星虹堂通信

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小林正樹監督『東京裁判』を観て、八住利雄脚本『東京裁判』を読む

 

 この夏、小林正樹監督のドキュメンタリー映画東京裁判(1983)が、4Kレストア版として36年ぶりに甦った。これはまさに健忘症的日本人に打ち下ろされた、4時間37分の鉄槌だ。先月スバル座で観賞したが、デジタル修復によって鮮明になった映像と、明瞭な音響によってとらえられた20世紀の姿は、映画館を巨大なタイムマシンに変貌させるだけの力に満ちあふれていた。

 記録フィルムを元に構成する戦争ドキュメンタリーはそれ以前からあったものの、『東京裁判』の野心の大きさと視野の広さは図抜けている。ハリウッドは劇映画で『ニュールンベルグ裁判』(1961)を製作したが、これはゲーリングやヘスら主要戦犯の裁判が終わった後、断種法でユダヤ人を裁いた司法関係者の罪を問う限定的なドラマで、それですら上映時間は3時間を越える。極東国際軍事裁判を始まりから終わりまで、世界中の記録映像を集積して物語化するという力技は、国際共同制作による「映像の世紀」のようなビッグ・プロジェクトの先駆けであり、マイケル・ムーアらがテレビやネット、既成の映画やCMなどの映像をコラージュして作りあげるアーカイブ・ドキュメンタリーの元祖と言ってもいいかもしれない。

 

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 映画『東京裁判』について、ただ記録映像を恣意的に切り貼りしたプロパガンダに過ぎない、とタカをくくった批判をする人をたまに見かける。「もっと取り上げるべき部分があるのにそこを見せてない」と不満を抱く歴史好きもいるようだ。が、それらは単純な誤解である。本来、素材となったアメリカ国防総省が保管していた記録映像は35㎜フィルムで1100巻、50万フィートもの量があったが、それでも2年半に及ぶ裁判全体のごく一部でしかない。3台のカメラが同時に回る時もあれば、まったく回ってない時もある。しかも撮っているのが米軍なので日本語の同時通訳が始まるとカメラを切ってしまう箇所が多く、肝心の被告の反応が撮れてなかったりもする。また撮影者の技量によって、映像が真っ白だったり真っ黒だったりで、使えない素材も多かったという。
 つまり、映画『東京裁判』は裁判記録映像の豊富な山から恣意的に物語を抽出したというものではなく、バラバラな断片でしかない映像の群からモチーフを発見し、補強するための映像、写真、新聞記事、イラストをかき集めてどうにか紡ぎ出した「執念」の結晶である。なにしろ新聞記事の接写もコピーは不可、新聞社の倉庫に出向いて本物を撮影し、イラスト処理の部分は実際にシベリア抑留体験を持つ画家に当時の状況を描かせたという。さらに『壁あつき部屋』(1953)を製作時に撮影した、巣鴨プリズンの実景や再現セットの映像まで素材としてまぎれ込ませたそうで、小林正樹の執念深さと徹底的な集中力によって、安易なプロパガンダでは到底たどりつけぬレベルまで作家性を刻みこまれたフィルムなのだ。

 小笠原清助監督のインタヴュー映像12秒から音が出ます)

 

 映画『東京裁判』のクライマックスにあたる、東條英機への反対尋問の場面を見てみよう。ここで東條は、日本国民が天皇の意志に反して動くことは絶対にありえない、という趣旨の発言をする。それはつまり、戦争の開始も残虐行為も天皇の意思だったという意味に取れるため、昭和天皇の戦争責任追求を望むウェッブ裁判長は勢いづく。しかし、マッカーサー元帥から天皇免責の指示を受けていたキーナン首席検事はただちに裏工作を行い、後日の反対尋問では、先日言ったのは自分の日本人としての態度を表現したもので、開戦そのものは我々が強引に進言した結果、天皇は渋々同意したものの、最後まで平和を希求していた、と改めて東條に発言させる。このやり取りの後半は、東條とキーナンの1ショットのカットバックにナレーションで語られてゆくのだが、じつはこの場面、現場ではカメラが回っていなかった。そこで、通訳のまずさにイラつく東條など、カメラが回っていた時に撮られた生々しい映像を挟みながら、たたみかけるようなナレーションに東條・キーナンの1ショットをつなげて事態の進行を説明する形となっているのだ。
 あきらかな苦肉の策だが、いささかも緊迫感を減じることなく劇的な迫力を醸し出して見せるのは、さすがのベテラン編集マン・浦岡敬一の名人芸。浦岡はフィルムが存在しない法廷場面を編集技術で表現する場合も、別日の裁判映像から流用するのは禁じ手とし、描かれる場面と同じ日の映像の中から素材を探し出して埋めたという。編集による創作を暴走させないため、自分なりの枷を設定していたのだ。
 そして小林正樹にとっても、痛恨の「フィルムなし」が各所に存在する中で、この東條への反対尋問だけは、なんとしても外せなかったものと思われる。


八住利雄脚本『東京裁判』(雑誌「シナリオ」1971年12月号より)

 小林正樹はもともと、東京裁判』を劇映画にすべく企画を進めていた。時期は1968年、終戦秘話である『日本のいちばん長い日』(1967)を降板させられた直後にあたる。1971年には八住利雄による長大な脚本が完成していたが、製作には至らなかった。
 この未映画化脚本『東京裁判』は、雑誌「シナリオ」1971年12月号に掲載されている。ドキュメンタリー版『東京裁判』の監督補である小笠原清でさえ読んでいないそうで、小林としては特にスタッフに参考とさせることはなかったようだが、それでも完成した『東京裁判』とくらべて読むと、小林が執着した課題とも言うべき視点が、ひとつ明確に見えてくる。

 脚本『東京裁判』の特徴を羅列してみると、まず戦犯の中では文官で唯一死刑となった広田弘毅とその家族のエピソードが印象的に散りばめられている。しかし群像劇なので、同じように東條英機巣鴨プリズンにおける反抗的な態度も細かく描写されている。年老いた戦犯たちを全裸にしての体格検査に強く抗議したり、米兵たちに「ハバ、ハバ(急げ、急げ!)」と声をかけられ「リメンバー・パール・ハーバー」かと錯覚する笑い話など、後に製作された伊藤俊也監督『プライド 運命の瞬間』(1998)でも描かれたエピソードが登場する。こうした巣鴨プリズン内の様子は笹川良一の『巣鴨日記』が参照されているからだろう、脚本には「小笹吾一」なる右翼の大物が登場、何かと戦犯たちの世話を焼く。
 ドキュメンタリー版でも強く印象づけられる、裁判冒頭におけるアメリカ人弁護士ベン・ブルース・ブレイクニーの戦勝国が敗戦国を裁くのは不当である」真珠湾攻撃を裁くならば広島・長崎の原爆投下も裁かれるべき」といった糾弾や、保身を図って都合の良い証言をする愛新覚羅溥儀を、ブレイクニーが鋭く追求してゆく様子なども八住脚本には描きこまれている。ブレイクニーはその後、日本人女性の愛人を持ったり財産を築いたり、日本に深入りしてゆくアメリカ人として生臭いキャラクターに描かれている。
 また、ブレイクニーと清瀬一郎弁護士との会話や、マッカーサーGHQ局長シーボルトとの会話、プレスクラブでの外国人記者たちの会話がひんぱんにさし挟まれ、この間の世界状況を説明してゆくのだが、彼らの会話内容が現代に与える影響を伝えようとしたのか、ベトナム戦争の記録映像や市ヶ谷駐屯地で絶叫する三島由紀夫のイメージショットを挿入するよう指示している。ただでさえ説明的な部分にこうした意味づけのモンタージュを行なったら、きっと作品を1971年という時代に閉じ込めてしまったことだろう。
 ドラマ的にもっとも大きなフィクションの導入は、新憲法発布の日に抗議の自決をした若き陸軍将校たちがじつは生きていて、朝鮮戦争勃発が迫る大陸に極秘潜入、韓国軍の指導と中国共産党のスパイ活動を行う計画が進行している、というパートだ。計画に参加した若手将校の一人とその婚約者の悲恋話がいささか類型的に展開するが、東京裁判GHQ占領政策の背後には米軍の反共工作が強く影響していたことを描くのが狙いとはいえ、裁判と関係ない若者たちのエピソードはどうも邪魔くさい。もともとロシア文学者だった八住利雄の個性を感じる部分ではあるのだが。
 最後はA級戦犯たちの判決後の日々と、彼らが刑場に向かう様子が丹念に描かれ、当時の金で27億円という裁判費用は、全額日本人の税金で負担されたことをナレーションが伝えて終わる。

 八住利雄の脚本『東京裁判』は、東宝8.15シリーズの一本として製作されたなら、『日本のいちばん長い日』に遜色ない大作として仕上がったことだろう。国際色豊かなキャスティングとそれを実現するだけの予算が都合つかず、製作は見送られてしまったそうだが、なにしろ敦煌』ではマーロン・ブランドに出演を打診したという小林正樹、どんなスケールで演出プランを練っていたか、その一端を知りたいところではある。
 が、虚実の入り混じる群像劇で東京裁判を描ききろうとするのはさすがに無理があった。東条英機に過剰な思い入れをこめた『プライド 運命の瞬間』よりは冷静な仕上がりとはいえ、21世紀の今、読み返してもっとも物足りないのは、太平洋戦争そのものの開戦過程がわかりにくいことと、昭和天皇の戦争責任の問題に言及しながら、天皇がまったく登場しないことだ。

 おそらく、小林正樹もそんな不満を抱いたのだと思う。そして、現存する記録フィルムを再構成しての『東京裁判』映画化を、大きな困難が予想されながら製作に乗り出したのは、ドキュメンタリーの形であれば、劇映画では描くことが困難な部分まで踏み込んで、太平洋戦争の総括を行えると判断したからだろう。
 それは同時に、法廷についに姿を見せなかった昭和天皇の姿を描くということでもある。その存在がいかに重要であったか、映画『東京裁判』では丹念に伏線を張っている。まず、終戦詔書玉音放送)が全編ノーカットで流れ(リマスター版では字幕付き)、その背景に太平洋戦争における日本軍の盛衰がモンタージュされる。そして梨本宮守正と侍従長木戸幸一の逮捕、共産党による天皇制否定論の高まり、マッカーサー昭和天皇の面会、人間宣言と全国巡幸……、こうした描写を前半で見せておいてからのクライマックスが、「天皇免責」を決定的とする東條とキーナンのやりとりなのである。
 東京裁判において直接語られることはなかったが、しかし最重要の問題であった昭和天皇の戦争責任。それをイデオロギー的な天皇制批判として単純化することなく、ドラマとして観客の体内に染み込ませる形で問題提起するのが、映画『東京裁判』の重要な課題だったのではないだろうか。

五味川純平『戦争と人間』最終巻

 小林正樹が『東京裁判』の製作に取り組み始めた1979年、彼はかつて映画化した『人間の條件』(1959〜1961)の原作者・五味川純平が執筆していた『戦争と人間』を全26話のテレビシリーズとして映像化する企画も立てている。じつはこの時点で原作はまだ完結していなかったのだが、最終巻では東京裁判で主要登場人物たちが断罪される、という噂が流れていた。奇しくも『戦争と人間』の最終巻は『東京裁判』が完成する1982年に刊行されるのだが、その後書きに五味川純平はこのように書いた。

計画では、東京裁判まで書ききって、終るつもりであった。だが、そこにどうしても出廷していて、尋問を受け、判決を受けなければならぬはずの一人の人物が、東京裁判埒外に置かれていて、のうのうと暮らすことを許した裁判は、ほとんど無価値に近いと思うようになった。

 小林正樹もまた、五味川と同じ実感を抱いていたことだろう。

東京裁判』は公開時から現在に至るまで、右派からは東京裁判史観をそのまま垂れ流しすぎて自虐的だと、左派からは軍部への批判が不足で戦犯たちに同情的すぎる、と批判されることの多い作品だ。それぞれが期待する思想を求めすぎるとそうなる。しかし、小林正樹の眼はイデオロギーではなく、戦争の総括を自分自身の手で行わず、米軍に頼りきったまま昭和天皇の戦争責任と天皇制の問題を棚上げにしてしまった日本人の、そして日本に不当な判決と新憲法を押しつけながら、その後は手前勝手な戦争を世界各地で続けた戦勝国の面々の、人間そのもののデタラメさに向けられていた。
 このデタラメさによって生じた社会の歪みは、戦後70年余りが経過した今、さらに大きなひび割れとなって世の中を覆い尽くそうとしている。初公開時の1983年よりも、東京裁判の時代が遠い記憶となった2019年現在の方が、観賞後により苦い思いを味わうことは間違いない。遠くなったのは記憶ではなく、この当時の人々がようやく得たはずの理想だったと理解できるからだ。