星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

即興の人〜私が目撃したショーケン



 春になり、このブロマガも開設から5年目を迎えることとなりましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。これからはなるべく更新頻度を上げ、エンタテインメントの話題を中心としたコラム的な記事をアップしてゆければと思っているのでどうぞよろしく。

 さて、今年に入ってからというもの子供の頃から慣れ親しんだ表現者の訃報が相次ぎ、時の流れと共に自らの加齢についても思いを馳せずにはいられない。特に1月、このブロマガで「天狗倶楽部」を研究するSF作家・横田順彌について触れたところ、その2日後に氏の訃報が届いたのは本当にまいった。
 そんなところへ今度は萩原健一の訃報である。

 もう20年以上前の話だが、学校を卒業すると同時に無職となった私は、師匠の紹介であるテレビ・映画用の装飾会社に潜り込んだ。そこでの助手としての初仕事が、萩原健一が演じる医者が主人公の連続ドラマだった。
 台本も渡されぬまま、世田谷の国際放映スタジオへ呼び出されれば、ちょうど病院の場面を撮り終わるところ。保阪尚希高樹沙耶たちが演技をしていた。終わると同時に装飾品をセットから運び出し、続いて主人公の自宅セットが組み立てられるまで仮眠、起きてから家の内装をせっせと飾り付けた。
 当時、私は『傷だらけの天使』も『前略おふくろ様』も見ておらず、萩原健一に対する思い入れは特になかった。沢田研二の妖艶な魅力は幼心に刻み付けられたものだが、ショーケンといえば深作欣二監督の『いつかギラギラする日』や、連ドラ『課長サンの厄年』の、ややくたびれつつも一癖抱えた中年男であり、テンプターズもマカロニ刑事も「知識」以上のものではなかった。

 それでも往年のスター、萩原健一がどんな演技をするのか興味があり、セットが完成しても現場に残っていたのだが、開始時間になっても彼はなかなか現れなかった。どうもリハーサル室で粘っているらしく、助監督の一人がセットに連絡に現れる。装飾担当者である先輩が話を聞くが、キッチンの大きな冷蔵庫に、中身を入れておいてほしいという。
「いきなりそんなこと言われたって……。打ち合わせと違うじゃない」
「悪いけど、娘が冷蔵庫を開けることになってさ。ショーケンさんの思いつき
「収録遅れたら、ショーケンさんのワガママで時間かかりましたって監督に伝えてよね。ウチの責任にされたらかなわないよ」
 と、言い捨てるや先輩は直属の助手を走らせ、調達に急いだ。
 さらに時間が経過し、ようやくショーケンが現れた。スタジオの空気が一瞬にして張り詰める。が、彼は娘役の女優を見るなりそのメイクが気に入らないと言い出し、メーキャップの女性が呼びつけられた。
「俺はね、仕事から疲れて帰ってきた時に、娘の顔を見て『天使を見た!』、という気分にひたりたいんだよ。この顔じゃそうはなれない」
 この日の収録は手術を終えた主人公が自宅に戻ると、娘が彼氏を連れ込んでいて鉢合わせ、というややコミカルな場面だった。特に娘の顔に聖性が宿る必要はないはずだが、これがショーケンの「解釈」なのだからしかたがない。そんなわけで、メイクの修正がすむまでまた待ちになる。

 ようやく役者全員が位置につき、テストが始まる。演技を終えてスタッフの反応が鈍いと、「もう一回やろうか?」とショーケンが鋭くつぶやく。たちまち「大丈夫です!」、「本番いけます!」とあちこちから声が返って来るのが小気味よく、プロの現場とはこういうものかと思ったが、これはテストを繰り返すと、ショーケンが勝手に演技を変えてしまい、その対応に混乱させられるからだ、ということがだんだんわかってきた。

 万事この調子で、まだ第1話の収録が始まったばかりだというのに、メインスタッフの中には「アイツのワガママに振り回されるのはもうウンザリ」という態度を匂わせる者もいた。きっと理不尽な目に遭っていたのだろう、と今なら同情できるが当時なんの責任も負わないペーペーだった私は、機関銃のようにさまざまなアイディアを撃ち出しては、少しでも芝居の内容を充実させようと奮闘するショーケンの姿にすっかり見惚れてしまった。なので彼の陰口を叩くスタッフにはひそかに義憤を感じたものだ。
「あの人は自分の芝居のことしか考えてないから……」と言うスタッフもいた。しかし演技プランを次々思いつく能力こそ才能である、と考える演出家には頼もしい俳優だったことは間違いない。まるで即興演奏の巧みなミュージシャンを見る思いで、やはり歌手の感覚なのだろうかと思ったりもした。
 のちに、ショーケン『日本映画〔監督・俳優〕論』と言う本を出し、その中で黒澤明神代辰巳について熱く語っている。おそらく彼らはリハーサルを重視し、ショーケンのアイディアを受け止めてセッションさせてくれる演出家だったのだろう。逆に、市川崑鈴木清順のような、デザイン感覚を優先する演出家とは相容れなかったようだ。

 結局、私が所属した装飾会社はこのドラマを途中で降板してしまった。予算とスケジュールがかなりキツい現場だったそうで、その上ショーケンにかき回されたのでは割に合わなかったようだ。同時に、私もこの仕事を辞めた。収録が終わってからスタジオに入って肉体労働し、収録が始まったら寝に帰る仕事ではどうにも面白くなかったからだ。今思うとこのアルバイトで得た唯一の宝はショーケンの仕事ぶりを目撃できたことだけだ。
 ショーケンは、あまりに70年代のスターでありすぎたと思う。90年代当時、いくつかの映画やドラマに主演してイメージの軌道修正を試みていたが、その熱量あふれる姿勢は「効率」を最優先とする時代では、居場所を見つけることができずいつしかワイドショーを騒がせる往年のスター枠へと追いやられていった。
 私が目撃したショーケンは、いつもピリピリしており時に不遜に映ることもあったが、演技がうまくいった時の笑顔はキュートで、やんちゃ坊主の魅力を残した俳優だった。鋭い直感と豊かな発想力を持つ「即興の人」。狂気と言ってもいい独特の感覚を掬い取る役に恵まれなかったことを残念に思う。
 自分は、アイディアを出す人に迷惑顔を向けるよりも、可能な限りセッションに応じられる人になりたい……、そんなことを考えた「私の修行時代」を思い出す。いや、今もって修行中なのだけれど。

 

“完全主義者”の素顔〜マイケル・ベンソン『2001:キューブリック、クラーク』



マイケル・ベンソン(中村融内田昌之・小野田和子訳、添野知生監修)
『2001:キューブリック、クラーク』(早川書房


 今年の3月7日は、スタンリー・キューブリック20回目の命日にあたる。去年上映された『2001年宇宙の旅』70㎜修復版とIMAX版についてはすでにブログに書いたが、邦訳されたマイケル・ベンソン『2001:キューブリック、クラーク』(2018)をようやく読み終えたので、その感想を記して追悼としよう。

 去年の年末に出版された本だが、売れているようで早くも重版がかかっているのは喜ばしい。この映画の内幕本としては、ジェローム・アジェル『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』、アーサー・C・クラーク『失われた宇宙の旅2001』、ピアース・ビゾニー『未来映画術「2001年宇宙の旅」』がすでに邦訳されており、欧米ではこれ以外にもいろいろあるそうだが、マイケル・ベンソンはこうした過去の資料を統合し、先行研究者が収集した存命スタッフ・キャストへのインタヴューや一次資料を整理して、監督の没後でなければ難しかったと思われる突っ込んだノンフィクションに仕上げている。巨匠の制作現場というのは得てして「一将功成りて万骨枯る」ということになりがちで、秘密主義で制作を進め、クレジット表記にシビアなキューブリックの現場もその例に漏れない。この本では、各章にポイントを設定し、個性豊かなスタッフたちの悪戦苦闘の物語、彼らを束ねるキューブリックの複雑かつ魅力的な人物像、そして人類がまだ野蛮だった時代の映画作りを、まるで全12話の『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』といった趣で楽しませてくれる。あの番組の記憶を持つ読者なら、読みながらいつしか頭の中で「地上の星」(中島みゆき)が聞こえてくるかもしれない。

 さすがにテクニカルな部分では既知の情報が多い。しかし改めて信じ難いのは、これほどのビッグ・プロジェクトがクラークの小説草稿と10分ほどの宇宙空間テスト映像を用意しただけでMGMからゴーサインが出た、という事実で、その後、共作者のクラークが小説版を執筆中だというのに、キューブリックは撮影台本を次々と書き直し、新しいアイディアを導入してはクラークに報告、彼の仕事を管理し続けた。例を挙げれば、ボーマン船長以外の乗組員がHALによって「皆殺し」になる展開は新人特撮マン、ダグラス・トランブルの進言によるものだし、HALが被害妄想を抱くきっかけとなるボーマン船長とプール乗組員の密談を「ポッド内」にて行うという設定は、プール役のゲイリー・ロックウッドの発案、その会話をHALが「読唇術」によって盗み聞きするというアイディアは、共同プロデューサーのヴィクター・リンドンが思いついたという人工知能読唇術まで身につけているというのはよく考えると変な気もするが、これほど映像的かつ簡潔に事態の進行を示す演出はない。キューブリックの「完全主義」とは、このようなジャムセッション(即興演奏)によってより良いアイディアを集積する環境を獲得することであり、決して頑迷な芸術家が己のイメージに執着するようなものではなかった。
 23歳でプロジェクトに参加したダグラス・トランブルの特撮マン成長物語としても読み応えたっぷりだし、「人類の夜明け」のシークェンスで、猿人たちの動きを振付し、自ら“月を見るもの”(骨を投げた猿人)を演じたダン・リクターと、その猿人たちの特殊メーキャップを担当したスチュアート・フリーボーン(後に『スター・ウォーズ』のチューバッカやヨーダを制作した)の奮闘ぶりに至っては涙なしに読めない。あるプロジェクトを成功させるには、まず優秀なスタッフを揃えることが肝要だが、そのリーダーは彼らから存分に能力を引き出し、正しい方向に導けなくてはならない。キューブリックの演出力とは、楽器(スタッフ)から多彩な音色を引き出す指揮者としての貪欲性に、その本分があるようだ。

 また、ダン・リクターの回想だが、キューブリック邸にロマン・ポランスキーを招いて、彼の新作『吸血鬼』の上映会が開かれたことがあった。その席上でドラッグ(LSD)の話題が出たが、キューブリックは「やったことはないし、やるつもりもない」と答えたという。たまに「『2001年の宇宙の旅』のスター・ゲイト場面は、監督のLSD体験が元になっている」などとまことしやかに語る人がいるが、実際はそんなシンプルな着想で描かれたものではなく、多数のスタッフによるアイディアと試行錯誤を経て構築されたシーンである(まぁ、60年代の神秘思想めいたメッセージを感じ取れなくもない映画なのでドラッグと結びつけたくもなるのだろうが)。ちなみにこの時、キューブリックがドラッグを否定した理由が「自分の創造的才能の源がどこにあるかわからないので、それを失って二度と取り戻せなくなるのが怖い」、というのが実に彼らしい。人に車を運転させる時は制限速度を厳守し、セット内の落下物に備えてヘルメットを着用、豹が猿人を襲う場面の撮影では一人だけ金属ケージに入って演出したという話も、「自分の身に何かあったら作品が完成しなくなってしまう」という恐れと責任感からくるものに違いない。そして、「創造的判断を下す」瞬間こそが、彼にとってはドラッグ以上の快楽だったのだろう。


2001年宇宙の旅』撮影現場のスタンリー・キューブリック

 異星人存在の可能性について話を聞くため、クラークが若きカール・セーガンを招くがキューブリックの不興を買ってしまった話や、『博士の異常な愛情』を公開したキューブリックが、不条理戦争文学の傑作『キャッチ=22』に感銘を受けてジョセフ・ヘラーに会いに行った話など、興味深いエピソードは枚挙にいとまがないが、美術デザイン担当候補として、手塚治虫に目をつけていた、という話は残念ながら出てこない。音楽候補にピンク・フロイドがいた、という話も(これは情報自体が誤りに違いないが)。しかし、『2001年』以前にフロント・プロジェクションを試した東宝映画『マタンゴについては、著者の推測の領域だが軽く触れられている。世界中のSF映画をチェックしていたキューブリックが、東宝特撮映画も丹念に観賞していたのは間違いないようだが、はたして『マタンゴ』のフロント・プロジェクションに可能性を見出したというのは本当だろうか?

 アナログ特撮の極北と言える『2001年宇宙の旅』だが、“あきらめの悪い”演出家キューブリックが長生きして、執念の企画A.I.に取り組み、デジタル特撮に手を出したらどんなことになっただろうか、と想像せずにはいられない。デジタル技術は日進月歩、進化する技術を取り入れながら、完成したはずの場面のリテイクがえんえんと繰り返され、プリビズ(3DCGを使った撮影シミュレーション)などという技術を知ったが最後、あらゆる撮影方法が無限に検討され、今に至るも完成していなかったかもしれない。しかし、キューブリックはそれでも焦らず試行錯誤と即興プレイをゆうゆうと楽しんでいただろう。
 創造の愉楽と過酷さ、そして少しの残酷さについても考えさせられる一冊である。

 

大河ドラマ『いだてん』に「天狗倶楽部」登場!〜横田順彌と古典SF三部作




 東京オリンピックについては蟻のお猪口ほどの関心も持ってない私だが、大河ドラマ『いだてん』の初回は絶大な関心を持って視聴した。

 ミステリーや歴史に造詣の深い三谷幸喜とは対照的に、宮藤官九郎はもっぱら小ネタをちりばめた集団劇を得意とする作家。歴史劇には興味なさそうに思えた宮藤が、明治から昭和に渡る50年という時代をどんな視点で切り取るのかと思ってみれば……、プロローグではまだ主人公を活躍させず、嘉納治五郎を中心にオリンピックという祭典とその概念を知った直後の日本人のリアクションを描く内容となっており、彼らの反応から出る言葉が現代オリンピックへの批評となっていたり、50年後の1959年と複雑に往復する構成など(『あまちゃん』も1984年の描写と交差したのを思い出す)、なかなかに挑戦的なすべり出し。
 少なくとも初回放送後、何かを語り合いたくなる要素がほとんど見当たらなかった去年の大河とはあきらかに違う。

 わけても嬉しかったのは、日本初のオリンピック出場選手の一人である三島弥彦と、彼が所属したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」の面々が重要な存在として描かれたことだ。
「天狗倶楽部」という団体は、SF作家にして明治文化研究家である横田順彌(愛称:ヨコジュン)の『火星人類の逆襲』(1988)を読んで知った。題名にある通り、これは火星人が明治44年の日本を襲撃するという内容で、「逆襲」とあるのは、火星人たちはその13年前に大英帝国を襲っているから、つまりこの話はH.G.ウェルズ宇宙戦争』の後日談として描かれており、さらにウェルズ作品の再解釈でもあったのだ。
 本来の題名は明治天皇宇宙大戦争(!)だったというこの小説、乃木大将率いる近衛師団と火星人との激闘も描かれるが、主人公となるのは『海底軍艦』で知られる冒険作家・押川春浪早稲田大学応援隊隊長・吉岡信敬、そして彼らが中心となって結成されたバンカラ集団「天狗倶楽部」の個性豊かな面々だった。
『火星人類の逆襲』の3年後には、続篇『人外魔境の秘密』(1991)も刊行された。こちらでは、天狗倶楽部メンバーが南米のジャングルに出張し、英国のチャレンジャー博士が発見したという謎の台地を探検して恐竜に遭遇する。つまりコナン・ドイル『失われた世界』と世界を共有する物語なのだ。南米に到着した一行を案内するのが、コンデ・コマこと柔術王の前田光世だったり(グレイシー柔術が有名になる以前の小説である)、彼らに飛行船を提供するのがブラジルの飛行機王サントス・デュモンだったり、厳密な時代考証と遊び心を同居させた、空想の明治を描いた傑作だった。「山田風太郎の明治ものが、史実の隙間にあり得たかもしれない物語を構築する試みとすれば、横田順彌の明治SFは、当時書かれていたかもしれない物語を再現する試みと言えるだろう」とは日下三蔵氏の評だが、至言である。


表紙イラストはバロン吉元。「人外魔境」にルビが振られているのは出版社の独断で著者の意向ではないという。

 このシリーズは解説に<古典SF三部作>とあったので、当然三作目が読めるはずと期待していたのだが、なぜか出版されることがなかった
 横田順彌はほぼ同じ時期に、押川春浪と若き科学小説家・鵜沢龍岳が活躍するSFミステリのシリーズを書き始め、こちらは長編3冊(『星影の伝説』、『水晶の涙雫』、『惜別の祝宴』)、短編集3冊(『時の幻影館』、『夢の陽炎館』、『風の月光館』)にまとまっている。<古典SF三部作>と<押川春浪&鵜沢龍岳シリーズ>は同じ世界線に存在し、それぞれの作品に仕掛けられたある設定が、H.G.ウェルズの『タイム・マシン』を素材とする「古典SF三部作・完結編」で種明かしされるという構想だったそうだが、待てど暮らせど出ない。
 その理由が「出版社から中止させられてしまった」と知ったのはごく最近になってからだ。

 横田順彌には『「天狗倶楽部」快傑伝〜元気と正義の男たち』(1993)、『快絶壮遊 天狗倶楽部〜明治バンカラ交友録』(1999)といった著作もあり、宮藤官九郎もおそらく参考資料としていることだろう。『木更津キャッツアイ』の作者がこの集団を見逃すはずがなかった。ちなみに『いだてん』では押川春浪武井壮が、吉岡信敬満島真之介が演じている
 しかし、ヨコジュン初期の小説群、特に実験精神に満ちた連作短編「荒熊雪之丞シリーズ」(現在のギャグ系ラノベにかなり影響を与えているのではないか、と私はニラんでいるがあまりそういう声を聞かない)や、ダジャレでオチがつく落語的ユーモアSF短編(「老婆は一日にしてならず」とか「溺れる者はファラオも掴む」とかいくらでも思い出せるぞ)を愛読した世代としては、ここは『いだてん』に大成功してもらい、『火星人類の逆襲』と『人外魔境の秘密』の復刊、そして幻の完結編の執筆・出版を願わずにはいられない。
 さらに欲をいえば、ヨコジュンのもう一つの代表作『日本SFこてん古典』全3巻の復刊をぜひ! 古書店で発掘した明治から昭和初期にかけての奇想小説を紹介するというこのシリーズ、今の目で見ると内容に誤りが多い、との理由で著者に再刊の意思がないそうだが、凄腕オタクの研究レポートでありながら非常に面白いユーモアエッセイでもあるという、マレな名著だと思うのだ。
 この本自体が稀覯本になっている現状は本当に残念……と、ここまで書いたところで『日本SFこてん古典』が電子書店パピレスで入手可能と知った。荒熊雪之丞シリーズの『謎の宇宙人UFO』や『銀河パトロール報告』も出てるのか。『火星人類の逆襲』と『人外魔境の秘密』もせめて電書化してもらえないだろうか。

電子書店パピレス横田順彌」のページhttp://www.papy.co.jp/sc/list/credit1/_sqPFxL3n170


キネマ旬報「1980年代映画ベスト・テン」の1990年版と2018年版を見比べる




 「ごぶさたですね、早いものでもうベスト・テンの季節ですが、今年はいかがですか?」

 「ダメですねぇ、今年はどうにか100本以上観ることができたけど、そのうち半数は旧作だし、新作も『好き』と言える作品は数えるほどしかない。ま、私がグチをこぼしながら選ぶベストテンなど世間の誰も関心を持たないだろうから、それよりもっと有意義な話をしようじゃないか。この雑誌の特集、読んだ?」

 「ああ、『キネマ旬報』の1980年代の映画ベスト・テンですね。こないだ1970年代をやったから、その続きというわけなんでしょう」

 「じつはキネ旬、今から28年前の1990年にも80年代の映画ベスト・テン企画を行っているんだよ」

 「ほほう、1990年と言えば平成2年、終わったばかりの80年代、つまり昭和最後の10年を総括する意味もあったんでしょうね」

 「平成2年と平成30年、この2種類の80年代ベスト・テンを見比べてみると、作品評価の移り変わりという点で、なかなかに興味深いのだ」

 「なるほど、つまり平成が始まったばかりの1990年と、平成が終わろうとしている2018年の80年代ベスト・テンを比較してみようというわけですね」

 「その通り。まずは、1990年に集計された『1980年代外国映画ベスト・テン』を見てみよう。上位20作はこの並びだった」

 

1990年選出 1980年代外国映画ベスト・テン

1.E.T.(1982)

2.ブリキの太鼓(1979)

3.ストレンジャー・ザン・パラダイス1984

4.ファニーとアレクサンデル(1983)

5.1900年(1976)

6.ダイ・ハード(1988)

7.フルメタル・ジャケット(1987)

8.ブルー・ベルベット(1986)

9.地獄の黙示録(1979)

10.ブレードランナー(1982)

11.恋恋風塵(1987)

12.ガープの世界(1982)

13.ミツバチのささやき(1973)

14.グッドモーニング・バビロン!(1987)

15童年往時―時の流れ(1985)

16.路(1982)

17.八月の鯨(1987)

18.ラストエンペラー(1987)

19.ルードウィヒ 神々の黄昏(1972)

20.紅いコーリャン(1989)

キネマ旬報1990年8月下旬号より)

 

 「へぇ、1位は『E.T.』ですか」

 「スティーヴン・スピルバーグは80年代ベスト監督においても1位に選出されている。やはり80年代といえばスピルバーグ印が映画界を牽引した10年ということになるんだろう」

 「あれっ、『1900年』とか『ブリキの太鼓』とか『ミツバチのささやき』とか、70年代の映画がずいぶん混じってますよ」

 「この時は『80年代に公開された映画』が対象だからね。でも欧米の巨匠たちに混じって、ホウ・シャオシェンチャン・イーモウらアジア勢がランクインしているのが要注目だ」

 「で、これが今年のベスト・テンではどうなったんですか」

 「なんとこうなった」

 

2018年選出 1980年代外国映画ベスト・テン

1.ブレードランナー(1982)

2.ストレンジャー・ザン・パラダイス1984

3.バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)

3.非情城市(1989)

5.E.T.(1982)

5.男たちの挽歌(1986)

5.動くな! 死ね! 甦れ!(1989)

5.友だちのうちはどこ?(1987)

5.最前線物語(1981)

10.グロリア(1980)

10.ニュー・シネマ・パラダイス(1988)

10.ブルース・ブラザース(1980)

13.エル・スール(1983)

13.カリフォルニア・ドールス(1981)

13.恐怖分子(1986)

13.ラルジャン(1982)

17.ファニーとアレクサンデル(1983)

17.緑の光線(1986)

17.未来世紀ブラジル(1985)

20.シャイニング(1980)

20.スタンド・バイ・ミー(1986)

20.ブルー・ベルベット(1986)

キネマ旬報2018年12月下旬号より)

 

 「おおっ、『ブレードランナー』が10位から1位に大躍進!」

 「リドリー・スコットの『ブレードランナー』はそもそも1982年の年間ベストテンでは25位だった作品だからね。ちなみにその年の1位は大ヒット作の『E.T.』だ。長い月日が経つことによって、その影響力の大きさ、作品の奥行きの深さが認められ、ついに80年代の『最高傑作』へと評価が改められた、というわけだ」

 「去年は『ブレードランナー2049』という続編まで製作されたので、余計に1作目の存在感が浮上してきたのかもしれませんね」

 「私としては、正直『ブレードランナー』も『ストレンジャー・ザン・パラダイス』も魅力がもうひとつ掴めない作品なのだが」

 「ハイ、余計なことは言わないで。それにしてもカネフスキー『動くな! 死ね! 甦れ!』やキアロスタミ『友だちのうちはどこ?』は80年代の作品だったのですねぇ。てっきり90年代なのかと」

 「公開されたのが90年代だから、当時の空気といっしょに記憶してしまいがちだけど、今回は『80年代に製作された映画』が対象なんだね。ホウ・シャオシェンは、90年のベストで選ばれた2作が消え、代わりに『非情城市』が堂々3位にランクインしている。票が集中するに足る代表作が登場した、ということだね」

 「それにしてもロバート・ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とジョン・ウーの『男たちの挽歌』がベスト5入りというのもびっくりしました」

 「共に80年代を代表する娯楽作品だが、投票したのは当時若者だった選者なんだろう。若いころに衝撃を受けたエンターテインメントというのは、生涯忘れがたいものだもの。『ブルース・ブラザース』や『スタンド・バイ・ミー』もランクインしてるしね」

 「香港映画がランクインするならジャッキー・チェンだと思っていたので意外でした」

 「代わりに『ダイ・ハード』が圏外に去ったのはどうしてかな? 89年度のキネ旬1位を獲得したアクション映画なのに」

 「その後4本も作られた続編の出来が足を引っ張ったのかもしれませんね。しかしサミュエル・フラーの『最前線物語』がこんなに上位に来たのも驚きです」

 「フラー、カネフスキーキアロスタミ、カサヴェテス、アルドルッチ、このあたりの評価と人気の高さについては、それぞれの作品の強さはもちろんのこと、蓮實重彦の布教活動の成果、という気もしなくもないな」

 「それにしちゃヴィム・ヴェンダースが影も形もありませんが」

 「これは私も意外だった。『パリ、テキサス』と『ベルリン・天使の詩』は共に80年代を代表する作品だと思うのだが、なぜか28年前から変わらず圏外だ。ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が変わらぬ人気を得ているのとは対象的だね」

 「まぁ、当時キネ旬1位を獲得した『ソフィーの選択』や『アマデウス』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』も共に28年前から圏外ですからね。立派な作品とは認めるけど、こうしたイベントで個人的に応援する気にはならない、ということなのかしら」

 「タルコフスキーも入ってないしね。そう考えるとイングマール・ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』の人気はしぶといな」

 「今年、生誕100年でひさびさに上映されたのも影響してるかもしれません」

 「キューブリックも『フルメタル・ジャケット』が消え、代わりに『シャイニング』が票を伸ばしている。この辺りの人気の移り変わりも面白いね」

 「こうなると日本映画の方も気になりますね」

 「では、1990年選出の80年代日本映画ベストから見てみよう」

1990年選出 1980年代日本映画ベスト・テン

1.ツィゴイネルワイゼン(1980)

2.泥の河(1981)

3.ゆきゆきて、神軍(1987)

4.家族ゲーム(1983)

5.となりのトトロ(1988)

6.お葬式(1984

7.戦場のメリークリスマス(1983)

8.台風クラブ(1985)

9.細雪(1983)

10.ニッポン国 古屋敷村(1982)

11.遠雷(1981)

12.転校生(1983)

13.風の谷のナウシカ1984

14.黒い雨(1989)

15.乱(1985)

16.影武者(1980)

17.竜二(1983)

17.どついたるねん(1989)

19.の・ようなもの(1981)

20.海と毒薬(1986)

20.コミック雑誌なんかいらない!(1986)

キネマ旬報1990年9月上旬号より)

 

 「なるほど、正直なところずいぶんバランスのいい並びに見えますけど」

 「まさにキネ旬らしいランキングだよね。80年代ベスト監督には相米慎二が選ばれている」

 「小栗康平森田芳光伊丹十三宮崎駿大林宣彦という80年代登場組に、鈴木清順大島渚などのベテランが気を吐き、市川崑黒澤明ら巨匠も健在だった時代ですね」

 「これが、2018年ではこうなった」

2018年選出 1980年代日本映画ベスト・テン

1.家族ゲーム(1983)

2.ツィゴイネルワイゼン(1980)

2.ゆきゆきて、神軍(1987)

4.戦場のメリークリスマス(1983)

5.その男、凶暴につき(1989)

6.台風クラブ(1985)

7.転校生(1983)

8.風の谷のナウシカ1984

9.Wの悲劇1984

10.どついたるねん(1989)

10.となりのトトロ(1988)

12.さらば愛しき大地(1982)

12.鉄男(1989)

12.泥の河(1981)

15.ションベン・ライダー(1983)

15.ニッポン国 古屋敷村(1982)

17.ウンタマギルー(1989)

17.遠雷(1981)

17.人魚伝説(1984

キネマ旬報2019年1月上旬号より)


 「なんと、1位は森田芳光の『家族ゲーム』になりましたか」

 「90年度のベスト・テンでも、読者選出の方では『家族ゲーム』が1位だったんだよ。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』のカリスマ性や原一男ゆきゆきて、神軍』の衝撃力は依然高いが、今振り返ると、森田の斬新なホームドラマの方が、80年代という時代を的確にとらえていたのかもしれない」

 「小栗康平の『泥の河』が順位を下げる一方で、大林宣彦の『転校生』が順位を伸ばしていたり、面白いですね。突然の急浮上としては北野武その男、凶暴につき』、澤井信一郎Wの悲劇』、塚本晋也『鉄男』、柳町光男さらば愛しき大地』があります」

 「北野武塚本晋也はその後、日本映画界を代表する監督に成長したので、その出発点を重視したい、という投票者が多かったんじゃないかな。『どついたるねん』の阪本順治もそのパターン。『Wの悲劇』は前回39位、『さらば愛しき大地』は前回23位だったので、やはりリアルタイムで観て、衝撃を受けた世代から票を集めることになったんだと思う」

 「まぁ、角川映画から一本選ぼうと思えばそりゃ『Wの悲劇』になりますよ」

 「そう? 私なら大林の『時をかける少女』か和田誠の『麻雀放浪記』」

 「一方で、黒澤明市川崑今村昌平らはさすがに姿を消しましたね。しかし、『戦場のメリークリスマス』は強いなぁ」

 「『戦メリ』の人気は私にもよくわからないが、大島渚のスタイルが80年代らしい形に大きく変化した点で重要視されているのかな。もうひとつ、高嶺剛の『ウンタマギルー』や池田敏春の『人魚伝説』のような一種のカルトムービーに票が集まったのは、2018年には見かけなくなったタイプの作品だから、なのかもしれない」

 「80年代日本映画の『顔』といえば伊丹十三も外せない存在だと思うのですが、圏外に去りましたね」

 「これは残念だねぇ。『お葬式』、『タンポポ』、『マルサの女』の3作は、まさに80年代を象徴する重要作だと思うのだけど。滝田洋二郎の『コミック雑誌なんかいらない!』も、もっと順位が上がるかと思っていたらそうでもなかったので意外だ」

 「しかし二つのランキングを見比べると、やはり80年代は相米慎二宮崎駿の時代だった、と言えそうですね」

 「じつは私、1位は『ナウシカ』か『トトロ』じゃないかと内心予想していた。ちょっと票を食い合ってしまったのかな。それにしても、相米慎二森田芳光伊丹十三が故人となった今、宮崎駿が今も新作製作中というのは喜ぶべきことだね」

 「いやぁ、山田洋次クリント・イーストウッドも健在ですよ

 「たはっ、そうでした。では最後にキネ旬本誌を読む前に選出しておいた、極私的1980年代ベストテンを挙げておこう。順位はいいかげんです。ほぼ思いついた順」

 

<外国映画>

1.太陽の帝国(1987)

2.未来世紀ブラジル(1985)

3.カメレオンマン(1983)

4.ロジャー・ラビット(1988)

5.バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)

6.プロジェクトA(1983)

7.フルメタル・ジャケット(1987)

8.旅立ちの時(1988)

9.バベットの晩餐会(1987)

10.フィツカラルド(1982)

 

<日本映画>

1.ドラえもん のび太の宇宙開拓史(1981)

2.ツィゴイネルワイゼン(1980)

3.マルサの女(1987)

4.うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー1984

5.天空の城ラピュタ(1986)

6.コミック雑誌なんかいらない!(1986)

7.東京裁判(1983)

8.爆裂都市 BURST CITY(1982)

9.乱(1985)

10.ゴジラVSビオランテ(1989)

 

 「封切で観た作品とレンタルビデオで観た作品がごちゃ混ぜですね」

 「一人で映画を観に行くようになったのが80年代の半ばで、同時にレンタルビデオが大流行した時期でもあったのね。我々の世代の映画体験はどうしてもビデオやテレビ放送で観たものが混じってしまう。今年、『爆裂都市 BURST CITY』をNFAJの上映で観られたので、いちおうすべてスクリーン観賞はしてるけど」

 「でも『カメレオンマン』は劇場で観てないでしょ」

 「そういやそうでした。しかしウディ・アレンを外した80年代は考えられない。それに『カメレオンマン』はビデオ版の日本語吹替が良くできていて、本当にNHKで放送される海外ドキュメンタリー風に仕上がっていたんだよ。あれが忘れられなくてさ。Blu-rayで出してくれないかな」

 「ロバート・ゼメキスが2本入ってますね」

 「最初はエドワード・ヤンの『恐怖分子』を入れてたんだけど、やはり80年代に観た映画に限定しようと差し替えちゃった。私にとって80年代はゼメキスの時代です。文句あるか」

 「いえ、べつに……。ただ、ジョン・ランディスジョン・カーペンターに悪いな、と思って」

 「80年代はもっとも多感な時期を過ごした時代だけど、はっきり言って不愉快な時代だったよ。『ネアカ』なんて流行語に代表される、虚飾の明るさに満ち満ちてさ。しかし振り返ってみると、あのいまいましい狂騒のおかげで、カルチャーの面においてはずいぶんと多様化をもたらしてくれた、という事実は確かにある。田舎の鬱屈した少年になんらかの刺激や世界の拡がりを与えてくれた作品群を並べてみました」

 「30年後、2010年代の映画ベストを選んだらどんな並びになるでしょうね」

 「そんなことを考えながら、今夜は実相寺昭雄監督のロッポニカ作品『悪徳の栄え』(1988)でもいっしょに観ようじゃないか。いやぁ、これも入れたかったんだけど観たのがだいぶ遅かったからさぁ」

 「ご遠慮しておきます。そろそろ『明石家サンタ』が始まる時刻なので……。それではみなさん、メリークリスマス!」

 

喜志哲雄が語るハロルド・ピンターの世界~『誰もいない国』と『ピンター 、人と仕事』@新国立劇場



公式サイト https://www.nntt.jac.go.jp/play/nomansland/

 ノーベル文学賞作家、ハロルド・ピンター(1930~2008)の『誰もいない国(No Man’s Land)』が新国立劇場で上演されたので、観てきました。
 さらに、ピンター研究の第一人者である喜志哲雄によるギャラリートークも聴講したので、日本全国のピンターフリークに向けて、そのご報告をばいたしましょう。

『誰もいない国』(1975)は、過去にハーフムーンシアターによる上演(吉岩政晴演出)と、ナショナル・シアター・ライブによる中継録画(ショーン・アサイアス演出)を観ています。後者のパトリック・スチュワートイアン・マッケランが主演した舞台はまさに圧巻でしたが、そちらの感想と作品の内容については、去年上演された『管理人』(1960)と比較しながら考察した記事があるので、御一読ください。

何も起こりはしなかった?~ハロルド・ピンターの『管理人』と『誰もいない国』http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar1390612

 酔っ払いで抑鬱的な文学者ハーストがパブで拾った自称詩人スプーナーを自宅のリビングに招いたところから始まる『誰もいない国』。今回の公演では、ハーストを柄本明、スプーナーを石倉三郎が演じます。二人の演技は、リアリズムというよりは、淡々と演じられる酔っ払いとボケ老人のコントという雰囲気。膨大な台詞を表情を変えることなく処理しながら、引退した事務員のような風情でスプーナーを演じる石倉の演技が印象に残ります。
 今回の演出は寺十吾(じつなしさとる)ですが、二人がグラスを傾けるたびに、天井から水がしたたり落ちる、という仕掛けを作っています。それはやがて舞台奥に設置されたハーストのベッド周囲に大きな水溜りとなってゆき、後半では俳優たちは水しぶきをあげながら熱演します。主役の二人が溺れてゆく「酒」や、ハーストが見る「誰かが溺れている夢」などの水のイメージや、ハーストを囲む状況が「立ち入り不能の地(No Man’s Land)」となったことを舞台上に出現させる試みですが、交わされる台詞を追いながら登場人物の関係性変化を味わう戯曲に対し、いかにも過剰な味付けに思えました。他にも音飛びして同じ箇所ばかり繰り返すレコードプレーヤーを冒頭と結末に配したり、天窓から見える木々の緑で開放感を取り入れて見せたり、設定の難解さを解きほぐすための涙ぐましい努力をそこかしこに感じましたが、これらはかえって見る側の集中力を削ぎ、結末から立ち上る“脅威”の感覚を薄めてしまったようです。

 まぁ、英国人でも理解しづらいピンター劇、日本人が独自の感覚でアイディアを導入したり内容を再解釈してみせたりは、いくらでもやっていいと思います。しかし、常に求められるのは役者自身の力量と、そのパフォーマンスを最大限に生かす演出ということになるでしょう。
 今回の公演の感想をwebで検索していると、「テキストは新訳にしてほしかった」、「翻訳的な言葉が目立って違和感があった」という内容のものがいくつかありました。
 それはおそらく、スプーナーの最初の方のセリフとクライマックスの長セリフの部分で強く感じたのではないかと思うのです。じつはその辺、原文では単文ではなく複文が多用され、またラテン語系の難しい語彙が頻出するなど、日常会話とは異なるややこしい文体で書かれている、ということです。つまり、あえて違和感を与えるように書かれているのですね。日本語で上演する場合、ピンターが狙った「違和感」をどう表現すればいいのか、本当に難しい問題です。

 さて、その困難な『誰もいない国』を翻訳したのが喜志哲雄さん。ピンター戯曲の大部分の翻訳を手がけただけでなく、ピンターファン必携の書『劇作家ハロルド・ピンター』(研究社)も書かれています。もちろんピンター本人とは30年以上に渡る交流を重ねています。11月18日に行われたギャラリートーク「ピンター 、人と仕事」で、私も初めて喜志先生の肉声に触れることができました。聞き手は大堀久美子さん。メモを頼りに、当日のトークで印象深かったところを再現します。



Q.今回の『誰もいない国』はいかがでしたか?

喜志「これは<笑える>劇であると同時に、<死>というものを強く感じさせる内容で、今でもモダニティ(現代性)を失っていませんね。今回は稽古も見学させてもらいましたが、いい上演は常に何か、再発見をさせてくれるものです。今回の『誰もいない国』もそうした上演だと思います」

Q.ピンターと喜志さんの出会いはどんなものでしたか?

喜志「1961年にイギリスで『管理人』の上演を観て衝撃を受けました。まったく日常の言葉を使ってこんな表現ができるのか、と。その後、アメリカに住んでいたのですが1967年、『帰郷』(1965)のニューヨーク公演があった際に、ピンターが主演女優で夫人のヴィヴィアン・マーチャントと在米しているというので、劇場付で手紙を送ってみました。そしたら返事が来たのですね。その後、ロンドンで会うことができました。ピンターは人見知りだそうですが、1時間はお喋りしてくれました。そこで口頭試問に合格したのか、交流を続けてもらえることになったのです。当時のアメリカで盛んだった公民権運動の話題が出た際、『私は完全に黒人側の主張を支持する』と言ったところ、ピンターも“Absolutly!(まったくその通り!)”と言ったので、そんなところが気に入られたのかもしれません。彼はユダヤ人で、イギリスにおいてはマイノリティ。だから日本人に親切にしてくれたのかもと思います」

Q.ユダヤ人としてのピンターについて

喜志「ピンターはロンドンのハックニーという地域の出身で、彼の少年時代からの親友で演劇仲間のヘンリー・ウルフによると、大戦中、現地のユダヤ人はナチのシンパみたいな連中からよくいじめられたそうです。チェーンや割れた瓶を持った者が待ちかまえていたりね。当時から世界には<暴力>が横行する、ということを身に染みて感じていたんじゃないでしょうか。後期の政治的戯曲は暴力体制への批判を強く訴えています。そうそう、ピンターは兵役拒否者なんですよ。宗教的な理由ではなく、戦争という暴力行為に参加したくない、という理由で。罰金刑ですんだそうですが」

Q.作家ピンターの趣味・嗜好について

喜志「ピンターとは十二、三度会ってますが、とても機知に富んだ言い回しをしてくるので日本人には理解するのが大変でした。彼の書くセリフは難しいけど、言葉そのものは簡潔で、クールですよね。でも彼の読書遍歴はクールではなく、12歳から詩を書き始め、ドストエフスキーヘミングウェイカフカD.H.ロレンスヘンリー・ミラーを愛読していたそうです。熱心な文学少年ですね。そして映画少年でもあり、強く好きだったものにエイゼンシュテインルイス・ブニュエルを挙げています。前衛に抵抗ない性格だったんでしょう。ベケットにも熱中しています。図書館でベケットの小説『マーフィー』を見つけ、貸出記録がいっさいない、つまり誰も読んでない本だったので、借りたまま返却しなかったそうです。その『マーフィー』はピンターの没後、遺族が60年ぶりに返却しました。すると古書としてすごい高値がついたとかで、図書館は売ってしまい、いい予算を獲得できたそうです(笑)。

Q.ピンター劇の新しさとは?

喜志「ひとつは<語り方>です。それまでの演劇は因果関係で物語は進んでゆく。人物の背景についてもセリフの中で『説明』があるわけです。ピンターはそれを取っ払った。もうひとつは<言葉>ですね。『誰もいない国』ではスプーナーのセリフが馬鹿丁寧な難しい言葉遣いだったりフランクなくだけた言い方になったり、言葉の使い方を斬新に演出してみせる。ピンターのセリフは機知に富んで面白いので、よく笑いがおきます。しかし描かれる世界は暴力的だったり不吉なものに満ちています。ただ笑わせるためだけに書いてはいない。ピンターの劇で、最後の10分で笑いが起こることはまずないでしょう。『誰もいない国』でも、ラストシーンで立ち上るのはハーストを囲む<死>のイメージです。今回の寺十演出も、その荘厳さを強く意識されていたと思います。
 もうひとつ、ピンターの開発した技術を説明するひとつの例として、ノエル・カワード(1899~1973)の『私生活』という作品を参照したいのですが、こんな会話があります」

 と、喜志さんはここで配布された資料に言及。ノエル・カワードの『私生活』(1930)で、離婚した夫婦がそれぞれ再婚した相手との新婚旅行先で、5年ぶりに偶然再会するという場面の会話です。

喜志「ここで二人は世界旅行の話題をして中国や日本について軽い会話をしていますが、その内容はどうでもいいんです。じつはお互い相手に未練があって、その感情を圧し殺すように無意味な会話をしてるんですね。言葉の内容じゃなくて、状況を読み取ることで初めて、この場面で描かれる感情が理解できる。この方法を発展させたのがピンターです。『背信』(1978)の一場面を見てほしいのですが」

 資料の続きにはピンターの『背信』から第八場におけるジェリーとエマの会話、第五場におけるロバートとエマの会話を抜粋してあります。来年3月から、ロンドンでトム・ヒドルストンが演じることで話題の『背信』ですが、これはかつて不倫していたカップル、ジェリーとエマが再会する1977年春から始まり、ジェリーがエマを口説こうとする1968年冬の場面で終わる、時間逆行型のドラマです。つまり、観客はこのカップルがどうなるかをすべて知りながら、彼らの関係性にそもそも何があったのかを探る形で物語を追ってゆくことになります。

喜志「『背信』の第八場、1971年の夏にジェリーとエマの不倫カップルが逢引のために借りたアパートでの会話を見てみましょう。エプロン姿のエマがシチューを作りながら、フォートナム&メイソンでジェリーの奥さんを見かけた、という話をする。本当かどうかはわかりません。何気ない会話なので聞き逃してしまいがちですが、エマはジェリーを奥さんから略奪したいと考え、揺さぶりをかけていることがうかがえます。シチューなんて手のこんだ料理を作ってるしね。エマは妊娠していることを告げますが、ジェリーのアメリカ出張中にできた子供だから、父親は夫のロバートだと言います。しかし観客は、その以前、第五場において、1973年の夏に交わされたエマとロバートの会話を聞いています。休暇でヴェニスに来た二人ですが、ロバートは妻の浮気に気づいており、エマに事実を認めさせてしまう。ロバートは当然、去年生まれた子供の父親を疑います。しかし、エマは『ジェリーがアメリカに行っていた2ヶ月の間に出来たのであなたの子だ』と言う。浮気相手の2ヶ月の不在、というのが子供の父親を証明する根拠になるかどうかわかりませんが、エマは離婚してジェリーと再婚することはできなかったのは明白です。観客はこのやりとりを記憶して、第八場で思い出さないと、醸し出されるサスペンスを感得することができない。このように、単純なセリフの応酬に見えて、その背景を読み取らなければ奥行きが理解できない、というタイプの劇を始めたのが、ピンターの新しさでしょう」

Q.ピンターをめぐる女性たちについて

喜志「まず、ピンターはもてたそうです。戦時中、少年だったピンターはドイツの空爆を避けるためモリソンシェルターという家庭用防空壕に隣のお姉さんといっしょに潜り込んだことがあったそうで、『これが私の最初の性的体験である』なんて言ってますね。1956年に結婚した最初の奥さんはヴィヴィアン・マーチャントという女優で、『部屋』(1960年再演版)から『昔の日々』(1971)まで多くのピンター作品で主演女優を務めました。ところが1960年代には、世話になったBBCプロデューサーの奥さんで後にジャーナリストとなるジョーン・ベイクウェルという女性と関係を結んでいたのです。そして1970年代の半ばからは貴族の家系で保守党の政治家を夫に持つアントニア・フレイザーという歴史家の女性と交際し、ヴィヴィアンとの離婚が成立した1980年に再婚しています。いずれも才媛と言うべき女性ばかりですね。ジョーン・ベイクウェルとアントニア・フレイザーは共に自伝や回想録でピンターについて書いていますよ。『背信』は、ジョーン・ベイクウェルとの不倫関係が素材となっているということでして、親友のヘンリー・ウルフが証言するところでは、二人の逢引は彼のアパートを借りて行なわれていたのだそうです」

Q.有名人の密会にしては、知人のアパートを使うってセコくないですか?

喜志「当時のロンドンに、いわゆるラブホテルみたいなところはあったのかなぁ……。娼婦が使うモーテルみたいなところはあったでしょうが。『背信』ではジェリーとエマは時間を作ってはホテルに通っていた、と言ってましたが、やがて逢引用にアパートを借りているのです。しかし、なんで知り合いのアパートを使ったのか……。ヘンリー・ウルフは二人が家にいる間、バスで終点まで行って戻ってくるなどして時間をつぶしたそうですし……。うーん、(ピンターが何を考えていたかは)よくわかりません。あきらかにワガママかつ身勝手な行為ですよね。まぁ、男女関係で盛り上がっている間のことですから、そういう点で反省はする人はいないんじゃないですか」

 ということですが、私はピンターの心情が見当つくような気がします。
 まず、彼は少年時代にお気に入りだった映画のひとつにビリー・ワイルダー監督『深夜の告白』(1944)を挙げているのですね。主演はフレッド・マクマレイ。
 ビリー・ワイルダーが1960年に監督した名作『アパートの鍵貸しますでは、フレッド・マクマレイは部下のジャック・レモンのアパートを借りて浮気相手を連れ込む上司を演じているのです。
 つまり、フレッド・マクマレイとビリー・ワイルダーのファンであったピンターは、ウルフも交えて『アパートの鍵貸します』の再現を行いたかったのでは? きっと、そういうプレイだったんですよ!
 ちなみに、ヘンリー・ウルフが当時のことを語っている記事をwebで見つけて読みましたが、ウルフは若いころにピンターから受けた恩恵をとても感謝しており、アパートの提供はその恩返しのつもりで少しもイヤじゃなかったそうです(って、変な恩返しですが)。


ヴィヴィアン・マーチャント(A.ヒッチコック監督『フレンジー』ではオックスフォード警部夫人を演じた)


ジョーン・ベイクウェル(2017年に『背信』への返歌となる戯曲“Keeping in Touch”を発表した)


ハロルド・ピンターとアントニア・フレイザー(S.コッポラ監督『マリー・アントワネット』原作者)

喜志「そして、ピンターの女性観というと、96年のインタヴューで女性のインタヴュアーから、『女性の見方が男性的ではありませんか?』と訊かれた時、(自分は男性だから)『当然でしょう』と答えたことがありますね。まぁ、ミもフタもないというか、開き直りというか。そんなことも思い出します」

 ここで言及されたインタヴューは、『何も起こりはしなかった〜劇の言葉、政治の言葉』(光文社新書に収録されているので、該当部分を以下に引用します。べつにピンターは自作が男性優位主義の視点で書かれている、と言ったわけではありませんよ。

ミレイア・アラガイ(MA) 残忍さと暴力は、あなたの劇では男性の登場人物のものであることが多いようです。それに対して女性の人物は、特にあなたが1960年代に書かれた劇では、謎めいていて神秘的で、男性の人物には欠けている持久力を持っています。

ハロルド・ピンター(HP) もっと後の劇では、女性は男性の残忍さの犠牲になることも多くなっています。

MA どうでしょう、これは男と女についての、やや型にはまった見方だと思いませんか。

HP そうかもしれません。

MA あなた自身、この見方を支持しますか。

HP 男は実際に女より残忍だと、私は思います。(中略)だからと言って、私は女を過度に美化しているのではありません。女はきわめて手ごわいと思います。しかし、世界が始まって起こってきたことを見れば、現実の残忍な行為は男がやってきたことであることがわかります。もちろん女が残忍なことをやることもあります。(中略)しかし、私の劇では、女はいつも、私が男に対しては感じないものを感じる存在として描いてきました。

MA
 それはずいぶん男性的なものの見方じゃありませんか。

HP 当然でしょう。


Q.演劇史においてピンターが登場した意味とは?

喜志「『バースデイ・パーティー』(1958)は初演の時に大不評で、一週間で打ち切りになりました。しかし一つだけ認めてくれる評があり、そこには『これまでの劇はクロスワードパズルと同じで、最後に答えが出る。しかし劇場の入口と出口で客は何も変わらない』と、あったのです。この劇はそうじゃない、とね。ピンター以前の演劇は楽天的だったとさえ言えるでしょう。しかし、そのような因果関係で結ばれる楽天的な演劇だけではもう現実はとらえきれない。これは後戻りできないと思うんですね。ピンターが70年代に大きな存在になると同時に、演劇は大きく変わっていった。その人が存在することによって、演劇の世界に大きな変化を巻き起こした、そんな存在だと思います」

Q.最後に、喜志さんお気に入りのピンター作品といえば?

喜志「一作というのはちょっと決められませんが……。『誰もいない国』は大好きな作品ですね。スプーナーの台詞に2種類の文体を使ったり苦労しました。ほかに、上演を改めて観たい作品といえば、『昔の日々』や『帰郷』でしょうか。それと、関係ないですがノエル・カワードは重要な存在なのに、日本では未上演の作品が多いですね。『生活の設計』なんてとても面白いのに。新国立劇場でもぜひやってほしい。(芸術監督の)小川さんにお願いしたいところです」

 以上です。「不条理劇」とかたづけられがちなハロルド・ピンターのテクニックから人間性、きわめて生臭い部分までたっぷり語られた70分。これが無料で聴けたのだからありがたいことです。
 今年はTrigravが上演した『コレクション』もよい舞台だったし、T-PROJECTが『ダム・ウェイター』と『ヴィクトリア駅』の2本立てを上演したり(行けなくて残念!)、来月には演劇集団池ノ下が『灰から灰へ』をかけるそうですね。没後10年を迎え、いよいよ日本においてもピンターが人気作家として復活を遂げようとしているのでしょうか。
 来年はぜひとも『帰郷』や『月の光』の上演を観てみたいものです。


2018年に1968年の『2001年宇宙の旅』を観る




 間もなくブザーが鳴る。千人の人々は席に着く。満席の場内が静まりかえる。リゲッティのアトモスフェール、「無限の宇宙」が場内に流れ出す。神秘的な音響に包まれた場内はやがて次第に暗くなり、幕が静かに、左右に開いて行く。場内は闇となり、幕が開き終わったとき二分五十秒続いた音楽は消え、二階席の下部にある映写室からシネラマの大スクリーンに向かって水平に光線が投与される。

 以上の文章は、1988年発行の「月刊イメージフォーラム4月増刊号 キューブリック」(ダゲレオ出版)に収録された石田タク「完全上映『2001年』」というコラムからの引用だ。2001年にシネラマ劇場が再現され、『2001年宇宙の旅』が初公開以来の完全上映が実現した、という体で書かれたものだが、残念ながらシネラマ方式(画面比率1:2.88の湾曲スクリーン)での再現上映は未だ実現していない。
 が、この夢想に極めて近いイベントが実現した。国立映画アーカイブにおける、「製作50周年記念『2001年宇宙の旅』70㎜版」の上映がそれだ。オリジナルネガから復元し、修正・修復を施さない「アンレストア版」によるフィルム上映。しかも上映回数は12回のみ。企画の発表から映画ファンの間で大いに話題を呼び、私もひさびさに気合いを入れてチケット争奪戦に参加、運よく整理番号一桁台のチケットを手に入れることができた。


国立映画アーカイブス長瀬記念ホールOZU(スクリーン下部に日本語字幕が投影された)

 当日はなるべくスクリーンを大きく感じる席を、と前方から7列目中央をすばやく確保。国立映画アーカイブ主任研究員である富田美香さんによる思い入れたっぷりの前説が終わると、1000人の1/3ほどの観客数ではあるが満席の場内にリゲッティが流れ出す。やがて場内が暗くなって幕が開く……流れは冒頭のコラムとまったく同じ。青地に白のMGMライオンマークが映し出され、心のシートベルトをしっかり締める。
 ひさしぶりにフィルムで観た『2001年宇宙の旅』は、これまでに抱いていた優雅にして無機質な印象とはほど遠い、野蛮な映像の力を剥き出しにした作品だった。「白・赤・黒」をキーカラーとして設計された色彩の粘っこさは、さながら動く油彩画のごとし。特に宇宙空間の黒はしっとりと階調豊かに、宇宙船の白はじんわり黄味がかった色が感じられたのが新鮮で、荒野の大地も、めくるめく光の奔流さえも、アナログの質感を受け止めることができた。オリジナルの磁気6チャンネルのサウンドトラックはすでに再生不能だそうだが、それでも当時のサウンドデザインに基づいて復元された音響は、よく言えば荒々しい迫力に満ち、悪く言えば音がダンゴになって一部割れたように聞こえる箇所もあったのだが、昭和世代にとってはどこか懐かしい音圧で、カセットテープで音楽を聴いた日々を思い出す。ネガの劣化によるものか意外に大きなフィルムのヒビ割れや傷があちこち目についたし、ときおり微妙にフォーカスが甘くなる箇所もあるのが、いかにも「名画座」での映画体験。とにかく伝説のオリジナルフィルムが、発掘されたモノリスさながらに目の前にドンと出現した迫力は何物にも代えがたい。

 これを観てしまったら、当然のことながら、10月19日から始まった『2001年宇宙の旅IMAX版がどういうものか、この目で確かめてみたくなるのが人情というもの。そこで上映初日に新宿TOHOシネマズへと駆けつけた。どういうわけか、こちらでは簡単にチケットが取れる。
 IMAX版はこの秋発売になる「4K ULTRA HD ブルーレイ」の素材を元とするもので、70㎜版同様、客電が落ちる前にリゲッティ「無限の宇宙」が流れ出すところからきちんと再現されている(すでに幕が開いてしまっている状態なのがちょっと残念)。
 肝心の映像は、全体に修復済みなので傷ひとつない、ヌケのよい(明るいという意味)高画質。フィルム版にあった粒子感や色の深み、アナログ的な生々しい匂いは失われたが、クリーンにまとまった特撮映像の連続は、巨大画面によってさらに豪華絢爛な印象を与えられる。宇宙シャトルの客室乗務員の制服や、宇宙船のモニター映像など、あきらかに古めかしくなった箇所まで、レトロフューチャーの一種としてハイセンスに感じさせるほどだ。1:2.21のスクリーンサイズはきちんと守られ、色味もフィルム版に近づけているのか、さほど異なった印象を受けなかった。改めてブルーレイ版を見返すと、どうも全体に青味が乗っているのか、クールかつスタイリッシュな雰囲気を強く打ち出そうと調整されているように思える。
 IMAX版でもっとも素晴らしいのは音響だ。BGMのクラシック曲も未来の機械から発せられるノイズも、宇宙空間で響く呼吸音も、ひとつひとつクリアに迫ってくる。特にスターゲートの場面、刺すような光の輝きとともにリゲッティの音楽に包まれる臨場感は、体験型アトラクションとしても上々の出来映え。キューブリック作品はじつは大半がモノラルなので(上映館によって音の印象が異なるのを嫌ったらしい)、シネラマ上映を前提にステレオが採用された『2001年』はむしろ異色の作品。IMAX上映館のサウンドシステムは、この作品にひそむ低音の魅力を存分に味あわせてくれる。


1Fの受付にいた小型のHAL9000くん

 私の『2001年宇宙の旅』初体験は、1978年リバイバル上映の時だ。残念ながらこれが中日シネラマ劇場での70㎜版だったのか、豊橋の映画館での35㎜スコープ版だったのかは幼すぎて記憶にないが、生肉をかじり、骨を大地に叩きつける類人猿たちの姿や、ボーマンやプールたちがペースト状の宇宙食を食べながらモニターを見ている様子や、ルイ王朝風の部屋で老いたボーマンが一人で食事している場面などは強烈で(特撮よりもモノを食う場面ばかり目が行っていたらしい)、特別な映画体験として記憶に残っている。
 その後、中学生になってから左右トリミングされたビデオソフトで復習したし、学生時代には大教室で35㎜シネマスコープ版の上映を観ているが(16㎜だったかな?)、この作品ほど上映環境が印象を左右する作品はないようで、貧弱な設備で観た『2001年宇宙の旅』は、その未来予測が現実から乖離しているせいもあって、『スター・ウォーズ』以前の「往年の実験映画」という痩せた印象が拭えなかった。ウナギの寝床のような画面でスターゲートの場面を観ても、「サイケデリックの時代だったんですねぇ」と思うだけでどうということもない。私がこの作品の持つ「大きさ」に改めて向き合うことができたのは、2001年にル・テアトル銀座の大画面で公開された新世紀特別版からだった。

 とはいえ今回、『2001年宇宙の旅』を70㎜版、IMAX版と続けて観て、改めてこれが「60年代の映画」である、とその体臭を強く嗅ぎ取る部分はあった。それは例えば、言語説明を廃した独特の構成である。公開当時から「難解」という評がついて回るこの作品、確かに話の展開を追うには不親切なつくりで、一回観ただけで完全に理解するのは困難だ。が、スクリーン上で起こった出来事を頭に入れてもう一度観賞すれば、話の展開はおおよそ掴めるようになっており、決してフィーリングに頼った抽象映画ではない。キューブリックがナレーションや人物の背景を説明する描写を取り払う決断を下した裏には、共作者アーサー・C・クラークによる小説版の出版が決まっていたことが大きいと思われる。シネラマ上映によって映画を「体験」してもらった後は、物語を追うためにもう一度観てもいいし、小説版でチェックしてもらってもいい。映像でのアナログ的な視覚体験を基本に、描かれたイメージについて、観客が自由にデジタル的な意味づけを楽しむ、そんな大型映画があってもいいはずだ、とキューブリックが考えたのは、この時代のヨーロッパでは、アラン・レネ監督去年マリエンバートで』(1961)をはじめ、映画が文学におけるヌーヴォー・ロマンと並走しながら映像芸術の可能性を探ることが盛んに行われていたからだろう。


イングマール・ベルイマン監督『仮面/ペルソナ』(1967)

 さらに先日、イングマール・ベルイマン監督の生誕100年特集で『仮面/ペルソナ』(1966)を再見したのだが、大写しになる目や避暑地の岩場のゴツゴツした質感、全体を貫く前衛映画風のモンタージュ編集などが、『2001年宇宙の旅』のスターゲート後半の展開と通じるものがあるように思えた。『仮面/ペルソナ』は失語症に陥った女優と看護師の女性が、避暑地の別荘で暮らす物語で、愛憎の果てに二人の境界はやがてあいまいになってゆく。2人の主人公がユング心理学でいう「外的側面」と「内的側面」を象徴する、などと分析されるが、「ペルソナ」を外すことで新たな自己に生まれ変わるという結末も、ボーマン船長が新たな人類であるスター・チャイルドへと進化・転生するイメージに共通する。1966年といえば『2001年』の特殊撮影真っ最中の時期。ベルイマンの大ファンであるキューブリックは、尊敬する巨匠の新作を観て、似たような「自己変革」の映画的描写を模索していることに驚き、刺激を受けたかもしれない。
 キューブリックは映画青年時代、N.Y.のアンダーグラウンド映画の運動にはまるで興味を惹かれなかったそうだが、「アングラだの前衛だのやるなら、最高の技術と大衆を魅了するだけのアイディアがなくっちゃね」と冷ややかに考えていたのだろう。その上で、「映画における叙述の実験」や「人間の革新」という60年代的テーマを、宇宙人とのファースト・コンタクトを描くSF超大作映画に実装してしまう大胆さに繋がってゆく。しかし、『2001年宇宙の旅』が「往年の前衛映画」という枠に捕まることなく、20世紀の文化史を代表する一作として今も存在感を増しているのは、説明ナレーションなし、登場人物の性格描写なし、ドラマに情熱的な要素なし、宇宙人登場なし、オリジナルの映画音楽もなしで既成楽曲のみ使用、という引き算の演出設計と、「HAL9000」という最高にユニークなキャラクターの造形に成功しているからだ。そこに到るまで狂気じみた量の可能性追求を行い、最終的には「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と言わんばかりのシンプルかつ強力なイメージを発見する。『2001年宇宙の旅』はその魔法がもっとも効果的に現出した作品と言える。

 人間の愚行をスタイリッシュに表現するブラックユーモリストとしてのキューブリックの個性は、『博士の異常な愛情』や『時計じかけのオレンジ』の方により強く発揮されているだろう。『2001年宇宙の旅』は、『博士の異常な愛情』のラストで人類を滅亡させてしまったキューブリックが、では人類を新たに「再生」させるには、と思案したところでアーサー・C・クラークが『幼年期の終わり』などで描いた進化図式、地球外知的生命体を一種の「超越者(神)」ととらえるアイディアに出会い、まとまった作品と見ることもできる。それでも、クライマックスとして盛り上がるべき「宇宙人との遭遇」をオミットし、類人猿の時代には骨を使ってどつきあい、その数百万年後には、開発した人工知能と宇宙で殺し合いを演じるはめになる人間のどうしょうもなさへの視点が一貫しているのは、まさにキューブリック印。
 宇宙ステーションの回転運動や無重力空間でスローに動く人々に「美しき青きドナウ」を流す、というのもなにか皮肉めいたものに感じられる。この曲はエンディングで改めてかかり始め、客出し音楽としてもえんえん続くのだが、もし『2001年宇宙の旅』に新たなエンディングテーマをつけるなら、モンティ・パイソンの「Garaxy Song(銀河系の歌)」がぴったりなように思った。人生に嫌気がさしたら銀河のことを考えよう、という内容だが、

So remember, when you're feeling very small and insecure,
(だから思い出して、自分がちっぽけな存在だと不安になったとき)

How amazingly unlikely is your birth;
(あなたの誕生がどんなに素晴らしく神秘的だったことか)

And pray that there's intelligent life somewhere out in space,
(そして祈ろう、宇宙のどこかに知的生命体がいることを)

'Cause there's bugger all down here on Earth!
(だって地球にいるのはバカばっかりなんだもん!)

 なんていう最後の歌詞は、これまた『2001年宇宙の旅』と根っ子の部分を共通するように聞こえてならないのだ。

モンティ・パイソン復活ライブ!」で歌われる“Galaxy Song”(ホーキング博士も登場!)



ようやく聴けた「燃ゆる灰」〜ルネッサンス来日公演@9/18山野ホール


1977年のテレビ番組で「太陽のカーペット」を歌うアニー・ハズラム

 いやぁ、めっきり寒くなりましたな。
 先週、70年代に活躍した英国バンド、ルネッサンス三度目の来日公演を聴いてきたので、その感想を書こうとしたのだけど、なかなか時間が取れなくてまいったまいった。公演日の9月18日も、しとしと雨が降って肌寒かった。前回の日比谷野音でのライブはうだるような暑さだったのにね。

 さて、ルネッサンスである。プログレ後追い世代の私がこのバンドを初めて聴いたのは90年代の半ばごろ。トラッド・フォークの叙情性と、シンフォニック・ロックの壮大さを併せ持つ英国浪漫派とでも呼ぶべき曲調に取り憑かれ、中古CD屋をかけずり回ってたちまちアルバムを揃えてしまった。
 ルネッサンスの曲はピアノやアコースティックギター、オーケストラ楽団など楽器の生の音を生かした有機的なメロディに加え、詩人ベティ・サッチャーによる作詞と、アニー・ハズラムのヴォーカルという女性的なセンスが色濃く導入されているところに特徴があった。当時のプログレッシヴ・ロックといえば変拍子連発の超絶技巧やサイケデリックなトリップ感覚が頭に浮かぶが、ルネッサンスには野蛮さやドラッグの匂いとも縁がなく、自然や風景の美、歴史や伝承、人類普遍の愛を堂々と歌いあげるスタイルに、貴族的な風格と気品が感じられた。
 実際、『プロローグ』(1972)、『燃ゆる灰』(1973)、『運命のカード』(1974)、『シェーラザード夜話』(1975)、『お伽噺』(1977)と連発したアルバムいずれ劣らぬ佳作・傑作そろい。バンドとしての頂点は『シェーラザード夜話』と『お伽噺』だろうが、私のいちばんの愛聴盤は『燃ゆる灰』だ。ロックの世界でいちばん好きなヴォーカリストは、と訊ねられれば、真っ先にアニー・ハズラムの名が上がるファンは少なくないだろう。

 そんなルネッサンスの初来日は、2001年。が、この時私はまだ20代。多忙すぎる仕事と資金不足のために涙を飲んだ。ようやく彼らを目視確認できたのは、2010年8月の「第1回プログレッシヴ・ロック・フェス」においてだ。が、すでにメンバーはアニー・ハズラムとギター兼作曲のマイケル・ダンフォードしか残っておらず、あとは新参者ばかりという状況だった。このフェスの並びは四人囃子ルネッサンススティーブ・ハケットという3組。トップバッターの四人囃子は、別な曲かと錯覚するほどアレンジの効いた「なすのちゃわんやき」や、やたら勢いのいい「一触即発」をせわしなく聞かせ、50分ほどの演奏を終えて去っていった(これが四人囃子としては最後の公式ライブとなった)。
 二番手がルネッサンスで、すっかりふくよかになったアニー姐さんが現れたのを見た時は胸が高鳴った。「暑いわね〜!」とMCでコボしながらも往年のクリスタル・ヴォイスは健在で、新曲(ザ・ミスティック・アンド・ザ・ミューズ)まで披露してくれたのだからたまらない。正直、2000年発表の復活アルバム『トスカーナ』がイマイチ印象に残らなかったので、現行バンドには少し不安があったのだが、それは杞憂に終わった。が、私が最も愛する一曲「燃ゆる灰」が聴けなかったのはちょっと心残りだった。
 その後、ルネッサンスは2013年に新譜「消ゆる風」(ネットでファンから資金を募って製作されたという)を発表するが、完成直前にマイケル・ダンフォードが急死。これにていよいよ活動停止かと思いきや、なんとアニー姐さんが一人でバンドを率いてツアーに出ているという。アメリカでは全盛時のように、オーケストラをバックに従えての公演もやっているのだとか。ルネッサンスにまだそれほどの活動力があったとは。こいつは自分の目で確かめねば!


演奏するルネッサンス(低解像度カメラであれば撮影OKだった)

 と、いうわけで行ってきました山野ホール。初めて入った会場だが、山野美容専門学校の中にできたホールなのですね。
 開演の19時きっかりにメンバー登場。8年ぶりに御尊顔を拝したアニー様は、カラフルなゆったりしたワンピースに、紫のジャケット姿。ニコニコと微笑みを絶やさぬかわいい老婦人となっていた。
 オープニングは定番の「プロローグ」。が、レイヴ・テザールによる出だしのショパン「革命のエチュード」をもじったピアノイントロが、PAの都合かこもり気味でちょっとコケた印象になってしまった。それでも、アニー・ハズラムのスキャットが聞こえてくれば、たちまち擬似クラシックから透明感あるルネッサンスワールドが広がってゆく。続いて「トリップ・トゥ・ザ・フェア」。縁日に行ったらもう誰もいなかった、でも幻想のメリーゴーランドや道化師を見た、というフェリーニ寺山修司のごときゴシックソングなのだが、年齢を重ねたアニーが歌うとどこか陽気な魔女っぽさが浮かび上がる。
 さらに、人気曲「太陽のカーペット」「港にて」と、アルバム『燃ゆる灰』の2曲を続ければ、バンドの調子もだいぶ上がってきた様子。ダンフォードに代わってギタリストとコーラスを務める、ライク・シャランダは、ルネッサンスと同時期のアメリカのプログレバンド「Fireballet」のメンバーだった人だそうでつまり大ベテラン。さすがにうまい。
 満を持して2013年の新譜『消ゆる風』から、タイトル曲「消ゆる風」「シンフォニー・オブ・ライト」の2曲を披露した。やはりこのメンバー(ライク・シャランダ以外)によって制作された曲だからか、演奏としていちばんしっくりきたのは、このパートである。作詞もアニー・ハズラム自身だし、現在のアニーの声の調子に最も合った曲、ということかもしれない。ともあれ、『消ゆる風』は黄金期のアルバムに肉薄する佳作だったことは強調しておきたい。
 その後、バンドの歴史を振り返る意味合いで、なんと初代ルネッサンス「アイランド」を演奏する。ルネッサンスはじつは出自の複雑なバンドで、もともとはヤードバーズのキース・レルフが妹のジェーンをヴォーカルにすえて始めたバンドだった。しかし初代ルネッサンスはアルバム2枚出してすぐ解散、活動末期に参加したマイケル・ダンフォードがバンド名を引き継いでメンバーを一新、ヴォーカルにアニー・ハズラムを採用して始めたのが二期ルネッサンスである。
 通常、ルネッサンスというバンドはこの二期を指し、「初代と二期は別物!」と厳密に区別して認識しているファンが多いだけに、ご本尊が40年以上も経ってから、あえて境界を取り去ろうとするのは、いかなる意図が……と思えば、アニーがオーディションで最初に歌った曲がこれだったらしい。なるほど、アニーの視点でルネッサンスは今、再編されつつあるわけだ。
 そして、凍てついた収容所における思想犯の苦難を歌い上げる「母なるロシア」をじっくり聴かせた後に、四季と人との関わりを華やかに讃える「ソング・フォー・オールシーズンズ」でクライマックスを迎えた。
 キーボードはレイブ・テザールが主にピアノを、若手のジェイソン・ハートがその他の部分とオーケストラ・パートの表現を担当していたわけだが、このクライマックスの2大曲については、どうしても本物のオーケストラ、本物のグランドピアノの音色がほしくなってしまう。それだけ曲の構築美が素晴らしいのだ。しかし後でオーケストラ楽団と共演したCDを聴いても、「うーむ、やはり生の歌声にはかなわねぇよな〜」と思ってしまうのが複雑なところ。
 実際、アニー・ハズラムのヴォーカルはそんな演奏面での物足りなさを補って余りあるほどの魅力が健在だった。70歳を超えてさすがに若々しさは失われつつも、なお曲に新しい彩りを加えてみせる。


演奏を終えたメンバー一同

 そしてアンコールは待ってましたの「燃ゆる灰」。中盤でメンバーそれぞれのソロプレイをたっぷりあしらったロングバージョンによる演奏だ。合計15分ぐらいあったんじゃないだろうか。メンバーたちを母のように見守りながら、110分立ちっぱなしで歌い続けるアニー・ハズラムに、たった一人になりながらも、ルネッサンスというバンドで築いた財産管理を怠らず、芸の研鑽に励むアーチストの矜持を見た気がした。
 ルネッサンスはアルバム『お伽噺』でやるべきことをやり尽くし、その後は状況変化に合わせられずに失速、時代の波に消えていったバンドである。しかしその後30年近い時を経て、かつて達成したスタイルに回帰して優雅なパフォーマンスを展開しているのは、まさに、「燃ゆる灰」の一節、

Clear your mind maybe
心を清らかにすれば

You will find that the past is still turning
過去が今も息づいていることがわかるわ

Circles sway echo yesterday
過去のこだまが巡り巡ってくるわ

Ashe are burning
灰は燃えている

Ashe are burning
灰は燃えている

 そのものではないか。振り子は時計のように戻る。アニー・ハズラムには残った灰をかき集めて、ぜひまた大火を燃やしてもらいたい。

 なお、客入りは後方の席にだいぶ空席が目立ったが、それでも物販コーナーは大混雑で、Tシャツは公演開始前に全サイズ完売。CDや缶バッジだけでなく、アニー様直筆の油絵(20×25㎝ぐらいの小さなキャンバスに描かれたもの)なんてものまで売れ行き好調なようで、熱心なファンの多さを感じさせた。うーむ、買えばよかったかなぁ。



ルネッサンスの代表曲「燃ゆる灰」(11分25秒)