星虹堂通信

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幻のドラマを楽しむ〜『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路<オートバイ>・山田太一未発表シナリオ集』

 

 先週、『ふぞろいの林檎たち男たちの旅路<オートバイ>~山田太一未発表シナリオ集』(国書刊行会)を読んでいる最中に、著者である山田太一の訃報が届いた。享年89。

 

 なぜこの脚本集を読んでいたかというと、12月2日に西荻窪の今野書店にて開催された、編者の頭木弘樹氏を迎えて、會川昇(脚本家)、樽本周馬国書刊行会)両氏が聞き役を担当するトークイベントに行くためだ。図らずも追悼の会となってしまったイベントだが、決して湿っぽくなることなく、取材時の裏話と登壇者それぞれの山田作品への熱い思い入れを聞くことができた。

 収録作品に『男たちの旅路・第4部』の未発表作品「オートバイ」(第2話になるはずだった)が入っているため、どうしても『男たちの旅路』の話が多くなる。「本来このドラマは、第4部まで陽平(水谷豊)と吉岡司令補(鶴田浩二)の関係性の変化を描くつもりで構想されていたのだろう」と、作品の細部の読解が述べられたり、「アシスタントディレクターに(『四季・ユートピアノ』を撮る前の)佐々木昭一郎がついていて、演出に対する指摘が面白い」とか、へぇ~、と思う話もいろいろ飛び出す。

 

 頭木弘樹さんは山田太一が全自作を語るインタヴュー本を作成するため、6年かけて毎週山田邸に足を運んでいたという。作品について私見を述べても、「そういう考え方もありますね」と穏やかに返される山田さんだったが、じつはこれは「違う」という意味なんだ、ということがわかった、というのが面白い。はっきり「それは違います」と意思表示をしてもらえるまで2年かかったそうだ。

 相手が信頼に足る相手と見定めるまで、やすやすと自作について本心を明かさない周到さ、まさしく一筋縄ではいかない人間たちを描いてきた作家らしいふるまいで嬉しくなる。また、山田ドラマは局に提出する企画書と実際の展開がまるで違ってしまうことがしょっちゅうだそうで、あの傑作『想い出づくり。』においても、加藤健一が演じた森昌子の見合い相手になる男、彼の登場場面は本当にあの見合いの場面だけの予定だったそうだ。加藤の演技があまりに素晴らしいので、その後、重要なキャラクターに発展し、クライマックスの展開につながっていったという。

 じつは学生時代に山田太一の特別講義を聴講したことがあり、そこでも似たような話を聞いてはいた。ドラマの企画を事前に練り込んでいることはほとんどなく、打ち合わせ当日まで白紙の状態のことも珍しくない、と。家を出るころにぼんやりと書きたいイメージがわいてきて、電車の中でじわじわとふくらまし、局のエレベーターの中でどうにかまとめて、会議室で「次はこういう話を書きます」とずっと構想していたかのごとく語るのです、とユーモラスに語られたが、そんな即興性重視な姿勢も、師・木下惠介から譲り受けたものかもしれない(木下はメモも構成もなしに助監督に脚本を口述筆記させる)。

 

 そういえば、パトリシア・ハイスミスもアイディアの芽を書きながら育ててゆくタイプで、執筆前に結末を決めることはないそうだが、今回の『山田太一未発表シナリオ集』に収録された2時間サスペンス用の『今は港にいる二人』、これは姉夫婦の悲劇に巻き込まれたしっかり者の弟が、復讐をするか否かで逡巡する話で、かなり変な物語。「英雄」をめざすもそうはなれない人間の弱さを扱って、ある意味ハイスミス的な心理サスペンスなのだが、ハイスミスとは違って悪意ある破綻には向かわない。ある人物の行動で「え〜?」という展開になり、じつに山田太一らしい大団円を迎えるのだ。最後にタイトルの意味がわかる構成も洒落ている。

 サスペンスでいうともう一作、『殺人者を求む』という山田太一が最初に書いた習作シナリオが最後に収録されているが、これもまたかなり変な話で、登場人物は殺し屋とその同伴者と依頼人の3人だけ。映画というよりも、ハロルド・ピンターの『ダム・ウェイター』あたりを思わせる短編室内劇なのだが、何気ない会話の応酬がだんだん不気味なムードを形作ってゆく手つきはさすがだし、新人助監督がいきなりこういう特殊な内容のものを撮影所の同人誌に掲載するのも勇気がある。これを読んだ木下惠介はすぐに助監督室を訪問、山田太一を呼び出し「君の脚本のト書はすごく良かったよ」と励まして去ったという。簡潔にして的確、それでいて想像力が広がる山田脚本のト書にいきなり注目していたとはすごい。

 

 と、書きつつ私自身が山田太一の熱心なファンだったかというと、ぜんぜん違う。ちゃんと見た最初の作品はTBSの連ドラ『大人になるまでガマンする』だったろうか。TBSの金曜ドラマは、その前年に放送した伴一彦脚本の『うちの子にかぎって…』が、小学生の目にも大変面白いポップな世界だったので、似たようなものかと思ってチャンネルを回してみたところ、居酒屋家族とサラリーマン家族が子供の教育方針をめぐって対立するという、シブすぎるドラマが展開して困惑させられた。

 そんな第一印象だったせいか、80年代はリアルタイムでは山田ドラマにはまったく触れずじまい。よく再放送されていた『ふぞろいの林檎たち』は軽薄なトレンディドラマかと思い込んでいたし、『男たちの旅路』は鶴田浩二が元特攻隊員を演じるという設定を聞いただけで観賞意欲を失っていた。

 それが変わったのは、先述した山田太一本人の特別講義を聴いたことと、映画評論家の森卓也の文章だ。森はある時期からしきりに日本映画への失望と、「それにひきかえ……」と山田太一ドラマへの賛辞を書き連ねることが多くなった。『早春スケッチブック』に出てくる死期の迫ったカメラマン(山崎努)のセリフを引用し、こう書いたことがある。

「現役で撮りまくっていた頃は、なにを見ても、この角度で、この絞りで、このレンズでいける、なんてことしか頭にない。撮り終えると同時に、他に目をやっている。物でも人でも、ほんとうにじっくり見ることはない。本当には見ていない」

 むろん、ドラマの寓意のセリフである。けれど一面の真理ではあろう。そうであってはならない、が、ファインダーをのぞく“プロの眼”が、時として“優越の眼”になってしまうことが、ありはしないか。

                    森卓也「カメラマンの眼」

早春スケッチブック』を観ることができたのはそれからだいぶ経ってからだが、確かにこれはすさまじいドラマだと思ったし、実際の劇中でははるかに長く、味のあるこの部分のセリフもリアルな感覚として理解できるようになっていた。亡くなる直前の寺山修司(早稲田で山田太一の同級生だった)が熱心に観ていたというエピソードと共に忘れ難い作品だ。

 この辺りから、『今朝の秋』や『ながらえば』といった過去作品のビデオを観たり、NHKやテレ東の単発ドラマにチャンネルを合わせるようになった。今世紀に入ってからのBSやCS再放送で、『男たちの旅路』や『岸辺のアルバム』、『高原にいらっしゃい』、『想い出づくり。』、『日本の面影』など数々の傑作を確認することができ、ようやくセリフやアフォリズムに込められた含蓄にとどまらぬ、山田ドラマの人間洞察の深さが楽しめるようになった。

 が、万事怠惰な私のことで、未だ見られてない作品もたくさんある。じつは『ふぞろいの林檎たち』シリーズも、放送時に「Ⅳ」をおおよそ追いかけただけで(中谷美紀が目当てでした)、「Ⅰ」~「Ⅲ」は未だ手付かず、という体たらく。

 しかし未制作に終わった『ふぞろいの林檎たちⅤ』を読んだおかげで、彼らの青春に俄然興味がわいてきた。40代の「林檎たち」の落ち着き方を知った上で、遡って確認するシリーズというのも、リアルタイムで追ってきたファンとはまた違った楽しみ方ができるに違いない。