星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

おそろしい子! 〜舞台『ガラスの仮面』

 松竹&フジテレビ制作の舞台『ガラスの仮面』を観てきました。

 

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 今回のコンセプトは非常に明快で、「過去の舞台化でまだ採り上げられてないエピソードをやるぜ!」というものでした。その野心は買えますし、長年の原作ファンとしては「おおっ、あの話をやってくれたのか~」という喜びはありますが、各エピソードを「物語」として説明するに留まっているのが気になりました。あのマンガが持つ「俗に徹することで俗を脱する」(by小林信彦)面白さとは、単に筋書きの面白さだけに限定されるものでしょうか。演劇がテーマである大河漫画を演劇で表現する以上は、なんらかのプラスアルファが必要だったように思うのです。その辺の物足りなさについて、ちょっと記してみましょう。

 そうそう、青山劇場のロビーには「北島マヤ様へ あなたのファンより」の紫のバラの花がどどーんと飾られていました。これは2007年に世田谷文学館で開催された「美内すずえと『ガラスの仮面』展」でも飾られていたもの。懐かしかったです。


「紫のバラの人」より

 1976年に連載開始、今も続行中のマンガ『ガラスの仮面』の舞台化は、1979年にミュージカルとして上演されたのを皮切りに何度か行われています。その中でやはり特筆すべきは1988年、バブル華やかなりしころ新橋演舞場で上演された松竹版でしょう。この時のキャスト&スタッフは大変な豪華版でした。

 

北島マヤ……大竹しのぶ

姫川亜弓……藤真利子

速水真澄……川崎麻世

月影千草……南美江

 脚色………美内すずえ

 演出………坂東玉三郎

 

演出に玉三郎を迎えるあたりに、松竹の気合いの入りようを感じさせます。また、デビュー間もないころの大竹しのぶはものすごく北島マヤを連想させるイメージがあった、とリアルタイム世代の読者から聞いたことがありますし、原作者である美内すずえも、担当編集者から「マヤみたいな子がいるよ」と教えられて以来、常に意識してきたと語っているほどの存在。満を持してのキャスティングだったようですね。上演時間4時間に及んだという3幕構成の脚色も原作者自身。

 この舞台、さすがに私は未見ですが、シナリオが出版されているので内容は把握できます。「紅天女」の再演に燃える月影千草のモノローグに始まり、北島マヤとの出会い、劇団つきかげ結成、「逃げた小鳥」のマイムでの亜弓との初対決、マヤが高熱をおして出演する「若草物語」、そして中盤のクライマックスに「たけくらべ」の演技対決(舞台上に同じセットを並べてマヤと亜弓の演技の違いを見せる)、後半は舞台オリジナルの構成となり、全国演劇コンクールでマヤが急遽一人芝居を演じるエピソード(原作では「ジーナと五つの青いつぼ」だが、この舞台では「女海賊ビアンカ」を演じる)、劇団一角獣との野外公演「真夏の夜の夢」出演を経て、クライマックスは「奇跡の人」。ここでは亜弓がサリバン先生、マヤがヘレン・ケラーを演じる直接対決が描かれます(原作では亜弓の母の姫川歌子がサリバンを演じ、マヤと亜弓がそれぞれヘレンを演じる)。

 さすがに原作者自身の脚色だけあって全体にセリフが熱い! 原作よりさらに芝居がかったセリフも多く、速水真澄もそのクサいセリフで充分に存在感を主張しています。同時にマヤが演じる「劇中劇」場面とその内容をたっぷり見せることで、「千の仮面を持つ少女」のイメージを強く打ち出すなど、巧みな設計が感じられます。決定版的な出来映えと言えるでしょう。

 しかし、原作者自身
にあまり出来のいい脚色を達成されると、後の人が困ります……。

 今世紀に入ってからは、蜷川幸雄による「音楽劇 『ガラスの仮面』」が二度に渡って上演され、これは私も観ています。
 こちらのキャストは、こう。

 

北島マヤ……大和田美帆

姫川亜弓……奥村佳恵

速水真澄……横田栄司

月影千草……夏木マリ

 脚色………青木豪

 演出………蜷川幸雄

(2010年の続編『二人のヘレン』では、速水真澄役が新納慎也に交代)

 

 蜷川版のコンセプトは、まず『ガラスの仮面』をファミリーミュージカルとしてわかりやすいエンターテインメントショウに仕上げること。そして、演劇がテーマである芝居を劇場で観る、というメタフィクション的な構造に観客自身も意識的になってもらうことでした。

 そのため、上演前に観客が参加できるバックステージツアーが用意されていたり、客入れと同時に舞台上では劇団オンディーヌの役者たち(という設定の出演者)がストレッチを行っていたり、演技の場が客席まで拡大されたり、原作のマンガを引き延ばしたパネルが舞台上に登場したりなど、さまざまな仕掛けが施され、イベント的な狙いが目立つ公演だったのをおぼえています

 物語としては、1作目がマヤと月影先生の出会いに始まり、劇団つきかげ結成、「若草物語」への出演、「たけくらべ」対決と進み、クライマックスは全国演劇大会で亜弓は「サロメ」を、マヤは急遽一人で「ジーナと五つの青いつぼ」を演じる話。

 2年後の続編『二人のヘレン』では、まずマヤの舞台「おんな河」と亜弓の舞台「王子とこじき」のエピソードで始まり、そこからマヤが「嵐が丘」のキャサリン(少女)に抜擢される話、さらに「石の微笑」で人形役への挑戦(あの竹ギプスもちゃんと登場した)へと展開。クライマックスはやはり「奇跡の人」で、ヘレン役のオーディションから、マヤ&亜弓の二人の演技対決まで、二幕すべての時間を割いてじっくりと描いていました。

 両作品で共通するのは、最終的なクライマックスが「奇跡の人」のエピソードに設定してある、ということですね。あのマンガを出だしから始めると、そこまでたどり着くのが現実的にせいいっぱい、ということがわかります。

 さて今回のG2演出版はどうしたか?

 これがなんと、「奇跡の人」が終わったところから始まるのですよ。「今さらマヤが出前持ちする話から始めてらんねぇよ、どうせみんな飽きたでしょ?」という作り手の気持がビシビシ伝わってきます。キャスティングは以下の通り。

北島マヤ……貫地谷しほり

姫川亜弓……マイコ

速水真澄……小西遼也

月影千草……一路真輝

脚色演出……G2


 開幕するなり、マヤをのぞく登場人物たちがコロスとなって「これまでのあらすじ」を語ってくれます。北島マヤの存在、「紅天女」という目標の設定、姫川亜弓がライバル認定、「若草物語」のエピソード、そして「奇跡の人」の演技対決……。舞台後方に影絵イメージ的な再現舞台がつけ加えられるとはいえ、説明の洪水にちょっと驚かされました。いっそ字幕スーパーで始めれば『スター・ウォーズ』みたいだったのでは(違うか)。

 そして焦らしに焦らして北島マヤが登場。 

 逃亡したマヤが保育園で働いているところを速水真澄に発見され、連れ戻されるエピソードからスタートです。どうしてこんなことになったのか、と回想場面へ移行。「これまでのあらすじ」をずっと説明してきたのに、本編に入るなりまた回想で説明になってしまうのはちょっと変な感じですね。ともあれ、新人俳優として注目されたマヤが大河ドラマ「天の輝き」の沙都子役に抜擢されたところまで戻ります。その後のエピソードの順番としては、

・ドラマ「天の輝き」の現場~数々のイジメを受けるも、それらをはねのけてゆくマヤ。

・乙部のりえが付き人的存在に。マヤは舞台「シャングリラ」の主役にも選ばれる。

・が、大都芸能によって隔離されていたマヤの母・春が療養所を抜け出して東京に向かうも、力尽きて死ぬ。

・母の死にショックを受けるマヤが暴走族に連れ出され、薬を盛られて昏倒。舞台の初日に間に合わない。

・舞台「シャングリラ」初日は乙部のりえが代役出演、「天の輝き」も彼女が後釜に座る。

・数々のマヤの不祥事がのりえの策謀と知った亜弓、復讐のため「カーミラの肖像」でのりえと共演、圧倒的な実力差を見せつける。

・一方、再起をはかるマヤは亜弓主演の舞台「夜叉姫物語」に端役で出演。すり替えられていた泥まんじゅうを舞台上で食う。

 ここまでで一幕。二幕になると、

・復帰後のマヤの活躍が「女海賊ビアンカ」を中心に語られてゆく。

・亜弓が月影から「紅天女」候補として指名され、マヤも2年以内に成果を出すことを求められる。

・亜弓主演の舞台「ふたりの王女」のオーディションを受けるマヤ。抜群の才能を発揮し、他の受験者を圧倒。

・「ふたりの王女」の稽古始まる。マヤと亜弓、共演の月影から特訓のため冷凍庫に閉じ込められたりする。

・「ふたりの王女」初日は超強台風襲来のため客は速水一人だけ。二人は見事に演じ切る。

・マヤ、この演技で全日本演劇協会最優秀演技賞を受賞。そして「紫のバラの人」の正体に気づく。

・晴れて「紅天女」候補となった二人は「梅の里」へ向かう。そこでは月影が待っていた……。

 さすがに「忘れられた荒野(狼少女ジェーン)」はカットしていますが、紫のバラの人の正体が露見する展開を「ふたりの王女」にくっつけてまとめます。これで全編2時間半。

 回転舞台のセットをくるくる回しながら、テンポよく語っているものの、とにかく説明セリフが多くてせわしない。原作ファンでなければ途中で振り落とされてしまうのではないでしょうか。どうせ観客は原作ファンばかりと見越した作劇は潔いのですが、テンポを急ぐあまり少女漫画の妙味である心理描写の蓄積をおざなりにしているのはいただけません。せっかくの個性的な演技陣が硬直した型芝居でマンガの再現をやらされるのは観ていてつらいものがあります。

 そもそも『ガラスの仮面』は「紅天女」に向かう二人を描く求道ものであると同時に、無垢な天才である北島マヤが、数々の困難に打ち克ってゆくドラマなんですね。吉川英治の『宮本武蔵』が武蔵と小次郎の対決を軸に、武蔵の数々の勝負を描いているのと同様、マヤが数々の強敵に出会いながら、それに勝利してゆくのが眼目です。なので、その「勝負」のプロセスを具体的にはっきり見せてくれないと、どうにも物足りないし、気持として次に進みづらいのです。

 特に「天の輝き」の出演から「夜叉姫物語」で泥まんじゅうを食うあたりは、『ガラスの仮面』の通俗劇としての魅力がもっとも充実していた部分。ここで登場する悪役・乙部のりえは私にとって『ガラかめ』の傍役陣の中で、2大お気に入りキャラの一人です(もう一人は「わしゃ鬼婆になったんじゃあ!」の金谷英美)。安達祐実が主演したテレビドラマ版で乙部のりえを演じたのは佐伯日菜子でしたが、姫川亜弓がのりえ同席の記者会見でダイレクトに不正を告発するという脚色になっていて、「カーミラの肖像」での演技対決はカットされていました。それを今回ちゃんとやってくれたのはエラい。しかものりえ役には小劇場界の実力者として知られる内田慈。彼女の乙部のりえはさすがに達者で魅力的でしたが、マイコ演じる亜弓との演技対決の部分にヴォリュームが乏しく、説明に終始したのは残念でした。

 なお、乙部のりえさんは、公式サイトのインタヴューページによると、現在ニューヨークで修行中だそうです。

 

 やはり舞台で『ガラスの仮面』をやる以上は、物語と同時に作品内で語られる「演技論」の部分にきちんとアプローチしてほしいな、と私などは思うのですね。よく知られるように、あのマンガで語られる演技論とはきわめて古典的なもので、触れられるのはせいぜいスタニスラフスキーだけ。ブレヒトの「異化効果」も鈴木忠志の「鈴木メソッド」もこの世界ではお呼びじゃありません。

 北島マヤはまったくシンプルな憑依型演技者であり、いかに「役になりきる」かにエネルギーを注ぎます。教養豊かな姫川亜弓は、これにアクターズスタジオのメソッド演技に近い方法論が加わり、天賦の才に満ちたマヤを努力で乗り越えようとする秀才型演技者です。二人の方法論の違いは、マンガではその多くが心理を語るモノローグで処理されますが、生の舞台である以上、「演技論の差」を独自の演技で表現してほしいと思うのですね。つまり『ガラスの仮面』の世界が理想とする演技の形を、制作者が解釈した上で視覚化してほしい、と。

 これは期待し過ぎなんでしょうか?

 さらに言えば、「ふたりの王女」のオーディション場面。ここでマヤがほかの受験者をあっさり蹴落としてしまうのは、マヤの天才性を見せつけるわかりやすい場面です。尺の関係か、舞台では1次審査(「毒」についてのセリフ朗読。マヤだけがパントマイムで状況を独自解釈して示す)の方が長く描かれましたが、私は2次審査の方が舞台向きだと思うのです。その課題は、レストランの中で支配人がテーブルを見回ったり椅子を直したりするだけの演技に、自分でなにか付け加えることで感動を生み出す、というもの。ほかの受験者がとまどう中、マヤだけが7通りも演じ分け、その瞬発的な想像力の強靭さを示します。具体的には、一つ目は支配人の目から逃れてテーブルの下で隠れている子供、という状況に物語を付け加える演技を見せ、二つ目では支配人の動きをそのまま真似しているうちに、いつしかマヤの動きが支配人の先をとらえ、影とオリジナルが逆転してしまう、という演技を見せます。つまり課題の演技を自分の贋者に仕立ててしまうのですね。今回の舞台、そうした「演技」の解釈の幅広さを示す旨味が省略され、「マヤはあっさりオーディションを通過しました」という結果に飛びつくのがちょっと退屈です。

 また、「ふたりの王女」の稽古が始まり、マヤと亜弓は月影先生から数々の厳しい指導を受けるのですが、今回の舞台では「冷凍庫に閉じ込められる」エピソードを採用しています。「あなたたちの演技には気温が感じられない!」ということで二人を冷凍庫に押し込め、凍死寸前まで追い込む月影先生。「まーさか、そんなことやりゃすめぇ」な、いかにも「ガラかめ」的ムチャクチャ特訓で笑えますが、実際演じられるとこれもただの段取りに見えてしまいました。こっちよりも、皇太后を演じる月影先生を相手に、マヤと亜弓がそれぞれ役を演じながらアドリブで会話する即興演技合戦のほうが、今回の物語には合っていたのではないでしょうか。一路真輝月影先生が、若すぎかと思いきやなかなか華やかで迫力あっただけに、もったいないと思います。

 クライマックスとなる「ふたりの王女」ですが、じつを言うと、原作もマヤと亜弓の直接対決が描かれるこのあたりが盛り上がりのピークで、あとはだんだんマヤと真澄に関するメロドラマと、「紅天女」にまつわる観念的な物語が中心となり、往年の圧倒的な面白さはじょじょに後退してゆきます。美内すずえは『ガラスの仮面』に取りかかるまで特に演劇にくわしかったわけではないそうですが、連載を進めながら着実に勉強し、海外の公演もチェックするようになり、ついには坂東玉三郎演出のための長大な戯曲も執筆できるほどになりました。その作者自身の内面の成長が直接北島マヤというキャラクターにぶつけられているのが、『ガラスの仮面』中盤までの熱量につながったのではないかと思います。「忘れられた荒野」以後の展開は、作者の興味・関心がまた別の方向性に移ったことがうかがえます。

 21世紀に入ってふたたび『ガラスの仮面』が注目されるのは、あの作品が持つ古典的なロマンティシズムが今また求められているのかもしれません。しかし、単なる復古主義を意図してのメディアミックス展開ではつまらないしその先も知れたもの。物語性を越えた魅力を、今回の公演では見出してほしかったな、と思いました。それにしても、後から手を出す世代を容易に寄せ付けないあたりは、恐ろしい原作ですね。

 そういえば、マルコ・ヴェロッキオ作品などで知られるイタリアの名女優マヤ・サンサは、子供のころにテレビで観た『ガラスの仮面』のアニメ(エイケン版・このアニメも「奇跡の人」までが描かれていた)に影響を受けて女優を志した
そうです。主人公の名前が自分と同じだったからということですが、彼女にも印象に残っているエピソードなど聞いてみたいものです。



Maya Sansa(1975〜)