星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

戦国山城探訪・山中城を攻める

 山中城へ行こう。スローリィ・スローステップはそう考えた。

 城郭探訪はスローリィの長年の趣味である。出世魚ではないが城好きには四段階あると言われている。天守閣のある城全国制覇をめざすお城ファン。「日本百名城」すべて踏破せんと張り切る城マニア。近世城郭に飽き、目につく中世城郭を片端から調査に向かう城キチ。さらには伝承や文献を頼りに山林へ分け入り、かすかな土塁・堀の痕跡を発見しては自ら縄張りを記録する城ジャンキー……。
 スローリィはそんな猛者たちの足下にも及ばぬただの初歩的な城好きに過ぎない。城跡を訪れ、その城が栄えていた時期についてぼんやりと想像の翼を広げられればじゅうぶんである。ゲームに例えればイージーモード専門ファンでしかないスローリィだったが、調査・整備が進んですっかり有名な山城となった山中城のことは常に気にかかっていた。昨年、八王子城滝山城という、どちらも北条氏が築いた城を訪問したばかりでもある。やはりここまで来たなら北条流築城術の粋・山中城を目視確認しなければ城郭ファンの名折れなのではないか。いや、行かねばなるまい。行って必ずや我が旗印を本丸に打ち立てん!

 そんなわけで突如として奮い立ったスローリィは静岡へと向かった。到着したのは三島駅。もちろん単独行である。城好きはえてして孤独だ。天守閣や歴史的建造物のある城ならともかく、山城を見物に行こうと提案して「いいですねぇ、私も空堀には目がないほうで」と相好を崩す相手に出会うことはまずない。スローリィは黙って「元箱根行き」のバスへと乗り込んだ。山道を駆けることおよそ30分。バスは「山中城址」の停留所に無事たどり着く。
 バス停を降りれば、三の丸の広場前だ。そこに城全体の案内板が立っている。


山中城の案内板

 ふむ、と眺めながら左右V字型に広がる山中城の縄張りをしばし堪能。
 山中城は、北条氏の本拠地である小田原城防衛のために作られた城で、軍事拠点の色合いが濃く、周辺に城下町はない。築城は永禄年間(1558〜1570)だが、豊臣秀吉の小田原攻めに備えるため、1587〜1590年ごろに改修・増築されている。縄張りの左側に位置する「岱崎出丸」がその増築個所にあたる。


三の丸堀

 案内板に書かれた「戦国山城探訪コース」を踏まえ、三の丸の堀沿いに進軍開始。山中城はこぢんまりした城で、いわゆる竪堀や横堀を細かく配置して山全体を迷宮化した山城とは様相が異なる。しかしこの三の丸の堀は、自然の谷を利用した長さ180m、最大幅30mもある立派なもので、扇の要の位置を占めるにふさわしい。かつては中央に畝を設けて東側を排水処理施設の水路に、西側は空堀としていたようだ。
 そして山中城最大の曲輪である二の丸へ。山中城は本丸が狭いので、この二の丸が機能を分担していたと考えられている。周辺に溜池や箱井戸も多く、水源をしっかり確保した設計なのがいかにも戦闘用。
 二の丸の端にある元西櫓の位置から、西の丸の様子をうかがっていると、ハイキングに来た親子連れ、といった趣の父親の方から声をかけられた。


元西櫓跡から西の丸を見る

山中城は初めてですか?」
 そうだと答えると、相手は小田原在住の城好き会社員で、山中城はすでに三度目、今回は娘に見せてやりたいと思って連れて来た、と言う。しかし小学二年生という娘さんは山城見学に胸をときめかせている様子はまったくなく、「電車マニアの彼氏の撮影旅行にしかたなく同行した彼女」としか思えぬ冷淡な表情を浮かべながら雑草などいじっている。ハイキングに行こうという甘言に乗せられ、遊具も遊び友達も皆無の山奥にかどわかされた彼女に同情を禁じ得ないものの、スローリィにしてみれば先輩城マニアの出現はもっけの幸い、ひそかに彼を「城仙人」と命名し(どことなく飄々としているのがそんな風に見えたのだ)、抜け目なくガイドを務めてもらうことにした。


これが「畝堀」だ!

 西の丸に入ると、さっそく山中城名物の「畝堀」が見えて来る。空堀の底に、いくつもの畝を設けることで、落ちた敵兵は左右に逃げることできず、場内からの攻撃で一網打尽にされてしまう、という恐るべき仕掛けである。写真では何度も見ていたが、やはり実物で見るとその古代遺跡のような荘厳さに打たれる。
「深いなぁ。畝だけで高さ2メートルぐらいありますねぇ」
 スローリィが思わず感嘆すると、城仙人は満足そうな笑みを浮かべる。
「今は保護のために芝が植えられてますが、当時は関東ローム層の赤土丸出しでした。武具をつけた兵ではまずよじ登れないでしょうねぇ」


これが「障子堀」だ!

 西の丸に入り、西櫓の跡まで足を伸ばすと、いよいよ「障子堀」が見えて来る。障子の桟のように区画された畝を張り巡らせた堀が大きく広がる、山中城最大の名物だ。
「ううむ、なんだか『平安京エイリアン』を思い出しますね」
 年齢を感じさせる感慨を漏らしたスローリィだが、城仙人は、
「私はこれを見るといつもベルギーワッフルを思い出すんです」
 と、娘を持つ父親らしい詩的な表現に改めてくれた。


かつてはこんな感じだった

 山中城西の丸は、背後に二の丸と本丸を控え、戦闘時には最前線になることが確実な場所。そのため北条側も独自発想の畝堀・障子堀を厳重に配置したようだ。土が柔らかいため、工事がしやすかったのも影響しているだろう。


障子堀を反対の方向から見る

「しかしこれ、梯子を持ち込んで障子の桟の上によじ上れば、案外スイスイ逃げられるんじゃないですかね」
「いやぁ、それは目立つからすぐ射撃の的になるでしょう」
「でも史実では山中城はこれだけ厳重な堀をめぐらせてもわずか半日で落城したそうですね」
「それは兵力差が違い過ぎたからです。城内兵士はおよそ四千、羽柴秀次率いる秀吉軍はおよそ七万。十倍以上の兵力で力攻めされたら、この程度の小城はひとたまりもありません」
「やはり『兄貴、戦争は数だよ!』ですか」
 スローリィのさりげないガンダムネタを無視して、城仙人は説明を続ける。
「とはいえ短期決戦の力攻めですからね。すさまじい激戦だったようです。戦いに参加した渡辺勘兵衛の手記『渡辺水庵覚書書(わたなべすいあんおぼえがきしょ)』によると、戦闘の最後には敵味方が入り交じりながら堀に雪崩落ちた、と書かれています」
 この障子堀の底ではかつてどんなに血なまぐさく、スラップスティックな殺し合いが行われたことか。スローリィは目を閉じ、この地の底に展開する地獄絵図を思い描いた。


山中城西の丸から見える光景

 堀の外周を歩きながら山々を眺める。この日はガスが多かったが、きれいに晴れれば右手の方向に富士山がはっきり見えるという。


本丸堀

 西の丸から北の丸へ移動し、本丸へ入る。本丸を囲む本丸堀は多くが埋まってしまったままだが、これもやはり畝堀だったと考えられているようだ。畝で区切られた堀は、空堀のほか水堀もあったらしく、本丸周辺に水堀を配置することで用水池も兼ねていたと考えられるわけで、周到な設計に改めて恐れ入る。


天守櫓跡

「しかし山中城にもいちおう天守があったのですね」
 スローリィは本丸の奥にある天守櫓に立つと、城主になった気分であたりを睥睨する。城仙人はさして面白くもなさそうな顔で説明する。
「まぁ、いちばんの高地ですからね。この場所に基壇が築かれ、井楼なり高櫓なりが建っていたのは間違いないと思われますが、この通り植樹が進んで根っ子だらけになってしまい、発掘調査でも柱穴は発見できなかったため実際のところはよくわかりません」
「総大将の北条氏勝はここにいたんでしょうか」
「うーん、氏勝は西の丸の陥落後に城外脱出を果たしているので、このぐらい奥まったところにいたのかもしれませんね。ここを降りたところの本丸には広間があったようなので、城将・松田康長らはそこで指揮していたのかもしれないです」
 確かに本丸の周囲は巨大な土塁に囲まれ、最後の砦を守る気迫が感じられる。


御馬場曲輪の空堀底から見た様子

 本丸を見終えた一行は、続いて縄張りの左端「岱崎出丸」へと向かう。途中、御馬場曲輪の空堀を通ると、植え込みの一部が途切れ、堀の中に入れる箇所を発見した。
 思わず顔を見合わせるスローリィと城仙人。そして二人に浮かぶ笑み。目と目で意志が通じるのは契りを結んだ男女の特権ではなく、マニアの間もまた同じ。そう、城好きとはただ眺めるだけでは飽き足らず、堀を見れば底に潜り、土塁を見ればよじ上り、とにかく五感を駆使して足軽の気分を追体験せずにいられない生き物なのである。


堀の底から見上げると手前に剥き出しの赤土

 実際、堀の底に入って上を見上げれば、土塁は60°はある急勾配。駆け上ろうとしても、手がかりになるものなければとても体勢を維持できない。しかも、この手前の赤土がぼろぼろ崩れ、手足を空しくすべらせる。
「突撃ー!」
一番槍ー!」
 などと阿呆なわめき声を上げながら土塁に突進してはずるずる滑落をくり返すオヤジ二人を、小学二年生の娘さんが「だめだこいつら早くなんとかしないと」という表情で眺める光景がしばし続いた。


一の堀

 そして岱崎出丸の先端を守る「一の堀」に到着。出丸の先端から箱根街道までを、ひと筋の畝堀で区切り、急勾配の土塁を築くという鉄の壁。土塁のてっぺんには弓矢と火縄銃を構えた部隊がずらり並んでいたはずで、生まれ変わってもこんなところに突進する側にはなりたくないものだと思うし、映画『ワールド・ウォー・Z』でイスラエルの壁にはりつくゾンビのごとき大軍を薙ぎ払う守り手側もさぞや大変だったはず。


すり鉢曲輪の底から出丸全体を見る

 百戦錬磨の北条氏がしかける軍事トラップはこれだけではない。岱崎出丸の先端「すり鉢曲輪」は、その通りすり鉢のように凹型に底が低くなるよう設計されており、苦労して堀と土塁を突破してきた敵兵は、疲労困憊のあまり自然とこの底部に集められてしまう。そこを、隣接した武者だまりスペースに待機した城内兵が一気に攻撃・殲滅するというシナリオになっているのである。
「しかしまぁ、尾根に沿ってこれだけの城を築くだけでも大変なのに、芸の細かいマネをするもんですねぇ」
 スローリィが呆れたように言うと、城仙人はやはり小田原人で北条贔屓なのか、自分のことのように嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「西の丸、岱崎出丸、三の丸、どこから攻められてもほかの場所にいる兵が回って対応できる設計になっているんですよ。狭い空間の中でこれだけの軍事トラップが現存してる城はそうないでしょうね」
「それにしても秀吉軍はよくこれを半日で落とせましたね」
「数にまかせて、西の丸・岱崎出丸の両端から同時攻撃を仕掛けたのです。もちろん中央の三の丸も攻めていた。そうなると対応しきれないですね。実際、すり鉢曲輪には二百人ほどの兵しか配置できていなかったようです。しかも攻め手には羽柴秀次山内一豊堀尾吉晴らそうそうたる武将らがいましたからね」
「なるほど」
「それでもかなりの大激戦だったことに変わりありません。三の丸では秀吉軍の武将の一人、一柳直末が銃撃を受けて討ち死にしています。直末は秀吉子飼いの武将で黒田官兵衛の妹を娶っていたため、彼の戦死は豊臣方にも大きな衝撃を与えました」
 圧倒的優勢の攻め手において、大名クラスの武将が戦死するのは珍しい。かなり無茶な戦いが行われたのだろう。


右が一柳直末、左は松田康長・間宮康俊の墓

 最後に、一行は三の丸にある宗閑寺を訪れた。
 ここには、戦死した豊臣方武将・一柳直末と、北条方の山中城主・松田康長と副将・間宮康俊が並んで葬られているのだ。
「戦い済んで、恨みを忘れたかのように並んで眠っているわけですね」
 スローリィは心温まるルティーンのセリフを吐いたが、
「お互いに『お前とだけはいっしょに葬られたくない』と思ってるかもしれませんよ」
 と、ミもフタもない返答をする城仙人であった。

「知ってますか、『障子堀』は大坂城の発掘調査からも発見されてるんですよ」
 帰り道を歩きながら、城仙人が言った。
豊臣秀吉大坂城の三の丸総構えを拡張する時、外堀に『障子堀』を採用したようです。北条攻めでこれらの城の防御力の高さに驚き、パクったんでしょうね。戦闘によって技術継承が行われているのはすばらしいことですが、大坂冬の陣の後、和睦の条件としてさっそく埋められてしまいました。それはやはり、徳川家康もまた『障子堀』の恐ろしさをよく知っていた、ということではないでしょうか」
 城仙人は娘さんの手を引きながら駐車場に停めたスズキ・パレットの中へと消えてゆく。彼らを見送ったスローリィは、「次は埼玉の『鉢形城』を攻めなくては」との新たな決意を胸に秘めながら、バス停へと向かった。