星虹堂通信

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『TAR/ター』を観てシャンタル・アケルマンと北大路魯山人を思い出す日記

 評判のトッド・フィールド監督『TAR/ター』を観てきました。

「多重の仕掛けが施されたサイコ・スリラー」とか「ジェンダー問題やキャンセル・カルチャーを諷刺する社会派ドラマ」などと語られることが多いようだけど、実際のところは、ある個性的な芸術家の内省を描く心理的なドラマで、構造としてはきわめてシンプルな作品と言ってもいいんじゃないでしょうか。

 前後してシャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)をようやく、初めて観賞したのだけど、ほぼ同じ映画だと思いましたね。

 

『ジャンヌ・ディエルマン〜』は、あるシングルマザーが過ごす三日間を、カメラ固定、音楽ナシという抑制したスタイルで淡々と綴ってゆく。この主人公は子供を学校に行かせている間に、自宅で売春をしているのですが、そんな行為ですら日常のルティーンに組み込まれているんですね。しかし後半、その「日常」に軋みが生じ……ラストシーンで破綻を迎えます。

 昆虫観察のように突き放したスタイルなので、3時間20分の長尺を付き合うのはかなりしんどい。なのに、細部の描写が堆積してゆく中に、いつしか主人公とその環境の“はりつめたもの”がだんだん観客にも沁み込んでくる。ここが見事です。

『TAR/ター』はアクの強い人物を表現するケイト・ブラシェットの演技、フロリアンホフマイスターの明暗配置の巧みな撮影、凝りに凝った音響効果といった技法でサスペンスを高めてゆく手腕が大変な見応えではあるものの、やや計算が勝ち過ぎていたかもしれません。

 

『ジャンヌ・ティエルマン〜』は、3時間余の時間経過の末に、主人公にカタストロフィ(破局)が訪れるわけですが、一方で『TAR/ター』はそうではないところが新しいとも言えます。

『TAR/ター』のラストシーン、私はゲームを知らないので何が起こったのかよくわからなかったのだけど、映ったものの中身を知ると、なるほどあの描写は主人公の「凋落」か「再生」かで意見が分かれるのもうなずけますね。しかし、ゼンゼン意味が掴めなかった無学な観客としては、あれは『甘い生活』の謎の怪魚や『2001年宇宙の旅』のスター・チャイルドのような、作品テーマの象徴が唐突に出現したかに思えて妙に感動的でした。

 

『TAR/ター』の主人公は「尊大かつ俗物な指揮者」としてはステレオタイプな描かれ方かもしれないけど、必ずしもセクハラ&パワハラ上等な「悪人」として描かれているわけではないところも現代的でしたね。私が思い出したのは、今年で生誕140年を迎える北大路魯山人(1883〜1959)です。

 書画・陶芸・料理に稀有な才能を発揮した芸術家でありつつ、傲岸不遜な態度と冷酷非情な家庭生活で知られた魯山人ですが、現在世に敷衍している人物像は、白崎秀雄の評伝『北大路魯山人』(1971年・1985年改訂版)に依ったものでしょう。魯山人を西欧型の悪魔的天才ととらえる白崎は、周辺取材で得た彼のパワハラ・セクハラエピソードを数多く収めています。全部事実だとしたら、まぁ現代においては社会的に抹殺されているのでは、と思うほど。

 近年になって、「あの魯山人像は白崎によって歪められているのではないか」という反論の書がいろいろ出ています。山田和の『知られざる魯山人』(2007)、『魯山人の美食』(2008)、『魯山人の書』(2010)、『魯山人 美食の名言』(2017)と、長浜功『新説北大路魯山人 歪められた巨像』(1998)、『北大路魯山人 人と芸術』(2000)、『北大路魯山人という生き方』(2008)などですね。物好きな私は全部読みました。

 実際、生前の魯山人を知る人々にとっては、白崎秀雄の評伝はその強烈なキャラづけに違和感を覚える部分も多かったらしいし、多角的な芸術家には複数の評伝があるのがふさわしいとも思います。が、山田和は父親が魯山人と縁の深かった人物で、父から語られる魯山人像を聞いて育ったためか、その視点は魯山人芸術の信奉者の枠を超え、ほぼ身内の反論。長浜功は芸術とは縁のない教育学者で、「教育芸術論」なる改革案を唱えている人物です。彼の教育改革案による理想的な成果像が「学歴のない天才・魯山人」なのですが、その魯山人パワハラ大魔王であっては困るので、自ら擁護の筆を執っているわけ。

 なので、彼らが「魯山人は傲岸不遜ではなく、権威に追従しない真の芸術家であり、自らのハイレベルな芸術観に正直だっただけ。セクハラエピソードは根拠がなく、結婚歴が6度というのはむしろ責任感が強かった証」と反論するほど強引な解釈に聞こえるのもまた事実です。

 

 魯山人と個人的に親しかった文人青山二郎白洲正子らがいますが、彼らは決して魯山人芸術の信奉者ではありませんでした。むしろ魯山人の限界を理解していたし、さらに彼のエゴイスティックな態度や毒舌に傷つけられ、偉そうに語る素朴な芸術論(自然美絶賛主義)に閉口させられることも多かった。しかし、その人柄を含めて芸術に対しては真摯この上ない彼の個性と作品を愛し、没後早くから擁護の声を上げていたのです。

 やはり『TAR/ター』の主人公が「バッハとの向き合い方」で語った通り、恣意的な情報収集によって理想の天才像の構築に励んだり業績を無下に否定するのではなく、芸術に対しても私生活に対しても客観的に、資料の裏付けを重視して、『ジャンヌ・ディエルマン〜』的なクールな姿勢で臨む研究が、魯山人にも待たれているように思います。