星虹堂通信

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ある映画プロデューサーの回想〜荒木正也『映画の香気-私のシネマパラダイス-』

 昨今の出版界においては「映画の本は売れない」と囁かれているらしいが、それにしちゃヴィジュアル豊富な豪華本や映画人の自伝に評伝、マニアックな研究書が次から次へと書店に並ぶのはどうしてなんでしょうね。志高き出版人や編集者がまだまだ健在ということなら喜ばしい反面、こちらの財力は無限ではない……。

 さて、そんな中に現れたのが、荒木正也『映画の香気〜私のシネマパラダイス』(Echelle-1)という一冊。ベテランの映画プロデューサーによる回想録で、私は非常に面白く読んだ。が、なぜかSNSではまったく話題になってないようなので、少しくわしく紹介する。

 

 著者は1930年生まれ。原稿執筆時には卒寿だったという。1954年に松竹大船撮影所に入社し、プロデューサーへ。若い頃からの直言居士で、吉田喜重監督『日本脱出』(1964)のラストをめぐるトラブルでは社長の城戸四郎と対立して辞表を提出、博報堂へ移籍する。しかし記録映画『北壁に舞う』(1979)で映画の世界に舞い戻り、流れかかっていた『風の谷のナウシカ』(1984)への出資を決めたり、フジテレビと組んで『ビルマの竪琴』(1985)を成功させたりしていたそうだ。

『映画の香気〜私のシネマパラダイス』はそんな著者が回想する、城戸四郎、木下惠介小林正樹黒澤明蔵原惟繕須川栄三といった映画人たちのポートレートと、プロデュース作品の内幕を綴るエッセイで構成されている。

 

 Wikipediaにも載っていない「荒木正也(あらき・せいや)プロデューサー」の名をなぜ知っていたかというと、岩波書店の『映画監督・小林正樹』に収められた小笠原清の手記「<終>マークなき『東京裁判』への道程」に登場していたからだ。

 小林正樹監督『東京裁判』(1983)は米軍が撮影した裁判の記録フィルムをもとに構成する企画だが、50万フィート以上ある映像はそれでも裁判のごく一部、何を補足してどうまとめるか早急に指針を示す必要があった。しかし小林は自分のヴィジョンを明確にできず、脚本担当の稲垣俊は資料の山に埋もれて迷路に陥り、作業は暗礁に乗り上げた。スポンサーの講談社が不安の色を浮かべたところで稲垣が助っ人に呼んだのが荒木氏だった。

 小笠原助監督の手記に登場する荒木プロデューサーの姿とは、「上映時間は二時間半にせよ」とか「終戦時の玉音放送はさわりだけあればいい、全編聞かせる必要なし」などと強く主張し、「こんな脚本、自分なら2週間で書き上げてみせる」と豪語して実際に書いてきたという、典型的な「急かし屋」であった。

 しかし『映画の香気』に書かれた荒木側の言い分では、かなり様相が異なる。まず荒木氏は『人間の條件 第三部・第四部』(1959)に制作助手として参加しており、小林正樹とも当時チーフ助監督の稲垣俊とも気心知れていたし、松竹を辞めた後の小林とはゴルフや麻雀のお供を務める密接な間柄だったという(ギャンブル時における小林の“鬼”ぶりがまた面白い!)。

東京裁判』に参加する以上はこれまでの関係を壊す覚悟だったという荒木氏がまずしたことは、作業遅延の責任を稲垣俊にかぶせて彼を更迭、脚本を監督自身が書くよう強硬に要求するというものだった。稲垣を外されておかんむりの小林から「どうしても進めるなら荒木さんが書いてください」と言われたため、大車輪で脚本を書き上げたという。

 荒木氏は自分の脚本が元になって製作はやっと前進し始めたが、無礼な言動のお詫びに脚本のクレジットは監督に進呈したと書くのだが、前掲の小笠原助監督の手記では、荒木稿は児島襄『東京裁判』の要約以上のものではなく、小林からも講談社からも難色を示されたため、すべて自分が小林と共に書き直した、とある(脚本クレジットは小林正樹・小笠原清の連名)。

 どちらが正しいのかはわからない。が、荒木稿の存在は叩き台として重要な役割を果たしたのは確かではないだろうか。なお、荒木氏は完成した『東京裁判』について、南京大虐殺の部分(中国製プロパガンダ映画の引用)とラストにおけるベトナム戦争の写真使用(「ナパーム弾の少女」の引用)には不満を抱いているそうで、いかにも“まっとう”なプロデューサー感覚の持ち主のようだ。しかし、そういう“まっとう”な意見を跳ね除けたことで『東京裁判』は作家の映画になったようにも思う。

 

 映画史的にもっとも興味深いのは、「四騎の会」のテレビドラマ製作に参加し、黒澤明が担当する『ガラスの靴』に関わった話だろう。

 黒澤明木下惠介市川崑小林正樹が名を連ねた「四騎の会」は、合作企画『どら平太』は脚本執筆の段階で難破漂流、黒澤が監督した『どですかでん』(1970)は興行不振と、成果を上げられぬまま赤字が累積していた。責任を感じた黒澤は、それぞれの監督がテレビシリーズを製作するのはどうかと思いつく。他の3人の監督は「黒さんにテレビは無理」と反対したが、黒澤が自らトップバッターを買って出るほど食い下がるので、木下プロでドラマ製作をしている木下が博報堂に話をつける。呼び出されたのが荒木氏だった。

 黒澤はジョージ・D・ベイカー監督の映画『地獄花』(1920)を翻案した『ガラスの靴』の脚本を執筆し始めるが、急激な鬱状態に襲われ筆が進まなくなってしまう。ドラマの担当順を延期してもダメ。これでドタキャンとなったら木下は面目丸潰れの上に、四騎の会が違約金を抱えることになる。当然ながら木下は電話で黒澤をきつく非難したらしい。翌日、荒木氏は憤激した黒澤から君が告げ口したのだろう、と電話で怒鳴られるハメになる。しかし荒木氏、即座に黒澤プロに乗り込み堂々の反論を述べて黒澤に謝罪させたというから大したものだ。

 が、その次の日の夜半、黒澤明の自殺未遂事件が起こる……。土屋嘉男の著書『クロサワさーん!』の中に、自殺未遂後で傷を癒す黒澤に面会した際、木下プロのテレビドラマに出演した話をしたところ、「木下くんは金の亡者だ」と答えられたエピソードが出てくるが、その背景をようやく理解できた。

 なお、荒木氏は『ガラスの靴』の主役に、まだ『仮面ライダー』に出ていたころの島田陽子を想定していたという。彼女を黒澤に「発見」させるために取った手段がまるで映画。もしこの企画が実現していたら、島田陽子のその後の人生も何か変わっていたのだろうか、と今年亡くなった彼女のことを思いやる。

 

 もちろんこんなしんどい話ばかりではなく、博報堂から独立した荒木氏が、須川栄三監督と組んで宮本輝原作の『螢川』(1986)を成功させる物語や、新人・小栗康平監督と組んで島尾敏雄原作の『死の棘』(1990)を製作し、カンヌ映画祭の「グランプリ・1990」と「国際批評家連盟賞」をW受賞(パルムドールがリンチの『ワイルド・アット・ハート』の年)に導くという痛快な話もたっぷりある。その一方で、蔵原惟繕監督と野上龍雄脚本で高橋治原作『風の盆恋唄』に取り組むが、どうしても実現に至れなかった話は涙を誘う。

 

 ただの調整役ではない、自分なりの「設計図」を用意して作品を指揮するタイプのプロデューサーの仕事ぶりを学ぶ上でも、充分に楽しめる内容だ。