星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

無声喜劇のギャグ世界〜『<喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット自らを語る』




『<喜劇映画>を発明した男〜帝王マック・セネット自らを語る』(訳・石野たき子 監訳 新野敏也)を読み、ひさびさにサイレント・コメディの豊饒な面白さについていろいろと思いを馳せたのでメモしておこう。

  マック・セネット(1880〜1960)とは、アメリカの映画プロデューサー。
スラップスティックコメディ(ドタバタ喜劇)の育ての親であり、今からおよそ100年前にあたる1910年代〜20年代にかけて作品を量産した。その過程で、チャールズ・チャップリン、ロスコー・アーバックル、メーベル・ノーマンド、ハリー・ラングドングロリア・スワンソンフランク・キャプラ、W.C.フィールズ、ビング・クロスビーら数々のタレントを発掘している。


キーストン警官隊の勇姿

 セネット作品といえば、まずは「キーストン警官」と呼ばれるマヌケな警官隊が派手な追っかけを演じるドタバタ喜劇であり、さらにコメディの合間に「水着美人(ベイジング・ビューティーズ)」を登場させ、映画に集うボンクラどもの欲望を煽りに煽った。現代におけるグラビアアイドル文化の基礎を作った、と言ってもいいだろう。


水着美人(Bathing Beauties) 当時としては衝撃的な露出度

 往年のマック・セネット・コメディーズ撮影所の雰囲気を伝える動画をYou Tubeで見つけたので紹介したい。

 冒頭、騒がしい撮影所のデスクで一人悠然としているのがセネットだ。オフィスにライオンが現れても動じません。 それにしても楽しそうな職場である。

 この様子を観れば、セネット撮影所がどんな映画を作っているかは一目瞭然。もう一本、1924年の“Lizzies of the Field”というせネット作品も紹介しよう。喜劇映画研究会では
『最凶自動車レース』という題名で紹介している13分ほどの短篇で、主演はビリー・ビーバン。

“Lizzies of the Fields”(1924)


  いきなり猛スピードでベッドを暴走させるビリー・ビーバンという、安部公房の『カンガルー・ノート』そっくりなイメージから始まるチキチキマシン猛レース映画。
時間のない人は6分過ぎからのレース本番だけでも御覧あれ。レース中、タイヤが外れてしまったため、ビーバンが転がるタイヤを自転車で追いかける。するとすべての出場車をたちまち抜き去ってゆく……なんてナンセンスギャグは私の好みだ。ブレイク・エドワーズ監督『グレートレース』(1965)は、こうした往年のレース喜劇へのオマージュだが、やはりオリジナルの勢いの良さにはかなわない。

 カナダ出身の製鉄所工員だったセネット少年が、オペラ歌手をめざしてニューヨークへ渡り、舞台役者を経てD.W.グリフィスの映画製作現場に飛び込んだのが1909年。グリフィスの下で映画製作を学び、独立してキーストン撮影所を設立するのが1912年。たちまち喜劇専門の映画スタジオとして大成功、巨万の富を築いたのだから、映画がいかにすさまじいベンチャービジネスだったかがよくわかる。
セネットはサービス精神旺盛な昔のカツドウ屋なので、回想をやや面白く脚色する傾向があり(本人も認めている)、ホラ話も多いようだ。しかし意外に正直な話もしており、

今まで、僕は何年もの間、スラップスティック映画の発明者であると気取ってきたけれど、そろそろ真実を告白するタイミングかな。フランス人がスラップスティックを発明して、僕は彼らを真似ただけなんだ。彼らがやった以上の功績に僕は到達しちゃいない。なぜなら、フランス人は面白いことを実行するチャンスがあると、究極を目指すからだ。(本文81p)

 などとあっさり種明かしもしている。
 そう、リュミエール兄弟からシネマトグラフの特許を譲り受けたパテ社や、そのライバルのゴーモン社では今世紀初頭からさまざまな喜劇映画を量産していたのである。
例えばこちらは、ゴーモン社製作の“La Course à la saucisse(ソーセージ競争)”(1907)。監督はアリス・ギイ(ルイ・フイヤード)。4分ほどの小品なので、コメディ好きにはぜひ御覧いただきたい。

“La Course a la soucisse”(1907)

 お魚くわえたドラ猫ならぬ、ソーセージくわえたワンちゃん追いかけて町はすっかり大騒動、という追っかけコメディ。スピーディーで完成度も高く、セネットたちのキーストン喜劇を完全に先取りしている。
 カナダ出身でフランス文化に親近感を抱くセネットは、こうした仏製喜劇映画をよく観ており、おれもやりたい、おれなら警官隊を活躍させるんだが、という構想を早くから抱いていたようだ。しかしグリフィスは喜劇が得意ではなく、それなら自分でやるしかない、ということで独立した。
 なぜフランス源流のドタバタ喜劇がその後セネットらメイド・イン・アメリカの作品に主流を取って代わられてしまったのか? それについては『<喜劇映画>を発明した男』の注釈できちんと解説されている。ちなみに新野氏によるこの注釈、固有名詞の説明にとどまらず、1954年刊行の原著の誤りを指摘し、今世紀になってから判明した事実まで詳細に書き込んだ大労作。さらに『銀幕喜劇人小辞典』の付録つきなので、サイレント・コメディにくわしくない読者も安心して手に取ることができる。

 セネットが最初に設立した「キーストン撮影所」でどんな映画を作っていたか観てみたいと思った人は、チャップリンの初期短篇作品をまとめて収録したDVD-BOX『チャップリンザ・ルーツがお薦めだ。
このBOXのDisc1〜6に収められているのが、チャップリンのキーストン撮影所時代の短篇映画である。デジタル修復された画質は鮮明だし、画面効果を計算した伴奏音楽も名曲ぞろい。

 が、喜劇として面白いかというと……正直、微妙です。
 当時のキーストン喜劇は大量に集めたコメディアンたちにひたすら大げさな演技でガチャガチャしたドタバタを演じさせるものが多く、いかにも粗製濫造で古めかしい。しかし100年前のアメリカの風景・風俗が活写されていること、チャップリンの映画におけるパントマイム芸の発展をじっくり観察できる点では、重要な価値がある。

 『メーベルの身代わり運転』(1914)がアップされていたので、ちょっと例に挙げてみよう。

“Maber at  the Wheel”(1914)

 

 監督・主演はメーベル・ノーマンド。冒頭、原付二輪に乗って飄々と現れるチャップリンだが、メーベルにフラれるや冷酷な悪漢に豹変、レーサーであるメーベルの彼氏を拉致監禁してしまう。彼氏がレース場に現れないため、メーベルは身代わりとしてレースに出場、チャップリンはメーベルを妨害しようと発煙弾を投げこんだり、レース場を水浸しにしたり……という話。

チャップリン自伝』やデイヴィッド・ロビンソンの評伝『チャップリン』には、この作品についてもいろいろなエピソードが語られていて興味深い。映画界に入ったチャップリンはキーストン撮影所の監督たちとうまくゆかず、仲のよかったメーベルの班に回されたのだが、ここでも彼女とギャグ演出をめぐって衝突してしまったという。
  9:00ごろからの、ホースで水を撒いてレースを妨害する場面。チャップリン「ホースをうっかり踏んづけて水が出ないため、筒口を覗き込んだところで水が放出、ずぶ濡れになる」、というギャグを提案するが、メーベルは怒り出してしまった。映画の世界では先輩となるメーベルは、
「そんな定番ギャグ、リュミエール兄弟がとっくに通過してるワ!」
とでも思ったのかもしれない。チャップリンはメーベルに秘かな好意を抱いていたらしいが、こと芸となると頑固一徹、妥協はしない。
「舞台経験もない小娘がオレに『笑い』を演出しようってのか?」
と不満が爆発したのかもしれない。
  映画を通じて自分の芸を記録するだけでなく、人間を深く洞察したドラマを描きたいと考えていたチャップリンは、他愛ない物語の中で機械的なドタバタを演じさせられることに我慢できなくなったのだろう。その後、チャップリンは自作自演の方向に進み始める。

 そしてこちらは『メーベルの身代わり運転』から2年後、ミューチュアル社に移籍したチャップリンが監督・主演した『午前一時』(1916)。なんと冒頭のタクシー運転手以外、俳優は誰も映らない、完全にチャップリンの一人芝居の作品である。

“One A.M.”(1916)

 

 演じられるのは、酔っぱらいが大邸宅に帰宅して眠りにつくまで。舞台時代から得意とした酔っぱらい芸を映画の世界に移し替えた野心作だ。特に9:00過ぎからの、二階に上がろうとしては階段を転落し、やがて時計の振り子との珍妙な格闘へと発展するくだりは、何度観てもほれぼれする。「帰宅して寝室に向かう」それだけの行為が、ここではスリル満点の大冒険活劇に転化してしまうのである。
 先の『最凶自動車レース』を見ると、狂躁的なギャグが次から次へと連鎖し、その中央にビリー・ビーバンというヒゲのおっさんがのんびり構えていることで絶妙な可笑しさが醸し出されてはいるものの、ビーバン自身が芸人としてどれほど面白いかはいささか疑問が残る。演出とアイディアが先行し、役者はそれを支える道具にすぎないからだ。
 しかし『午前一時』で描かれるのはチャップリンでなければ演じられないギャグ世界であり、数々のアイディアもチャップリンの肉体を通じることであきらかに輝きを増している。また、最後まで観た観客は、この酔っぱらい紳士へのほのかな愛情すら抱かせられることだろう。
 セネットとチャップリンの喜劇センスの違い、なぜチャップリンの作品が未だ輝きを失わず、大衆向けの「直感的で単純明快な視覚効果」にこだわったセネット喜劇の大半が現在忘れられているか、という点でも考えさせられる部分である。

 だが、マック・セネットのマンガ的ナンセンス喜劇をさらに発展、より高度に完成させた喜劇人もいる。その人物こそ、キーストン撮影所から独立したロスコー・アーバックル(通称:デブ君)の弟子にあたる、バスター・キートンである。
先日、渋谷アップリンクで開催された、「柳下美恵のピアノdeシネマ」バスター・キートン特集を観賞してきた。そこでは、喜劇映画研究会が編集したキートン作品のギャグ・アンソロジーも上映されたのだが、キートンが演じるギャグは、セネットが好んだ「直感的で単純明快な視覚効果」に基づく、デジタル的なギャグが多い。しかし、それらの非現実的・記号的ギャグが、キートンの体技」というアナログ的な表現によって演じられることで、現実とマンガの境界があいまいな、さらなる悪夢的構造の深化を獲得できているのだ。

 その日上映された一本、『文化生活一週間(キートンのマイホーム)』(1920)もネットで容易に観賞できる。

“One Week”(1920)

 

  新婚のキートン夫妻は、お祝いに叔父さんから組立式住宅セットをプレゼントされる。しかし恋敵が部品の箱ナンバーを書き変えたため、世にもヘンテコな新居が完成してしまう。新築パーティーを開催するが、やがて暴風雨が訪れ大混乱に……という話。
マーク・トウェインあたりを彷彿とさせるアメリカの「ホラ話」だが、クライマックスの暴風雨襲来から先の超展開にはまったく唖然とするほかなし。

 

「柳下美恵のピアノdeシネマ」の上映会には、アクロバット・パフォーマンスのAsakoが登場、倒立を基本とする、沢入国際サーカス学校(群馬県にそういう学校があるのだ)仕込みの芸を披露してくれたのだが、彼女曰く、中盤で見せる直立した梯子に乗っている状態でクルリと裏側に回ってみせる芸、これはかなり修練が必要だそうで、こうした難技をまったくなにげなく見せてゆくところに感心したという。
 さらに、喜劇映画研究会の新野敏也による解説トークも行われ、そこでは暴風雨から一夜明けての、目覚めたキートン夫妻が振り返ってボロボロになった新居に驚く場面を例に挙げて、キートンのセンスを解説していた。凡百のコメディアンなら、ここでは大げさに飛び上がるなり、表情を作るなりして感情を表現するが、キートンは新居を映したロングショットのまま、妻と二人で倒れかかり、「人」の字の形でバランスを取ってみせる。「衝撃」の感情を、顔を映すことなく、まったく斬新な表現で描き切るセンス。この独創的な演出力が、当時キートンと同等の技量を持った体技系喜劇人もたくさんいたのに、キートン作品のみ再評価されている重要な要素なのではないか、と。

 実際、マック・セネットはロスコー・アーバックルが発掘したバスター・キートンの才能にすっかり惚れこんだようだが、キートンはすぐに独立、メトロの配給で作品製作を始めたため、共闘はならなかった。
しかし、この二人がコラボレートした作品というのが存在し、ネットで観ることできてしまうのだから、いい時代になったものだ。
その作品こそ1935年の製作&監督マック・セネット、主演バスター・キートンの短篇映画“The Timid Young Man(内気な青年)”

“The Timed Young Man”(1935)

 

 意に染まぬ結婚から逃げ出した女と、結婚を迫る女(酔った時に約束したらしい)から逃げ出すキートン。男嫌い&女嫌いの二人は森に逃避行と洒落込むが、いかつい邪魔者が現れ……という話。
 はっきり言って、セネット&キートン両者とも往年の冴えが感じられない作品だ。
1935年と言えば、キートンは2年前にMGMをクビになり、深刻なアル中からようやく立ち直りかけていたころ。エデュケーショナル社配給の二巻物短篇喜劇に主演して糊口をしのいでいた。
 同じくセネットは経営していた映画会社が破綻し、財産をあらかた失う。監督に復帰すべくエデュケーショナル社で仕事を再開、5本の短篇を撮ったひとつがこの作品なのだが、やはり落ち目の二人が集まったところでマイナスはプラスにならぬもの。
 当時、チャールズ・チャップリンは現代文明を諷刺した大作『モダン・タイムス』(1936)を製作中、ハロルド・ロイドは彼のトーキー作品では一、二を争う出来の『ロイドの牛乳屋』(1936)に取りかかるところだったことを考えると、なおのこと寂しいものがある。セネットは結局この年に映画界を引退した。

 チャップリンは放浪紳士による人情喜劇であり、社会諷刺の視点も併せ持つ内容の濃い作風に発展、ロイドはちょっとマヌケなハリキリ青年が、挫折を経つつも最後は夢を掴む痛快喜劇を自作の基本形とした。奇矯な人物たちが不条理なドタバタをくり広げるセネット流の喜劇を反面教師とした二人が成功し、セネットやその発展形であるキートンの“無邪気”なドタバタ路線が衰退したのは、トーキーを迎え、現実と非現実の曖昧な境界が取り払われ、映画そのものが幼年期でいられなくなったからだろう。

『<喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット自らを語る』は後半、メーベル・ノーマンドやロスコー・アーバックルなど不幸なスキャンダルで葬られた映画人のエピソードが多くなってゆく。そして自らの破産。
 映画界の「幼年期の終わり」を肌で感じさせてくれる伝記でもある。