星虹堂通信

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「幽霊」はここにいる〜『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』



昨年のレヴュー
【後藤を待ちながら~THE NEXT GENERATION パトレイバー
http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar506059



 押井守が総監督を務めた『THE NEXT GENERATION パトレイバー』シリーズが、劇場用長篇映画『首都決戦』をもって完結した。
 昨年、このシリーズの「第一章」を観た時に、予感があった。
「これ、結局のところ押井守の作家性の退嬰と作品世界の窒息をもたらすものにしかならないのでは……?」
 あれから一年、その危惧はある程度現実のものとなり、ある部分では予想とは異なっていた。できれば「杞憂に終わった」と言い切りたかったところだが、そうではない。押井守はいつも通り彼なりの「定石」を使って仕事をしただけだ。その結果、ファンは晩年の黒澤明や『もののけ姫』以後の宮崎駿の仕事ぶりをやや彷彿とさせなくもない、緩さと腐臭が独特の隠し味となっている近年の押井スタイルを享受しつつ、それぞれ失望したり賞賛したりすればよいものになっている。

機動警察パトレイバー the movie』(1989)と『機動警察パトレイバー2 the movie』(1993)の2作は、今もアニメーション監督としての押井守の代表作だ。ゆうきまさみらヘッドギアの面々が設定した、ヒーローロボットアニメの批評的パロディという枠組みを利用しつつ、「コンピュータウィルスによるレイバー暴走」、「自衛隊の反乱分子が演出する模擬クーデター」といった劇場版オリジナルの犯罪の裏には、押井守の東京という都市への悪意が如実に表れていた。
 しかし『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』には、もはやそのような「悪意」はなく、東京の上空に軍用ヘリを飛び回らせ、空から攻撃させたい、という子供っぽい願望充足の映画でしかない。全7章に及ぶ「TNGシリーズ」が描き続けたのも、結局のところ過去のシリーズのもじりと再演であり、銃や戦闘ヒロインや停滞した時間など、押井総監督が執着する断片的なモチーフ(フェティシズムと言ってもよい)の羅列であった。これはむしろ、『ウルトラマン』、『仮面ライダー』、『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』、そして『エヴァンゲリオン』に至るまで、ひたすら過去の遺産の継承、つまりは「再演」によって維持されている現代の映像業界への「悪意」、むしろ「皮肉」にほかならない。登場人物がオリジナルキャラクターをもじった名前や人物像で設計されているのも、「一度描かれてしまったこと」がくり返され、オリジナルとの間に広がる差異と違和感を観客に強く印象づけるためなのだろう。テレビ版うる星やつら』の第101話「みじめ!愛とさすらいの母!?」以来、「反復される現実」を執拗に描いて来た押井らしい設計だが、むしろ『パトレイバー』という枠をヘッドギアから簒奪した勝利宣言なのかもしれない。

 つまるところ、今回の『首都決戦』は、21世紀に甦った『パトレイバー』が、オウム事件や9.11、アフガン・イラク戦争をふまえた現代を切り取る新たなレイバー犯罪を創出しえた作品
ではまったくなく、メインストーリーは『パト2』の再演にすぎない。1992年の時点で『パト2』の制作に取りかかるのはすべてにおいて挑戦的だったことだろうが、今回は『パト2』を彷彿とさせる作品を制作側から望まれていたらしく、その内的な緊張感のなさがこうした子供っぽい願望充足映画に決着してしまうのはいたしかたのないところだ。いや、よく考えればそもそも『パト2』という作品じたいOVA版『機動警察パトレイバー』(1987)の最終話『二課のいちばん長い日』で描かれたクーデターエピソードの語り直しであり、「再演」なのだった。『首都決戦』はこのテーマでの再々演ということになり、それを「三代目」である特車二課の面々が挑むことになる構図。お茶は二煎目がいちばん味が出る、ということなど、押井は先刻ご承知に違いない。
『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は、実質的な予告編であった「TNGシリーズ」の第7章「エピソード12」と続けて観賞したほうが、作品の世界観に入りやすい。中東某国で国連難民救済機関の仕事をしているらしい南雲しのぶ、獄中の柘植行人の面会に赴く後藤田隊長、そして届けられる「goto」の名で登録された携帯電話……。『機動警察パトレイバー2 the movie』の世界観を引き継ぎ、それを発展させるドラマの登場を期待させるものであった。『首都決戦』の冒頭でも、中東の紛争地で手紙を受け取る南雲しのぶのシルエットが描かれるが、これは『パト2』冒頭での東南アジアの描写に呼応する。続けざまに描かれるのは、東京のレインボーブリッジがミサイルで爆破される場面。これも『パト2』での横浜ベイブリッジにミサイルが撃ち込まれる描写に呼応しており、今回の作劇が『パト2』の続編と言うよりは、「再演」であることを強く意識させるわけだが、『首都決戦』の本編だけを観てしまうと、それらの描写がなんの雰囲気の醸成もなく突如として描かれてしまうため、断片的な情報以上のものにふくらまない。これは単に不親切というものだ
 なお、今回の公開版(94分)は短縮版で、より長尺なディレクターズカット版が今秋公開の予定だという。どういう事情でそんな公開形態になったのかわからないが、ずいぶん客を馬鹿にした話ではないか。

機動警察パトレイバー2 the movie』が画期的だったのは、1989年~91年という冷戦終結湾岸戦争の流れと、日本国内における「有事」の受け止め方をめぐる混乱をふまえた上で「戦争映画」を提出してみせた点である。湾岸戦争時にテレビモニターでさんざん映し出されたバグダッドの光景が、じつは東京と地続きであることを「絵」として取り出し、そして東京の日常の中に、戦争的なものが浸透してゆく過程を緻密に描いてみせた風景論映画としても秀逸だった。ベイブリッジ爆破、幻の米軍機襲来、警察と自衛隊の対立、そして自衛隊の治安出動……。いわゆる「きな臭い状況」と安易な表現で語られがちなイメージを、アニメで説得力豊かに描くためのアイディアとシミュレーションが丁寧に積み重ねられ、その合間に後藤隊長陸自調査部の荒川による衒学的な平和論のセリフが差し挟まれるという構成が、有機的に作用していた。
 ところが『首都決戦』では、そうした「政治」を描くための段取りや工夫は徹底的に排除されてしまっている。劇中時間で16年という歳月が経過した今、なぜ犯人たちがクーデター事件の再演を行うのか、それを現在の政府やメディアがどう受け止めているのか、警察内部のお荷物と化した第二小隊の面々が「16年前と同じ」状況を前になにを考えているのか、まったく描かれない。「ニッポンが戦場になる」というコピーはほぼ詐欺であるそれなのに、後藤田隊長(筧利夫)と公安の刑事・高畑(高島礼子)がボートで川下りしながらの長セリフの会話だけはきっちり再現されるのだ。しかし『パト2』とは違い、高畑に荒川のようなダブルスパイ的な性格が与えられているわけでもないので、セリフはただ映像の表面を流れるしかなく小倉宏昌の入念な美術や凄腕アニメーター&デザイナーたちによってレイアウトされたアニメの風景にくらべ、現実の風景はCG技術を駆使してもなお痩せて見えるのだった。

『首都決戦』を象徴するのは、『パト2』での事件解決後、姿を消したとされる南雲しのぶ(渋谷亜希、声・榊原良子)の影であり、テログループが使用する光学迷彩型戦闘ヘリ「AH-88J2改・グレイゴースト」を操るパイロット・灰原零(森カンナ)である。
 かつて騒動の中心にいた問題の人物の失踪と帰還、このシチュエーションで始まるのは『紅い眼鏡』(1986)であり、姿を消した女の「不在」の存在感によって物語が牽引されるのは『イノセンス』(2004)だった。
 一方、「グレイゴースト」を使って東京の各所を破壊する灰原とは、完全に内面も人格も剥奪された文字通り「ゼロ(零)」のキャラクターであり、一種の怪獣だ。年季の行った押井ファンならば、中盤の展開を見て、『パト1』の犯人・帆場英一のために用意されたが、ヘッドギアの面々の反対で削除された設定が再利用されていることに気づくだろう。さらに言えば、常にバスケットボールをついている灰原の姿は、『迷宮物件File538』(1987)に登場する、ボールと戯れる幼女に遡ることができ、そのイメージをさらにたぐると、フェデリコ・フェリーニ監督『悪魔の首飾り(『世にも怪奇な物語』の一篇)』(1967)の毬をつく少女へとたどり着く。影の実行者と、冥界の怪物。押井の得意とする物語の変奏が、今回もくり返される。
 このような「現実に存在しない人物=幽霊」というキャラクターをキーポイントに配置し、ほかの登場人物を配置して物語をデザインするのが押井流作劇術なのだが、御自身でどう理屈をつけたところで今回はあきらかに問題が多い。特に灰原と泉野明(真野恵里菜)の対比(ゲーム得意の泉野とゲーム的に街を破壊する灰原、どちらもバスケットボールを得意とする、一度だけ遊馬に姿を目撃され強烈な印象を残す灰原と、職場の同僚として長くつきあいながら女として見てもらえない明)が脚本上デザインでしかなく、ドラマへの効果が不明瞭になっているため、クライマックスで明と灰原が対峙する構図が見えづらいのだ。長年のファンとしては、脚本に伊藤和典が参加していれば……と別種の不在感を浮き上がらせる結果となった。

 が、この作品、見るべきところも数多い。
TNGシリーズ」では、いちおうイングラム対軍用レイバー、怪獣映画パロディ、スナイパー同士の対決などのネタを毎回披露してくれたわけだが、ここでは架空の軍事ヘリコプター「グレイゴースト」がじつになまめかしく撮られている。熱光学迷彩によって消えたり現れたりしながら飛び回る姿はさながら宙を舞う草薙素子。ウロコのように張り巡らせた液晶装甲がモザイク状に反射したり、パズルのピースのように境目が光ったりするのも生物的で美しい。実物大模型とCGのマッチングもよい出来で、自衛隊ヘリの「AH-1コブラ」との都庁を回り込みながらのドッグファイトはもっと長く見たかった。
「幽霊」のヘリコプターなのに、ちゃんと兵站部隊が同行してはえっちらおっちら燃料と武装を補給する描写をせずにおられないのがいかにも押井守だが、これはこれで面白い。『パト2』で描かれた模擬クーデターに比べると、『首都決戦』のグループは規模が小さいからだろう、見えない戦闘ヘリで都内各所を小突き回るだけ、とずいぶんシンプルになってしまったのだが、そのせせこましくなった感が如実に表現され涙ぐましい。実際、運動家の放ったドローンが首相官邸に墜落しても誰も気づかず、ようやく気づかれればその内容にふさわしくない大騒ぎをしてみせ、翌週にはすっかり忘却するという、テロリストも官憲もメディアもすっかりしょぼくなった現代東京を相手にするには、軍用ヘリ一機でちょっと暴れてみるだけで充分かもしれない。
 当然、グレイゴースト相手では二足歩行のパトレイバー「98式イングラム」はとても相手にならず、橋の上での直接対決はほとんど世界貿易センタービルにおけるキング・コング状態で射撃の的となるばかり。コング風に海面へと墜落する二号機が描かれたのもまた楽しい(もっと足場の安定した場所で迎え撃てばいいのに、などと言ってはイケナイ。ロボット格闘が見たいなら『パシフィック・リム』を見とけ、という割り切り方は潔いのだが、見えない敵を相手に「音響センサー」という新装備が登場する展開にするのなら、その効果がもっと生かされるクライマックスを設計すべきだったろう。
 また、これまでの押井演出の実写作品では、アクションシーンであっても静止感の強い、リズムを切断したショットが貫かれるのが特徴だったのだが、今回のアクションシーン、特に「グレイゴースト」が隠された敵アジトに第二小隊が潜入しての大銃撃戦では、カーシャ(太田莉奈)が愛用のAKライフルを使って大立ち回りを見せる場面含め、ショットがきちんと流れているのに驚いた。今回は派手な立ち回り場面はすべて第二班の辻本貴則監督と園村健介アクション監督によって演出されているそうだ。日本映画では珍しい火力にものを言わせた被弾場面の連続や、後藤田隊長が査問を受ける警視庁会議室が、窓外からの一斉射撃で蹂躙される瞬間などは目に快い。
 そしてレイバー以上に熱く描写されるのは、重火器をぶっ放す女たち。謎のパイロット灰原や、ロシアから来たカーシャもよいのだが、特に生き生きしていたのは極妻を辞めて公安に転職したような趣の高島礼子。いつも通りふくよかで余裕たっぷりな雰囲気をたたえつつ、突如、投降した反乱部隊メンバーの足を短機関銃で撃ち抜くという、およそ日本の警察らしくない振る舞いをして、「次はふたり撃つ」と脅迫してみせるところなど、この作品でほぼ唯一、「非常事態」という状況を強く感じさせてくれる場面で、お姉様好きをにんまりさせてくれるのである。押井監督にここまで色気が残っていたとは思わなかった。

TNGシリーズ」で、私のお気に入りは田口清隆監督の「エピソード10 暴走! 赤いレイバー」であり、アニメ版のファンとしては同じ田口監督の「エピソード9 クロコダイル・ダンジョン」も楽しんだ。それ以外では辻本貴則監督の「エピソード8 遠距離射撃2000」が、スナイパー対決ものとしては『アメリカン・スナイパー』よりも正しかったと思うし、押井監督の『エピソード5・6 大怪獣現る 前・後篇』での東宝怪獣映画のパロディ部分はなかなかお見事だった
『首都決戦』も、21世紀の革命を描く気がないのなら、もっと徹底的にフマジメにやり、日本警察負の遺産と化した彼らが送る「くり返される現実」を完全な破綻に持ち込むこともできたと思うのだが、あえてそうしなかったのは、押井が言う監督としての「勝利条件(撮り続けること)」を維持するための戦術だろうか。「巨匠」の枠に閉じこもって才能を無駄遣いすることを避け、好きなものだけを撮り続けるふてぶてしき境地を勝ち取っているかに見える押井守だが、私は還暦を超えた彼に、観客をさらなる困惑と反発に導く堂々の失敗作を期待したいと思っている。『舞台版・鉄人28号』や『アサルトガールズ』といった、ささやかな失敗作を支えてくれた某プロデューサーが会社を潰し、昨年には企業脅迫犯として逮捕されてしまった現状(これもまた1984年に起こった事件をしょぼく「再演」しようとした事件だった!)、これをどう捉えているのか。深く反省して出資者も観客もそろって「みんなでハッピーになる」道へと向かうのか。あるいはそんな犠牲を無駄にしない超失敗作をものにして花と散るのかそれは今後公開される『GARM WARS The Last Druid』や、『東京無国籍少女』で少しはうかがえるのだろうか。