バスを降りるや、身も心もすべてがかっさらわれるような突風が叩きつける。これが上州名物の「からっ風」というやつか。スローリィの唇からメロディがこぼれ、風に乗る。
昨日の風 今日の風
恋の風 金の風
夢も涙も 吹き飛ばし
人でなしさ 人の子さ
からっ風野郎 あすも知れぬ命
「なんですか、それ?」
助手の丑寅くんが訊ねる。
「増村保造監督の映画『からっ風野郎』の主題歌だよ」スローリィが答える。「作詞は三島由紀夫で作曲は深沢七郎。この映画、三島由紀夫が主演という企画物のヤクザ映画でね。三島は増村にさんざんシゴかれ、それはもう大変な現場だったそうだ。そもそも増村と三島というのは東大の同窓で……」
が、スローリィの長舌が始まるのを避けるかのように丑寅くんはずんずんと歩みを進めて行く。スローリィが口ずさむ音痴なメロディへの興味はたちまち消え失せ、眼前に広がる巨大な前方後円墳に早く到達したい一心であることはまちがいない。
「丑寅くん」と呼んでいるが彼女は女性である。「嬢」と呼ぶには大人過ぎ、「女史」と呼ぶには貫禄が足りない。いや、そんな蔑称なのか敬称なのかあいまいな呼び方をはねつける、すずしげな空気感を身にまとっている。そのため、スローリィはもっぱら「くん」付けで呼んでいる。
八幡塚古墳
スローリィが群馬を訪れるのは初めてだ。それまでのスローリィにとって群馬と言えば、埼玉から新潟へと移動する際に通過する県でしかない。かつて見せてもらった群馬の御当地カルタ「上毛カルタ」では「鶴舞う形の群馬県」を宣言していたものの、いったいどのあたりが鶴の形状を指すのか困惑させられた覚えがある。
群馬に対してその程度の知識しかないスローリィが向かう、群馬視察旅行。まずは高崎市の保渡田古墳群を訪れる。5世紀の終りから6世紀にかけて築造された前方後円墳の群が整備復元され、公開されている。
横から見た八幡塚古墳
古墳群のひとつである「八幡塚古墳」は、6世紀ごろに上州に君臨していた豪族が建てたと考えられている古墳だ。大きく損壊していたが、平成に入ってからの大工事によって、古墳全体を覆う葺石と、その周辺に植えられた埴輪の数々が再現され、築造当時を彷彿とさせる姿を取り戻した。
八幡塚古墳の「形象埴輪配列区」
外堀を越えると、「形象埴輪配列区」が見える。発掘調査の際に、人や馬などの埴輪が整列して出土した場所が見つかったことから、復元した埴輪をなるべく正確に配置したものだ。
真新しい埴輪の群をながめながら、スローリィはつぶやく。
「殉死の風習の代わりに埋められているにしては、武人がいたりボーリングのピンみたいなのがいたり、ずいぶん統一感ないな。なんで馬や鶏までいるんだろう。これも生贄だったのかね?」
丑寅くんが口元に笑みを浮かべながら訂正する。
「埴輪が殉死の代用品として埋められたって話はあくまで伝説にすぎないようですよ」
「マジで? 『火の鳥・ヤマト篇』ではそう書かれてたぞ」
「『火の鳥・ヤマト篇』ってヤマトタケルの熊襲退治の話でしょ。手塚治虫は『日本書紀』を元ネタにしてるんですね。『日本書紀』では、垂仁天皇の皇后だった日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった時、出雲から来た野見宿禰(のみのすくね)が、殉死に代わって土で焼いた人形を埋めるよう提案するエピソードが出てきます」
「なら史実じゃないか」
「いやいや、垂仁天皇は実在したかもどうかわからない人物ですよ。日葉酢媛命の陵は奈良の佐紀陵山古墳ということになっていますが、人物埴輪は見つかってません。そもそも人物埴輪は4世紀ではまだ作られてなかったんですね」
えー、それじゃ5世紀に入ってから誰かフィギュア趣味に目覚めて人形を作り出し、それが豪族全般に大ブームを巻き起こしたってことかよ、ホントかね、とスローリィは容易に信じようとしない。が、古墳のそばにある「かみつけの里博物館」の展示を後でのぞくと、なるほど埴輪は被葬者が死後の世界も豪勢な生活を維持できるように、現世における彼の権威を人形で再現して埋めたものと書かれている。ブルジョワによるジオラマ趣味の一種だったのだろうか。
そういえば古代中国には秦の九代公・穆公(ぼくこう)が死んだ時、家臣から大量の殉死者(177名!)が出たため国力が低下、人材の浪費を防ぐべく兵馬俑が作られるようになった、というそっくりな話がある。どうも『日本書紀』の例の記述はその辺からパクってきているらしい。
八幡塚古墳の「舟形石棺」
それにしても、全長100mメートル近い古墳が、円筒埴輪でびっしり囲われている様子まで再現されているのは圧巻だ。こんな風景は近畿方面の古墳でも見たことがない。
墳丘に登れば、そこから石室に入ることができる。ひんやりした空間に張り巡らされたガラスの向こうには「舟形石棺」が口を開け、さらにその奥にもうひとつ石棺が置かれている。八幡塚古墳は被葬者とその家族共用の墓だったのだ。むろん盗掘がくり返されたため、この石室からは断片的な副葬品しか発見されていない。
二子山古墳
八幡塚古墳から道路一本はさんだ隣には、同じく100メートル級の前方後円墳・二子山古墳が整備されている。こちらは生い茂った樹木を伐採し、堀や墳丘の形を復元しただけにとどめているので、葺石や埴輪などは置かず、墳丘には草がびっしり生い茂っている。古墳のふたつの貌(かお)が楽しめる復元になっているのだ。
手前が二子山古墳の「中島」
八幡山古墳、二子山古墳に共通するのは、内壕内部に4つの「中島」が存在することだ。直径18mもの巨大な円形スペースだが、なんのために建てられたのかはわからない。祭祀を行うための施設という説もあれば、近親者や部下の廟を作る場所だったという説もある。近畿地方の前方後円墳ではあまり見かけないものらしく、古墳築造の技術が関東に伝わる上で追加されたアレンジなのかもしれない。
「これぞ本物の『ミステリーサークル』だな」
冷えた突風をこらえながら、スローリィが軽口を叩く。気づけば丑寅くんは中島の中央に立って空を見上げている。突風でコートが真後ろに引っぱられ、ヘリポートでヘリコプターの着陸を待っているようにも見える。かつて人々もあの円の中で「神」が降りてくるのを待ったのかもしれない。
「丑寅くん」
スローリィは声をかける。しかし通じない。風の奔流を正面から受けながら天を見据えるこの瞬間だけ、丑寅くんが巫女に見える。
なお、保渡田古墳群にはもうひとつ「薬師塚古墳」という前方後円墳が存在するのだが、これは今ではあるお寺の敷地内になってしまっているため、復元作業を進めることができない。出土品は博物館に収蔵されているそうだが。それにしても、わずか数十年の間に巨大な前方後円墳を3つも建造した豪族はその後どうなってしまったのだろう。公共事業にうつつを抜かしすぎて衰退したのか、中央から配置換えの命令を受けて去ったのか、後に大流行した仏教ブームを受けて信仰を捨てたのか。
古代のお墓の跡地に仏教寺院が乗っかっているという現状も、これはこれで興趣が尽きぬ設定と言えるのかもしれない。
茂林寺の門
続いて訪問したのは、館林市の茂林寺。
ここには、「分福茶釜」の釜が現存しているという。
昔話の分福茶釜と言えば、早い話がタヌキの恩返しである。
昔、ある男が罠にかかったタヌキを助けた。後日、そのタヌキは男のもとに恩返しに訪れる。タヌキは大きな茶釜に化けて見せ、売り物に出せという。はたしてその茶釜は和尚さんが買い取り、寺に運ばれた。しかし、和尚が茶釜を火にかけたところ、タヌキは熱さにこらえられず、正体を露呈、半分が茶釜の姿となったまま男のもとに逃げ帰った。タヌキは次に「茶釜の綱渡り」で見せ物興行を打つことを提案。はたして興行は大成功し、男は大金持ちとなり、その後もタヌキと仲良く暮らした。めでたしめでたし……。
茂林寺の門前にはタヌキ像がいっぱい
「ちょっと待て、それじゃなんでこの寺が茶釜を持ってるんだ?」
タヌキの像に囲まれた道を歩きながらスローリィが疑問を口にする。
「どう考えても詐欺にあった被害者としか思えないんだが。だいたいこの主人公、一度タヌキを助けただけで恩着せがましすぎないか。しかも結末はフリークショウで大儲けって、ポリティカル・コレクトネス的にはどうなのよ」
「まぁ、タヌキが自発的にやってることですから。しかし変ですね」
丑寅くんがスマホでウィキペディアを確認する。
「ああ、わかりました。いわゆる『分福茶釜の話』は江戸時代に出来たもので、その原型となった伝説が、茂林寺に伝わっているんだそうです」
茂林寺の茶釜(wikipediaより)
分福茶釜の原型となった茂林寺の伝説、それはもっと単純なものだ。
室町時代、茂林寺に守鶴という僧がいた。彼の所持する茶釜は決して水が尽きない不思議な茶釜であり、集まりの席などではもっぱらこの茶釜が使用された。しかしある日、居眠りする守鶴の体から尻尾がはみ出しているのが見つかってしまう。守鶴の正体は、釈迦の弟子でもあった超能力タヌキだった。正体がばれたので寺を去ることになった守鶴は、幻術によって源平合戦や釈迦の入滅の様子を披露していったという。
「なるほど、なんで釈迦の弟子のタヌキがこんなところで修行しているのかはよくわからんが、動物を助けるといいことありますよ的な教訓譚よりはずっといいな。去り際にイリュージョンショーを見せてくれるってのも気が利いてるじゃないか」
スローリィはうなずきながら寺に入る。暖かそうな紺色のセーターを着た、にこやかでふくよかな老婦人が二人を本堂に案内してくれる。
ルパン三世が腕まくりして仕事に取りかかりそうな巨大な金庫の扉が開くと、中にでんと黒光りする茶釜が鎮座している。蓋がされているので、中は見えない。
「今でも中には水が入ってるんですか?」
丑寅くんが老婦人に訊ねる。なんという野暮な質問をするのだ、そこは突っ込まないのが大人の礼儀でしょ、とスローリィは青ざめるが、老婦人はにこやかな表情を崩さない。
「さぁ、もう何年ものぞいてないのでいいかげん酢になってるかもしれませんねぇ」
「お酒になってくれればよかったのにねぇ」
と、丑寅くんも笑う。
『喜劇 駅前茶釜』(1963)スチール
本堂の中には茂林寺のタヌキに関する書画や、関係資料が飾られ、中には昭和39年の映画『喜劇 駅前茶釜』(監督・久松静児)のスチールもある。この寺でロケーションが行われたらしく、森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎のトリオに当時人気急上昇中のジャイアント馬場が並んだスチールが飾られている。力道山が殺され、日本プロレスの将来が馬場の双肩にかかってくるのはこの映画が公開された5ヶ月後のことだ。
山下清の素描
目を引いたのは、額に入ったかたつむりの絵だ。サインを見れば山下清とある。茂林寺を訪れた際に残して行ったものらしい。山下清と言えばちぎり紙細工が有名だが、こうしたフェルトペンを使った昆虫や小動物の素描も大量に遺しているという。大小のかたつむりの配置といい、「ここしかない」という位置に力強く引かれた線といい、わずか2色の組み合わせといい、シンプルなのにまるで見飽きない。むろん下描きの跡はない。
上越線・土合駅
埼玉との県境に近かった館林市から、一気に新潟方向に転身し、車を走らせることおよそ2時間。谷川岳のふもと、水上温泉郷のさらに奥に目的地はある。
積雪の向こうに、巨大な三角形の駅舎が見えてくる。
JR上越線土合駅。
無人駅と聞いていたが、駅舎に入ると青い防寒着をまとい、眼鏡をかけた痩身の男性が電気コンロでインスタントラーメンを茹でていた。聞けば訪れるスキー客を案内するボランティアガイドだという。
「まぁ、今ではこんな感じでさびれてますがね。昭和40年代の登山ブームのころは、冬のシーズンには駅舎の中はハイカーやスキーヤーが泊り込んで大にぎわいだったんですよ」
と、頼みもしないのにタブレットで当時の駅舎の写真を見せてくれる。白黒の映像に映し出されたのは、駅舎の中にテントやら寝袋やらがひしめいている様子。まるで小規模な難民キャンプ。夜の電車で到着した客が、駅舎内で一泊、日が昇ると共に谷川岳に向かって出発するのだという。
「昭和35年には、谷川岳の衝立岩ってところでハイカーが二人、滑落してザイルで宙吊りになってしまいましてね。その二人もこの駅から現場に向かったそうなんですよ。写真、見ます?」
男は駅舎を訪れた者にえんえん周辺情報を語り続けるようプログラミングされているらしく、こちらの返事も聞かずに絶壁にぶら下がった人物の写真を表示する。それは、一本の紐に吊るされたオブジェのようにしか見えない。
谷川岳宙吊り遺体(wikipediaより)
「これ、生きてるんですか?」スローリィが訊ねる。
「いや、発見された時点で亡くなっていました。この岩場は登頂に成功したのは過去一例という超難所でしてね。遺体をどうやって収容するかで大騒ぎ。で、どうしたと思います?」
「はい!」丑寅くんが元気よく手を挙げる。「ヘリコプターを使った」
「残念!」カーン、と男が割箸でコーラの空き缶を叩く。「ちがいます」
この二人、やけに楽しそうである。
「答えはね、ライフルを使ったんです。ワイヤーロープを狙撃したの、ビシッと。そのために自衛隊からスナイパーを呼びましてね」
そうかー、と丑寅くんは腕を組んで感心しきり。
「それじゃ、落っこちた死体はぐちゃぐちゃですね!」
「そりゃね。しかし、遺族の依頼を受けてやったことですからねぇ」
崖から宙吊りになった男のロープをライフルで狙撃するといえば、特撮ドラマ『シルバー仮面』の第2話にそんな場面があったな、とスローリィはぼんやり思い出す。
土合駅の階段
土合駅は下りホームだけが新清水トンネルの中に作られている。改札と下りホームとの高低差は70.7メートル。下りホームに降り立つには、500段近い階段をえんえん降り続けなければならない。階段は5段ごとに踊り場が設けられているため傾斜はゆるやかだが、その長さは400メートル近い。等間隔に設置された蛍光灯の灯りが描く縞模様がどこまでも連なり、このまま出口のない異世界へと迷いこんでゆくのではないかという不安感を煽られる。
降りる階段の右手、金属の手摺の向こう側には、工事の途中と思しき急斜面がなまなましく残されている。エスカレーターを設置すべく準備を進めたものの、よくよく考えてみれば1日3本しか停車しないホームに文明の利器を取り付けたところで採算が取れるはずもなし、と現実に引き戻されてしまったらしい。白い石が無造作に転がり、引っかき傷のような細い轍が走る土の斜面が、「挫折した夢」としての存在を主張するため、コンクリートに覆われた無機質な空間がいっそう物寂しい。
土合駅の階段を下から見上げる
10分ほどかかって階段を降り切った。丑寅くんが階段の上部を振り返って言う。
「上から見下ろした時には底なしの迫力があったのに、こうして下から見上げると、なんだか大した距離じゃないみたいですね」
「やっぱり、入口からは光が見えるからね。距離がはっきり感じ取れると気持が冷静になってしまうのさ」
「終着点が見えるのと見えないのとでは、意気込みが変わるってことですね。私はやはり結末が見えない方が好きだな。遊びでも、人生でも」
二人がぼんやり階段を見上げていると、地上の方から、とっとことっとこ階段を降りてくる者がいる。じっと見つめていると、動く点だったものが立体になり、やがて脚立を抱えた作業員の姿へと像を結ぶ。そして彼らはスローリィの傍を一瞥もせずに通り過ぎ、ホームの奥へと去ってゆく。
スローリィもホームに出る。「日本一のもぐら駅」を自称する地下空間。ドーム型の天井からは、地下水でも走っているのだろうか、胎動のような音がかすかに響いている。目に映るのは蛍光灯に照らされたコンクリートの質感ばかり。
「まさしく旅の終点にたどり着いたって感じじゃないか」
と、スローリィが振り向けば丑寅くんはどこにもいない。待合室に入ったのだろうか。先ほど降りて来たはずの二人の作業員も、どこに消えたのか気配が感じられない。ふと線路をのぞきこむと、灰色の小動物の群がすばやくレールの間を駆け抜け、壁に空いた小型のトンネルに消えてゆく。ネズミか、大きさからするとイタチかもしれない。あまりに一瞬だったので錯覚のような気もする。地鳴りめいた響きだけが静かに続く。
振動を感じる。トンネルの闇のさらに向こう、消失点の先にオレンジ色の光がぼうっと浮かぶ。空気がゆがみ始める。怪鳥の叫びにも似た軋み音を響かせながら、にじんだ光の球が少しずつ少しずつ、地の底から迎えに来たかのように近づいてくる。