星虹堂通信

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ロジャー・ウォーターズのソロアルバムとして甦った『狂気』〜『ダークサイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』

Roger Waters - Speak To Me / Breathe (Official Lyric Video, DSOTM REDUX) - YouTube

 

 今年はピンク・フロイドの代表作である『狂気』こと“THE DARK SIDE OF THE MOON”(1973)の発売50周年。発売◯周年のたびに新たなBOXセットを買わされるファンとしては、今年は何が飛び出すのかと戦々恐々としていたところ、なんとロジャー・ウォーターズによる新録音版『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』なんてものが登場した。そう来たか!

 すでに昨年、新アレンジ版の「コンフォタブリー・ナム2022」を聴いていたし、「マネー」や「タイム」など何曲かがYouTubeで先行公開されていたので、アレンジの方向性はおおよそ理解したつもりでいた。が、改めて全編通して聴くと、唸りましたね。ピンク・フロイドのキャリアどころかロック史に残る奇跡の完成度を誇るオリジナル版の『狂気』が、コンセプトはそのままに完全にロジャー・ウォーターズのソロアルバムとして生まれ変わっていたからだ。

 オリジナル版の『狂気』は、誰もが人生に抱く不安や疑問を色彩豊かに描いた音の大迷宮。そのわかりやすさと彩り豊かな曲調が、あれだけの大ヒットにつながったのだろう。しかし『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』はロジャー個人の内省を追ってどこまでも意識下に沈んでゆく地獄巡り。これは例え話ではなく、ロジャーの狙いとしてもあきらかなのね。冒頭の『スピーク・トゥ・ミー』で聴こえてくるロジャーの独白、なんとピンク・フロイド『雲の影』の一曲「フリー・フォア」の歌詞(年老いた男が思い出すのは、若かりし頃のふるまい〜で始まる)なのですよ。「フリー・フォア」はロジャーが初めて戦死した父について触れた歌であり、その後の「マネー」や「アス・アンド・ゼム」の助走となった曲。29歳で仕上げたアルバムへの、79歳からのアプローチとして、この上なく周到な仕掛けが施されている。

 

 今回の『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』は、ロジャーのソロ作品を『ヒッチハイクの賛否両論』、『RADIO K.A.O.S』、『死滅遊戯』、『イズ・ディス・ザ・ライフ・ウィ・リアリー・ウォント』と聴き続けた者ならば、すんなり5枚目のロジャー音響劇場として受け止めることができるだろう。2014年発売のライブ盤兼映像作品『ロジャー・ウォーターズ ザ・ウォール』がピンク・フロイド版『ザ・ウォール』の私家版として35年ぶりに「完成」させたものだったように、今回の私家版『狂気』は、迫りつつある「死」をコンセプトに、混沌収まらぬ21世紀を前にしての、偏屈老人ロジャーの慨嘆が堂々たる説得力で迫ってくる。

 一方で、過去のロジャーのソロを受け付けなかった人にはかなりの忍耐を要することは間違いない。ここにはギルモアのギターソロも、リックの押しっぱなしのキーボードも、ニックのタムタムも、クレア・トリーのスキャットも、ディック・パリーのサックスもなく、ぶつぶつと呪文のように呟かれるロジャーのボーカルがスモッグのように全編を覆い尽くしているのだから。例によって新規挿入の歌詞にはギー・ラリベルテシルク・ドゥ・ソレイユの創設者)だのアティカス・フィンチ(『アラバマ物語』の主人公)だの、英語圏の人でなければ馴染みのない人名がぽんぽん飛び出すし、「虚空のスキャット」でスキャット代わりに語られる、晩年の友人であるドナルド・ホール(詩人・作家。日本でも『死ぬより老いるのが心配だ〜80を過ぎた詩人のエッセイ』がベストセラーになった)への追悼の言葉など、「知らんがな!」と言いたくなるほど私小説的な内容でもある。

  だが、オリジナルを凌駕しようとも若者にウケようなどとも一切考えず、ただただ現在の心境を自らの最高傑作に乗せてくる素直さ、ストリングスをはじめ、テルミンやハミングなど様々な音色を駆使しつつひたすら抑えた曲調に構築されてゆく、社会への「静かな怒り」は、後半部に行くほど切迫さを増してゆく。まさに、コンセプトメーカーにして全曲の作詞者でなければ許されない挑戦だ。

 それにしても『狂人は心に』の直前の一言には笑ってしまったし、あまりにも有名なオリジナル版のラストの一言を発したスタジオのドアマン、Gerry O’Driscollに向けた50年ぶりの返答にはニンマリさせられた。決して深刻一辺倒でもありません。

 

 今日、ロジャーはロンドンで『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』ライブ版を披露する予定だが、その二日前、ガザ地区ハマスによる大規模テロをきっかけに、イスラエルが報復攻撃を開始した。この十数年、熱心なパレスチナ支援者としても知られるロジャーがどんな声明を発表するか、そこを期待して会場に足を運ぶ者も多いだろう。

 動きを見せるだけで騒ぎの方がついてくる、“ヤバいロッカー”であり続けるロジャー。この男が好々爺に落ち着くことはないだろう。そんな確信を与えてくれる新譜である。