星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

ある映画プロデューサーの回想〜荒木正也『映画の香気-私のシネマパラダイス-』

 昨今の出版界においては「映画の本は売れない」と囁かれているらしいが、それにしちゃヴィジュアル豊富な豪華本や映画人の自伝に評伝、マニアックな研究書が次から次へと書店に並ぶのはどうしてなんでしょうね。志高き出版人や編集者がまだまだ健在ということなら喜ばしい反面、こちらの財力は無限ではない……。

 さて、そんな中に現れたのが、荒木正也『映画の香気〜私のシネマパラダイス』(Echelle-1)という一冊。ベテランの映画プロデューサーによる回想録で、私は非常に面白く読んだ。が、なぜかSNSではまったく話題になってないようなので、少しくわしく紹介する。

 

 著者は1930年生まれ。原稿執筆時には卒寿だったという。1954年に松竹大船撮影所に入社し、プロデューサーへ。若い頃からの直言居士で、吉田喜重監督『日本脱出』(1964)のラストをめぐるトラブルでは社長の城戸四郎と対立して辞表を提出、博報堂へ移籍する。しかし記録映画『北壁に舞う』(1979)で映画の世界に舞い戻り、流れかかっていた『風の谷のナウシカ』(1984)への出資を決めたり、フジテレビと組んで『ビルマの竪琴』(1985)を成功させたりしていたそうだ。

『映画の香気〜私のシネマパラダイス』はそんな著者が回想する、城戸四郎、木下惠介小林正樹黒澤明蔵原惟繕須川栄三といった映画人たちのポートレートと、プロデュース作品の内幕を綴るエッセイで構成されている。

 

 Wikipediaにも載っていない「荒木正也(あらき・せいや)プロデューサー」の名をなぜ知っていたかというと、岩波書店の『映画監督・小林正樹』に収められた小笠原清の手記「<終>マークなき『東京裁判』への道程」に登場していたからだ。

 小林正樹監督『東京裁判』(1983)は米軍が撮影した裁判の記録フィルムをもとに構成する企画だが、50万フィート以上ある映像はそれでも裁判のごく一部、何を補足してどうまとめるか早急に指針を示す必要があった。しかし小林は自分のヴィジョンを明確にできず、脚本担当の稲垣俊は資料の山に埋もれて迷路に陥り、作業は暗礁に乗り上げた。スポンサーの講談社が不安の色を浮かべたところで稲垣が助っ人に呼んだのが荒木氏だった。

 小笠原助監督の手記に登場する荒木プロデューサーの姿とは、「上映時間は二時間半にせよ」とか「終戦時の玉音放送はさわりだけあればいい、全編聞かせる必要なし」などと強く主張し、「こんな脚本、自分なら2週間で書き上げてみせる」と豪語して実際に書いてきたという、典型的な「急かし屋」であった。

 しかし『映画の香気』に書かれた荒木側の言い分では、かなり様相が異なる。まず荒木氏は『人間の條件 第三部・第四部』(1959)に制作助手として参加しており、小林正樹とも当時チーフ助監督の稲垣俊とも気心知れていたし、松竹を辞めた後の小林とはゴルフや麻雀のお供を務める密接な間柄だったという(ギャンブル時における小林の“鬼”ぶりがまた面白い!)。

東京裁判』に参加する以上はこれまでの関係を壊す覚悟だったという荒木氏がまずしたことは、作業遅延の責任を稲垣俊にかぶせて彼を更迭、脚本を監督自身が書くよう強硬に要求するというものだった。稲垣を外されておかんむりの小林から「どうしても進めるなら荒木さんが書いてください」と言われたため、大車輪で脚本を書き上げたという。

 荒木氏は自分の脚本が元になって製作はやっと前進し始めたが、無礼な言動のお詫びに脚本のクレジットは監督に進呈したと書くのだが、前掲の小笠原助監督の手記では、荒木稿は児島襄『東京裁判』の要約以上のものではなく、小林からも講談社からも難色を示されたため、すべて自分が小林と共に書き直した、とある(脚本クレジットは小林正樹・小笠原清の連名)。

 どちらが正しいのかはわからない。が、荒木稿の存在は叩き台として重要な役割を果たしたのは確かではないだろうか。なお、荒木氏は完成した『東京裁判』について、南京大虐殺の部分(中国製プロパガンダ映画の引用)とラストにおけるベトナム戦争の写真使用(「ナパーム弾の少女」の引用)には不満を抱いているそうで、いかにも“まっとう”なプロデューサー感覚の持ち主のようだ。しかし、そういう“まっとう”な意見を跳ね除けたことで『東京裁判』は作家の映画になったようにも思う。

 

 映画史的にもっとも興味深いのは、「四騎の会」のテレビドラマ製作に参加し、黒澤明が担当する『ガラスの靴』に関わった話だろう。

 黒澤明木下惠介市川崑小林正樹が名を連ねた「四騎の会」は、合作企画『どら平太』は脚本執筆の段階で難破漂流、黒澤が監督した『どですかでん』(1970)は興行不振と、成果を上げられぬまま赤字が累積していた。責任を感じた黒澤は、それぞれの監督がテレビシリーズを製作するのはどうかと思いつく。他の3人の監督は「黒さんにテレビは無理」と反対したが、黒澤が自らトップバッターを買って出るほど食い下がるので、木下プロでドラマ製作をしている木下が博報堂に話をつける。呼び出されたのが荒木氏だった。

 黒澤はジョージ・D・ベイカー監督の映画『地獄花』(1920)を翻案した『ガラスの靴』の脚本を執筆し始めるが、急激な鬱状態に襲われ筆が進まなくなってしまう。ドラマの担当順を延期してもダメ。これでドタキャンとなったら木下は面目丸潰れの上に、四騎の会が違約金を抱えることになる。当然ながら木下は電話で黒澤をきつく非難したらしい。翌日、荒木氏は憤激した黒澤から君が告げ口したのだろう、と電話で怒鳴られるハメになる。しかし荒木氏、即座に黒澤プロに乗り込み堂々の反論を述べて黒澤に謝罪させたというから大したものだ。

 が、その次の日の夜半、黒澤明の自殺未遂事件が起こる……。土屋嘉男の著書『クロサワさーん!』の中に、自殺未遂後で傷を癒す黒澤に面会した際、木下プロのテレビドラマに出演した話をしたところ、「木下くんは金の亡者だ」と答えられたエピソードが出てくるが、その背景をようやく理解できた。

 なお、荒木氏は『ガラスの靴』の主役に、まだ『仮面ライダー』に出ていたころの島田陽子を想定していたという。彼女を黒澤に「発見」させるために取った手段がまるで映画。もしこの企画が実現していたら、島田陽子のその後の人生も何か変わっていたのだろうか、と今年亡くなった彼女のことを思いやる。

 

 もちろんこんなしんどい話ばかりではなく、博報堂から独立した荒木氏が、須川栄三監督と組んで宮本輝原作の『螢川』(1986)を成功させる物語や、新人・小栗康平監督と組んで島尾敏雄原作の『死の棘』(1990)を製作し、カンヌ映画祭の「グランプリ・1990」と「国際批評家連盟賞」をW受賞(パルムドールがリンチの『ワイルド・アット・ハート』の年)に導くという痛快な話もたっぷりある。その一方で、蔵原惟繕監督と野上龍雄脚本で高橋治原作『風の盆恋唄』に取り組むが、どうしても実現に至れなかった話は涙を誘う。

 

 ただの調整役ではない、自分なりの「設計図」を用意して作品を指揮するタイプのプロデューサーの仕事ぶりを学ぶ上でも、充分に楽しめる内容だ。

クールだが無機質ではない安部公房コメディ〜パルコ・プロデュース2022『幽霊はここにいる』

 年またぎの年末進行に追われる中、どうにかPARCO劇場の『幽霊はここにいる』を観ることができた。

    安部公房の戯曲としては『友達』(1967)と並ぶ代表作であり、岸田演劇賞受賞作でもある『幽霊はここにいる』(1958)は、戦友の「幽霊」を連れ歩く男・深川と、目には見えないその幽霊を使ってひと儲けを企む詐欺師・大庭をめぐる諷刺喜劇だ。

 過去の上演を何度か観ているが、終戦から10年余り、高度経済成長への狂奔が始まった当時(1958年初演)の世相をリアルに描こうとすると、重くなってミュージカルの要素が窒息するし、ポップでオシャレなコメディにまとめようとすると、日本人の戦争の記憶をめぐるテーマが肉離れを起こしてしまう、なかなかやっかいな戯曲でもある。

 この作品がジャニーズタレントを主演に迎えた商業演劇として蘇るとは思わなかった。演出は文学座の稲葉賀恵で、企画も彼女のものらしい。「新進気鋭」の若手が背伸びして手を出したところで、去年のシス・カンパニー版『友達』のような大惨事になるのでは……と心配になったが、イヤイヤどうして、テキストの多重構造を取りこぼすことなく、きれいに着地を決めた見事なエンターテインメント劇に仕上がっていた。客席を埋め尽くした若い観客たちも、この作品の幽霊が「死者の魂」そのものだけではなく、見えないものに価値がつく「資本主義」や、見えないものに触れるシャーマンが権力を握る「信仰」のメカニズム、さらに過去の記憶(妄執)や将来の可能性(未知数)まで広く視野に入れていたことを、しっかり受け取ることができたと思う。

 

 舞台装置は砂を敷き詰めた円形の空間と、その空間を囲むカーテンだけが設置されたシンプルなもの。カーテンが閉じたところにシルエット(影絵)が浮かぶ仕掛けはあるが、流行のCGアニメーションやプロジェクション・マッピングなどは使用せず、パフォーマンス主体のアナログな手触りでまとめ上げている。

 キャスティングはカムカムミニキーナ八嶋智人大人計画田村たがめ阿佐ヶ谷スパイダース伊達暁、唐組の稲荷卓央、「天才てれびくんYOU」でレギュラー出演してもらった堀部圭亮といった、ずいぶん昔から馴染みの深い役者陣が勢揃い。彼らが安部公房スタジオの定小屋だったPARCO劇場(当時は西武劇場)で安部作品を演じるとはなんとも感慨深いものがある。

 詐欺師・大庭三吉を八嶋智人とは、ちと貫目が軽くないかという不安が脳裏をかすめたが、八嶋はいつものメガネに大きな口ひげを加え、その身のこなしはさながらグルーチョ・マルクスいきいきとした詐欺師の登場にすっかり嬉しくなってしまった。そうすると、姿が見えず声も出さない「幽霊」がハーポで、その通訳である深川がチコか。この作品が海外でも人気あるのは、マルクス兄弟風の幽霊喜劇として受け入れられているからかもしれない、と初めて思い至った。

 大庭が始めるビジネスは「幽霊」を使った一種の信用詐欺なのだが、彼が何かと振り回す緑のハンカチも印象的。緑の布きれ=greenbacks(ドル紙幣)にかけているのかもしれず、そう思うと円形の舞台装置も貨幣の象徴に見えてくる。アンサンブルの面々の服装も幽霊ビジネスが動き始めると体の一部に金色が入るなど、小道具や衣装にも細かい遊び心が感じられた。

 深川を演じるのはジャニーズWEST神山智洋。以前この役を演じた上杉祥三や北村有起哉といったクセ者たちの記憶が残っているので、いささか演技にコクが乏しい感はあったが、良い意味で素朴かつ善良そうな佇まいは深川に合っていたし、幽霊に殴られる場面のマイムはさすがの身体能力を見せてくれる。

 今回の上演では、三幕劇を二幕に修正(二幕11景の後に休憩が入る)、セリフを少々切りつめてテンポを出し、代わりに深川が歌って踊るナンバーを一つ加えているのだが、まぁ、神山クンを主役に迎えてソロの歌と踊りがなくてはファンが納得しないのはよくわかるものの、深川という役にはそんなに“華”を感じさせない方が、後半彼の内面が露出するようになってからの対比がより明確になったのではないかと思う。しかし、神山の湿り気を帯びつつも澄んだ声は確かに魅力的で、これなら声優としてもやっていけそうだ。

 また、戯曲を尊重し「気違い」、「アカ」、「シケピン」といった言葉を修正しなかったのもエラい。

 

 砂が敷き詰められた円形舞台は『砂の女』オマージュかと思いきや、中央を掃き分けると赤い床が露出し、ファッションショーのレッドカーペットに転じるという使い方も面白く、さらにここで描かれる「幽霊ファッションショー」、過去の上演でも芝居の見せ場として美術や衣装が念入りに設計される場面だが、今回は幽霊の服だから「見えない」ファッションショーという解釈で、モデルを演じるアンサンブルは全員白一色の下着姿。その格好でごく典型的なランウェイショーを演じることで、「裸の王様」的滑稽味を醸し出す。なるほどね。

 さらに、戯曲通りのラストシーンが演じられた後、ゆっくりと空爆や銃撃の効果音が立ち上り、舞台中央に傘を持った深川が砂の雨を受けながら一人立ち尽くす。これは、今も「ジャム」を求める人々が幽霊を生み出し続ける限り、深川のような男もまた現れるのだ、という今年のロシア・ウクライナ紛争をふまえての主張に見えた。すると足元の赤い床はジャムの色か流血の筋か。

 

 クールではあっても、無機質ではない象徴劇として上出来の仕上がり。これなら『どれい狩り』や『快速船』、『可愛い女』といった安部公房の初期喜劇を商業演劇として再生することもできるのでは? と思わせてくれる。

 なお、公演パンフレットには安部公房スタジオの参加俳優だった浅野和之のインタヴューが載っており、浅野が安部スタジオ版『幽霊はここにいる』(1975年上演)に裏方として参加していたことを初めて知った。

「リアリティ」は写実に非ず

 2022年も残りひと月となりました。

 秋に入って以来、あちこちから立て続けに訃報が届いているわけですが、個人的に大きかったのは、10月7日、私が所属する制作会社の創業社長にして現会長である倉内均監督が亡くなったことです。なにしろ会社に第一報が届いた瞬間、同じフロアにいましたから。

 3月に「お別れ会」を開催することとなり、参加者に配布する冊子用に、スタッフそれぞれが倉内さんの面白エピソードを書くようにという依頼があったので、つらつらと思い出に耽っていたところですが、短い字数にすべて書き切るのは難しい。どうにか原稿は完成させたのですが、こちらにはまた別の思い出を綴っておこうと思います。

 

 私が制作会社アマゾン(当時)に入社したのは90年代の半ば、もちろんその頃は倉内均なんて名前はまったく知らず、入社後にテレビマンユニオン生え抜きのディレクターの一人で、始まった頃のアメリカ横断ウルトラクイズ」の中心スタッフだったと聞かされ、あの番組のファンだった者としてはちょっと嬉しかった記憶があります。飛来するヘリコプターからクイズ問題がばら撒かれる「バラ撒きクイズ」を考案したのは倉内さんだそうで、ヒントになったのは『地獄の黙示録』だったとか。

 それと、80年代のサントリースペシャルで制作されたドラマ『炎の料理人 北大路魯山人』(1987)もたまたま放送を観ていました。私が魯山人に関心を抱くきっかけになった作品ですが、だいぶ経ってから倉内さんが演出だったと知り、横浜の放送ライブラリーで再見しました。岩間芳樹の脚本と緒形拳魯山人のおかげでしっかりした出来栄えでしたね。星岡茶寮のセットが立派で、80年代のテレビ界の財力を痛感します。

 その時の縁なのか、後に倉内さんが映画『佐賀のがばいばあちゃん』(2006)を撮った際、緒形拳がゲスト出演しました。スタジオの片隅で、倉内さんが「古典的な撮り方しかできないので、あいかわらず台本に線を引いたカット割りにそって撮ってますよ」と呟くと、緒形さんが、

「いや、俺はそれでいいと思うんだよね。カット割りというのは監督の『見た目』なんだ。最近はあっちにもこっちにもカメラがありますって、監督の目がどこにあるのかわかんない現場が増えててさぁ」

 と語ったのはよく覚えています。

 倉内さんが撮った『佐賀のがばいばあちゃん』やテレビ朝日のドラマ『母とママと、私。-10年目の再会-』などを見ると、一見穏健かつ保守的な演出家に見えますが、なにしろテレビマンユニオン時代には伝説の低視聴率ドラマ『ピーマン白書』(1980)を作った人物、倉内演出の本質は「リアリティ(真実味)の脱構築」にあったと思います。

 じつは『佐賀のがばいばあちゃん』には別の脚本家による第一稿がありました。原作の語りを活かし、コメディとしてはずっとハツラツとした内容でした。実際、この原作は他にも漫画化やドラマ化や舞台化、再映画化までされているのですが、そのどれもが「主人公・徳永昭弘=島田洋七」という原作の設定を踏襲しているんですね。しかし倉内さんが山元清多に書かせた決定稿では、主人公は岩永昭弘という仮名になり、どこかのサラリーマン(三宅裕司)という設定。彼の郷愁として、あのおばあちゃんの記憶が蘇る、という導入部になっています。つなり、「島田洋七」という個人の記憶を追体験するのではなく、観客の誰もが「自身の祖母の記憶」と向き合えるようになっているわけです。

 倉内さんがテレビマンユニオンの若手ディレクター時代に撮った『ドキュメンタリードラマ 二・二六事件〜目撃者の証言』(1976)を見せてもらったことがあるのですが、これも事件に立ち会った生存者の方々の証言を聞くパートと、俳優に演じさせた再現ドラマのパートが交錯する構成になっていました(脚本はやはり山元清多)。いつしか再現ドラマで栗原中尉を演じる岸田森の乗った車が現代(当時)の赤坂の街を疾走するなど、当事者の証言(記憶)と再現された現実(虚構)と現在の風景(現実)が入り乱れ、「リアル」の居場所が曖昧になってゆく独特のドラマ空間を作り上げていました。

 後に倉内さんが監督した『日本のいちばん長い夏』(2010)も、その企画の延長だったと思います。「文藝春秋」が1963年に行った昭和20年8月15日をめぐる大座談会を、文化人や法曹人、プロの俳優が入り乱れた文士劇キャスティングで再現する、という奇妙な企画。座談会の参加者を演じる田原総一郎富野由悠季らがまたそれぞれの戦争体験を語り始めたりして、戦争の「リアル」を多方面から浮かび上がらせる。

 さらにこの映像化プロジェクト自体がドラマの中に組み込まれていて、倉内さんをモデルとする演出家木場勝己が演じました。

 

 じつは私が2011年にWOWOWで作った番組『映画人たちの8月15日』は、『日本のいちばん長い夏』のスピンオフのような企画でした。「キネマ旬報」が1960年に行った8月15日に関する手記特集を元にしたものでしたが、倉内さんの構想はやはりスタジオに当時の「キネマ旬報」編集部を再現し、俳優が演じる編集部員たちがリサーチに悪戦苦闘するドラマと、さまざまな映画人が語る8月15日のエピソードが交錯してゆく、というイメージだったんですね。私は倉内さんのチーフ助監督を務めるつもりで準備していたのですが、判明した予算があまりにも少なすぎたため、このプランは実現できませんでした。結局、倉内さんに代わって私が引き取り、どうにかまとめ直したのですが、凡庸なエピソード集の枠を出なかったのは残念です。何か低予算でも可能なアイディアを一つ生み出すべきでした。ここでもまた倉内さんを失望させた気がします。

 

 亡くなってから知ったのですが、倉内さんは青森の高校映研時代に、自作の8㎜作品を何かのコンテストに出品し、大島渚に激賞されたことがあったとか。なるほど、こうしたリアリズムの拡大を志す実験精神は、大島の影響を感じなくもありません。同時に、倉内さんが好んだ映画監督に沢島忠がいたことも思い出します。時代劇の様式を軽やかに踏み越えて、ポップでモダンなミュージカルコメディを作り上げた沢島演出の軽やかさこそ真の前衛と考えていたのかもしれません。

 大島渚の前衛感覚と沢島忠モダニズムが合体したところにあった倉内演出、その謎についてもっと本人から話を聞いておけばよかったと思います。

シベ少の新作と上板橋で観た安部公房『友達』

 仕事がずいぶん忙しくなってきたので、新作映画もチェックできない日々が続いているが、今月はどうにか演劇を二本観ることができた。

 

 ひとつは、シベリア少女鉄道の新作『アイ・アム・ア・ストーリー』(作・演出 土屋亮一)。

 公演が終わっているのでネタバレ有りで内容を紹介すると、今回のメインプロットは『Dr.コトー診療所』のパロディ。離れ小島を舞台に、東京から越してきた医者と島民の人間模様が描かれる。そこに医者の過去の因縁やら、リゾート開発をもくろむ悪徳政治家やらがからんでくるわけだが、役者が10人しかいないため、一人で複数の役を兼任し、場面が変わるたびに衣装を早替えしては別人に成りきって再登場する(小劇場ではいつもの光景ですネ)。その中で、なぜか一人だけひとつの役しか与えられていない役者(川井檸檬)がいて、当人もその仲間ハズレ感にモヤモヤしているらしい。その後、ストーリーの急展開で役者の入れ替わりが限界を迎えると、彼は勝手に衣装や持ち道具を横取りし、他人の役を次々と演じ始めてしまう。共演者は彼の強引な振る舞いに困惑しつつも芝居を合わせるのだが、すべての役を手中に収めようとする彼のエゴイズムは、いつしか自らをストーリーの権化と称する巨大な合成獣(キメラ)へと成長させ、他の役者たちは自らのアイデンティティである持ち道具を守りながら、その怪物と戦うのであった、というジャンプ漫画風なクライマックスを迎える。ラストは角川映画版『里見八犬伝』!

『映画 おそ松さん』の脚本含め、この数年のシベリア少女鉄道はストーリーの脱構築ネタが非常に多いのだが、もともと「定番のストーリー」をとんでもないアイディアでズラしてゆく遊びの劇団だっただけに、20年かけてこのようなメタフィクション演劇の様式性に落ち着いたのは納得できなくもない(著作権法に触れるようなネタはやりにくくなっているのだろう)。古参ファンとしては、初期の破壊的なアイディアや大胆な大仕掛けがなつかしいが、斬新なトリックで読者を幻惑したアガサ・クリスティーが、中期以降は細やかなアイディアの組み合わせでファンを楽しませたように、土屋亮一の筆の円熟を今後も見守りたいところ。

 

 そしてもう一本は、劇団銅鑼から派生した「プロジェクトYu-Ka」のプロデュース公演で安部公房の『友達』(演出・野崎美子)。

 テキストは改訂版を使用しているが、祖父ではなく「祖母」を起用。小道具の黒電話はじめ戯曲が書かれた昭和を意識した時代背景で、演技のスタイルもやや過剰気味なザ・お芝居。が、きちんと訓練された役者陣が演じるので、空々しくはならず、アンサンブルに乱れはない。背景用の板を巧みに利用して「家族」たちが群体のように蠢きながら登場する冒頭や、「友達のブルース」をさまざまな変奏で繰り返しながら恐怖感を高めてゆく効果も抜け目なく、演出家の練達ぶりを感じさせる。「正統」の側にいると思っていた者が、いつのまにか「異端」とされてしまう世界の仕組み、ロシア・ウクライナ戦争やワクチン論争、フェミニズム問題など、「今」にも通じる戯曲であることを、しっかり浮かび上がらせていた。

 ひさびさに端正な出来栄えの『友達』を観た、という思いが強いのは去年観たシス・カンパニー上演版の『友達』が、戯曲の初演版と改訂版、原型短編『闖入者』を参照しながら新たに潤色した台本を用意したにもかかわらず、作品の魅力を深掘りするどころか埋め戻す結果になってしまった苦い記憶がまだ新しいからだろう。

 

 さて、私は以前「『友達』問答」という長いエッセイを書いたのだが(当ブログに再録されてます)、その際に入り切らなかったネタに、「改訂版」に登場する記念写真の問題がある。

 第二幕の8場、主人公の男が婚約者に会い、闖入してきた9人の「家族」による被害を訴える場面。突然現れた末娘が二人を邪魔し、一枚の写真を落として逃げてゆく。そこには笑顔の「家族」たちに囲まれて微笑む男の姿が映っていた。男は「無理矢理なんだ。分るだろ、見えないところでくすぐられているんだよ」と訴えるが、写真に写った親密そうな様子を見て、婚約者は彼が自分に嘘をついているのではないかと不審の念を抱く。

 ここは「改訂版」になって書き足された部分だが、問題の記念写真を撮る場面は一幕にない。写真という安部公房らしい小道具を生かすためにも、また、家族たちが浮かべる「微笑み」の不気味さを強調するためにも、前半で主人公が強引に記念写真を撮らされる場面があった方が自然である。

 ところが、この改訂版を使って最初に上演した安部公房スタジオ版の『友達』(1974)では記念撮影の場面があったようなのだ。ナンシー・K・シールズの『安部公房スタジオの演劇』には、その場面がスチール写真付きで紹介されている。では、なぜ戯曲にはその場面が残っていないのだろうか?

 改訂版の初刊行は1987年の新潮文庫。刊行にあたって、安部公房は余計と思える部分をカットしてしまったのか。それとも戯曲はこのままで、稽古を重ねているうちにやはり「記念写真」は実際に演じた方がいいと思い直し、即興的に付け加えたのか。いずれにせよ、あの「記念写真」の扱いは、演出家に委ねられているような気がする。

 

 私が『友達』という作品を、まだ発展途上の、完成に至っていない作品ではないかと考えるのは、こういう部分もあるからなのです。

ナンシー・K・シールズ『安部公房の劇場』より〜『友達(改訂版)』の記念写真場面

 

「そのままでいること」の困難〜荒川求実『主体の鍛錬—小林正樹論』

小林正樹(1916〜1996)

 前回のブログで「あなたはそのままでいい」という、『ブッタとシッタカブッタ』(小泉吉弘)あたりが発祥かと思われる主人公肯定型の映画やドラマが増えてるよねー、という話を書いたところだけど、ちょっと関連しなくもない評論を読んだので紹介します。

「すばる」10月号掲載の荒川求実『主体の鍛錬—小林正樹論』。

 第5回すばるクリティーク賞で佳作を受賞したものだそうですが、文芸誌に新人が映画監督論を載せるのはちょっと珍しい気がしますな。それもジョン・フォード小津安二郎ではなく小林正樹というのがエラい。

 

「四騎の会」の同人である他の三巨匠に比べ、小林正樹はなぜあまり振り返られないのか? まぁこれは、黒澤明木下惠介のような、オリジナル脚本をどんどん執筆して作家性(オリジナリティ)を明確にするタイプではないし、市川崑のようにさまざまな映像ジャンルを独自のデザイン感覚で彩る貪欲な職人性の持ち主でもないので、切り口を見つけにくいんじゃないかと思います。だから作品に描かれた「反戦」とか「反権力」といったイデオロギーの部分ばかりが評価され、小林作品=マジメ、重い、暗い、の印象が広まってゆくんですね。

 しかし、荒川求実は小林正樹が描く「反戦」や「反権力」は、政治思想(イデオロギー)とはちょっと異なるのではないか、という切り口から作品を見返してゆきます。古臭いテーマ解釈でもなければ、記号論的な画面分析でもない、愚直な作品解読から始めようとする意気やヨシ!

荒川求実「主体の鍛錬—小林正樹論」

 荒川氏は、まず『人間の條件』(1959〜61)をとっかかりに、第一部・第二部が満洲の状況を広い視点で描く群像劇だったのに、第三部・第四部になると、主人公・梶の視点に絞った戦争状況へ、さらに第五部・第六部になるや梶の個人的な内省描写へと視点が移行してゆくことに注目します。以後の『切腹』(1962)、『怪談』(1964)、『上意討ち—拝領妻始末—』(1967)と続く時代劇は、物語の語り方が変化すると共に視覚面でもリアリズムから様式美へと移行し、内省表現の探究へと向かってゆくと指摘。『上意討ち』に描かれる「回想の中の回想」場面も、決して構成の破綻ではなく、『人間の條件』第五部・第六部から続く個人の声の描き方の発展ととらえるのは秀逸です。

 

 重要なのはここから先で、荒川氏は小林正樹が昭和20年代に公開されたロベルト・ロッセリーニ亀井文夫山本薩夫らの反戦映画に違和感を表明していたことに注目します。当時の小林の発言をまとめると、「敗戦国が描く反戦映画は戦争や軍国主義を最初から否定すべきもの、と捉えているのが不満だ」と。「戦中派は国家が行う戦争を『肯定せざるを得ないもの』と受け入れて戦場へ行った。当時の迷いや葛藤の底にあるものを無視して、“戦争=悪”の図式に安易に飛びつくのはただの変節ではないか」ということだと思います。

 確かに、『人間の條件』第五部・第六部の桐原伍長(金子信雄)や『日本の青春』(1968)の鈴木社長(佐藤慶)など、小林の戦争を扱った映画で悪役となる人物といえば、状況変化によって変節することをなんら恥じない男たちでした。一方で『人間の條件』の梶や『上意討ち』の笹原伊三郎ら主人公は、変化する状況にぶつかり、なおのこと「変わらない」ことに必死の努力を注ぐ人物です。「そんな日本人、当時おらんかったやろ!」とよくツッコまれるのですが、彼らこそが小林正樹の執着する「時代が変わっても、変化しないもの」を表現するための憑代であり、彼らが主体性を維持するための鍛錬が描かれるのが小林映画なのだ、というのが『主体の鍛錬——小林正樹論』の主張なんですね。ここから導き出される結論については、ぜひ実際の論文にあたっていただきたい。

 

 荒川氏が小林正樹の「核」となる作品として『三つの愛』(1954)を挙げているのも要注目です。『三つの愛』は小林正樹唯一のオリジナル脚本の映画化で、公開当時から失敗作として片づけられているものだけど、じつは『怪談』や『食卓のない家』(1985)にも劣らぬ怪作です。上官の命令に従って現地人を殺した罪に苦悩する『壁あつき部屋』(1953)の主人公と、『三つの愛』に登場する鳥や蝶にだけ関心を持つ特異児童が合体した先に、梶や笹原伊三郎らが存在することに改めて気づかされました。

 荒川氏には、ぜひ今回の論文を序論とする本格的な小林正樹論に取りかかっていただきたいものです。

 

 それにしても、小林映画における主体のあり方に注目するというのは、まさに新しい世代の切り口だと思いましたね。戦中派の葛藤などは昔の話、私の世代になると「主体」だとか「認識」だとかはいずれも解体され、相対化してものを見ることの重要さを尊ぶ思想が流行ったものですが、インターネットによる情報過多の今日、世の中には「主体」を問われる問題があふれ返っているわけです。憲法改正の是非、新型コロナウイルスのワクチン問題、トランスジェンダーに関する議論、ロシアによるウクライナ侵攻……。「多様化」の波に溺れかけている現代人は、相対主義でやり過ごしているうちに価値や根拠を多数派に委ね、元の進路へと逆戻りを選択しがち。その中で孤独に主体的であろうとすることは、もちろん「謝ったら負け」な姿勢をかたくなに取ることでも、「そのままでいいよ」と誰かに肯定されてホッとすることでもなく、自分自身を問い、その結果生じる加害性からも目をそらさず、そして新たな視座を掴み取る、しっかりとした意思を持つことなのでしょう。

 そのような意志の持ち主から、小林映画は新たに発見されてゆくのかもしれません。

 

 10月4日、小林正樹26回目の命日にて。

三つの愛(1954)

 

「そのままでいい」のかな?

WANDA/ワンダ(1970)

 いやー、『ちむどんどん』が最終回を迎えましたね。

 羽原大介はどうかしてしまったのではないかと心配になる話の粗さではあったけど、テーマとしてはローカリズム称揚であり、方言も性格も容姿すら変わらないヒロイン・暢子とその家族が「沖縄」の象徴であることは明白、在日社会を描く『パッチギ!』やいわき市の復興を描く『フラガール』から、作者の視点は一貫していると言えましょう。

 むしろ、この主人公たちが「ワガママを通す迷惑な人々」と認識された結果、ネット上では批判が殺到したという現象に興味が持てました。作者としては空気を読まないまっすぐな個性の持ち主が、行く先々でいい影響を与え、みんなを幸せにしてくれました、という理想的な物語を描いたつもりなのだろうが、作劇が雑なので、都合よくトラブルが発生し、主人公の強運や周囲からの好意によって問題解決、主人公は父親から「暢子は暢子のままでいい」と肯定されて以来なにも変化せず、どういうわけか皆から感謝されるという、安易でぬるいドラマに受け取られてしまったわけです。

 ただ、この「◯◯は◯◯のままでいい」という肯定のセリフ、最近増えたような気がしますね。出る杭は打たれる型の閉鎖的日本社会に対し、多様性を認め合ってみんな楽に生きましょう、と広まったメッセージではないかと思うのだけど、周囲に混乱をもたらす個性というのは、やっぱり奥ゆかしく謙虚な姿勢を示さないと受け入れてもらえぬものなのかなぁ、と『ちむどんどん』を観て改めて思いましたね。

 

 最近、似たようなテーマを扱った映画を観たんですが、それは沖田修一監督『さかなのこ』です。

 主人公のミー坊(のん)は、魚類や水生生物のことしか頭にない少年だけど、海洋学者になるには学力不足、性格的にも周囲から浮き上がった存在で、父親(三宅弘城)は心配するが母親(井川遥)は絶対の信頼を崩さず、性格の矯正を迫らない。いつしかミー坊の個性は周囲にも認められてゆき、念願の「おさかな博士」の夢にたどりつく、という内容。『ちむどんどん』とは真逆にこちらはずいぶん好意的に評価されているようだけど、まぁ、さかなクンという実在の人気者をモデルにしていることが大きいでしょう。

 印象的なのは、ミー坊が少年時代に影響を受けた人物として「理解者を得られぬまま町の奇人で終わった魚好きおじさん」が登場し、これをさかなクン本人が演じているのね。「この映画は実話ベースだけど、場合によってはさかなクンはこうなっていたかもしれないんですよ」という、もうひとつの可能性を見せているわけだけど、この仕掛けで作品全体を現実のさかなクンから切り離し、異者排除や偏見の問題をマイルドに包んだ「やさしさに満ちたファンタジー」として受け取ることができたかというと、ちょっとズルい手な気がして距離を感じました。

 そもそも「この子はこのままでいいんです」という母からのミー坊への肯定が抵抗なく受け入れられるのは、「おさかな大好き」という個性が家族以外にはさほど被害をもたらさないからで、その点では、貧乏暮らしでも借金を重ねて子供たちを上京や進学させ、子供たちは子供たちで個人的な主張を繰り返すトラブルメーカー、決してつつましやかな態度を取らない一家を「そのままでいい!」と肯定する『ちむどんどん』の方が、試みとしては挑戦的だったかもしれません。

 

 じつは『さかなのこ』と同じ日に、バーバラ・ローデン監督・脚本・主演の『WANDA/ワンダ』(1970)を観たんですね。こちらはファンタジーな要素はいっさいない、なんともキビしいお話。

 主人公は「妻」も「母」も演じられない女性で、離婚させられた上に職を失い、酒場で誘いをかけてきた男と寝たり財布を盗まれたりしているうちに、強盗男と行動を共にすることになる。性格が自堕落なのか頭が少し弱いのかわからないけど、とにかくいろいろダメな人で強盗男からも怒鳴られ通し。そんな彼女が唯一賞賛されるのが、強盗男が返り討ちに遭いそうになった瞬間、落ちた銃を拾って加勢してやったこと、というのが哀しい。

 幸運とも理解者とも出会わない主人公の旅を、カメラはなんの衒いもなくあるがままに追い続けるのだけど、薄暗い素朴な16㎜撮影からは、「彼女は彼女のままでいい、と言えるのか?」、それとも「彼女は変わるべきだったのか?」、あるいは「変わるべきは彼女の方か、社会の方か?」といった雄弁な問いかけが発せられているような気がしてきます。長編第一作でこれほどの作品を撮ったバーバラ・ローデンが、その後長編を撮ることなく48歳で早逝したというのはまったく残念。

 

「あなたはそのままでいい」という人間肯定を、「普通」から上回ったりはみ出したりしている人(料理の才能とか魚類への情熱とか)ではなく、「普通」に達すること自体が困難で、世の中をうまく生きられない人には向けにくいのはなぜか、と考えてしまいます。そりゃひどい状況に置かれている人に「そのままでいいよ」とは言いにくい。でも、もしかするとこの言葉はかけられる側ではなく、むしろかける側が「自分自身も変わらなくていいはず」という自己肯定感を抱くための魔法の言葉だからかもしれません。

 今や「変わらなきゃ!」と同じぐらい「そのままでいい!」もまず疑ってかかることが肝心なようです。

私のゴダール体験

Jean-Luc Godard(1930〜2022)


 始まりはレンタルビデオで観た黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』だった。すでに『外国映画ベスト150』などの本で「ジャン=リュック・ゴダール」という人名は知っていたものの、ゴダール的なるもの」との出会いは黒沢清によって再現された作品によってもたらされた。一般の映画とは違う、回路が断線したような作り方と洞口依子の可愛さ、伊丹十三の怪しさが強烈だった。

 勤勉な高校生だった私は、元ネタを確認しようと『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』も借りてきたのだが、こちらは何が面白いのかさっぱりわからなかった。大胆なジャンプカットの連続も、すでにMTVなどで見慣れた技法に過ぎず、「ほう、これがヌーヴェルバーグですか、そうですか」という古寺巡礼的な関心以上のものを抱くことなく、90分が3時間にも感じられた。

 

 上京し、最初に映画館で観たゴダール映画は文芸坐2での『軽蔑』で、ルイ・マル監督『私生活』と二本立てのバルドー特集だったが、どちらも極めて退屈な作品に思えた。高田馬場のACTミニシアターや池袋のACT-SEIGEIシアターに通って『アルファビル』や『新ドイツ零年』、『映画というささやかな商売の栄華と衰退』、『ゴダールの映画史(第一部)』などを観賞し、レンタルビデオで『女と男のいる舗道』や『男性・女性』、『パッション』、『カルメンという名の女』、『ゴダールリア王』など次々観たが、やはりどこかついていけない苦手な監督という意識は覆らず、60年代にゴダールが若者から熱く支持されたというのがおよそ信じ難く思われた。当時の私は黒沢清押井守が引用する「ゴダール的」な手つきはカッコイイと思えるのに、原典のテキストにあたると歯が立たず、劣等感を抱くミーハー学生そのものだった。

 

 そんな私がどういうわけか、ゴダールネタで一本番組をでっちあげることになった。時はCS放送の初期、超低予算で1時間あまりの枠にふたつのテーマをつめ込んだサブカル情報番組を担当していたのだが、登場したばかりのデジタルビデオカメラをスタッフ自ら駆使することで成立していたこの番組、やっていたことは現在のYou Tuberの番組と大差なく、しかし編集を駆使して内容を圧縮したり分割したりできるYou Tuberたちの方が、いかに尺を埋めるかで四苦八苦していたこちらよりも充実したものを作れていることは間違いない。それでも納期さえ間に合わせられれば、内容について何か言われることはなかったし、そもそも観ている人がほぼ皆無なので、視聴者の反応を気にすることもなく、勝手気ままな番組作りを堪能していた。

 この番組の中で、なぜゴダール特集を提案したのかは記憶にない。とにかく時間に追われ、思いつきを次から次へと口にしてばかりいたのだ。もちろんフランス取材などできるはずもなく、私に浮かんだアイディアは、自分なりのゴダール論を、いろんな風景映像とスチール写真を素材に展開する、ゴダールもどき」で番組を構成するというものだった。少し前にゴダール論をメインとした単著を出した若手批評家に長いインタヴューを行い(あつかましいことに私と対談しているような形で収録した)、渋谷や新宿の街の風景やモノレールから見える車窓などを撮影し、ゴダール作品のスチール写真とごちゃ混ぜにして編集、そこにゴダール自身の発言をたっぷり引用したゴダール論っぽいナレーションを自分でボソボソ読み上げて重ね、さらにカラフルな太ゴチック文字のテロップを意味ありげにインサートしたり、ベートーヴェン弦楽四重奏をはじめとするクラシック音楽を流して途中で断ち切ってノイズ音を突っ込んだりした。

 今思えば、若気の至りどころではすまない所業で、ゴダール本人には申し訳ないことこの上ないが、この「ゴダールごっこ」の経験は貴重だった。ゴダール作品の「ソニマージュ(音+映像)」はやはり製作された時代の現実や、当時のゴダールの思想と密接にからみ合って生まれたもので、型式だけマネしても無惨な結果になることを痛感した。

 さらに、この苦心の作業を経るや、あれだけ苦手だったゴダール作品がちっとも退屈しなくなった。その後公開された『愛の世紀』も『アワーミュージック』も、その編集の巧みさ、音や光に対する動物的なセンスの良さに唸らされているうちに終わってしまったし、『さらば、愛の言葉よ』のむちゃくちゃな3D技術の使い方には大笑い、同日に観たリドリー・スコットエクソダス:神と王』の印象が吹き飛んでしまったほどだ。音と映像でどれだけ「遊び」を発明できるかというゴダールの意気込みを理解できるようになったのと、作品が製作された時代の空気を共に過ごしていることが大きいと思う。

 

 動画制作が身近になった今、ゴダール作品の魅力はYouTube世代によって新たに発見されてゆくかもしれない。しかし、毛沢東主義に熱中したり、ハリウッド映画を批判してジェリー・ルイスを持ち上げたりした怪人としての全体像は、いずれ見えにくくなっていくことだろう。

 最後に私のお気に入りゴダール作品を3本。『女は女である』、『ウイークエンド』、『右側に気をつけろ』。