星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

安部公房のオブジェを再現してみた〜そして、去年出た2冊の研究書について



NHK「訪問インタヴュー 安部公房」(1985)

 昨年の秋、日本映画専門チャンネルNHK総合「訪問インタヴュー 安部公房が再放送された。ご覧になった方も多いだろう。

『方舟さくら丸』刊行直後の安部公房が、斎藤季夫アナウンサーを相手に、自作解説から自身の原風景、そして小説論を語るこの番組、本放送は1985年1月14日~17日の全4回。後に採録したテキストが安部公房 方舟は発進せず』というタイトルで刊行され、安部公房全集の第28巻にも収録されている。
 テキストに記された各回のサブタイトルは以下の通り。

第1回 核時代の絶望・なわばりと国家

第2回 旧満州・青春原風景

第3回 小説は無限の情報を盛る器

第4回 前衛であり続けること

 じつは私も見るのは初めて。長年見たいと思っていた番組だけに、トータル80分、じっくり堪能した。掲載用に整理・修正されたテキストと違い、言いよどんだり、つまったりするニュアンスがしっかり感じられる「肉声」には、慣れ親しんだ論理に新鮮な情感が加わり、新たな色彩を感じさせた。安部が斎藤アナに向かって遠慮がちに、それでいてやや自慢げに自作のシンセサイザー音楽を聴かせるところなど、なんともかわいらしいのである。
 収録の背景として使用されたのは、第1回から第3回までが安部公房の箱根の仕事場、そして第4回が渋谷の安部公房スタジオの稽古場であり、映像資料としても見どころの多い番組だったが、さてこの第3回、仕事場の棚上に置かれていたヘンテコなオブジェに注目したい。


箱根の仕事場に置かれたオブジェ

 これはトイレットペーパーの芯をつなぎ合わせたもの。
 安部公房はなにかと手を動かすのが好きで、廃物を利用してオブジェを作る趣味があったようだ。ただの廃物でしかなかったものから、ひとつの作品を創造する、「ジャンクアート」というやつだ。熱心な安部公房ファンならば、このトイレットペーパーの芯を使ったオブジェをすでに目にしたことのある人もいるだろう。オブジェ制作中の安部を撮ったスナップ写真が新潮社の「新潮日本文学アルバム/安部公房などに掲載されているし、山口果林も安部からプレゼントされたというトイレットペーパー芯のオブジェを、著書『安部公房とわたし』の口絵写真に紹介している。

 どれ、私もひとつ似たようなものを再現してみようではないか……と思い立ったのはだいぶ前。その後、冬眠に備えるリスのごとくせっせとトイレットペーパーの芯を貯めこんできたのだが、半年を過ぎ、すでに40本あまりもたまっていた。材料としては不足なし!


まず、トイレットペーパーの芯を集める

 材料が揃ったのなら、あとは組立に入るだけ。作り方はシンプルそのもの、芯の両端を折り込み、接着してゆく。設計図も完成予想図もなし、即興重視の一発勝負! 
 芯に色を塗ったら仕上がりがキレイかな、とも考えたが、「ゴミらしさ」が失われる気がして今回はそのまま組立を行うことに。


どんどんくっつけてゆく

 いやぁ、簡単、簡単~と作業を続けようとするが、たちまち停滞することに……。
 意外なほど接着に時間がかかる! 紙の工作なのでペーパーボンドを使用していたのだが、そもそも厚紙には不向きだったらしい。端を折り込むと左右の紙は内側に凹んでしまい、接着面は端部のみに限定される。そのため、接着力もかなり弱い。
 ボンドが固まって接着され、次のパーツをくっつけることができるようになるには一晩かかるようだ。乾燥を待つのが面倒なので、いくつかの芯で複数のパーツを先に作成し、乾燥してから集合合体させることに。


先にいくつかのユニットを組み上げてみる

 しかし後日、この複数パーツを改めて集合させようとしたところ、組み合わせの形が限定されるため構成に苦しむハメに陥った。どうも「塊」がぶつかり合って、もっさりしたスタイルになっちゃうのだね。それに、面白いと思える組み合わせが浮かんでも、芯が複数になると重量が増すため、乾燥中に落下したりして支え役のパーツとうまく接着できないのだ。あー、もう、イライラする!
 ああでもない、こうでもない、と頭を悩ましながら、やはり基本となる芯からスタートし、地道に少しずつパーツを付け足していくべきだったか、と後悔したがすでに時遅し。まさかこれほどまで接着に難航するとは。


安部公房の制作風景

 安部公房自身の制作風景を見直すと、子供がブロック遊びを楽しむように、ひょいひょいと組み合わせているように見えるのだが。なにか芯の接着面が広く確保されるような工夫がなされているのかもしれない。よく見りゃ接着剤に使っているのは木工用ボンドか? 半信半疑で木工用ボンドを使用してみる……。おおっ、確かにくっつくぞ! しかもペーパーボンドよりずっと接着力が強そうだ。すごいぞ木工用ボンド!
 と、喜んだものもつかの間、やはり乾くのが遅い……。パーツがくっつくまで組み合わせた姿勢でじっと時間経過を待つのがつらすぎる。
 結局、コンビニで瞬間接着剤を買ってくることに。さらにドライヤーで温風をかけるという二段構えで、かなりのスピードアップを図ることができた。


完成が近づいてきた

 それでも数日かかって、ようやく全体の形がまとまり、あとは残りの芯を周辺に追加してゆくゆくばかり……。と、思っていたところ、床に置いてあった制作中のオブジェに家人がうっかり蹴つまずき、たちまちバラバラに四散してしまった。
 どうも制作初期にペーパーボンドで接着した箇所が衝撃に弱かったらしい。さらに多重になったことで重量がのしかかり、あちこち疲労もたまっていたようだ。
 なんとか再現しようと試みるも、元がどうなっていたかがイマイチ思い出せない。経過写真を頼りに復元を試みるのだが、一度接着剤を塗って乾燥した箇所って、ツルツルに固まってしまい、改めて接着剤を重ね塗りしても非常にくっつきにくいのだね。
 しかたなく新たな組み合わせを探ることに……。層が高くなるにつれて、重量がのしかかって下部の接着面に負担がかかる。これを補強するため、柱となる箇所を追加したり、芯の接着面の隙間に工作用ボンドを流し込んでみたり、悪戦苦闘の日々がさらに数日続いた。

 と、まぁこの調子でちまちま作業を続けておよそ2週間。どうにかすべての部品を接着し、ついに完成と相成りました。


完成!

 あちこち貼り直した箇所が汚かったり、あふれた接着剤が垂れ下がっていたり、トイレットペーパーの切れ端が残っていたりもするが、まぁ試作品としてはこんなものだろう。芯によっては再生紙使用のため色が違っていたり、「まいどありがとうございます」などと文字が印刷されていたりもするのも面白い。ただの使用済みの筒でしかない物体(モチーフ)が、有機的にからみあい、もつれあって一つの迷路のようなイメージを形成しているあたり、安部文学のエッセンスを感じなくもない。


お部屋のインテリアに!

 そもそも、トイレ(便器)とは、安部公房が好んでカメラで撮影した対象であり、『方舟さくら丸』に登場した巨大な便器や、エッセイ「便器にまたがった思想」なども思い出す。排泄物という個人的なゴミが、張りめぐらされた下水道を通じて何かに変化する装置でもある。トイレットペーパーの芯も、そんな希望につながる魔法のパイプだったのかもしれない。


路上に出現させてみた

 外に持ち出し、路上に置いてみた。
 どこかウルトラ怪獣の「ブルトン」を彷彿とさせる佇まい。あちこちから突き出したパイプが「覗き穴」のように見えてくる。


パイプから覗き見た「世界」

 撮影を終えて持ち帰ろうとしたところ、突風に煽られ、パーツがバラバラと崩壊!
 ほうほうの体で部品を拾い集めて持ち帰り、ふたたび修復を試みる。このように「完成」を拒否する姿勢、いつまでもスクラップ&ビルドを行える、可変性に満ちたところが、このオブジェのいちばんの魅力かもしれない、と思いながら。
 いや、さっさと「新作」にとりかかった方が早いか?

 さて、冬休みの工作レポートの次は、書評コーナーである。


李先胤『21世紀に安部公房を読む〜水の暴力性と流動する世界』

 2016年に出版された安部公房研究書を2冊紹介しよう。
 どちらも若手の研究者によるもので、博士論文をベースとしたものだ。

 まずは、李先胤『21世紀に安部公房を読む 水の暴力性と流動する世界』
 安部公房作品といえば、「砂」や「箱」や「布」など、不定形で可変性に満ちたイメージに世界を投影する手法が印象的だが、この本は新たに「水」というモチーフに注目し、初期から80年代まで、作品歴を横断して安部文学の方法論を分析する。
「水」が印象的な安部作品といえば、『洪水』、『水中都市』、『第四間氷期』、『人魚伝』などがスラスラと挙げられることだろう。しかし著者は、『鴉沼』の沼や『S・カルマ氏の犯罪』で大洪水を起こす涙、『砂の女』で砂穴の底に作られる溜水装置、『他人の顔』で変身のきっかけとなる液体窒素、『けものたちは故郷をめざす』で引揚船が、『榎本武揚』では軍艦が航行する巨大な海にまで網を広げ、流動的な「水」のイメージが、常に生と死をめぐる暴力を内包して表れること、同時にまだ名づけえぬ「怪物」が新たなる生を獲得する場として設計されていることをすくいとって見せる。
 水を使った演出効果を主体に安部公房作品全体の世界観を語ってゆく手つきは、どこか優れた映画批評を読んでいる気にさせてくれし、我々が大津波を経験した後だけに、奇妙な説得力も感じる。第二次世界大戦という大きな暴力が終焉を迎えた数年後に登場し、日本の戦後復興と共に才能を開花させた安部公房が、時代の転換点を迎えるたびに新たな読者を獲得し、今も世界中で読み継がれるその魅力、その生命力の源泉を探る考察でもある。
 韓国人による安部公房研究書としては、すでに呉美安部公房の<戦後> 植民地経験と初期テクストを巡って』(2009)が出ているが、1950年代、満州の引揚者であり共産党員でもあった安部公房の思想と背景にこだわる呉論と違い、より俯瞰した視点で「怪物の誕生」を描く作家・安部公房の魅力を抽出することに成功している。

坂堅太『安部公房と「日本」〜植民地/占領経験とナショナリズム

 そしてもう一冊、坂堅太『安部公房と「日本」 植民地/占領経験とナショナリズム。こちらは、徹底的に引揚者のコミュニスト安部公房にこだわった本である。
 安部公房作品といえば、その無機質でエキゾチズムに頼らない作風を「国際的」、「無国籍的」、「故郷喪失」、といった用語によって語られることが多い。が、安部がそうした「内的亡命の文学」を明確に志向するようになるのは『砂の女』以後であり、それ以前の1950年代、安部は「戦後日本の現実」と「日本人の精神構造」に愚直に向き合い、その思索の成果を積極的に作品に反映する作家だった、と再考をうながす内容だ。
ナショナリズム」というと、現代では「愛国心」とか「郷土愛」といった言葉と同一視されがちで、右翼の掲げる思想と思っている人が多いかもしれない。が、そういった思想はパトリオティズム愛国主義)に含まれるもので、本来のナショナリズムとは「自分が身を置く文化的共同体に対し、統一・独立・発展を求める思想運動」であり、終戦直後は共産党が積極的に掲げていた概念である。
 著者は、満州からの引揚者として<植民地支配者>の経験を持ち、米軍占領下の日本で<被支配者体験>も持つことになった共産党員・安部公房が、当時の日本に対して、どのような「ナショナリズムの確立」をめざし、どのような「故郷」の現出を夢見ていたのかを、さまざまな資料を駆使して探ってゆく。
 このアプローチの先行研究ではすでに鳥羽耕史『運動体・安部公房』(2006)があった。こちらは「評論家はすぐカフカだキャロルだポーだとか引き合いに出すけど、初期の安部公房がもっとも意識したのはマルクスと『資本論』に違いなく、だいたい50年代の旺盛な創作活動は、戦後日本社会でマルクス主義と格闘しながら、芸術運動家としてジャンルを越境した交流を行った成果にほかならないのだ」、と政治と時代背景の面から実証的に読み解き、安部公房の「国際性」とは戦後日本のローカリゼーションを土壌に育成されたものである、と改めて主張してみせるもので、硬直していた安部公房論の世界に新たな光を当ててみせた。
 では、『安部公房と「日本」』は『運動体・安部公房』を超える衝撃力を持ち得ているか、というとエビデンス(証拠)に拘泥するあまり、作者と作品に関する身上調書をえんえん読まされているような気分になってしまうのは否めない。俎上に乗せられる短編『変形の記録』、ラジオドラマ『開拓村』、1956年の東欧紀行をめぐるエッセイの数々といったテキストをめぐる実証報告は興味深いし、当時の執筆背景について、興信所的な調査を行うことの価値は認める。が、このままでは安部文学の魅力を1950年代と日本左翼活動史の結びつきに閉じ込めてしまいかねない。例えばこの視点から、あえて『闖入者』と『友達』を比較してみるとか、『内なる辺境』の内容を考察し直すとか、「共同体思想」を警戒し、「他人」との通路の回復が可能か否かを問い続けるに至った『砂の女』以後の安部文学解読の手がかりを伝える「ひらめき」を提示してほしかった。安部のミュージカル論を取り上げた最終章(「アメリカ」とナショナリズム)の続きをぜひ読みたい。

 言ってみれば、安部公房という巨大な缶詰に対し、独自の缶切りで入口をこじ開けようとしたのが李先胤論缶の組成と生成過程について詳細に調査したのが、坂堅太論という感じ。
 このまま若い世代による安部公房論が陸続と現れることを祈りたい。