星虹堂通信

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デジタル世代の安部公房?〜シス・カンパニー公演『友達』

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 シス・カンパニー公演『友達』(上演台本・演出 加藤拓也)を観た。

 安部公房の戯曲としてはいちばんの知名度を誇るこの作品、やたらあちこちで上演されている印象があるが、有名俳優を揃えたメジャー公演として取り上げられるのは、2008年の世田谷パブリックシアター公演(演出・岡田利規)以来ではないだろうか。

 その時の世田谷パブリックシアター公演はハッキリ言って失敗作だったが、岡田を支持する批評家やファンの反応は「演出は健闘したが、いかんせん戯曲が古臭すぎて……」といった感じの、退屈の原因はテキストにある、と言いたげなものが目についた。

「違うよ、演出家の狙いがズレてるからつまんないんだよ!」

 と反発心を抱いた私は、その後の『友達』公演をマメにチェックするようになり、『友達』の魅力を分析するエッセイ「『友達』問答」を書くに至った。

 


 そんな『友達』評論家(笑)としては、今回の公演は見逃せない。観劇を終えての率直な感想をメモしておく。

 今回のシス・カンパニー版の特徴は、戯曲を完全に改変していることだ。セリフを現代口語に修正しているだけではなく、『友達』の初演版(1967)、改訂版(1974・新潮文庫に入ってるのはコレ)、そして原型になった短編小説『闖入者』(1951)を素材に、独自の脚色を行なっており、ほぼ「翻案」と言っていい。かつて世田谷パブリックシアターでの『友達』公演が構成を一部変更したことに激怒し、その後の公演では「テキスト改変不可」を厳命したと伝え聞く著作権継承者が存命だったら、ちょっと許されなかったかもしれない。

 しかし、今後の安部戯曲の上演においては、これは必要な作業ではないかと思う。特に、現代の言葉遣いから遠すぎるセリフの処理で若い俳優たちが苦労を強いられているのはしょっちゅう観ているし、外国人による『友達』の上演で「君、土足はひどいじゃないか」というセリフまで愚直に演じている例を観たこともあるが、テキストを大事にする姿勢は立派なものの、演者自身の「現実感」から遊離した舞台に仕上げたのでは、作品が持つテーマの現代性すら損ねる結果になりかねない。作品を「生かす」ための演出の第一歩として戦略的に行うのなら、テキストの改変・脚色はあってもよいだろう。

 

 問題は、その「脚色」の中身である。

 今回は舞台装置をほぼ使用せず、素劇に近いスタイルで上演される。音楽も冒頭と幕間につんざくノイズ音のみ。外部との通路となるドアを舞台中央の床に設置し、家族たちが床下から侵入してくるイメージを見せるのだが、これは同じ新国立劇場で2017年に上演した安部公房『城塞』(演出・上村聡史)でも、やはり「父親の部屋」に通じる重要な出入口を床に設定していたのを思い出し、いささか損をしている。

 セットや衣装がシンプルな分、台本も削ぎ落としたものになっており、上演時間は90分。家族たちが現れて「微笑み」を浮かべるオープニングも、闖入した家族たちがくり広げる 「泥棒猫」論争も、主人公の足を引っかけた長男に次男が制裁を加える場面も、一幕の最後で主人公がハンモックにくるまれるのも、婚約者の兄(初演版では週刊誌のトップ屋)の登場も、ラストの「今日の新聞」の朗読もばっさりカットしている。

 9人の家族として現れる「世間」と、孤独を愛する「個人」である主人公の対立から抹殺へと至る寓話を、現代の怪談として淀みなく運ぼうとしているのだが、要素を落としすぎてあの家族が「友達」を自称する皮肉が立ち上ってこない。いささかデジタル的に過ぎる、と言いたくなるほどの図式の明快さは原型短編『闖入者』への回帰を意図しているようだ。『友達』が改訂をくり返しながら社会と共に変化し続けた戯曲であることを考えると、面白い場面をほぼ省略して先祖返りしてしまった脚色を「欲がないなぁ」と思ってしまう。

 代わりに、主人公が弁護士に相談に行く場面(『闖入者』)、三男が主人公に語りかける場面(改訂版)、長女が主人公に脱走を呼びかける場面(初演版)などは残しているのだが、9人の家族たちのグルーブ感が不足気味なので、それぞれの細部が家族たちの存在感を大きくする効果へとつながらない。テーマ曲「『友達』のブルース」も、主人公が檻に入れられてからとってつけたように合唱されるのだが、唐突な印象しか与えないし、ラストで次女が主人公に渡す飲物を「牛乳」から「赤ワイン」に変更したのも、私には疑問だった(最後、次女に声をかけるのを次男から祖母に変更したのはよかったが)。

 これだけホンをいじるのなら、主人公が内心で抱いている「共同体への忌避感」をすくい取り、お互いの「善意」がどうしてもすれ違う構造を肉付けしていったほうが、今日的だったのではないだろうか?

 意地悪な見方をすれば、今回の翻案には山崎一キムラ緑子浅野和之鈴木浩介といった達者な俳優たちと、経験の浅い俳優たちとの技量の差がつきすぎることを避ける意図があったのかもしれない。その意味ではアンサンブルに乱れを感じることのない、まとまった舞台だったが、ベテランたちは本来の技量をかなりセーブしている気配が感じられたし、林遣都有村架純らの若いスターも、まだまだ伸び代を残しているようだった。

 

 今回の翻案は、『世にも奇妙な物語』的なテレビドラマの脚色と考えれば、それなりに効果的な出来といえるだろう。スウェーデンで映画化されたシェル=オーケ・アンデション監督の『友達』(1988)も、独自の解釈によるオリジナル場面がたくさん挿入され、映像化に不向きな場面は大胆にカットされていたものだ。しかし、テキストとの格闘が感じられたスウェーデン映画版と比べても、今回の『友達』は演出家が理解可能な範囲でこぢんまりと剪定した内容に見えてしまった。

 2021年に現れた『友達』は、まさに新型コロナウィルスへの対応の混乱まっただ中という環境のため、「多数者正常の論理」や「異者排除の思想」に対する疑問が皮膚感覚で伝わりやすかったと思う。しかし、だからこそ「世間」と「個」の対立構造の先にあるもの、「同調圧力」という流行りの言葉への違和感だけでは収まりきらない、まだ名付けられていない感情を、あのラストから打ち出してほしかったと思う。

安部公房文学の“演劇的”解釈〜ケムリ研究室公演『砂の女』

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 何年も前からケラリーノ・サンドロヴィッチが上演の意思を表明していた『砂の女』の舞台化が、緒川たまきとの夫婦ユニット「ケムリ研究室」でついに実現した。

 大いなる期待と若干の不安を抱きつつ観劇してきたので、その報告を。

 

 安部公房の代表作『砂の女』は、よくよく演劇人の上演意欲をかき立てるものらしく、これまでに何度か舞台化の試みがなされている。限定状況における男女の密室劇だから、つい手を出したくなるのもわからなくもない。私も、この数年の間に小劇場での上演を二つ観ている。

 しかし、いずれも原作のダイジェストか勅使河原宏監督の映画版のなぞり返しに終始してしまった印象が強く、俳優が熱演すればするほど、演劇という表現による『砂の女』の新たな側面を見せてもらった、という気分にはひたれなかった。

 

砂の女』の核となるのは、主人公を外の世界から阻むものでありながら、じつは外の世界そのものでもある「砂」。この砂の存在を舞台上でまず表現できていなければ、演劇にする意味がない。今回、上演台本と演出を担当したケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、KERA)はさすがに手練れで、明快に砂の世界を舞台上に出現させた。実際の砂の使用はほんのわずか、代わりに巨大な布を変幻自在に活用し、プロジェクション・マッピングによる映像投影と、回り舞台を使った家のセットの組み合わせで、作品の背景を見事に具象化した。布をさまざまに駆使するアイディアは、かつて安部公房スタジオが『イメージの展覧会』で、白布を唯一の背景美術としていたことを彷彿とさせ、どこか遺伝子を継承しているようにも見える。シアタートラムの上演なのに、パブリックシアターで観ているかと錯覚するほどの広がりを感じさせた美術は、加藤ちか。生演奏で聴かせる上野洋子の音楽も忘れ難い。

 

 一種の幻想譚(ホラ話)である『砂の女』の世界を、勅使河原宏はまず徹底的なリアリズムで写実的に接触し(なにしろ冒頭は「砂」の顕微鏡写真なのだ)、後半で御陣乗太鼓を大胆にインサートするなど表現主義的に飛翔してゆく戦略で、映像化を成功させた。

 一方、KERA版の舞台は変化する布や、マリオネット人形を使ったイメージ処理、黒子ならぬ「砂子」の面々の動きやリフレイン(くり返し)ギャグの挿入などで、作品が内包するブラックユーモアの要素を舞台上に打ち立ててゆく。

 主人公の男の夢や回想として、別役実風のコントが強引に挿入されるのもユニークだが、そんな大胆な脚色をしながら、原作の「あいつ(男の妻)」の存在を、きちんと残しているのも特徴的。なぜ「あいつ」の存在を忘れていないかというと、KERA版『砂の女』は、男女の愛憎劇として構築されているからで、背景の象徴性が高い分、演者にはリアリスティックな表現が求められる。

「女」を演じる緒川たまきは、私にとっては未だに「文學と云フ事」の『箱男』予告編で葉子を演じた人、という認識だったが、それは今回見事に更新された。『砂の女』の「女」には、安部公房が好んだシュペルヴィエル『海に住む少女』のヒロインが投影されている、と私はニラんでいるのだが、緒川たまきもどこかその面影がある。一方、「男」を演じる仲村トオルは、「戦後のインテリ」だった映画版の岡田英次に比べると、いかにも「平成の青年」という感じでこの舞台には合っている。しかし、女性とのコミュニケーションの中で、オタク風であるとか打算的であるとか、何かもう一味のびしろを見せてくれた方が、スタイリッシュな舞台空間をより生々しくできたのではないかとも思う。

 

 原作は、男が砂穴にやってくる初日から数日間にかけてを細密に描写し、砂穴での生活が始まる後半になるにつれ、どんどん時間の経過が早くなってゆくのが特徴なのだが、編集という技が使える映画と違い、ライブ(生)である演劇では「時間」の操作が難しい。物語を男女の関係性の劇としてとらえ直し、劇的緊張を二人の愛憎に絞った脚色は、カフカ別役実を愛する演出家が、彼らとは異質な原作と格闘しながらひねり出したものだろう。

 その結果、原作のラストを改変し、男が「希望」と名付ける装置への意味づけがかなり異なる脚色になっている。「砂」のイメージが転換する重要な要素をあえて省略することで、「砂」と「女」の本質規定を観客に投げ出すのが、KERA版『砂の女』の新解釈なのだ。正直なところ、原作愛読者の私には、前半での期待が思いのほか飛距離が伸びず、情緒でまとめられてしまったようにも見えたのだが、「演劇的」とはこういうことだ、とひとつの答えを突きつけられた思いもある。

 

 見終わって、安部文学の演劇化を達成したケラリーノ・サンドロヴィッチが、改めて安部戯曲の演出に挑んだら、どうなるだろう、と想像させられもした。その場合、ふさわしい作品は『砂の女』の9年後に、やはり限定状況の男女を描いた『ガイドブック』(1971)ということになるだろうか。登場するのは男一人と女二人。エチュードで建て込まれた無意味な会話の羅列で構成されている。はたして、KERA流ナンセンスが入り込む余剰はあるか?

真夏に観た『シャイニング』(143分北米版)

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「シャイニング 北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」上映作品詳細 - 午前十時の映画祭11 デジタルで甦る永遠の名作

 

 なんだかメダルの数を競っているのか感染者の数を競っているのかよくわからない日々の間、私は冷房の効いたオフィスの一室に閉じこもって毎日仕事をしていた。

 その間にこなした仕事以外の重大事といえば、ひとつはワクチンの接種、もうひとつは「午前十時の映画祭」で上映される、スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』(1980)を観賞することだ。

 なにしろ緊急事態宣言の真っ最中。『シャイニング』の上映開始時間も、新宿TOHOシネマズにおいては午前10時どころか午前8時20分上映開始という挑戦的なタイムテーブルに前倒しされていたわけだが、そのおかげで多忙の日々の中でもどうにか観賞かなったのだから、なかなか皮肉な事態である。

 

 さて、今回上映された『シャイニング』は「北米版」。つまり最初にアメリカで公開されたバージョンだ。この作品、公開当初は上映時間146分だったが、プレミア上映での観客の反応を見たキューブリックは、5日後にラストシーンのひとつを削除させ、143分で決定版とした。

 その後、北米以外の国で公開されたのが「国際版」で、こちらは上映時間119分。日本でもこの国際版が公開され、その後、流通しているDVDも119分版である。つまり、143分の北米版が日本で劇場公開されるのはこれが初めてのことなのだ。

 

 ややこしいことに、公開後にビデオソフト化された『シャイニング』は北米版だったため(正確にいうと最初に発売されたDVDも)、私のような初公開に間に合わなかったレンタルビデオ世代にとって、『シャイニング』といえばこの北米版を指す。最初の出会いが「143分版」だったのは非常に幸運だったと思っているが、やはり映画は最初に観たものが刷り込まれるらしく、初公開を観たリアルタイム世代や、国際版のDVDで出会った若い世代からは、北米版は「説明的でテンポがのろい」という声を聞くこともある。

 それはつまり、国際版がそれだけ上出来だったということでもある。

 確かに119分版におけるキューブリックのハサミの入れ方は非常に巧みで、20分以上も短縮してオリジナルの味わいを失っていない点では、勅使河原宏監督『砂の女』の国際版(124分・初公開版は147分)と双璧ではないかと思う。

 

 はたして、初めてのスクリーン観賞となる『シャイニング』にはどんな印象を抱くものか。大きな画面でクリアに映し出された映像は、改めてこの作品を観た中学生のころの記憶を呼び覚ましてくれた。なにしろ私の父は作家志望の鬱病持ちで、定職は持たず、主に自宅に引きこもり、家では飲まぬよう抑えていたものの酒乱の気があり、あちこちに迷惑を撒き散らしながら突然死した人物だった。なので、私にとって映画『シャイニング』とはまずホームドラマであり、どこか私小説的な匂いすら感じるリアルな作品だったのだ。

 119版ではカットされてしまった、幻覚を見て昏倒したダニーを小児科医が診察する場面。ここでは父親ジャックが酔ってダニーに怪我をさせた事情や、ダニーのイマジナリーフレンドである“トニー”出現の背景について語られており、この父子の関係が、いずれ破綻をきたすことの伏線になっている。そして、この場面がないと、ホテルの広間でダニーの首に怪我の跡を見つけた母親ウェンディが、「あなたがやったのね!」とジャックをなじる展開がいささか唐突に感じてしまう。

 そして、黒人シェフのハロランが、トランス一家の危機を予感し、難儀してホテルに戻ってくる過程も、119分版ではほぼカットされていたが、この描写が残っていた方が、ホテルに足を踏み入れたハロランがいきなりジャックに殺されてしまう展開のショック度がはるかに高い。「はるばる戻ってきたのにすぐ殺されるのかよ!」という黒いユーモアが漂うのも絶妙だ。

 そして、今回の上映版では映像に増して音響がすばらしく立体的になっていたのだが、BGMに使用される、バルトーク、ペンデレツキ、リゲティらの現代音楽名曲集も、緩慢な演出テンポに忍び寄るように貼り付けた143分版の方が、よりマッチしているように聴こえた。

 

「北米版」はわかりやすさを好むアメリカ人向けのヴァージョンで、キューブリックとしてはヨーロッパに向けた国際版の方こそ決定版ではないか、という説もあるようだが、改めて劇場で143分版を観てみると、完成度が高いのはやはり北米版の方だと思う。キューブリックとしては英語圏の観客や批評家に最初の印象を与えるアメリカでは長尺版を公開し、その他の国では興行収入を稼ぐため、短縮版を流通させたのだろう。その背景には、前作『バリー・リンドン』(1975)で製作費を回収できなかったことに責任を感じていた、という事情もあった。公開後に発売したビデオソフトが北米版だったことを考えても、やはり143分版こそ「オリジナル」という意識を持っていたと思う。

 

 ヴィンセント・ロブロッドの評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)によると、スティーブン・キング原作の結末(ホテルの爆破炎上)を気に入らなかったキューブリックが最初に構想した結末とは、このようなものだったらしい。

 いろいろあった末に穏やかな日常を取り戻したトランス一家が食事をとっていると、そこへ支配人が「次の管理人」とその家族を案内して入ってくる。そして、彼らはトランスたちの体をすり抜けてしまう……。つまり、家族全員が「地縛霊」に転生する展開だ。

 ところが実際に採用されたのは、ジャックが1921年のホテルのパーティー写真に映り込んでいるというあのラスト。「ジャックは最初から幽霊だったの?」と混乱する人も多いようだが、似たような父親に悩まされた私にとっては、「作家としての才能もなく、家族とのコミュニケーションにも失敗した男が、ホテルの幽霊の仲間入りをすることで救いを得る」という、スピルバーグ未知との遭遇』の裏返しとも言える皮肉なハッピーエンドとしてすんなり受け止められたのだった。

 

 その後何度か見返すと、どうやらジャックは「もともとこのホテルの住人が転生した存在」であったらしく、ホテルに着いてから奇妙な既視感にとらわれる描写や、幽霊バーテンのロイドとの出会い、そして幽霊ウェイターのグレイディとの会話(彼もまた転生して管理人を務めた)などにその伏線が散りばめられていることがわかってきた。ネイティブ・アメリカン(インディアン)の墓地に建つホテルには、住んだ白人たちに輪廻転生の呪いがかけられていた、というわけだ。

 そうなると、ホテルの支配人はそれをわかった上で生贄として「転生者」の中から管理人をスカウトしているということになる。実際146分版からキューブリックがカットしたラストというのは、支配人がホテルから脱出したウェンディとダニーを見舞う場面で、そのあたりを匂わせる描写になっていたようだ。

 おそらく、「理屈は通るが無理のある説明」に受けとられかねないラストよりは、「輪廻転生の呪い」をボカしてしまったほうが、ジャックの狂気が多義的になる、とキューブリックは気づいたのだろう。確かに、幽霊屋敷ホラーに呪いの背景説明など必要ない。狂気の原因が「前世からの因縁」と判明した途端、底の浅さが露呈する。

 

2001年宇宙の旅』のラストに浮かぶスター・チャイルドは「新人類」の誕生だったが、『シャイニング』の写真におさまったジャックは、古き良き20年代への「回帰願望」を果たした男。むしろあの笑顔は、21世紀のアメリカに巻き起こった、新反動主義の台頭を予見するものに見えないか。

「皮肉なハッピーエンド」と納得していたラストの、さらに奥に潜む不気味さを感じとることとなった、劇場での再見だった。

 

f:id:goldenpicnics:20210809150051j:plain『シャイニング』撮影風景(「スタンリー・キューブリックスターピース・コレクション」の特典より)

チェン・ユーシェンの帰還〜『1秒先の彼女』(ネタバレなし)

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 休業期間が終わって、またぞろ忙しくなってきた(と、書き始めて知ったが『またぞろ』って漢字では『又候』って書くのだね。『またそうろう』の音変化)。

 

 どうやら今月いっぱいは映画館に顔を出すのも難しい見通しだ。しかしチェン・ユーシェン(陳玉勲)の新作だけはなんとしても駆けつけなくてはなるまい。というわけで、新宿ピカデリーの大画面で『1秒先の彼女』を観賞。

 チェン・ユーシェンは大好きな監督だ。『熱帯魚』(1995)も『ラブ ゴーゴー』(1997)も封切で観ており、「この監督とは長いつきあいになるな」と予感した。しかしその後、16年待たされた第3作『祝宴 シェフ!』(2013)は、かつて森卓也が「平凡を新鮮に描く非凡」と評した彼の作風とは異なる騒がしいコメディで、VFXの過剰使用や尺の長たらしさも気になった。CM業界で長く仕事をしているうちに、あの素朴な味わいは失われてしまったのだろうか、と残念に思ったものだが、もちろん『祝宴 シェフ!』もそう悪い作品ではない。これを観て以来、「台湾風トマトの卵炒め」が我が家の定番メニューになったほどだ。

 その次の監督作『健忘村』(2017)はいくつかの映画祭で上映されただけで、ついに東京では公開されなかった。配信にも来ていない。かなりの大作でミュージカル時代劇と聞いたので、チェン・ユーシェンはもう、かつてのような「キュート」な小品は撮らないのかと残念に思っていた。

 

 ところが。最新作『1秒先の彼女』は、初期の作風を彷彿とさせるファンタジー・コメディだった。それもそのはず、脚本初稿は『ラブ ゴーゴー』の直後に書かれたものなのだとか。

 主人公は過剰にせっかちな性格の独身女性ヤン・シャオチー(リー・ペイ・ユー)。映画の冒頭では、彼女のワンテンポ早い性格が、受精の瞬間まで遡った人生モンタージュで手早く紹介される。SNSでキラキラ系女子を演じたりしつつ、現状では満たされない思いを抱えた彼女が、公園でボランティアのダンス講師をやっている男性と知り合い、急速に距離を縮めてゆく過程は、今どきのポップなガールズコメディの定番風。

 そんなある朝、目覚めたヤン・シャオチーは自分が突然日焼けし、しかも昨日(バレンタインデー/七夕情人節)の記憶がないことに気がつく。「失われた1日」はどこへ行ったのか? この謎を探る過程で、彼女が「失くしたもの」が次々浮かび上がってゆく。この構成が上手い。

「いつもワンテンポ遅い」バス運転手のウー・グアタイ(リウ・グアンティン)にスポットが当たってからの展開は見てのお楽しみだが、この後半戦こそまさにチェン・ユーシェンの世界そのものなのだった。

 カメラが趣味の冴えないバス運転手ウーの視点による後半のファンタジー展開は、「モテない男の妄想」そのもので、描き方によっては江戸川乱歩的な猟奇趣味に見えてしまったことだろう。観客に彼のことを気色悪く思わせないよう、前半で悪辣な恋愛詐欺師と対決させたり、ベッドに横たわるヤン・シャオチーの前で一晩悩みまくるシーンを設定するなどして、彼の純情性さ周到に引き立たせる。善良な人間にだって「エゴ」はある。チェン・ユーシェンはその辺の匙加減が絶妙だ。

 

 一方、ラジオ番組のディスクジョッキーとの会話や、デジカメではなくフィルムカメラの使用、「私書箱」を使った文通などの設定は、20年前の脚本を現代向けにアレンジしきれなかった部分だろう。しかし無理に現代風にしないことで、物語になつかしさとみずみずしさを残すことに成功している。ファンタジーを表現するためのVFXの使用も最小限に抑えているし、陸のクジラのようにゆっくり動くバスの描写がまたすばらしい。

 復調著しいチェン・ユーシェンだが来年で還暦となる。現代の台湾の状況を素材に、どんなコメディを手がけるか、期待してよさそうだ。

 

 それにしても、ヒロインの父親がいっしょに暮らしていた謎の坊さん、あれは何者だったんだろうな。

 

没後20年・勅使河原宏の特集上映に通う

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 今年は勅使河原宏(1927〜2001)の没後20周年。ということで、シネマヴェーラ渋谷では、その映像作品の特集上映「アートを越境する〜勅使河原宏という天才」が開催されている。

 

 映画監督としての勅使河原宏は、これまでまとまった評価がされてきたとは言い難く、研究書も友田義行『戦後前衛映画と文学 勅使河原宏×安部公房』の一冊しかない。そもそも勅使河原蒼風という大芸術家の息子で、草月流の家元を継承した人物だからだろう、ひがみ癖の強い日本では、映画や陶芸・舞台演出に渡る多彩な活動もすべて「ボンボンの道楽」と受け取られがちなところがあったようだ。

 まぁ、父・蒼風もまた活花・彫刻・書と多彩な活動をした巨匠であり、勅使河原宏の活動は実家の後援あってこそという部分は確かにあった。それでも父親とは異なる道をとまず絵画の世界を志ざし、小林古径梅原龍三郎について修行したり、木下惠介亀井文夫の元で劇映画や記録映画の助監督を務めたり、共産党に接近して山村工作隊としてダム建設現場へ潜り込んだりと、終戦直後に出現した芸術青年らしい紆余曲折を経て自分のスタイルを確立したその活動家ぶりは、例えるならルキノ・ヴィスコンティ山岡士郎。それだけでもきわめてユニークな存在なのである。

 そんな勅使河原宏映画作家としての活動は、安部公房の映像版翻訳者という印象があまりにも強く、70年代に本人が映画の現場を離れてしまったこともあって、前衛の季節が過ぎ去ると同時に急速に忘れられてゆく。映画で「芸術」を掲げるなんてダサいという空気が広がり、映画的な冒険の最前線がロマンポルノや8㎜制作に移ったせいもあるが、私がリアルタイムで観ることのできた『利休』(1989)のころ、勅使河原宏といえばやはり草月流の華道家であり、当時流行の異業種監督の一人として受け取めていた。真価を知ったのは上京してレンタルビデオで旧作を発見してからだ。

 60年代における勅使河原作品は、かつてDVD-BOXが発売されたが現在は絶版、国内盤でBlu-rayが出たのは松竹製作の『利休』と『豪姫』だけで、「前衛」の看板を掲げていた頃の作品がなかなか観ることができないのも、いまいち知名度が広まらない原因だった。満を持して開催された今回の特集上映、ようやく観賞かなった未見作品について、メモしておこう。

 

『十二人の写真家』(1955)

 写真雑誌「フォトアート」の6周年記念として製作されたPR映画。

 木村伊兵衛は、手持ちのライカで街行く人をすばやくスナップ(今やったら問題だぞ)、三木淳は花を活ける勅使河原霞をニコンで連続して撮りまくり、秋山庄太郎はスタジオで婦人雑誌用のモデルを丁寧にライティングしながら撮影、大竹省二ローライフレックスで海岸に横たわるモデルとにこやかに語らい、林忠彦武者小路実篤の仕事場をきびしい目つきで取材撮影、土門拳は戦災の跡が残る風景で子供たちが遊ぶ様子を笑顔でスナップ……という感じで、レジェンド級のカメラマンたちの撮影風景が数分ずつ綴られる。

 彼らが撮った作品のインサートはいっさいなし。現場の音声もなく、写真家たちによる「今回、被写体になってみて」のコメントがナレーターに朗読されるのみという、じつにシンプルなドキュメンタリー。しかし、これが非常に面白い。写真家たちの「眼」と彼らが見ているモノ・風景を自分も逃さずに記録してやろうという気迫に満ちたカメラがすばらしい。写真家が変わるとそれぞれBGMが変わるというのもニュース映画風の処理なのだが、その音楽とのマッチングも批評的でよかった。

 

『インディレース 爆走』(1967)

 公開時は岡本喜八監督『殺人狂時代』と同時上映。記録的な不入りだったとかですぐに封印されてしまったらしい。今回の上映でどうしても観たかった一本。

 冒頭、スピード狂の青年たちの描写とその会話がコラージュされるのは、短編『白い朝』(1965)で採用した、ドキュメンタリーの素材を編集して新たなフィクションを構築する試みの発展形。しかしその仕掛けは徹底されず、すぐに1966年富士スピードウェイでの「インディ200マイルレース」の記録へと移ってしまい、狙いは不鮮明なものになる。

 ジム・クラークマリオ・アンドレッティ、ジャッキースチュワート、グラハム・ヒルといった伝説の名ドライバーたちが集結しての大レース、彼らの来日からレーシングマシンのエンジンの仕組みまで、くわしく解説してくれるのだが、なにしろレース自体は同じ場所をぐるぐると80周するもので変化に乏しく、優勝候補のジム・クラークマリオ・アンドレッティがマシントラブルで脱落するというアクシデントなどあるが、膨大なカメラ台数の中に、『十二人の写真家』や『ホゼー・トレス』にはあった、作者の記録に向けた「眼」も埋もれてしまったようだ。

「スピード時代に向かう人類」を批評的に見つめようとする、トボけた調子のナレーションは、小沢昭一。小沢に技術解説をするコメンテーターはどういうわけか作家の安岡章太郎。車好きの安岡は安部公房といっしょに富士スピードウェイの撮影現場も訪問している。安部も自動車狂で鈴鹿にも通ったそうだが、安岡は自分では運転しないとのこと。

「人間と自動車」をいかに撮るかの模索は、次の安部公房原作『燃えつきた地図』(1968)へと引き継がれてゆくことになる。

 

『1日240時間』(1970)

 日本万国博覧会・自動車館における展示映像。前方・左右・上方の4面スクリーンで展開する、セリフなしの短編ミュージカルである。2014年に修復版が完成したが、その上映イベントには行けなかったので今回ようやく観ることができた。

 内容は、X博士と助手Aが、飲めば時間感覚を実際の10倍に引き延ばせる薬「アクセレチン」を開発。つまり、仕事や作業を10倍のスピードでこなすことができるようになるので、世の中から歓迎されるが、当然ながら薬を悪用する連中も出現する。深刻なトラブルが発生し、博士は「アクセレチン」の販売を中止、この映画もオシマイ……になるはずが、薬を求める欲深い人々の手はスクリーンを引き裂いて博士と助手に迫ってくる。薬を飲んで逃げる博士は、猛スピードで走るうちに、やがて車輪へと変身してしまう。

「車輪の発明は人類の時間感覚を劇的に変化させた」というテーマから発想された内容で、安部公房には『棒』や『なわ』、『鞄』など、道具についての短編が複数あるが、これなどは『車輪』と付けられるべきものだろう。しかし、そのテーマを称揚するわけではなく、スピード時代の行き着く先を不気味に暗示するエンディングは、よくも自動車館で上映できたものだと思う。しかし一方で、安部公房勅使河原宏も、50年代的なアヴァンギャルド精神による寓話風ファンタジーに、そろそろ飽きがきているような印象も如実に感じさせた。

 勅使河原宏としては、『インディレース 爆走』で突きつめられなかった、「スピード時代へ向かう人類」を改めてテーマとして設定したものだろう。スピード化=機械化=オブジェ化へと向かう人間たちを、不気味かつエロティックなダンスで彩ってみせる(女性ダンサーのヌードが映るのは驚いた)。また、4面のスクリーンがそれぞれ別映像を映すマルチ画面になったり、4面でひとつの風景を描く拡大画面になったり、登場人物や小道具がスクリーンをまたがって移動したり、映像の「枠」を拡大する実験が次々と試みられるのは、かつて『完全映画(トータル・スコープ)』を書いた安部公房好みの実験精神。

 しかし、途中で博士と助手が「『アクセレチン』の製造は中止! この映画もオシマイ!」とカツラと衣装を脱ぎ捨て映像も暗転するや、劇場の客席からゲバ棒を持った全共闘学生が登場、スクリーンをゲバ棒で引き裂いて、その奥にいる博士と助手の顔をさらす、という演出は脚本にはない仕掛けだ。そこから博士と助手に差し出される無数の「手」は、観客の側から奥へと向かう構図になり、観客は「強欲な大衆」の視点で二人を追う。

 後に寺山修司が短編『ローラ』(1974)で客席の俳優が切れ目を入れたスクリーンに飛び込むと、映画の中に登場するという実験映画を撮っているが、勅使河原は万博展示映像というメジャーの場で、そのアイディアの先取りに近いメタフィクション劇を撮っていた。

 イベント映像で大いに遊んだ勅使河原は、続いてセミ・ドキュメンタリーの手法を取り入れた自主制作『サマー・ソルジャー』(1972)へと向かうのだが、一方で安部公房は、より「ストーリー」を解体させ、独自のメタフィクション構造を用いた『箱男』へと向かってゆく。二人の共同作業の最後を飾る作品として、『1日240時間』は非常に象徴的な存在かもしれない。

 

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長嶌寛幸(左)と石井岳龍(右)

 

 そのほか、6月12日に行われた、映画監督・石井岳龍と、音楽家長嶌寛幸トークイベントも聴くことができた。

 この二人といえば、映画『エンジェル・ダスト』(1994)の監督と音楽家。なんとその時以来の邂逅だそう。

 石井監督は、安部公房勅使河原宏も「ジャンルを越境して活躍した芸術家」であり、二人の本質は言葉を使わない「詩人」であると評価。長嶌氏は川崎弘二の著書『武満徹電子音楽』に触れ、草月ホールの録音技師・奥山重之助の存在と、武満・奥山コンビが勅使河原作品で行った音響実験の数々、特に『おとし穴』(1962)はオールアフレコで、音響上のクリエティビティが豊穣に感じられる作品なので、ぜひ多くの人々に観てほしいと強調。

 二人とも、勅使河原作品は、撮影・録音機材の性能が乏しい時代、制約の多い中でいかにリアルな「現実」を記録・表現するかで試行錯誤を行っており、記録的リアリズムを突きつめた上で、「超現実」の表現へと達しているのが、21世紀の観客も感動させる強度を持ちえた理由だろう、現代はスマホでなんでも撮影・録音できてしまう分、そこに映らない・録れない「現実」をどう構築してゆくかが重要、もう一度、制約の多い環境に立ち戻ってみてもよいのかもしれない、と盛り上がり40分は瞬く間に過ぎた。

 しかし石井監督、いちばん気になる箱男』映画化のため安部公房に会った話や、撮影直前に製作中止となった話については、最後まで触れずじまい……。いつかはこの話も聞けるのだろうか。

 

 そして会場では、『フィルムメーカーズ22 勅使河原宏宮帯出版社)を先行発売していたので、これも購入。てっきり存命の映画人が対象だと思っていたこのシリーズに、いきなり勅使河原宏の名が連なるのも面白い。本人のエッセイから気合いの入った論考の数々、少しずつ読み進めている。

 勅使河原宏の美意識に満ちた映像感覚と時代を見つめる「眼」は、スマホでアニメや漫画を楽しむSNS世代に、むしろ生なましく迫ってくるのかもしれない。

緊急事態宣言下に観たドラマと映画〜『今ここにある危機とぼくの好感度について』、そして『ゾッキ』と『裏ゾッキ』

 

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 三度目の緊急事態宣言がまたまた延長され、いろんな業界が休業なのか時短なのか、ワクチン接種はどうなるのかとゴタゴタしている今日このごろですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

 さて、NHKドラマ『今、ここにある危機とぼくの好感度について』が最終回を迎えましたな。いやぁ、後半はあからさまにコロナ禍と東京五輪をめぐる「今」の日本を諷刺する内容で、いくらなんでも早すぎる上にタイムリーすぎる物語、よく製作できたものです。

 たぶん、企画が決定しした時点ではこの内容は想定しておらず、昨年の緊急事態宣言下にスケジュール含め構想をまとめ直したのではないかと想像しますが、まさか最終回に至っても現実世界では緊急事態宣言がだらだらと続き、東京オリンピックも開催の是非をめぐって激論が続いているとは思っていなかったことでしょう。しかし、仮に撮影中にあっさり「東京オリンピック中止」が決まっていたら、ドラマの訴求力がかなり限定されたことは間違いなく、それでも脚本の渡辺あやはじめ制作陣は「絶対そんなことにはならないハズ」と、現政権のレベルを読み切っていたということで、その豪胆な作家性に改めて感服です。

 このドラマの狙いが、『スミス都へ行く』や『群衆』など、往年のフランク・キャプラ監督の社会諷刺コメディにあることは、2話を観たあたりで気がつきました。しかし、最終回は「理想主義者が悪役を打倒する」という半沢直樹的ロマンティシズムではなく、日本の腐敗の根源にあるのは、「和を以て尊しと為す」を盾に沈黙を選び、責任追求を避ける、好感度重視の日本人の性質そのものではないか、と突きつけるあたり、しっかり新世紀版のキャプラ劇に更新されていたと言えましょう。

 それにしても、松坂桃李は「頼りない二枚目」が似合う役者になりましたな。テレ朝の『あの時キスしておけば』もなかなか好調ではないですか。

 

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 シネコンが閉鎖されているので、新作映画をほとんど観に行けないのですが、それでも全編を愛知県蒲郡市でロケしたという『ゾッキ』は観ました。いちおう出身者なので気になりまして。

 

 監督は竹中直人斎藤工山田孝之の共同で、原作は大橋裕之の初期短編集。蒲郡出身のマンガ家といえば、昔は高信太郎でしたが(中学生の頃にサイン会に行ったのよ!)、今やすっかり大橋裕之

 大橋作品は往年の『ガロ』掲載マンガを思わせる不条理ナンセンスですが、蛭子能収のようなアートな気配も、渋谷直角のようなサブカル好きに刺さる批評的センスもなく、削ぎ落とした線の中にそこはかとなくハートウォーミングな雰囲気が漂うのが特徴です。今回は線の少ない大橋タッチを意識したのか、脚色でドラマ的な要素を足すことを徹底的に避け、原作の「余白感」を実写の中で再現しようとしているところを興味深く感じました。ロケ場所も、あえて蒲郡の特色ある風景を外し、西浦半島の先の方のひときわ辺鄙な地域を中心に撮っており、その「絵にならなさ」がなるほど大橋マンガっぽい。

 この作品の舞台裏を撮った『裏ゾッキ』(監督・篠原利恵)というドキュメンタリー映画も公開されており、うっかりそちらを先に観てしまったのですが、プロデューサーも兼ねる山田孝之がロケハンで蒲郡の地を案内されながら、

「いやぁ、絵になるところばかりで……」

 とお世辞を言っているのを聞き、「んなワケあるか〜い!」と心の中で突っ込んでしまいましたが、映像になったものを見ると、ナルホドこういう狙いでしたか、と妙に納得。

 私は映画監督としての竹中直人のファンで、彼の監督デビュー作『無能の人』(1991)は、つげ義春原作の映像化作品では、未だトップクラスのものだと思っています。今回は脚本段階でエピソードがシャッフルされた構成(脚本・倉持裕)を、3人の監督が挿話ごとにそれぞれ演出を分担、あるいは共同で演出したりで撮影を進め、それでいて「出演」は誰もせず、集めた素材を編集して完成させたのだとか。石井輝男監督が晩年につげ義春原作の『ゲンセンカン主人』や『ねじ式』を映画化していますが、あれは完全に趣味の世界に没入したものだったことを思うと、映画製作に関心が高い後輩を招き入れて共同作業にすることで、思い入れで突っ走るのではなく、原作エピソードの味わいのバラつき具合を再現しようとする姿勢に、竹中監督の戦略を感じました。

 

 そして『裏ゾッキ』の製作はテレビマンユニオン伊丹十三作品のころから映画のメイキング番組がお家芸の制作会社ですが、今回は映画製作の舞台裏ではなく、ロケ地に設定された蒲郡市の人々が主役となる、ローカルドキュメンタリーとなっていました。漁港と蜜柑畑以外なにもなく、有名なのはせいぜい競艇場と温泉、それにラグーナテンボスとクラシックホテルに日本最小の水族館という、コロナ禍になりゃいずれも瀕死。そんな「活性化」のネタに飢えた田舎の人たちが、映画のロケ隊という「まれびと」をいかにしてもてなすか、涙ぐましい努力が綴られています。

 しかも迎え入れたのがアングラ映画と言っていい『ゾッキ』ですからね。盛大な打ち入りパーティーの席で、斎藤工山田孝之が「みんな原作読んでるのかな?」と戸惑っている様子がなんとも可笑しかったですが、私が蒲郡を出て長い月日が経つ間に、あの閉鎖的な土地柄もずいぶん変わったものだと思いました(法螺貝を吹く喫茶店主人なんて初めて知ったよ)。

 

 とりあえず今度帰省したら、カフェ「ヤミー/Yummy」のパンを買いに行くとしましょう。年末年始にしか帰らないので、開店の日になかなか行き当たらないのですが……。

 

泣き笑い人生模様〜『おちょやん』最終回と萩尾望都『一度きりの大泉の話』

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 NHKの朝ドラ『おちょやん』が最終回を迎えた。

 この数年、改めて朝ドラをチェックしているのだけど、『おちょやん』はもっとも見応えある作品だった。全話の録画をBlu-rayに焼き、保存盤を作成したのはあまちゃん』以来のこと。まぁ、私は舞台とか撮影所とか「劇中劇」が出てくる話が好きで、人間描写と物語構造を多重化させやすいこの仕掛け、脚本家・演出家がどんな手で攻めてくるのかをいつも楽しみにしている。今回の八津弘幸による脚本は、実際の松竹新喜劇の戯曲を引用しながら、ドラマの物語と人間関係が反響しあう構造を維持していて、人物造形も最後までツボを外さなかった。さらに杉咲花成田凌という上り調子なスターの魅力を上手に掬い取った演出も特筆モノで、わきのキャスティングもよく練られていたと思う。

 しかし最終週、千代が道頓堀の劇場で一平と再共演を果たし、これまでの人生を全肯定、出会った人々すべてを家族に迎え、役でも実生活でも「母」を演じながら生きていくというラストは、幸福感ある大団円とはいえ、いささか「涙」で押し気味の急展開に思えなくもなかった。ラジオドラマで全国区の人気者となった千代が、映画・テレビドラマの世界でひっぱりだことなり、文字通り「大阪のお母ちゃん」と認知され、それぞれの子供も大きくなってから、改めて一平との「腐れ縁」が復活する、という時間をかけた展開の方が、“All Ways Looking Bright Side of Life(常に人生の明るいところを見て歩こう)”な印象を抱けたのでは……。

『おちょやん』は本来、全125話で構想されていたのが、コロナ禍による放送日程見直しで115回にされたらしいので、いろいろ圧縮せざるを得なかった事情があるのかもしれない。

 

 そんなことが気になったのは、モデルとなった浪花千栄子は離婚後、元夫・渋谷天外との共演を拒み続けた、という史実を知っているからだろう。正確には、テレビの企画でどうしても共演しなければならなくなったことが一度あったようだが、浪花千栄子曰く、「(天外が老けてて)がっかりしました」という感想だったそう。『おちょやん』の結末を知ったら、

「ちょっと、勝手にエエ話にせんといてくなはれ!」

 と苦情を申し立てにくるかもしれぬ。

 

 思い出したのは、先日読み終えた、萩尾望都の語りおろし自伝『一度きりの大泉の話』。私は熱心な萩尾ファンというわけではないが、各SNSで、少女漫画に造詣が深いみなさんの間で大評判になっていたので、ついついゴシップ的興味で取り寄せてしまった。

 竹宮惠子萩尾望都はある時期まで親密だったが、今では距離を置いている、という話はぼんやり知っていたし、「大泉サロン」という言葉もどこかで聞いた気がするが、あまりくわしくはなかった。公平を期するため、2016年に出た竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』もKindleで購入、2冊を一気に読み終えた。

「へぇ〜!」と言いたくなる少女漫画変革期の貴重なエピソードの数々が目白押しだが、じつは私、少年愛モチーフの作品としては萩尾望都の『トーマの心臓』(1974~)が先にあり、竹宮惠子の『風と木の詩』(1976~)は描写をえげつなくさせた追随者の作品だと思い込んでおりました。モチーフへの関心も作品の構想も、竹宮惠子の方がはるかに先行していたとはつゆ知らず……。だって発表順でいえば『トーマの心臓』が先なんだからしかたがない。

 そして、このような「誤解」が広まることを、1973年の時点で竹宮惠子は恐れていたのだ、という事実が、ずっしりと重く感じられた。

 

 二人が「決別」に至った事情については、性格の違う表現者が共同生活を送る上でいかにも起こりそうな出来事だが、私にとってひときわ興味深く思えたのは、二人をつなぐ増山法恵という人物の存在だ。

 ケーコタン(竹宮惠子)のマネージャーのノンタン増山法恵)といえば、中島梓の『美少年学入門』に収録された座談会(メンバーは中島梓竹宮惠子増山法恵ささやななえこ、羅亜苦)で、

変声期を迎えた後の少年にはなんの興味もないッ!」

 とラディカルな発言をした人、として記憶されていたのだが、今回この2冊を読むことで、彼女が音大志望でウイーン少年合唱団に入れ込んでいたと知っていろいろ腑に落ちた。大泉サロンは増山法恵の家の目の前にあり、彼女は教え魔の文化啓蒙者として、文学・映画・音楽・美術に関する教養を竹宮・萩尾に注ぎ込み、ネームの批評や作品分析を口うるさく続けていた。やがて竹宮惠子の分身的存在へとおさまっていった増山は、自分が長く構想していた『変奏曲』を竹宮に描かせている(というのも今回初めて知った)。

 

 わけても「少年愛」については、完全に増山法恵が理論的イデオローグであり、この二人だけでなく、出入りするファン・漫画家にまで、布教活動が行われていたという。すでに稲垣足穂少年愛の美学』を読んでその道にハマっていた竹宮惠子にとっては、教養豊かな「同好の士」との出会いは運命的なものに思えただろう。一方、SFファンから出発した萩尾望都は、二人の熱中を「ついていけない」と半ば呆れながら、理解できる部分だけ取り入れて『11月のギムナジウム』のような作品を描き上げてしまうのだから、これは恐ろしい。

 

 ちなみに『美少年学入門』には、『風と木の詩』の連載を終えた竹宮惠子中島梓の対談も収録されている。二人とも、「少年愛の時代は終わった!」と、すっかり狐が落ちた感じで喋っているのが今読むと可笑しいが、この中で竹宮は『風と木の詩』には続編の構想がある、という内容を語っている。

 しかし、それは描かれることなく、1992年になって『神の子羊』というタイトルの小説として刊行された。作者は「のりす・はーぜ」。増山法恵の筆名である。未読だが、『風と木』ファンにとってはどんな作品に映ったのか改めて気になった。そして、あれだけの思い入れを込めた『風と木の詩』の続編を、「あえて描くまでもない」と増山に託してしまった竹宮の心境というのも、やはり気になるのだった。

 

 次は、増山法恵の視点による「少女漫画と少年愛」の歴史について読んでみたいものだ。