星虹堂通信

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コメディアンたちとの再会〜小林信彦『決定版 世界の喜劇人』

 小林信彦『決定版・世界の喜劇人』が出版された。

 もともと香港映画のホイ兄弟から入ったコメディ好きではあったけど、いわゆるクラシック喜劇に目覚めたのは、中学生の時に実家の書庫で発見した『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』がきっかけだ。そこからどうやって新潮文庫版の『世界の喜劇人』を発見したのかはよく思い出せない。とはいえ、隣町の本屋で購入したそれが、小林信彦およびマルクス兄弟とのファースト・コンタクトだった。つまり私はスクリーンやテレビ放送ではなく、「文献資料」から喜劇人を認識した世代なんですね。

 しかし幸運なことに、時代はレンタルビデオ全盛期。ど田舎でも『我輩はカモである』や『マルクス兄弟デパート騒動』に加え、『キートンの大列車追跡』に『キートンの蒸気船』、『ロイドの牛乳屋』、さらには『ダニー・ケイの天国と地獄』や『ル・ミリオン』(ルネ・クレールですよ)といった作品はすぐさま観られたし、テレビをつければ深夜映画や午後の洋画劇場で往年の喜劇映画を放送する文化が残っていた。ボブ・ホープディーン・マーティン&ジェリー・ルイスウディ・アレンの初期作品などを「答え合わせ」のごとくチェックすることもできたのだ。

 上京してからはあちこちのマニアックなレンタルビデオに遠出してはマルクス兄弟アボットコステロのビデオを探して回り(当時は『キートンの月ロケット』なんてメキシコ映画までソフトになっていた)、アテネ・フランセ文化センターの「バスター・キートン特集」にせっせと通った。これで海外からのフィルム収集の世界に踏み込んでいれば完全にKERAの青春時代とダブってしまうところだが、インターネットの時代が始まり、さまざまな情報入手が容易になったおかげで「笑い」の方向性も多様化したせいか、クラシック喜劇ばかりにのめり込んでいるわけにもいかなくなった。また、それぞれの喜劇人に対する小林御大との評価のズレを感じるようになってきたのも大きい。

 しかし1970年前後にニューヨークやヨーロッパのシネマテークを回って旧作喜劇の観賞を行った小林信彦の努力と啓蒙活動については、21世紀に今になるほど感服するばかりである。

 

 今回復刊した「決定版」は、前半部が新潮文庫版『世界の喜劇人』の復刻で、1960年初頭に書かれた「喜劇映画の衰退」を中心にスラップスティック・コメディが中心に語られ、後半部が「『世界の喜劇人』その後」と題して、『アニー・ホール』以後のウディ・アレンや、ビリー・ワイルダープレストン・スタージェスなどのソフィスティケイテッド・コメディ、80年代以降に登場したスティーブ・マーティンジム・キャリーなどについて書かれたエッセイやコラムを集めたパートになる。喜劇映画ファンには嬉しい編集だが、ここまでするなら「マンハッタンに赤潮が来た夜~マルクス兄弟の方へ」や「リチャード・レスターの新しさ」、「サイレント喜劇の系譜を辿ろう」といった文章も収録してほしかったなぁ。まぁ、厚くなりすぎるし、やたらに増やしても編集が混乱するのもわかるけど。

 再読して感じたのは、「サタデー・ナイト・ライブ」出身の芸人たちは取り上げているのに、モンティ・パイソン」への言及がないこと。やはりあの露悪的なブラックユーモアは江戸っ子には「粋」ではない、と思えたのだろうか。御大は『Mr.ビーン』も認めてないし。


 この出版を機にシネマヴェーラ渋谷で開催された「小林信彦セレクション/ザッツ・コメディアンズ・ワンス・モア!」にも何度か通って、珍しい作品の劇場上映に立ち会った。わけても嬉しいのは『進めオリンピック(Million Doller Legs)』(1932)が入っていたことで、ポーリン・ケール大絶賛という触れ込みのスポーツ喜劇、ようやく観賞できましたゾ。製作にハーマン・J・マンキウィッツ、原案がジョセフ・L・マンキウィッツの兄弟、監督はバスター・キートン短編時代の共作者エディ・クライン。

 1932年開催のロサンゼルス五輪を茶化した内容で、財政破綻を目前にした国にやってきたアメリカ人セールスマン(ジャック・オーキー)が、大統領はじめ異常な身体能力を持つ国民を五輪に出場させれば賞金は総取りだ、と思いつくというお話で、閣議に出席するなり閣僚全員を腕相撲でねじ伏せる大統領(W.C.フィールズ)とか、あちこちに出没する謎のスパイ(ベン・ターピン)がついには室内の「絵画」の中に入っているとか、追ってくる使者から逃れようと馬や車やボートを駆使してはるか遠くまで疾走するが、その先で使者が悠然と待っている、といった漫画的なギャグの鶴瓶打ち。これ、基本的にはマック・セネットが20年代に量産した狂騒的なドタバタのトーキー版で、サイレント時代のユーモアをいかにトーキーで再現するかの試みが興味深かった。

 ところが改めて『決定版・世界の喜劇人』に収録された「『進めオリンピック』のおかしな世界」を読み返すと、(2024年になってもう一度観たら、面白いのはベン・ターピンの謎のスパイのみだったが)なんて注釈が書き加えられていて吹き出した。いやいや、そこまで下方修正しなくてもよいのでは、と思ったけれども私ももう一度観たらどう思うかはわからない。

 

 そして4月8日には御年91歳の小林信彦トーク付き『モロッコへの道』(1942)の上映というイベントが。劇場に入ると、小林御大が新潮社スタッフらしき人と「ウチの父はドロシー・ラムーアのファンだったんですヨ……」などと会話している声が流れているので、客入れ音楽の代わりにトークを流すのか斬新だなと思いつつ聞き耳を立てていたところ、やがてそれはスピーカーの切り忘れだったと判明するというずっこけギャグがいきなり炸裂。

 別室からのリモート中継でスクリーンに現れた小林信彦、声は弱々しいが数年前の脳梗塞重篤だったとは思えないほどしっかりした様子で、『モロッコへの道』に出会った中学三年生の時の記憶を切々と語っていった。やはり娯楽映画の「お約束」を茶化したパロディ(危機があってもパラマウントと5年契約を結んだばかりだから大丈夫〜、と歌ったり、ミュージカルシーンでボブ・ホープビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアの歌声が入れ替わったり、などのギャグ)にびっくりして影響を受けた、とのことで、これがパロディスト小林信彦の出発点となったことを再確認。さらに、

「あの当時はなんでも略していたので『アラスカ珍道中』も『アラ珍』なんて呼んだもんです。公開一作目の『モロッコへの道』がもし珍道中シリーズで題名ついていたら、『モロ珍』でちょっとアブなくなっちゃう……」

 なんてギャグで客席を沸かせたのち、車椅子で場内に入場、『モロッコへの道』を観客と共に観賞していった。

『世界の喜劇人』の著者と珍道中シリーズを共に観られた感慨で、映画の面白さも三割増しになった気分。今回の上映で『モロッコへの道』と『アラスカ珍道中』を観た後、DVDでシリーズ全作を再見したが、今見て面白いのは『アラスカ〜』で、マシなのは『モロッコ〜』と『南米〜』ぐらい。しかし、その後の「オレたちひょうきん族」や「とんねるずのみなさんのおかげです」で多かったパロディコント、あの基本はだいたい珍道中シリーズにありますね。