星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

「そのままでいい」のかな?

WANDA/ワンダ(1970)

 いやー、『ちむどんどん』が最終回を迎えましたね。

 羽原大介はどうかしてしまったのではないかと心配になる話の粗さではあったけど、テーマとしてはローカリズム称揚であり、方言も性格も容姿すら変わらないヒロイン・暢子とその家族が「沖縄」の象徴であることは明白、在日社会を描く『パッチギ!』やいわき市の復興を描く『フラガール』から、作者の視点は一貫していると言えましょう。

 むしろ、この主人公たちが「ワガママを通す迷惑な人々」と認識された結果、ネット上では批判が殺到したという現象に興味が持てました。作者としては空気を読まないまっすぐな個性の持ち主が、行く先々でいい影響を与え、みんなを幸せにしてくれました、という理想的な物語を描いたつもりなのだろうが、作劇が雑なので、都合よくトラブルが発生し、主人公の強運や周囲からの好意によって問題解決、主人公は父親から「暢子は暢子のままでいい」と肯定されて以来なにも変化せず、どういうわけか皆から感謝されるという、安易でぬるいドラマに受け取られてしまったわけです。

 ただ、この「◯◯は◯◯のままでいい」という肯定のセリフ、最近増えたような気がしますね。出る杭は打たれる型の閉鎖的日本社会に対し、多様性を認め合ってみんな楽に生きましょう、と広まったメッセージではないかと思うのだけど、周囲に混乱をもたらす個性というのは、やっぱり奥ゆかしく謙虚な姿勢を示さないと受け入れてもらえぬものなのかなぁ、と『ちむどんどん』を観て改めて思いましたね。

 

 最近、似たようなテーマを扱った映画を観たんですが、それは沖田修一監督『さかなのこ』です。

 主人公のミー坊(のん)は、魚類や水生生物のことしか頭にない少年だけど、海洋学者になるには学力不足、性格的にも周囲から浮き上がった存在で、父親(三宅弘城)は心配するが母親(井川遥)は絶対の信頼を崩さず、性格の矯正を迫らない。いつしかミー坊の個性は周囲にも認められてゆき、念願の「おさかな博士」の夢にたどりつく、という内容。『ちむどんどん』とは真逆にこちらはずいぶん好意的に評価されているようだけど、まぁ、さかなクンという実在の人気者をモデルにしていることが大きいでしょう。

 印象的なのは、ミー坊が少年時代に影響を受けた人物として「理解者を得られぬまま町の奇人で終わった魚好きおじさん」が登場し、これをさかなクン本人が演じているのね。「この映画は実話ベースだけど、場合によってはさかなクンはこうなっていたかもしれないんですよ」という、もうひとつの可能性を見せているわけだけど、この仕掛けで作品全体を現実のさかなクンから切り離し、異者排除や偏見の問題をマイルドに包んだ「やさしさに満ちたファンタジー」として受け取ることができたかというと、ちょっとズルい手な気がして距離を感じました。

 そもそも「この子はこのままでいいんです」という母からのミー坊への肯定が抵抗なく受け入れられるのは、「おさかな大好き」という個性が家族以外にはさほど被害をもたらさないからで、その点では、貧乏暮らしでも借金を重ねて子供たちを上京や進学させ、子供たちは子供たちで個人的な主張を繰り返すトラブルメーカー、決してつつましやかな態度を取らない一家を「そのままでいい!」と肯定する『ちむどんどん』の方が、試みとしては挑戦的だったかもしれません。

 

 じつは『さかなのこ』と同じ日に、バーバラ・ローデン監督・脚本・主演の『WANDA/ワンダ』(1970)を観たんですね。こちらはファンタジーな要素はいっさいない、なんともキビしいお話。

 主人公は「妻」も「母」も演じられない女性で、離婚させられた上に職を失い、酒場で誘いをかけてきた男と寝たり財布を盗まれたりしているうちに、強盗男と行動を共にすることになる。性格が自堕落なのか頭が少し弱いのかわからないけど、とにかくいろいろダメな人で強盗男からも怒鳴られ通し。そんな彼女が唯一賞賛されるのが、強盗男が返り討ちに遭いそうになった瞬間、落ちた銃を拾って加勢してやったこと、というのが哀しい。

 幸運とも理解者とも出会わない主人公の旅を、カメラはなんの衒いもなくあるがままに追い続けるのだけど、薄暗い素朴な16㎜撮影からは、「彼女は彼女のままでいい、と言えるのか?」、それとも「彼女は変わるべきだったのか?」、あるいは「変わるべきは彼女の方か、社会の方か?」といった雄弁な問いかけが発せられているような気がしてきます。長編第一作でこれほどの作品を撮ったバーバラ・ローデンが、その後長編を撮ることなく48歳で早逝したというのはまったく残念。

 

「あなたはそのままでいい」という人間肯定を、「普通」から上回ったりはみ出したりしている人(料理の才能とか魚類への情熱とか)ではなく、「普通」に達すること自体が困難で、世の中をうまく生きられない人には向けにくいのはなぜか、と考えてしまいます。そりゃひどい状況に置かれている人に「そのままでいいよ」とは言いにくい。でも、もしかするとこの言葉はかけられる側ではなく、むしろかける側が「自分自身も変わらなくていいはず」という自己肯定感を抱くための魔法の言葉だからかもしれません。

 今や「変わらなきゃ!」と同じぐらい「そのままでいい!」もまず疑ってかかることが肝心なようです。