星虹堂通信

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曖昧で猥褻な日本と私〜『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

 いやはや……。
 じつは先週末から「休業」を仰せつかり、自宅で過ごしています。
「在宅勤務」とか「自宅待機」とかじゃないですよ。かなり早めのゴールデンウィーク休み、しかも「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に罹らないようくれぐれも注意」という要請付きの休暇期間に突入です。ま、感染したらオフィスや仕事先への影響が甚大ですからね。

 1月に話題になり始めた頃には、アジアのローカルな問題として終わるかに見えた新型コロナウイルス、横浜に停泊したクルーズ船での集団感染を経てたちまち欧米にも拡大し、収束の気配はいまだに見えません。その対応によって、各国政府の対策システムの違いと練度を否応なく見せつけられるわけですが、東京オリンピックを控えていたがために、なるべく金と労力をかけることなくやり過ごそうとした我がニッポンは、今に至るも予算と手間を出し渋り、曖昧な「自粛要請」を続けるばかり。薬局のマスク不足すら解消できないありさまです。7日には安倍首相が「緊急事態宣言」を出すという話ですが、はたしてどうなるか。

 当方も今月から始まる新しいレギュラー番組に参加していたものの、製作はいったんストップすることに。私が演出を担当する回の撮影も延期となってしまいました。9年前の地震原発事故以上に、生活を蝕む気配が強いこの病気、蟄居状態でテレビやネットの情報を追っていると、迷走しまくりの政府に呆れたり、著名人の感染報告にため息をついたりで精神衛生上すこぶる悪い。
 もっとも、そのおかげでこうしてひさびさに記事を書く時間を作ることができたわけで、休業期間に入る前に観た映画の感想でも記しておくとしましょう。豊島圭介監督のドキュメンタリー三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』であります。

公式サイト https://gaga.ne.jp/mishimatodai/

 1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会は、後に『美と共同体と東大闘争』という本に採録されていて、今では角川文庫で入手できます。討論の内容だけ知りたい人は、そっちを読んだほうが手っ取り早いでしょうね。
 しかしこの討論会、本で「意味」を追う場合と、記録された「パフォーマンス」として鑑賞する場合とでは、相当に印象が異なることは間違いありません。私は「本では眠くなったけど、映像で観ると面白い」派。実際、三島の狙いも全共闘との対話以上に「行動する作家」としての自己アピールに置かれていたはず。しかしそんな魅力的なパフォーマンスを収録したドキュメンタリーが、映画として面白く仕上がったかというと、そうとも言えないのが難しいところです。

 メインとなる記録映像は、TBSに「封印」されていたという触れ込みですが、じつは以前にもこのフィルムを素材に、登壇した全共闘メンバーが往時を回想する構成のテレビ番組が製作されたことがあります。あれは90年代だったかな。確か学生側の北村修、芥正彦、小阪修平(当時は存命)らが改めてインタヴューを受けていましたね。
 今では消されてしまったみたいだけど、その番組から記録映像の部分を抜粋した動画がニコニコ動画にも長いことアップされていて、その動画に寄せられたコメントといえば、ほとんどが全共闘学生を罵倒するものでした。そりゃ、あの映像だけいきなり見せられれば、やさしい言葉でユーモアをまじえながら孤軍奮闘する三島の頭の良さが際立つばかり、硬直したポーズで観念的な議論をふっかけてくる学生たちが青臭く見えるのは当然です。現代日本の停滞は団塊の世代に原因あり、との世代論を信奉する者ほど学生たちが腹立たしく映るようですね。私なんかは正直、「昔の学生というのは、ずいぶん難しい言葉で議論ができたんだなぁ」とすっかり感心してしまったものですが。
 まぁ、我々はその後の全共闘運動の末路を知っているし、女性の姿がほとんど見えない会場にも世代の差を感じてしまうから、学生の主張が時代遅れの流行歌めいたものに聞こえるのはいたしかたないでしょう。一方、自刃した三島に対しては、残された肉声から何か手がかりを得ようと愛読者が真剣に耳を傾けてくれるわけです。そんな構図の自画像を残せた時点で、このイベントはパフォーマー三島由紀夫の大勝利だったと言えるのではないでしょうか。


討論を採録した『美と共同体と東大闘争』(角川文庫)

 今回新たに作られた『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』というドキュメンタリーは、「せっかく記録映像があるんだから、両者の意見をじっくり聞き直してみましょうや、そうバカにしたもんでもなさそうですぜ」、という意図のもとに製作されたらしく、交わされる討論の内容を、ナレーションと証言者を交えながら愚直に解説してくれます。討論に登壇した北村修や芥正彦、聴衆の一人だった橋爪大三郎やTBS記者たち、さらに楯の会メンバーたちの回想。三島と親交あった瀬戸内寂聴や三島ファン代表で平野啓一郎、なぜか内田樹小熊英二まで動員され、壇上で飛び交った懐かしさの漂う言葉の現代的意味をわかりやすく解釈してくれる構成で、親切といえば親切だけど、結局のところ印象として浮かび上がるのが「文豪・三島はスゴい!」だったり、「あの頃はみんな熱かった!」という政治の季節への郷愁感だったりというのが、二十数年前のテレビ番組の時と変わらぬ図式でちょっぴり辟易です。こういうのも「記憶の美化」なんじゃないかと思ってしまう。
 むしろ、小林正樹の『東京裁判』のように、討論の記録映像を中心に、その前後の世相や三島関連の映像資料を収集し、69年当時、死の1年半前の三島の「仮面」の裏には、どんな表情が隠されていたか、現代人の回想やら解釈やらに頼ることなく、当時の資料を駆使して作家の晩年をつきつめてゆく構成にした方が、50年という時間を超える生々しさを掴み得た気がするんですが、そこは予算および覚悟の問題かもしれません。

 例外的にちょっと面白かったのが、全共闘Cこと芥正彦のインタヴュー。あの討論会でただ一人、三島の狙いを見抜いてパフォーマンスで対抗しようとしたのがアングラ演劇の雄だった彼で、赤ん坊を抱えて登場し、不逞な態度で三島を挑発しようとする敵役ぶりはなかなかのもの。芥と三島による「解放区」の本質をめぐる議論は、この日の討論でもっとも聞き応えのある部分です。70歳を超えた芥が、三島の最期について問われ「嬉しかったね。彼にとっては大願成就でしょう」と答えるのは、いかにも演劇人らしい感想で、彼もまた三島同様、半透明の薄膜で現実世界から遮断されたまま生き続けている者なのだな、と納得させられてしまう。
 また、芥は三島とあなたとの共通の敵はなんだったかと問われ、「曖昧で猥褻な日本国」と答えるのですね。三島は戦後日本における「曖昧で猥褻」の象徴を日本国憲法と仮定し、改憲のための抗議の死という形で自刃、彼の考える「英雄の死」を演じて見せたわけですが、さて現代も脈々と継続中の「曖昧で猥褻な日本国」、新型コロナ騒動で改めて浮き彫りになりつつある、しかも相当に腐敗の進んだ相手に、われわれはどう対峙するべきか。

 討論の席上「私は安心している人間が嫌い」と言い放ち、モーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』を引用しながら、「君たちも権力者の眼の中に不安を見たいのだろう。私も見たい」と学生たちを煽った三島。世の中が改めて「不安」に覆われることで、このドキュメンタリーはやや今日的な要素を持ち得たのかもしれません。