星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

上ノ郷城を歩く

土塁跡に建つ「上ノ郷城跡」の石碑

 この春、3年ぶりに帰省した。新型コロナウイルスを警戒して控えていたのだが、どうしても自分で処理しなくてはならない事情が生じたため、ほんの一泊の里帰り。やるべき任務はすぐに終わってしまったので、ふと上ノ郷城に登ってきた。

 

 上ノ郷城を訪問するのはたぶん二十数年ぶりだ。蜜柑畑に囲まれた何もない中世山城という記憶だったが、今年の大河ドラマ『どうする家康』では、三河統一をめざす徳川軍が攻めあぐねる堅城として登場し、城主・鵜殿長照もメガネを外した野間口徹が普段の飄々とした雰囲気とはまるで異なる渋い演技を見せていたので、何か地元でも盛り上がっていたりするのかしらん、と偵察に行ったわけだ。

はるか奥に「上ノ郷城」の看板が

 弟を運転手に城のそばにある赤日子神社へ。駐車場に車を停めて外に出れば、大河ドラマ関連の歴史紹介サイト「あいち家康戦国絵巻」の幟が立ち、そのはるか奥に「上ノ郷城」の堂々たる看板が見えるではないか。なんだか分譲地の広告みたい。

神社からの道順と現状の地形図

 それにしても駐車場から5分で辿り着けるとは便利になったもの。歴史好きの中学生だった頃、地元の昔話に忍者を使った城攻め話があると知り、山岡荘八の『徳川家康』で確認したところ、確かに「西郡の城攻め」がわずかに記述されている。それならば現地を観に行こう、と自転車に乗って出かけたのだが、思いのほか遠かった上に坂道がきつく、周囲は蜜柑畑が広がるばかりで手がかりゼロ。ついに登城口を見つけることかなわず、すごすごと撤兵したことを覚えている。

 今ではスマホで地図検索できるし、道端には案内板が立っているので、これに従って行けば確実に主郭(本丸)に辿りつけるわけだ。

畑の入口に立つ案内板

 しばらく畑の畦道を分け行って行けば、すぐに主郭の真下に出る。どうやら、この空間が城の二ノ郭にあたるようだ。なるほど、ちっぽけな城ではあっても、主郭に目立つ看板が出ていないと、迷った人々が畑のあちこちに迷い込んで作物を踏み荒らす危険があるのかもしれない。

二郭(現在は畑)から主郭を見上げる

 上ノ郷城はいわゆる中世城郭なので、石垣やら瓦葺きの建築物とは縁のない「土の城」だ。わずかに土塁や堀の跡がのぞくだけなので、かなりの城マニアでなければ訪れることはないだろう。しかし、石垣や建造物の多い近世城郭に慣れると、こうした何も残さない土の城跡から、当時の残り香を見つけ出す楽しみもわかってくる。

主郭へ登る階段

 主郭部分に上がればブルーシートが広がっている部分が目に入る。平成18年度から、数度に渡って発掘調査が行われているそうで、成果としては土師器などの食器や飾り金具の一部、鉛玉などが見つかったという。

発掘箇所にブルーシートが敷かれた主郭

 主郭は平らに馴らされており、案外に広く感じる。これなら城主の住居など、複数の建物が並んでおかしくない。この主郭を中心に曲輪が広がり、複雑な縄張りを構成していたのだろう。若き家康は忍者(大河ドラマでは山田孝之)を侵入させて火を放ち、ようやく落城させたという。

主郭の全体

 こちらは帰りがけにのぞいた公民館に展示されていた、城の推定復元模型(主郭部分のみ)。『どうする家康』でもこの模型を参考に復元CGを作っていたようだ。

上ノ郷城の復元模型(主郭部分)

 城からは蒲郡の街並みが一望でき、遠く三河湾に浮かぶ三河大島が見えるが、その奥には渥美半島の山々が覗くので、外洋に広がる海を見渡すにはアングルが悪い。

主郭からの展望

 主郭の隅には狭い外曲輪のスペースがあったようで、現在はただの原っぱでところどころに百合が咲いている。

主郭下の外曲輪

 そしてここに立つ看板は、おそらく近所の小学校の生徒たちが描いたもの。描かれた家紋は徳川の三つ葉葵ではなく、鵜殿家の丸に三つ石なのがいいですな。

 数十年前からほぼ変化ないまま寂れつつあるような印象がある街でも、よくよく目を凝らすとかすかな変化があるもので、ここにもそんな気配を感じ取ることができた。

外曲輪に立つ看板

 最後の一枚は、かつては外堀の一部だったと伝わる、熊ヶ池に映る落日。

外堀の一部と伝わる「熊ヶ池」