星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

「落語」を通して世界を見よう〜頭木弘樹『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』



 前回の更新から早くも2ヶ月半が経過してしまった。

 休業期間が明けてからというもの、仕事のスケジュールがすさまじい立て込みようで、映画を見たり記事を書いたりする余裕がまったく持てなくなったのですよ。休業期間中に貯めこんだ「ヒマ」が利子付きでかっさらわれてしまったような忙しさ。とはいえ、若いころのように2週間会社に泊まり込んで夜討ち朝駆け、といった泥臭い働きぶりにはならずにすんだのだから、「働き方改革」は地道に浸透しつつあるのかもしれぬ。

 そんな日々を送りながら、スキマ時間にできる息抜きといえば読書しかない。
 しかし長い小説や読みづらい評論に手を出す余裕はなく、何か軽いエッセイ的なものを……と、手を出したのが頭木弘樹『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫。全4章34節に分かれた落語入門書なので、連日ちびちびと読み進めるにはちょうどいい、と思って読み始めのが運の尽き。
 
 面白すぎるのだ。

 自宅に帰るや読みふけり、仕事そっちのけでたちまち読み終えてしまいました。
 著者は『絶望名人カフカの人生論』で知られるカフカ研究者であり、『絶望図書館』などのアンソロジーも編む文学紹介者。頭木氏の著作はすべて「初心者向け」に書かれているのが特徴で、この『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』も落語の魅力がわからない人、あるいは落語未経験者が素朴に浮かべる疑問、例えば、

「面白くない落ちがあるのはなぜ?」
「話の途中なのに終わるのはなぜ?」
「『毎度ばかばかしいお笑いを一席』と言うのはなぜ?」
「どうしていつも熊さん八つぁんが出てくるの?」
「なぜ落語は一人で演じるの?」

 などなど合計34問を設定し、これに次々と回答を与えてゆく形で進行する。

 思えば、私が漫才やコントなどの演芸番組をマメにチェックしたり、落語のレコードやカセットテープを聴くようになったのは高校生のころ。古今亭志ん生桂文楽三遊亭金馬といった往年の名人に熱中していた当時、ふと思った疑問に「落語には『古典落語』があるのに、漫才やコントに『古典』がないのはなんで?」というものがある。エンタツアチャコの「早慶戦」や、コント55号の「机」のような傑作は、文化遺産としてほかのコンビによって演じられ、受け継がれてもよいのではないか?
 当時の私は「著作権ってものがあるからなぁ」とつまんない答えをひねり出してそれ以上考えることをしなかったが、この本は違う。ちゃんと「漫才やコントと落語はどこが違うの?」という質問が用意されており、さらに古典落語なのに新しさも感じられるのはなぜ?」「語り継ぐとなぜ面白くなるの?」、「落語と一人芝居はどこが違うの?」という質問へと読み進んで落語の特性を理解すれば、若き日の私の疑問にもほぼ答えが与えられるのだ。

 この本がユニークなのは、「現代人に落語を面白がれない人が多いのはあたりまえ」という観点から始まることで、通人の観賞眼自慢とは真逆の視点から、落語という文化の魅力を以下のように掘り下げてゆく。

・落語は口承文学の生き残りであり、落語家は「むかし話」の語り部のようなもの
・落語はそもそも物語としては不完全なものである
・落語の「落ち」は面白さよりも物語を終わらせる機能が重要である
・落語は昔から変わらぬ人間のダメさを語りの芸で描いている
・「耳の物語」である落語には「目の物語」である小説や演劇とは違った魅力が備わっている

 まだまだ続くのだが、これらの説を補強するため、夏目漱石谷崎潤一郎志賀直哉カフカ、ガルシア=マルケスイタロ・カルヴィーノ、J.M.クッツェーといった文学をはじめ、手塚治虫の漫画、M・ナイト・シャマランの映画など、さまざまな作品が召喚され、その「落語的」な部分が解説されてゆく。この本は初心者向け落語案内に見えて、じつは「物語の魅力」や「語り口の芸」についてきちんと考察した文芸批評でもあったのだ。
 特に第四章「落語は世界遺産」で、古典落語の中には、元ネタが『千夜一夜物語』や『イソップ物語』、アフリカ・コモロ諸島の民話にまで遡れるものがあることを指摘しつつ、その国際的普遍性を秘めたお話が日本文化の中で独自に発展し、「江戸落語」と「上方落語」と二つの方向性に分かれたこともきっちり解説してくれる手つきのあざやかさはゾクゾクさせられる。落語の「くすぐり」を松竹梅の三段階にランク付けして解説してくれる演芸本なんて初めて読んだ。

 本書じたいがまるで長い芸談を聞かせてもらうような感覚で読める大傑作。
 読み終えて興奮おさまらず、古いCDや録画をひっぱり出してかつて愛聴した名人たちの落語を改めて聴いてみた。いささか額縁に入った感のあった古典落語の世界が、今ではなまなましく立体的になって迫ってくる。落語ファンや演芸愛好家だけでなく、世界の文学や映画・演劇に興味がある者が読んでもたくさんの発見を得られるだろう。

古今亭志ん生(五代目)の貴重な録画「風呂敷」。「千夜一夜物語」に同じ話があるとは知らなんだ。