星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

「そのままでいること」の困難〜荒川求実『主体の鍛錬—小林正樹論』

小林正樹(1916〜1996)

 前回のブログで「あなたはそのままでいい」という、『ブッタとシッタカブッタ』(小泉吉弘)あたりが発祥かと思われる主人公肯定型の映画やドラマが増えてるよねー、という話を書いたところだけど、ちょっと関連しなくもない評論を読んだので紹介します。

「すばる」10月号掲載の荒川求実『主体の鍛錬—小林正樹論』。

 第5回すばるクリティーク賞で佳作を受賞したものだそうですが、文芸誌に新人が映画監督論を載せるのはちょっと珍しい気がしますな。それもジョン・フォード小津安二郎ではなく小林正樹というのがエラい。

 

「四騎の会」の同人である他の三巨匠に比べ、小林正樹はなぜあまり振り返られないのか? まぁこれは、黒澤明木下惠介のような、オリジナル脚本をどんどん執筆して作家性(オリジナリティ)を明確にするタイプではないし、市川崑のようにさまざまな映像ジャンルを独自のデザイン感覚で彩る貪欲な職人性の持ち主でもないので、切り口を見つけにくいんじゃないかと思います。だから作品に描かれた「反戦」とか「反権力」といったイデオロギーの部分ばかりが評価され、小林作品=マジメ、重い、暗い、の印象が広まってゆくんですね。

 しかし、荒川求実は小林正樹が描く「反戦」や「反権力」は、政治思想(イデオロギー)とはちょっと異なるのではないか、という切り口から作品を見返してゆきます。古臭いテーマ解釈でもなければ、記号論的な画面分析でもない、愚直な作品解読から始めようとする意気やヨシ!

荒川求実「主体の鍛錬—小林正樹論」

 荒川氏は、まず『人間の條件』(1959〜61)をとっかかりに、第一部・第二部が満洲の状況を広い視点で描く群像劇だったのに、第三部・第四部になると、主人公・梶の視点に絞った戦争状況へ、さらに第五部・第六部になるや梶の個人的な内省描写へと視点が移行してゆくことに注目します。以後の『切腹』(1962)、『怪談』(1964)、『上意討ち—拝領妻始末—』(1967)と続く時代劇は、物語の語り方が変化すると共に視覚面でもリアリズムから様式美へと移行し、内省表現の探究へと向かってゆくと指摘。『上意討ち』に描かれる「回想の中の回想」場面も、決して構成の破綻ではなく、『人間の條件』第五部・第六部から続く個人の声の描き方の発展ととらえるのは秀逸です。

 

 重要なのはここから先で、荒川氏は小林正樹が昭和20年代に公開されたロベルト・ロッセリーニ亀井文夫山本薩夫らの反戦映画に違和感を表明していたことに注目します。当時の小林の発言をまとめると、「敗戦国が描く反戦映画は戦争や軍国主義を最初から否定すべきもの、と捉えているのが不満だ」と。「戦中派は国家が行う戦争を『肯定せざるを得ないもの』と受け入れて戦場へ行った。当時の迷いや葛藤の底にあるものを無視して、“戦争=悪”の図式に安易に飛びつくのはただの変節ではないか」ということだと思います。

 確かに、『人間の條件』第五部・第六部の桐原伍長(金子信雄)や『日本の青春』(1968)の鈴木社長(佐藤慶)など、小林の戦争を扱った映画で悪役となる人物といえば、状況変化によって変節することをなんら恥じない男たちでした。一方で『人間の條件』の梶や『上意討ち』の笹原伊三郎ら主人公は、変化する状況にぶつかり、なおのこと「変わらない」ことに必死の努力を注ぐ人物です。「そんな日本人、当時おらんかったやろ!」とよくツッコまれるのですが、彼らこそが小林正樹の執着する「時代が変わっても、変化しないもの」を表現するための憑代であり、彼らが主体性を維持するための鍛錬が描かれるのが小林映画なのだ、というのが『主体の鍛錬——小林正樹論』の主張なんですね。ここから導き出される結論については、ぜひ実際の論文にあたっていただきたい。

 

 荒川氏が小林正樹の「核」となる作品として『三つの愛』(1954)を挙げているのも要注目です。『三つの愛』は小林正樹唯一のオリジナル脚本の映画化で、公開当時から失敗作として片づけられているものだけど、じつは『怪談』や『食卓のない家』(1985)にも劣らぬ怪作です。上官の命令に従って現地人を殺した罪に苦悩する『壁あつき部屋』(1953)の主人公と、『三つの愛』に登場する鳥や蝶にだけ関心を持つ特異児童が合体した先に、梶や笹原伊三郎らが存在することに改めて気づかされました。

 荒川氏には、ぜひ今回の論文を序論とする本格的な小林正樹論に取りかかっていただきたいものです。

 

 それにしても、小林映画における主体のあり方に注目するというのは、まさに新しい世代の切り口だと思いましたね。戦中派の葛藤などは昔の話、私の世代になると「主体」だとか「認識」だとかはいずれも解体され、相対化してものを見ることの重要さを尊ぶ思想が流行ったものですが、インターネットによる情報過多の今日、世の中には「主体」を問われる問題があふれ返っているわけです。憲法改正の是非、新型コロナウイルスのワクチン問題、トランスジェンダーに関する議論、ロシアによるウクライナ侵攻……。「多様化」の波に溺れかけている現代人は、相対主義でやり過ごしているうちに価値や根拠を多数派に委ね、元の進路へと逆戻りを選択しがち。その中で孤独に主体的であろうとすることは、もちろん「謝ったら負け」な姿勢をかたくなに取ることでも、「そのままでいいよ」と誰かに肯定されてホッとすることでもなく、自分自身を問い、その結果生じる加害性からも目をそらさず、そして新たな視座を掴み取る、しっかりとした意思を持つことなのでしょう。

 そのような意志の持ち主から、小林映画は新たに発見されてゆくのかもしれません。

 

 10月4日、小林正樹26回目の命日にて。

三つの愛(1954)