星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

一人称のミステリ、三人称のミステリ〜原尞『それまでの明日』と奥泉光『雪の階』

 先日、原尞の新作『それまでの明日』と奥泉光の新作『雪の階』を読んだ。どちらも殿山泰司風にいえば「クイクイと読ませる」現代ミステリだったが、正確にいえばミステリというよりも作者一流の「ファンタジー小説」として楽しんだように思うし、どちらもかなり難しいところに突っ込んできた作品だなぁ、とも思った。特に印象に残るのは「人称」による語りの効果。なるべくネタバレにならぬ程度に感想をメモしておきたい。


原尞『それまでの明日』(早川書房刊)


 原尞といえばレイモンド・チャンドラーのフォロワーであり、14年ぶりの新作『それまでの明日』はシリーズキャラクターの探偵・沢崎が「私」として語る一人称で書かれている。チャンドラーが固定化した「一人称ハードボイルド」とは、作者の分身でもなければ読者の等身大の人間でもなく、もちろんスーパーマンでも異常者でもない「探偵」の視線で、作品世界を描写しつつ語り手自身をも魅力的に見せてゆくスタイル。これ、平凡な記述者の一人称視点で天才型探偵の活躍を描くミステリ(例えば「シャーロック・ホームズ」)以上に真似が難しいのではないかと思うのだ。というのは、多くのチャンドラーもどきのハードボイルドでは「孤独」のポーズも、「減らず口」のユーモアも、「謎めいた依頼人」から始まるストーリーも、マンネリズムというほかないパターンに陥っており、感傷的かつ自己陶酔的な読み物に堕してしまうことが多いからだ。「名探偵」やら「不可能犯罪」やらの様式に満ちている謎解き中心の本格ミステリの場合は「手品」の鮮やかさに期待が集中するからまだいいが、作家のナルシスティックな語りをじかに聞かされるハードボイルドの方が、個人的には苦手です。一時期、暗黒小説やサイコ・サスペンス、ハードな警察小説が流行したのも、この種の様式に食傷した読者が多かったからじゃないかしら。

 しかし原尞はタマが違った。30年前、堂々の「チャンドラーもどき」をやってのけた上に直木賞までかっさらったこの作家、その初期作品(『そして夜は甦る』や『私が殺した少女』)では、お手本のチャンドラーや翻訳ミステリの様式を完コピするだけでなく、本格ミステリとして読んでも遜色ない緻密な謎解きが展開していたのが特色だった。しかもその二つの要素が肉離れを起こすことなく完成していたのが見事で、こうした点から「チャンドラーよりロス・マクドナルドに似ているのでは」という声もあったし、謎解きに傾きすぎて「ハードボイルドの本道から外れているのでは」という声もあったと記憶している。
 しかし原尞は前作『愚か者死すべし』から、謎解き要素で読者を振り回す手法から別の次元に向かったようだ。それは一人称の文章で登場人物の関係性を見つめながら、魅力ある「街」を詩情豊かに浮かび上がらせるというスタイルで、山本周五郎のある種の小説やマンガの『黄昏流星群』的な人情話に接近しつつ、湿っぽさをはねのけ乾いたタッチを貫く独自のファンタジー小説。1988年当時に40過ぎだった沢崎は、『それまでの明日』の舞台となる2010年では60歳を超えているはずだが、どうやら50いくつで年を取るのをやめてしまったらしい。その辺の「非リアリズム性」が、一人称で語られる作中の現実に対し、微妙な影響を与え出した気もする。
 さて今回の新作、Amazonレビューをのぞくと「失望」を表明する評者がずいぶん目立つ。これはみなさん、初期作品のようなハードボイルドと謎解きの混交した充実の「ミステリ」を期待しているからだろう。しかし『それまでの明日』には、意図不明な身元調査や、依頼人の謎の失踪、沢崎がサラ金強盗の現場に遭遇、といった事件が続発するも、ショッキングな要素は巧妙に排され、死体が登場しても描写はあっさりしている。いっぽうで、沢崎に向かって「あなたは僕のお父さんではありませんか」などと問いかける人物も登場し、長年沢崎と付き合ってきた読者をドキリとさせる(『ねじ式』かよ、と思った)。「謎解き」の要素を薄くしつつも、「沢崎の住む東京」の魅力、現実にはいそうもないが、もしかしたらいるかもしれない登場人物たちが、微妙なコミュニケーションを交わす様子を、一人称で観察するキャラクター小説を作者は志向していると思う。私としては、チャンドラーやロス・マクよりもエラリイ・クイーン後期のライツヴィル物を思い出したりするのだが。

 もう20年も前の話になるが、ミステリ好きの探偵会社代表にインタヴューをしたことがある。彼が愛読するミステリの筆頭に挙げたのが、原尞の沢崎シリーズだった。探偵としての調査手法がきわめて現実的で、「まったく、身につまされてしまう」と言っていたが、独自の成長を遂げ、未だ携帯電話を手に取らない沢崎が今回の依頼人との距離感について独白する『それまでの明日』のラストシーンに、彼はまだ自分を重ねることができるだろうか、とはふと思った。


奥泉光『雪の階』(中央公論新社刊)

 そしてもう一作、奥泉光『雪の階』。
 こちらの舞台は天皇機関説事件が世間を揺るがす昭和10年囲碁と数学を得意とする孤高の華族令嬢・笹宮惟佐子と新米の報道カメラマン・牧村千代子のコンビが、惟佐子の友人である娘と陸軍の青年将校が起こした心中事件の謎を追う。あきらかな偽装心中の裏側には華族・軍部・資産家たちのからむ陰謀があった。さらにドイツの「心霊音楽協会」に所属するピアニストや、「純粋日本人」による新天皇擁立を構想する宗教団体なども登場、事態は翌年の二・二六事件へと繋がってゆく。
 著書曰く、「武田泰淳『貴族の階段』+松本清張(おそらく『ゼロの焦点』や『神々の乱心』など)」が発想源とのことだが、『鳥類学者のファンタジア』でおなじみのピアノ曲ピタゴラスの天体」が演奏されたり、『神器 戦艦「橿原」殺人事件』でも登場した「今の天皇は偽者である」陰謀論が語られたり、奥泉流伝奇世界の重要な位置を占める一作なのは間違いない。

 いつもの奥泉作品だと、「謎」を中心とする探偵小説のスタイルで展開する物語が、いつのまにか幻想小説へとスライドしていることが多かった。クライマックスでは何重にも構築されてきた物語の大伽藍が一挙に崩壊、その「広げた風呂敷でちゃぶ台をひっくり返す」式のカタストロフィ(破局)の中に「謎の解明」はかき消され気味だったが、今回はそのようなクライマックスはない。あのエントロピー増大しまくりファンタジーが好きなファンはガッカリかもしれないが、今回はまた別の仕掛けが施されているのでご安心。大まかにいうと、「二・二六事件の真相があきらかになる」という史実捏造エンディングなのですね。オオ、山田風太郎

 今回の試みを生かすために採用されたのは、「三人称多視点」をさらに複雑化させた文体。20世紀の初めまで外国小説では多かった「三人称多視点」だが、いつしか「作者が<神>の立場ですべての登場人物の内面を描くのは傲慢ではないか?」とマジメに考え込む人が現れたり、「登場人物が作り物のウソ話などしょせん通俗、一人称の私小説こそ芸術」と考える人が現れたりで、「三人称多視点」と小説のリアリティを巡って、さまざまな議論が交わされるようになった。
 作品世界がそもそも人工的なミステリにおいては、アガサ・クリスティーやエラリイ・クイーンをはじめ、三人称のスタイルを基本とする有名作家は多い。でも、あれは「三人称的一人称」が大半で、章が変わったら視点人物も変わるとか、探偵役が登場したらその視点になるとか、ルールを設定した上で使用されているのですね。まぁ、謎解きミステリで完全な「三人称多視点」って難しい。犯人の「内面描写」をするわけにはいかないし、一人だけ内面描写が省略された人物がいたらそいつが犯人に決まってるわけだし。

 その難しいことに挑戦した『雪の階』だが、使用される三人称多視点の技法は徹底しており、一つのパラグラフの中で、複数の人物の思惑と作者による客観描写が輻輳して語られる。一つの長文の中で視点人物が切り替わったり、調査中の千代子がある人物と交わしている会話が、いつのまにか惟佐子との会話に切り替わって調査報告の場面に飛んでしまっていたり、カメラ・アイの主体が次々と時空を飛び越えるので、読むほうも気が休まらない。編集の凝った映画を見ているような気分になる。
 と、こう書くとなにやらエクリチュールに凝りまくったミステリもどきのヌーヴォーロマンかと思われそうだが、いやいや堂々の娯楽小説でもあるのです。今回は職業婦人である千世子のほのかな職場恋愛の様子がちみちみと綴られ、それどころか惟佐子の華族の娘らしからぬ奔放すぎる調査活動までもがたんたんと書き連ねられる。つまり、ダブル・ヒロインによる恋愛小説でもあり、惟佐子のお見合いから始まる結婚コメディも大いに笑わせる。で、これらがただの読者サービスかと思えば、クライマックスでのヒロインの「決断」に関わる重要な要素なのだからうまくできています。

 結末に表れる二・二六事件だが、これはなんとほんの数ページで処理される。二・二六事件が好んでフィクションの素材となるのは、「雪」青年将校「クーデター」という要素が絵的に美しく、ロマンチックだからだろう。しかし『雪の階』は、その種の「ロマンチック」に淫した作品ではまったくない。流麗な文体でファシズムに飲み込まれる直前の日本を活写し、オカルティックなトンデモ陰謀論を展開させながら、昭和浪漫の幻想に酔いしれる連中に、「馬鹿じゃね?」という女性の視点でのツッコミが入る話である。そして腰砕けになったのが現実の二・二六事件だった、という結末なのだ。
 策士を気取って軍がドイツが天皇が、と陰謀をめぐらす浪漫派の男たちよりも、浮世離れした華族令嬢や恋する職業婦人という、ふわっとした印象の女性たちの方が、じつは地に足を着けていたことが明確になる構図。三人称多視点で描かれているにもかかわらず、惟佐子というヒロインは内面がなかなか理解しづらい人物なのだが、じつは自分が陰謀の重要な要素に組み込まれていることを知り、ラスト直前で彼女なりの「抵抗」を見せる。これが今回のクライマックス。複雑な三人称多視点文体もここで効果をあげるためだったのか、と納得した。

 二・二六事件前夜という舞台設定に、なにかと勇ましい浪漫主義の男たちがうろつく展開は、「美しい国」やら「誇りある国」やらの用語で歴史を都合よく固定化し、共同体の鼓舞を狙う復古主義者の跳梁が目にあまる現代を重ねていることはあきらか。むしろ「自由に物が言えた時代」の最後を描くことで、不自由になりつつある現代を照射する批評的ファンタジーでもあるのだが、「かつて夏目漱石のパロディをやっていたときと比べて、今の奥泉のアナクロニズムに切実さがあるかは、読み手の見解が分かれるところかもしれない。」と書く日経の書評※注)には驚いた。戦前を流麗な文体で魔術化し醜い戦後を無視するのは歴史の否認、と批判しているのだが、どうもこの文芸評論家にはこれが『春の雪』もどきの耽美小説に見えているらしい。「少なくとも私は、美しい戦前よりは醜い戦後とともにありたいと思う。」とカッコつけるわりに、醜い戦後が到達した現在がちゃんと見えているのだろうか、と心配になってしまう。

 奥泉光の次回作は、『雪の階』の主人公たちと『グランド・ミステリー』の登場人物たちが共演する、戦後の日本が舞台らしい。次はどのようなアプローチで、「醜い戦後」を描くのか、楽しみにしている。

 

※注・日本経済新聞3月31日書評https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28792930Q8A330C1MY6000/