星虹堂通信

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「リアリティ」は写実に非ず

 2022年も残りひと月となりました。

 秋に入って以来、あちこちから立て続けに訃報が届いているわけですが、個人的に大きかったのは、10月7日、私が所属する制作会社の創業社長にして現会長である倉内均監督が亡くなったことです。なにしろ会社に第一報が届いた瞬間、同じフロアにいましたから。

 3月に「お別れ会」を開催することとなり、参加者に配布する冊子用に、スタッフそれぞれが倉内さんの面白エピソードを書くようにという依頼があったので、つらつらと思い出に耽っていたところですが、短い字数にすべて書き切るのは難しい。どうにか原稿は完成させたのですが、こちらにはまた別の思い出を綴っておこうと思います。

 

 私が制作会社アマゾン(当時)に入社したのは90年代の半ば、もちろんその頃は倉内均なんて名前はまったく知らず、入社後にテレビマンユニオン生え抜きのディレクターの一人で、始まった頃のアメリカ横断ウルトラクイズ」の中心スタッフだったと聞かされ、あの番組のファンだった者としてはちょっと嬉しかった記憶があります。飛来するヘリコプターからクイズ問題がばら撒かれる「バラ撒きクイズ」を考案したのは倉内さんだそうで、ヒントになったのは『地獄の黙示録』だったとか。

 それと、80年代のサントリースペシャルで制作されたドラマ『炎の料理人 北大路魯山人』(1987)もたまたま放送を観ていました。私が魯山人に関心を抱くきっかけになった作品ですが、だいぶ経ってから倉内さんが演出だったと知り、横浜の放送ライブラリーで再見しました。岩間芳樹の脚本と緒形拳魯山人のおかげでしっかりした出来栄えでしたね。星岡茶寮のセットが立派で、80年代のテレビ界の財力を痛感します。

 その時の縁なのか、後に倉内さんが映画『佐賀のがばいばあちゃん』(2006)を撮った際、緒形拳がゲスト出演しました。スタジオの片隅で、倉内さんが「古典的な撮り方しかできないので、あいかわらず台本に線を引いたカット割りにそって撮ってますよ」と呟くと、緒形さんが、

「いや、俺はそれでいいと思うんだよね。カット割りというのは監督の『見た目』なんだ。最近はあっちにもこっちにもカメラがありますって、監督の目がどこにあるのかわかんない現場が増えててさぁ」

 と語ったのはよく覚えています。

 倉内さんが撮った『佐賀のがばいばあちゃん』やテレビ朝日のドラマ『母とママと、私。-10年目の再会-』などを見ると、一見穏健かつ保守的な演出家に見えますが、なにしろテレビマンユニオン時代には伝説の低視聴率ドラマ『ピーマン白書』(1980)を作った人物、倉内演出の本質は「リアリティ(真実味)の脱構築」にあったと思います。

 じつは『佐賀のがばいばあちゃん』には別の脚本家による第一稿がありました。原作の語りを活かし、コメディとしてはずっとハツラツとした内容でした。実際、この原作は他にも漫画化やドラマ化や舞台化、再映画化までされているのですが、そのどれもが「主人公・徳永昭弘=島田洋七」という原作の設定を踏襲しているんですね。しかし倉内さんが山元清多に書かせた決定稿では、主人公は岩永昭弘という仮名になり、どこかのサラリーマン(三宅裕司)という設定。彼の郷愁として、あのおばあちゃんの記憶が蘇る、という導入部になっています。つなり、「島田洋七」という個人の記憶を追体験するのではなく、観客の誰もが「自身の祖母の記憶」と向き合えるようになっているわけです。

 倉内さんがテレビマンユニオンの若手ディレクター時代に撮った『ドキュメンタリードラマ 二・二六事件〜目撃者の証言』(1976)を見せてもらったことがあるのですが、これも事件に立ち会った生存者の方々の証言を聞くパートと、俳優に演じさせた再現ドラマのパートが交錯する構成になっていました(脚本はやはり山元清多)。いつしか再現ドラマで栗原中尉を演じる岸田森の乗った車が現代(当時)の赤坂の街を疾走するなど、当事者の証言(記憶)と再現された現実(虚構)と現在の風景(現実)が入り乱れ、「リアル」の居場所が曖昧になってゆく独特のドラマ空間を作り上げていました。

 後に倉内さんが監督した『日本のいちばん長い夏』(2010)も、その企画の延長だったと思います。「文藝春秋」が1963年に行った昭和20年8月15日をめぐる大座談会を、文化人や法曹人、プロの俳優が入り乱れた文士劇キャスティングで再現する、という奇妙な企画。座談会の参加者を演じる田原総一郎富野由悠季らがまたそれぞれの戦争体験を語り始めたりして、戦争の「リアル」を多方面から浮かび上がらせる。

 さらにこの映像化プロジェクト自体がドラマの中に組み込まれていて、倉内さんをモデルとする演出家木場勝己が演じました。

 

 じつは私が2011年にWOWOWで作った番組『映画人たちの8月15日』は、『日本のいちばん長い夏』のスピンオフのような企画でした。「キネマ旬報」が1960年に行った8月15日に関する手記特集を元にしたものでしたが、倉内さんの構想はやはりスタジオに当時の「キネマ旬報」編集部を再現し、俳優が演じる編集部員たちがリサーチに悪戦苦闘するドラマと、さまざまな映画人が語る8月15日のエピソードが交錯してゆく、というイメージだったんですね。私は倉内さんのチーフ助監督を務めるつもりで準備していたのですが、判明した予算があまりにも少なすぎたため、このプランは実現できませんでした。結局、倉内さんに代わって私が引き取り、どうにかまとめ直したのですが、凡庸なエピソード集の枠を出なかったのは残念です。何か低予算でも可能なアイディアを一つ生み出すべきでした。ここでもまた倉内さんを失望させた気がします。

 

 亡くなってから知ったのですが、倉内さんは青森の高校映研時代に、自作の8㎜作品を何かのコンテストに出品し、大島渚に激賞されたことがあったとか。なるほど、こうしたリアリズムの拡大を志す実験精神は、大島の影響を感じなくもありません。同時に、倉内さんが好んだ映画監督に沢島忠がいたことも思い出します。時代劇の様式を軽やかに踏み越えて、ポップでモダンなミュージカルコメディを作り上げた沢島演出の軽やかさこそ真の前衛と考えていたのかもしれません。

 大島渚の前衛感覚と沢島忠モダニズムが合体したところにあった倉内演出、その謎についてもっと本人から話を聞いておけばよかったと思います。