星虹堂通信

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最近読んだ映画本2冊〜山根貞男『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅』と木下忍『木下恵介とその兄弟たち』

 

 中学生の頃から文章に触れていた映画評論家・山根貞男が2月20日に亡くなった。享年83。

  最後の著書がまさに2月に出たばかりだったと知り、追悼の思いで読んでみた。『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅』(草思社)。いやぁ、これは『探偵! ナイトスクープ』ばりに面白い、映画史的にも人物ドキュメントとしても読み応え充分のルポルタージュである。

 まだ映画をソフトとして個人所有することが難しかった時代、娯楽映画の大半は消耗品的な扱いを受けていたが、中には35㎜フィルムを切り刻み、その断片を「おもちゃ映画(ブリキのおもちゃ映写機で上映する)」として販売したり、家庭上映用の9.5㎜版や巡回上映用の16㎜版などの複製が作られるたりすることはあった。こうした流通フィルムが紆余曲折あってコレクターの手に入るわけだが、彼らは映画に関する教養を深めたい映画狂(シネフィル)や、ひたすら観賞本数を増やしたい映画耽溺者(シネマディクト)とは違い、フィルムというメディアへのモノマニアックな関心が強い。登場するコレクターたちの何人かが幼少期に「おもちゃ映画」に触れた記憶を語っているのも特徴だが、このように映画を骨董品として扱うコレクターたちのおかげで、小津安二郎の初期短編『突貫小僧』(1929)が発見されたり、誰も知らない記録映画の中から歴史的に重要な情報を拾い出したりするのだから、映画の愉しみ方とは実にさまざまなものである。今も骨董市を欠かさず覗いているというコレクターが、一方でインターネットのオークションも毎日チェックしているというあたりの時代変遷も押さえられているのは、執筆に30年以上かかった怪我の功名というべきか。

 本書の白眉は「第5章 生駒山麓の伝説のコレクター」。失われた名作の大半を所有していると噂された怪人・安部善重(1923〜2005)への十数年にわたる訪問記だが、廃線のプラットホーム跡地に建つバラック小屋に、モノに埋もれながら住んでいるという情景に始まり、安部氏の没後、神社の鳥居がのぞく原っぱと化した安部邸跡に佇む終章の描写まで、ほぼ現代の怪談である。

 安部コレクションはその後、国立映画アーカイブの調査が入り、大半が記録映画やPR映画の類で「幻の名作」はついに発見されなかったわけだが、未だ彼の正体と未確認コレクションの行方については謎のままだという。こんなオカルトじみた人物の下へ、コレクションの存在に懐疑的な蓮實重彦を同行させ、安部氏に対面した蓮實が「あの人は持っていますね」と興奮し始めるあたりも、川口浩探検隊ばりにワクワクさせる。

 読み終えて伊藤大輔監督『忠次旅日記』をBlu-ray版で再見してしまった。この作品も長らく「幻の名作」だったが、1991年に広島県の民家の蔵で発見され(全編ではないが)、翌年に近代美術館で復元上映が行われたのだ。その際の行列にも並んだが、30年経ってこうして手許に置けるようになったとは。自分のコレクションもいつか「貴重」とされる日が来るのだろうかと我がDVD棚を見上げてしまう。

 

 往年の映画監督の中には、個人所有用に自作の16㎜版を焼かせていた人もいたそうで、その筆頭が木下惠介だ。木下は生涯独身だったが、辻堂に建てた邸宅には両親はじめ家族親類を呼び寄せ、木下組スタッフを集めては自作の上映会をよく開いていた。

 1950年代、惠介が16㎜フィルムを映写機にかけている写真が表紙に使われている『木下惠介とその兄弟たち』(幻冬舎)を読んだ。この写真、映写機の両側に少年と少女が映っているのだが、著者・木下忍はこの少女の方で、惠介の姪にあたる。少年はその兄・武則であり、二人は惠介の最初の養子でもあった。

 長部日出雄『天才監督木下惠介』には、妹・忍が後に木下家の六男・八郎に引き取られ、成長して養護学校の教員になったと書かれていたが、同時に惠介の家に残った兄・武則は、成長するや不良学生になってしまい、19歳で勘当されたともあった。武則氏はその後、どうなってしまったのか気にかかっていたが、この本でようやく彼の人生をわずかに伺い知ることができ、正直気の毒に思った。

 著者・忍と武則兄妹の実際の両親は、木下家の二男・政二と妻の房子。しかしこの二人は戦後、離婚してしまう。寡婦となった房子は四男・惠介の家に身を寄せ、惠介もその子供たちを養子に迎え兄嫁の再出発を支援していたのだが、房子は手伝いに来ていた木下家の六男・八郎に求婚され、承諾する。それを知った惠介は激怒し、立ち退きを要求した。家を出た八郎・房子は静岡で結婚、娘の忍を引き取るが、息子の武則だけは「パパ(惠介)が一人になってはかわいそうだから」と残ったという。

「親に見せられない映画は作らない」という信念を持つ惠介にとっては、「兄と別れて弟を誘惑する女(と、彼の目には映ったらしい)」など認めることができなかったわけだが、木下映画を数多く観てきたファンからすると、このあたりの心理はよく理解できるような、それでいて少し意外な気もするのだ。また、惠介は「幼少期の子供は可愛がれるが思春期を迎えると距離が生じるようになる」という姪の一人の指摘も重要で、木下作品に表れるノンセクシャル感覚をあらためて洗い直してみたくもなる。

 黒澤明の作品が「師弟愛」を称揚し続けたように、木下惠介の作品には「親孝行」を最上の美徳とする感性が貫かれており、『カルメン故郷に帰る』や『破れ太鼓』、『日本の悲劇』、『楢山節考』、『香華』といった代表作も、親孝行を批評的に解釈しつつ展開する物語だった。その根底に流れる木下家の物語を知ることで、家族から一族の代表者として称えられると同時に、「変わり者の芸術家」と見做されていた惠介の孤独もほんの少し理解できた。

 

 なお、著者は1957年頃に惠介が運転手兼書生として雇い入れる高橋康人の存在にも触れているが、この人物の登場が兄・武則の転落の原因と推測しているためか仮名が使用されている。高橋氏は結婚後も惠介に仕え、その次男と三男は惠介の養子になっている(『新・喜びも悲しみも幾年月』で主人公夫妻の息子役を演じたのが高橋家の息子たち)。また、惠介は1972年に浜松のホテルでボーイとして働く19歳の青年・栗田忠幸を養子に迎え、イタリアに留学させている。惠介の晩年の企画に『花婿の父』というのがあり、これは留学した栗田氏がイタリア人のガールフレンドと結婚する際の顛末が素材になっていたそうで、観たかった企画の一つだ。こうした惠介の行いの背景には、最初の養子・武則に対する教育の失敗への反省があったのかもしれず、木下の最後の映画となった『父』(1988)も、少し見え方が変わってくるようにも思う。

 この本では、1960年代以降、惠介の周辺から「木下家の人びと」がじょじょに消えてゆく過程も細かく描かれるのだが、はたして「身内」が離れてゆくことは本当に寂しいことだったのか。高橋氏や栗田氏の目には、きっとまた別の木下家の物語が見えているに違いない。