星虹堂通信

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追悼・安部ねり〜安部公房『(霊媒の話より)題未定』出版記念トークライブ報告(2013年2月20日)

安部ねり安部公房伝』(新潮社)

 安部公房の長女にして『安部公房伝』(新潮社)の著者である、安部ねりさんが、8月16日に亡くなられた。享年64。
 安部作品の著作権管理者であり、安部公房全集の編集委員としても尽力した。その名が宮沢賢治グスコーブドリの伝記』に登場する、ブドリの妹ネリに由来することも、安部ファンの間では有名だ。
 追悼として、2013年2月20日に文芸評論家の加藤弘一を相手に行われた、安部公房短編集『(霊媒の話より)題未定』発刊記念トークライブのレポートを再録する。WEB同人誌「もぐら通信」のために執筆したものだが、掲載後、安部ねりさん本人から「自分の発言が、一部誤って書かれている」と編集部に連絡があり、後日修正版を載せ直した記憶がある。pdfで配布される同人誌の記事にまで細かく目を光らせているのだなぁ、と驚いたものだ。
 紀伊國屋書店新宿南店はその後、売り場を大幅に縮小して洋書専門店に模様替えし、トークライブ会場となった「ふらっとすぽっと」も今はない。しかし都市の姿が日々変貌しても、それに合わせて安部文学の魅力は今も新たな貌をのぞかせ続けている。そのための基礎を整えてくれた、安部ねりさんに感謝の気持ちを伝えたい。
 なお、再録にあたって文章を一部削除・修正した。

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安部公房」に缶切りを!〜安部ねり加藤弘一トークライブ報告〜


 安部公房『(霊媒の話より)題未定』出版を記念して、安部ねり加藤弘一トークライブが、2月20日夜、紀伊國屋書店新宿南店3Fのオープンスペースで開催された。

 スタート15分前に到着すれば、トークライブ「ふらっとすぽっと」とは、本当にちんまりしたスペースで開催されるものらしく、用意された椅子は20脚にも満たない。そのおよそ半分にお客さんが着席済みだった。やれやれ間に合ったワイ、と最前列のかぶりつきに腰を下ろす。するとその後わずか10分足らずの間に席はみるみる埋まってしまい、スタッフがあわてて追加の丸椅子を用意するもとても間に合わない。開始時間を過ぎるころには40人近い人だかりが3Fの一角を埋め尽くさんとするほどにふくれあがった。安部公房人気、健在なり!

安部公房『(霊媒の話より)題未定』(新潮社)

 やがて黒の上下に身を包んだ安部ねりさんと、あったかそうなセーターを着た加藤弘一さんが登場。司会進行は『(霊媒の話より)題未定』の装幀を担当したデザイナー・近藤一弥さん。近藤さんがお二人を紹介し、トークが始まった。

 まずは、未発表短編『天使』の発見状況について。安部公房の弟・井村春光氏の家から見つかったもので、同時に公房からの書簡も少し発見されているそうだ。近藤さんは展開するトークテーマに合わせて、パソコンから幼少期の安部やかつての家族写真などの資料画像を、背景のスクリーンに投影してくれていたのだが、この時は発見された書簡の一部が映し出された。
 公房・春光兄弟はとても仲が良く、春光は5歳で母・ヨリミの実家へ養子に出されるが、この時、8歳の公房は「弟がどれだけさびしい思いをしているか」と思いを馳せたようだ、と語るねりさん。
「小説の処女作である『(霊媒の話より)題未定』の主人公、パー公の孤独感というのは、弟を思う公房の気持がすごく出ていると思うんです。また、あれは当時の家族とその周辺の人物がモデルじゃないかとうかがわせるキャラクターが多くて、肉親としてはそのあたりも楽しいですね」
 ねりさんによると『(霊媒の話より)題未定』の原稿はきちんと保存されていたそうだ。「父は死後発表されることを見越していたのかもしれません」
 すると加藤さんも、
「『(霊媒の話より)題未定』は東京で書き、満州へ持って行ってまた持ち帰っているんですね。そんなに大事にしていたということは、発表の意志はあったんじゃないかな。生きてるうちには出したくなかったのかもしれない」
 と、うなずく。ねりさんは続けて、
「初読の印象では『罪と罰』を書き直したのかな、と思ったんです。ドストエフスキーは個人の罪と社会の罰について書いたんだけど、パー公は罪の意識も罰の意識も内面に持っている。まぁ、父は三島由紀夫『影響を受けた作品を自分の中で新たに書き直した作品だってあるんだ、他の人はまずわかんないだろうけどね』と語っていたので。また、『(霊媒の話より)題未定』はその後の安部作品の予兆を感じさせる要素も多いですね。安部公房は過去の作品自体をずっと書き直し続けていた作家なのだな、という思いを新たにしました」
 ねりさんはパー公の特技が声帯模写、というところも気になったそうで、他人を観察するのが大好きだった安部公房の「人間コピー機」な性質を受け継いだキャラクターなのかな、と思ったと語る。しばらく聞き役に回っていた加藤さんが、ここで切り込む。
「『(霊媒の話より)題未定』は日本の話ですよね? あの田舎のモデルは北海道なんでしょうか?」
「いや、北海道って土俗的じゃないんですよね……。中国と日本のミックスかな」と、首をかしげるねりさん。「当時は東京から北海道に行くのに鉄道に乗ってずいぶんかかりますからね。途中で見た東北の村のイメージもあるのかも」
「“故郷喪失の文学”と言われる安部文学だけど、初期はけっこう故郷を描いてるイメージあるんですよね」と、加藤さん。「“故郷喪失”というキーワードはハイデガーが元になっているのだろうが、安部公房の内部でだんだん後付けされてきたものかもしれない」
 と、安部公房の幼少期をめぐって話題は進み、ねりさんは公房の親友・金山時夫について熱心に語り始める。金山は小学生の時に母・ヨリミの紹介によってつきあいが始まった友達で、よく二人で中国人居住区に遊びに行っていたという。
「『箱男』でね、“社会の底辺”とされるホームレスに目を向ける感覚も、すでにこのころからあった気がするんです」
 やがて安部公房は東大へ、金山時夫は東工大へと進むが、昭和20年、金山は幼い許嫁を連れて満州へ帰ることを計画。公房も同行して満州に渡るが金山は結核で死亡してしまうのは『安部公房伝』に書かれた通り。公房は医師である父・浅吉の助手として、各地でコレラの予防注射をして回りながら金山の母親とその許嫁を捜索し、ついに発見。日本へ連れ帰るために尽力したという。

 ところで、加藤さんによると、今回出版された『(霊媒の話より)題未定』は、新潮社の提案では『題未定』~『虚妄』までの9作が収録される予定だったそうだ。
「9作だと、ちょうど本の厚さが220ページになるんですって。220ページというのは彼らの経験上、いちばん売れるページ数らしいんだけどさ(笑)
 しかし加藤さんが、『鴉沼』と『キンドル氏とねこ』を収めることを主張、11作品を収録する現行の形となった。
「『鴉沼』はね、公房が奉天を描いた作品を入れたかったんです。そして私は初期作品では『夢の逃亡』と『鴉沼』が断トツで優れていると思っているので、これはみなさんが読めるようにしたいと」
 未発表作品がほとんどの今回の作品集で、『鴉沼』だけが雑誌「思潮」に発表済の作品なのだが、その謎は加藤さんの猛プッシュにあったわけだ。安部公房奉天を明示的に舞台とした作品には、ほかに『異端者の告発』、『友を持つということが(憎悪の負債)』がある。
 一方、『キンドル氏とねこ』については、
「『キンドル氏とねこ』は、文体がまたかなり変わって、『S・カルマ氏の犯罪』に近づいているんですね。コモンさんとかカルマ氏という名前も出て来て。『壁』への展開を予告した作品として入れておきたかった」
 確かに、この2作が加わることで、新刊『(霊媒の話より)題未定』は安部公房の出発点から、リルケの影響、満州体験の反映、『壁』への予兆、と助走期の作品群が俯瞰して楽しめる構成になった。

「そういえば父は不思議の国のアリス』をいつ読んだんでしょうね。すごく高く評価してたけど」
 と、『壁』の連想から語り出すねりさん。後で調べたところ、『不思議の国のアリス』という訳題が日本に登場したのは1930年。外国ではジェイムズ・ジョイスやミステリ作家のエラリー・クイーンなど、アリスのモチーフを作中に散りばめる作家が30年代からいたのだが、日本では戦後かなり経たないと登場しないようだ。ディズニー製作によるアニメ版の日本公開は1953年である。加藤さんも、
「『不思議の国のアリス』を大人が読むようになるのって、1970年前後からですよね。ジル・ドゥルーズが『意味の論理学』でアリスを取り上げたのは1968年。安部公房はずいぶん早くアリスに注目していたことになります」
 そこへ近藤さんから、「戦後、安部公房はそうそうたる画家たちとつきあっていたから、彼らが学んでいたシュルレアリスムの影響もかなりあったのでは……」と発言あり。確かに、『アリス』はテニエルの挿画も含めて、シュルレアリスト聖典とされていた作品だ。おそらく安部公房は「夜の会」に参加していた芸術家たちとの交流を通じて、『不思議の国のアリス』の価値に気づいたのだろう。「夜の会」の中心人物だった花田清輝もまた、この時期のエッセイでよくルイス・キャロルと『不思議の国のアリス』について言及している。

 やがて、ねりさんは安部公房がよく語っていたイメージとして、
メビウスの輪死の商人を思い出すんです。平和の裏側には必ず『死の商人』がはびこっている、というイメージは、50年代に東欧の共産主義国を見て回った体験などが根底にあるのかしら」
 これを加藤さんが引き取り、共産党体験などを含めたそれらの思考が、安部公房「歴史を複眼的に見る」姿勢につながっているのではないか、と語る。
「例えば『榎本武揚』です。榎本は実際のところ妙な人物ですが、安部作品の中では、“第三の道”を探して、負けるとわかっている八百長戦争を仕掛ける人物となっている。これはすごく陰謀史観的な解釈ですが、安部公房が本気で榎本をそういう人物ととらえていたのか、それとも陰謀史観をもてあそんでひねり出したひとつの見方なのか、興味はつきないですね。今年の大河ドラマ『八重の桜』では、榎本武揚はどんな描かれ方をするでしょうか?」
 ちなみに『八重の桜』で榎本武揚を演じているのは山口馬木也だが、1980年の大河ドラマ獅子の時代』では、安部公房スタジオ発足時にメンバーだった新克利が演じていた、ってこれは余談です。

 続いてねりさんは、「本当にウマの合った二人だった」と安部公房三島由紀夫の幸福な交遊関係に触れ、安部公房の友達は右翼が多かったな、とポロリ。さらに、
「『終りし道の標べに』が出た時、推薦人は埴谷雄高、激賞の手紙を送ってきたのは石川淳、最初に批評を書いて褒めたのが三島由紀夫。『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞をもらった時は、川端康成が推してくれました。認めてくれるのは作家ばかりなんですよね、評論家じゃなくて
 と言うと、加藤さんもうなずき、
「評論家は鈍いですね。三島論にくらべると安部論はぜんぜん少ないし……」
 なぜ少ないのかと問われて、
缶切りが見つからないんだと思いますよ。安部公房の文学をどうやって蓋開けていいのか、わからないんです」
「みなさん、(缶切りを)見つけてください」
 と、ねりさんの観客への呼びかけで1時間のトークライブは幕となった。

 振り返れば、会場には50人前後の観衆でひしめいている。最初から立ちっぱなしの人どころか、遅れて来て場所を見つけられなかった人も多数いたことだろう。主宰者側もここまで集まるとは想定外だったようだ。
 Twitterで過去に会話を交わしたことのある安部公房クラスタの面々もちらほら顔が見える。『運動体・安部公房』の著者である鳥羽耕史さんも熱心にメモを取っていた。若い人も多く、後方には早い時間から席を取っていた中学生と思しき少年二人組もいた。彼らは親に連れられて来たわけではなく、自らの意志でこの場に駆けつけた安部公房ファンのようだ。あの若さで今回のトークを理解しながら聞いていたのなら頼もしいことだ。いずれユニークな安部公房研究者に、あるいは斬新な手法を打ち出す表現者へと成長し、われわれの前に姿を現すかもしれない(声をかけとけばよかったかなぁ?)。
 訪れたファン全員が、安部文学に対する新たな「缶切り」の発見を課題と受け取ったことだろう。いや、本誌読者でこのレポートを読んだあなたも、独自の「缶切り」を作成し、安部文学の蓋をこじ開け、さらなる愉しみをひっぱり出していただきたいと思う。


週刊新潮」2013年5月16日号掲載の安部ねり談話記事