星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

シベリア少女鉄道の新作と本場のベケット演劇みたび

 春が来て、このブロマガも開設から一周年を迎えることができました。

 更新の間隔がちょっと空き気味にはなってるけど、まだ続いてますよ。もっと気軽に更新したいものだと思っているのだけど、どうしても日ごろのSNSでは片づけられない、自分でも内容をじっくり検討しながら書きたいというテーマに絞っているので、テキストが長大化してしまい、推敲・校正に時間がかかるのだ。長い記事ばかりですまんねぇ。って、誰に謝っているのだか。そもそもどこの誰が興味を持っているのか、まるで見当のつかないテーマについて、制限なく書けてしまうのがwebの良さ。これからも虚空に向けてのモールス信号のごとき文章を、自己鍛錬のつもりで書き連ねてゆくのでどうぞよろしく。

 さて、1年前の4月にレビューを書いた劇団がふたつ、たてつづけに新たな公演を発表、いずれも観賞することができたので、その感想を記録しておきたいと思う。
 ひとつめは、吉祥寺シアターで観た、シベリア少女鉄道の新作『この流れバスター』(作・演出 土屋亮一)。


シベリア少女鉄道Vol.25『この流れバスター』
http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2015/01/vol25.html

昨年のレヴュー
『あのっ先輩…ちょっとお話が……ダメ! だってこんなのって…迷惑ですよね?』というシベリア少女鉄道の新作
http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar506115

 旗揚げから15年、現在に至るも唯一無二の存在であるコメディ劇団、シベリア少女鉄道が駆使するトリックパターンについては昨年のレヴューでも分析したが大きく分けて、

「シリアスなドラマが後半まったく異なるモノで表現される」
・「前半のドラマをくり返すことで異なるモノが出現する」
・「ドラマ自体を脱構築する一種のメタフィクション

 の3つに分類される。しかし、近年また変化が生じているようなのだ。
 幕が開き、始められたプロットはいわゆる「デスゲームもの」のパロディだった。ワケありの登場人物たちが集められ、謎のゲームマスターの指示により、殺し合いをさせられる羽目になる。彼らにはそれぞれ異なる「武器」が支給されており、生き残った者には莫大な賞金が約束されている。ゲームを拒否しようとすれば、体内に仕掛けられた爆弾が破裂する。非力な主人公は信頼できるかどうか曖昧な協力者とペア(たいてい男女である)を組み、この不条理な状況からの脱出を試みるが……というパターン。小説『バトル・ロワイヤル』(1999)や映画『CUBU』(1997)の登場後、小説・マンガ・映画の世界でぞくぞくと類似作品が登場したゲーム性の強いサスペンス。
 限定状況のサスペンスものと見せかけて、後半でまったくのバカげた別物に変身するトリック構成はシベ少の得意技であり、すでに『二十四の瞳』や『俺たちに他意はない』といった秀作をモノにしている。さて、今回も手慣れたスタイルでまとめるのか……、と警戒心満々で見守っていたわけだが、今回の作品、シベ少が新たな方向性への模索をはじめていることがはっきりと理解できる、それでいて高い完成度を見せた力作だったと思う。

 かつてのシベ少演劇には、明確なネタばらしのポイントを持つ作品が多かった。その「転換点」を迎えるや、地味でシリアスな物語が構築してきた世界観は一変し、バカバカしいとしか言いようのない「ネタ構造」が露呈する。この場合、アイディアの破壊力と洗練性に勝負がかかっているわけだが、しかし1年前の『あのっ先輩…ちょっとお話が……ダメ! だってこんなのって…迷惑ですよね?』や、半年前の『ほのぼの村の仲良しマーチ』では、いわゆる「転換点」が段階的に設定され、構成がより複雑化していたのだった。作品の世界観に複数のレイヤー構造が練り込まれ、展開が進むにつれて層がはがれるように世界観が変転してゆく。やがてクライマックスを迎えると、作品世界は冒頭の設定からどうしょうもなくかけはなれた地点へとスライドしてしまったことに気づかされる。
 前半と後半で大きく転換させ、その落差で笑いを取る作風から、前半から後半に向けて世界観がじょじょに変転してゆく過程に笑いを貼り付ける構造へ。シベ少の方向性は、あざやかな手品から熟練の芸談へと向かっている(などと言って、次回作ではあっさり大ネタを炸裂させるパターンで来るかもしれないけど)。

(この先、完全にネタを割っているので要注意……が、公演も終わったしまぁイイよね)
 前作『ほのぼの村のなかよしマーチ』は、タイトルから想像される通り、村に住むお爺さんと少女が、動物たちとふれあう児童演劇っぽいドラマが展開する。が、人物の出入りに不穏なものを感じていると、背景が取りのぞかれ、後景にヤクザの事務所が広がっているのがあきらかとなる。前景で児童演劇風のファンタスティックなキャラを演じていた面々は、後景に帰るやヤクザに戻って二手に分かれ、互いに凄みはじめるのだった。前景で展開する児童演劇でおいしい役を獲得することは、彼らが所属する組の勢力争いの象徴にほかならなかったのだ(文章で意味を通じさせるのが難しい!)。さらにそのヤクザたち、ふとどきなことに前景の児童演劇世界で演技をするたびに女優陣の体に触れたりスカートをのぞいたりするセクハラ行為でもその妙技を競い合っていた。だが女優陣も黙ってはおらず、ヤクザたちの世界観へとなだれ込み、牧歌的なお伽噺は気づけば『極妻』的な抗争と演歌が乱れ飛ぶ世界へと変貌……というものだった。

 そして今回の『この流れバスター』。デスゲーム構造のドラマが展開し、主人公と敵方の2チームが競い合っていることがあきらかになってゆく。彼らは互いを「欺く」ことで生き残ろうとするのだが、その勝負の決め手となるのは、相手をいかに自分の物語(ゲームマスターから支給された武器=小道具を生かせる設定)に引き込み、退場=死亡させるかにかかっている。例えば外人用のつけ鼻を支給された女は、それを使っておもむろに『タイタニック』のローズ(ケイト・ウィンスレット)になりきり、船首で両手を広げる例の場面を演じ出す。お、この流れは……とうっかりノリにつきあいジャック(レオナルド・ディカプリオ)の役を演じてしまったが最後、『タイタニックごっこにつきあわされ、いつしか一人海中へと水没してゆく場面が待ち構えているという仕組みだ。見事に相手を「死亡」に導くと、『タイタニックバスター!』と決め技がコールされる。
 こうして複数のステージで激しい演技合戦が展開する。相手を死へと導く「この流れ」を醸成するため、彼らは小道具を手がかりに『ブラック・ジャック』、『ドラえもん』、『タッチ』、『新世紀エヴァンゲリオン』、『世界の中心で愛をさけぶ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『笑ゥせえるすまん』、『風立ちぬ』、『日本ホラーによくある女子高生の噂話』、『医療ドラマでよくある余命宣告場面』、『警察ドラマでよくある定年間近の警官が強盗事件に遭遇』などなどを召喚し、演じ始める。いずれも「死」や「退場」の名場面で知られるものばかり。
 さらに複数のステージで敵味方に分かれたパロディ演技合戦が続けざまに行われるこの流れ、どう見ても『キン肉マン』の「七人の悪魔超人編」なのである(だから「××バスター!」と技名がコールされていたのだ)。ウォーズマンVSバッファローマン戦で炸裂するゆで理論や、死んだと思われたテリーマンの帰還、ラーメンマンと思いきやモンゴルマン登場などの名シーンがだしぬけに再現され、往年のジャンプ読者の胸を熱くさせる。
 そんなパロディのつるべ打ちとなった物語が流れ流れて行き着いたのは、フランダースの犬』のラストシーンだった!

『ほのぼの村のなかよしマーチ』で展開したパロディが、『仁義なき戦い』、『極道の妻たち』、『アウトレイジ』を元ネタとするイメージとしてのヤクザ映画だったのに対し、『その流れバスター』で描かれるパロディはいずれも具体的な作品をディティール豊かに再現し、土屋亮一のマンガへの愛情が、作品全体のヴォルテージにもつながっていた気がする。また、現在流通する「物語」とは、往年のヒット作に描かれた「紋切型」のパターンをくり返しているばかりだ、という物語の現在に向けての批評にもなり得ている。
 大きな舞台装置に頼らず、マイムでのパロディ演技が中心となるのも、コントっぽくてよかった。演技陣では、ヒロイン役の小関えりかは染屋景子、篠塚茜に続く三代目シベ少ヒロインとして定着してきたものの、まだキュートさと表現力の結びつきが、先輩たちに若干劣るようだ。いっぽう、川田智美は前作に続いての大熱演で、特に碇シンジはお見事でした。また、ヒール役が意外に合うのだな、この人。

 なおこの作品、私はシベ少古参メンバーである藤原幹雄が出演する「オリジナルバージョン」を見たのだが、この役はアイドルグループ私立恵比寿中学安本彩花とのダブルキャストであり、そちらの「フレッシュバージョン」にはエビ中ファンが殺到したらしい。あの役をそのまま10代のアイドルが演じられるとは思えないので、台本に大幅な書き換えがあったに違いなく、そっちも確認してみたいと思ったがすでにチケット完売なのであった。これまでも何度か女性アイドルの客演を招いているシベ少だが、いわゆる「うまい芝居」が求められる劇団ではないので、今回はどんな異化効果が得られたかが気になるところ。





サミュエル・ベケット『またやってみる またしくじる もっとうまくしくじる』
http://www.theaterx.jp/15/150410-150415p.php

昨年のレヴュー
本場のベケット演劇ふたたび~サミュエル・ベケット「ソロ」
http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar501826



 さて、「よくもまぁ、こんなヘンテコな思いつきを舞台にかけようと思ったなぁ!」と唖然とさせてくれる点でシベ少に劣らぬ存在と言えば、まずサミュエル・ベケットである。
 アイルランドベケット劇団「マウス・オン・ファイア」が3度目の来日を果たしたので、今年もまたシアターΧに出かけた。入場料1000円で終演後には演出家・出演者のアフタートークを楽しめるのも例年通り。

 昨年はモノローグ劇3本立てという、初年度よりも難易度が上昇したラインナップを披露してくれたが、今回はモノローグ劇『ロッカバイ』、象徴劇『芝居』、朗読パフォーマンス劇『さいあくじょうどへ ほい』の3本立て。バラエティに富んではいるものの、手がかりの掴みづらさという点では、いっそう手強さが増している。もちろん字幕はいっさいナシ。そのかわり、演出のカハル・クインが上演前の舞台挨拶に登場、それぞれの作品のポイントと、設定について解説してくれる。ベケット研究者ばかり集まっているかのような客席だが、中にはベケット初心者もいれば女子高生の集団もいるのだから、一見客をとまどわせないための最低限のサービスなのだろう。

 一本目の『ロッカバイ』は、舞台下手に黒服の老女が揺り椅子に揺れているイメージからスタートする。そこへ彼女のモノローグを吹き込んだテープが流れ始める。舞台上の老女は椅子に揺られながら、一ヵ所だけテープの声とセリフをシンクロさせて発音する。そのくり返し。今回はアイルランド語版での上演だったため、彼女がなにを語っているのかはまったく理解できない。元のテキスト(英語)によると、テープの声が語るのは、死ぬまで自分と似た者を探しながらよその窓を見つめる人のことらしい。女は「あのひと、もうそろそろやめてもいいころよ」という言葉の瞬間だけ、声を出してテープとシンクロさせ、やがて「もっと」とテープの声をうながす。
「ロッカバイ・ベイビー」と言えばマザーグースの子守唄。しかしこの舞台に存在するのは喪服の老女。「ゆりかごから墓場まで」のイメージがワンセットに設計された舞台空間であり、揺り椅子の手摺を握る両手のみを照らし続け、椅子が揺れるたびに闇の中から老女の顔が現れたり消えたりする照明設計がすばらしい緊張感を醸し出す。上手のほうにぼうっと明るいスペースが照らされることで、はりつめるような息苦しさをちょっぴり緩和してくれるだけでなく、まばたきひとつしない老女が見据える空虚な世界を表しているようにも見える。

 続く『芝居』では、舞台上に壷から首を出した状態の3人の男女が並んでいる。舞台前方にいるフードをかぶった照明担当がスポットライトを操作し、1人ずつライトを当ててゆく。光に照らされた者は猛烈な勢いでセリフを喋り始める。テキストによると、3人の関係は夫と妻、そして愛人で、通俗な三角関係のもつれっぷりがそれぞれの立場から語られてゆく。ライトは1人ずつ照らすとは限らず、3人がいっせいに喋りだす時もある。しかしいずれの場合でも、各人が自分の主張を一方的に語るだけであり、3人のセリフが会話として成立することはまったくない。
 驚かされたのは、彼らが語るセリフが超高速の早口芝居だったこと(『わたしじゃない』を思い出す)。ここまで感情や心理をかき消した機械的な演技だとは思わなかった。スポットライトは彼らが溢れ出す言葉が、愛を偽り続けた「芝居」で結ばれた関係性であることを照らすわけだが、同時に原題“Pray”に「再生」の意味があることも思い出す。そういえばベケット劇にはよく録音テープが登場しますな。
 3人が入っている壷とは「骨壺」をイメージしているらしく、冥界での堂々巡りを象徴する劇と解釈されているのだが、今回の公演で用意されたものは壷というよりもほぼゴミ箱という印象で、魂の廃棄場に一筋の光を当てると、人間たちの嫉妬と嘘にまみれた呪詛の声が再生される、そんな「遊び(Pray)」を見物しているような気分になってくる。早口の英語や突然の笑い声、ライトを向けたりシャットダウンする時の金属質な軋み音。地獄で上演されたミュージカルといった趣で、声と音と光と影が舞台上に構成するグロテスクなオブジェである。

『さいあくじょうどへ ほい』は、1983年に出版された英語による散文作品で、『伴侶』と『見ちがい言いちがい』と合わせて後期の3部作を構成すると言われている。いちおう「小説」であるらしく、アフタートークでクイン氏に聞いたところによると「おそらくベケットはこの作品の舞台化は考えていなかったと思うので、上演には反対したかもしれません。しかし、ある劇団が朗読劇として採り上げたので、こちらもパフォーマンスとしての要素を加えて挑戦してみたのです」ということだ。
 テキストは本来翻訳不能なものだが、それでもいちおう邦訳が出ている。冒頭の部分を原文と照らし合わせるとこの調子。

 On. Say on. Be said on. Somehow on. Till nohow on. Ssid nohow on.
 さ。言うさ。言われるさ。どうにかさ。どうにもさまで。どうにもさと言った。

 Say for be said. Missaid. From now say for missaid.
 言われるために言う。言いそこなった。これからは言いそこなわれるために言う。

 Say a body. Where none. No mind. Where none. That at least. A place. Where none. For the body. To be in. Move in. Out of. Back into. No. No out. No back. Only in. Stay in. On in. Still.
 体と言う。どこにもない。ちがう心。どこにもない。せめてそれ。場所。どこにもない。体が。居るための。入る。出る。戻る。ちがう。出ない。戻らない。入るだけ。残る。そのまま。じっと。
                             (訳・近藤耕人)


“On”が連発されるリズミカルな文章は、翻訳で読むのはもちろん、おそらく英語を母国語とする人が聴いても意味をとらえるのはかなり難しいだろう。さすがにこの凝った文章をすべて暗記するのは大変らしく、小型の台本を読み上げながらのパフォーマンスとなった。それでも上演時間は丸1時間かかるのだ。
 どこでもない場所の小さな階段上でうずくまった語り手がテキストを読み始める。照明が照らし出す男の影が舞台の奥に巨大な楕円を描き、まるで卵のようだ。やがて語り手は立ち上がり、おずおずと階段を降りてゆく。照明が変化し、階段の下に一筋の細い光の道を示す。ゆっくりと進んでゆくことで語り手はスポットライトに照らし出される空間に到達する。光はテキストを読む彼の姿から立ち上る熱気や、飛び散る汗をはっきり浮かびあがらせる。
 テキストによると、語り手はほの暗い虚空を彷徨いつつ、墓石を覆う老女の背中や、手をつないで歩く老人と少年の後ろ姿、両手に固定された頭蓋と目をぼんやり認識しているらしい。原題が“Westoward Ho!”という19世紀末に流行ったイギリスの西海岸やアメリカの西部開拓への探訪ガイドのもじり“Worstward Ho!”であることに注目し、約1時間かけてほんの数メートル移動するだけの「冥界探訪」として舞台を設計し、「死」を意識した語りのはずが、どんどん躍動感と生命力がみなぎってゆくパフォーマンスとして批評的に構築し直した照明・演出の力に惹き寄せられた。

 ちなみに今回のサブタイ「またやってみる またしくじる もっとうまくしくじる」とは、『さいあくじょうどへ ほい』の一節に由来する。奇妙奇天烈な実験劇を次々に生み出しては、「しくじること」を恐れず、むしろ「上手にしくじること」を志向したベケット後期作品の姿勢を示している。
 マウス・オン・ファイアはベケットの意図をなるべく忠実に再現することがコンセプトの劇団だが、今回は「忠実」にテキストに向き合った結果、テキストの意図からはみ出したものを見せてくれたように思う。これなら小説作品『マーフィー』の演劇化や、『ワット』で展開する珍理論のパフォーマンス化などといった演目も可能なのではないか。
 来年の再々々来日(きっとあるはず)では、さらに「上手にしくじる」ことに挑んだ作品を見てみたいと思った。

 シベリア少女鉄道とマウス・オン・ファイア、遊び心と実験精神に満ち、役者を「装置」としてステージをデザインしてみせるふたつの劇団を楽しんだわけだが、そのどちらにも「死」の要素が透明な緞帳となって横たわっていたことに気づかされる。桜の散り際に観るにふさわしい芝居だったと言えるかもしれない。