが動き始めると体の一部に金色が入るなど、小道具や衣装にも細かい遊び心が感じられた。

 深川を演じるのはジャニーズWEST神山智洋。以前この役を演じた上杉祥三や北村有起哉といったクセ者たちの記憶が残っているので、いささか演技にコクが乏しい感はあったが、良い意味で素朴かつ善良そうな佇まいは深川に合っていたし、幽霊に殴られる場面のマイムはさすがの身体能力を見せてくれる。

 今回の上演では、三幕劇を二幕に修正(二幕11景の後に休憩が入る)、セリフを少々切りつめてテンポを出し、代わりに深川が歌って踊るナンバーを一つ加えているのだが、まぁ、神山クンを主役に迎えてソロの歌と踊りがなくてはファンが納得しないのはよくわかるものの、深川という役にはそんなに“華”を感じさせない方が、後半彼の内面が露出するようになってからの対比がより明確になったのではないかと思う。しかし、神山の湿り気を帯びつつも澄んだ声は確かに魅力的で、これなら声優としてもやっていけそうだ。

 また、戯曲を尊重し「気違い」、「アカ」、「シケピン」といった言葉を修正しなかったのもエラい。

 

 砂が敷き詰められた円形舞台は『砂の女』オマージュかと思いきや、中央を掃き分けると赤い床が露出し、ファッションショーのレッドカーペットに転じるという使い方も面白く、さらにここで描かれる「幽霊ファッションショー」、過去の上演でも芝居の見せ場として美術や衣装が念入りに設計される場面だが、今回は幽霊の服だから「見えない」ファッションショーという解釈で、モデルを演じるアンサンブルは全員白一色の下着姿。その格好でごく典型的なランウェイショーを演じることで、「裸の王様」的滑稽味を醸し出す。なるほどね。

 さらに、戯曲通りのラストシーンが演じられた後、ゆっくりと空爆や銃撃の効果音が立ち上り、舞台中央に傘を持った深川が砂の雨を受けながら一人立ち尽くす。これは、今も「ジャム」を求める人々が幽霊を生み出し続ける限り、深川のような男もまた現れるのだ、という今年のロシア・ウクライナ紛争をふまえての主張に見えた。すると足元の赤い床はジャムの色か流血の筋か。

 

 クールではあっても、無機質ではない象徴劇として上出来の仕上がり。これなら『どれい狩り』や『快速船』、『可愛い女』といった安部公房の初期喜劇を商業演劇として再生することもできるのでは? と思わせてくれる。

 なお、公演パンフレットには安部公房スタジオの参加俳優だった浅野和之のインタヴューが載っており、浅野が安部スタジオ版『幽霊はここにいる』(1975年上演)に裏方として参加していたことを初めて知った。