星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

何も起こりはしなかった?〜ハロルド・ピンターの『管理人』と『誰もいない国』



公式サイト https://setagaya-pt.jp/performances/201711kanrinin.html


 クリスマスも仕事納めも過ぎ去り、ようやくブログ記事を書く時間が取れました。書きたいことはいろいろありますが、今月、シアタートラムで上演していたハロルド・ピンター(1930〜2008)の『管理人(The Caretaker)』を観てきたので、その話を。

『管理人』は1960年初演の、ピンター初期の代表作。戯曲は新潮社の全集で読んでいますが、上演されるのを観るのは初めてです。演出は演劇集団円に所属し、モナカ興行を主宰する森新太郎。

 舞台となるのは、ガラクタだらけのアパートの一室。ガラクタ集めが趣味の青年アストン(忍成修吾)が、路頭に迷っていたみすぼらしい老人デイヴィス(温水洋一)を連れ帰るところから始まります。デイヴィスには身寄りがなく、喜んでアストンとの共同生活を始めますが、実はアパートの家主はアストンの弟で革ジャンを着た青年ミック(溝端順平)であり、アストンは以前、精神病院に入っていた過去を持つことがわかってきます。デイヴィスはアストンからも、心を病んだ兄を自立させたいと悩むミックからも、この建物の管理人になることを勧められ、喜びます。しかし二週間後、増長したデイヴィスは無作法な本性が露呈し、繊細なアストンを邪険に扱うようになってゆきます。デイヴィスはミックに「アストンは元いた所に戻ればいい」と言い放ちますが、兄を侮辱されたミックは怒り、デイヴィスに退去を命じます。うろたえたデイヴィスは、入ってきたアストンに自分をこの部屋に置いてくれるよう懇願しますが、アストンはもう答えません。

「不条理劇」と紹介されることが多いハロルド・ピンター劇ですが、『管理人』はこのようにシンプルな物語で、超現実的なことや不可思議な事象はいっさい起こりません。それなのに、この物語が意味するものは何か、その「解釈」をめぐって、じつにさまざまな議論が交わされてきました。
「神からの楽園追放だ」とか「さまよえるユダヤ人の象徴劇」とか「管理をめぐるカフカ的悪夢である」とか、大きな問題に拡大して捉えることも可能でしょう。確かに、改めて上演されたものを観ると、ここに描かれた三人組のコミュニケーションの断絶構造は、在日外国人、生活保護、シングルマザー、そして沖縄など、さまざまな「弱者」が抱える問題が決して一つにまとまることなく、お互いの問題について沈黙したまま、分断が深まってゆく現代日本そのもののように映りました。

 内容的には、戯曲を読む以上にすんなり受け止められた『管理人』ですが、では舞台としての出来栄えはどうだったか?

 じつは10月に六本木TOHOシネマズで、ナショナルシアター・ライブが上演したハロルド・ピンターの『誰もいない国(No Man’s Land)』(演出ショーン・マサイアス)の中継録画を観てしまったのですね。主演はパトリック・スチュワートイアン・マッケラン。つまりX-MEN』のプロフェッサーXとマグニートーのコンビ。これがじつに素晴らしく、“サー”の称号を持つ二人の名優によって演じられた今作は、過去に日本で観た数々のピンター劇の上演とくらべても、まず最上と言っていい満足感を与えられました。

 しかも1976年初演の『誰もいない国』は、内容的にも『管理人』と似通っており、ある「場所」における「闖入者」の物語なのです。この舞台の記憶が新鮮だったため、今回の『管理人』は割を食ったかもしれません。


ナショナルシアター・ライブ『誰もいない国』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=nIuYNZXAzBY

『誰もいない国』の舞台はある屋敷の一室。ここに、屋敷の主人である文学者ハースト(パトリック・スチュワート)が、外で知り合ったみすぼらしい男スプーナー(イアン・マッケラン)と共に帰宅するところから始まります。酒を飲みながら、抑鬱的なハーストに対し自己顕示的なスプーナーがなれなれしく語りかけます。やがて、この家には秘書の青年フォスターと執事の大男ブリッグスも住んでいることが判明、アル中のハーストの面倒を見ている二人は闖入者であるスプーナーを警戒します。しかしスプーナーは二人に何を言われても決して家を出てゆこうとせず、翌朝になってから、ハーストに自分をこの家に雇い入れてくれるよう、必死に売り込みます。が、その願いは虚しくかき消されてゆきます。

 これまたいったいどう解釈していいのか困惑させられる物語です。『管理人』同様、登場人物の背景に対する「説明」がほとんどないため、正直なところ、何が起こっているのかさえよくわからない
 しかし、ナショナル・シアター版『誰もいない国』では、主演の二人は匂い立つような生活感をまといながら、その奥からにじみ出る孤独、老い、怯え、傲慢、狡猾さといった感情を万華鏡のように披露します。リビングでの曖昧な会話の積み重ねが、まるで進行中の事件現場のような緊張感で貫かれ、一瞬たりとも観客を飽きさせません。
 特に難しいのは第二幕、昨夜会ったばかりのハーストとスプーナーが、翌朝になるや突然オックスフォード大学時代の友人として会話を始める場面です。しかもそこでハーストはスプーナーを「チャールズ」と呼び、自分は君の妻と不倫関係にあったのだ、ととんでもない告白をします。しかしスプーナーもまた、ハーストが彼の友人の妹をレイプしたことを告発し、ハーストが好意を抱いていた女性にフェラチオをさせた、などという話を始めます。これは事実なのか、ハーストが人違いしたまま語り出したのを、スプーナーが即興で話を合わせのたか、二人ともボケていてただデタラメな記憶をぶつけ合っているだけなのか、最後まであきらかになりません
 観る側にとっては困惑するしかない展開ですが、パトリック・スチュワートイアン・マッケランは演技のスタイルを軽やかに移行させ、観客を爆笑の渦に誘っていました。いっさいを決めつけないピンター劇においては「事実」はどうでもよくて、肝となるのは会話と言葉遣いから浮かび上がる「何か」なのですね。
 膨大な会話の中には英国ローカルなネタが多重に積み重ねられており、それは例えばハーストとスプーナーが出会った場所「ハムステッド・ヒース」が日本では新宿二丁目のようなゲイ・ストリートであるとか、二人の会話の様式(スタイル)が展開に合わせて三段階あるとかいったもので、非英語圏の人間が完全に理解するのは不可能です。

 ストーリーではなく、登場人物の関係性の変化から浮かび上がる、不安や脅威の感覚を描くピンター劇。そのカギとなる要素が「会話」なのですが、このような英国ご当地ネタが練り込まれたセリフを、日本人はどう演じればいいのか。いわゆる赤毛物そのままに、「リアリズム演技」で英国人生活者をコスプレすれば、そのまま戯曲の魂がコピーされるのでしょうか。しかし、きわめてシリアスに取り組んだ結果、セリフの渦の中で窒息し、地味で眠たい舞台になった例を何度も見ています。また、日本人にわかりやすくしようと設定説明の演出を付け加えたり、奇抜な衣装・メイクを導入して抽象劇に接近した結果、寓話めいた図式だけが浮き上がった陳腐な舞台になってしまった例も数多くありました。

 安部公房はかつて、ピンターの『ダム・ウェイター』を上演する際、登場する固有名詞をすべて日本のものに置き換えていますが(サッカーチームをプロ野球チームに、地元のクッキーとケーキを煎餅と和菓子に、といった具合)、「翻訳劇」の構えを解除させるのが狙いなら、それもひとつの方法論でしょう。日本でのピンター劇上演を観る楽しみは、このあたりの工夫の凝らし方だったりもします。

 今回の『管理人』における森演出は、いわゆるリアリズム劇とは異なり、舞台美術と俳優の演技を大胆に構成して独自の不条理空間を出現させることに挑戦していました。舞台となるアパートの一室は、入念かつリアルにガラクタの装飾を施す一方、極端な遠近法が強調され、奥に行くほど天井が低くなっており、表現主義映画の一場面のようです。
 温水洋一のデイヴィスは不愉快で差別的な老人を活き活きと演じますが、その奥にある哀れさや怯懦の感情を、彼ならもっと押せたように思います。忍成修吾のアストンは神経質そうな性格がよく似合ってますが、ちょこちょこと小股で歩く動作を強調するのは、やや作り過ぎた感もありました。溝端順平のミックは生活の匂いもワイルドな気配も希薄で、客席に向かって大仰に力演すればするほど空回り気味、ただし温水に助けられて、どうにか役についていけたようです。
 さらに言うと、戯曲に指定された三幕の構成を取っ払い、まめに暗転を挟みながらテンポよく進ませようとしていますが、これは効果を感じられませんでいた。むしろピンター劇に重要な「間」を生かした雰囲気の醸成が損なわれたように見えます。だんだん図々しくなるデイヴィスの心情変化が単調なものに映ったこと、二幕のラストで語られるアストンの長い独白の効果が薄くなってしまったことも気になります。
 二幕最後のアストンの独白は、彼がかつて工場で働いていたころ、幻覚を経験するようになって精神病院に送られ、電気ショック療法を受けさせられた、と告白する内容です。孤独なアストンは精神病院で暴力的な治療を受け、それ以来思考が緩慢になってしまった、ということですが、どこまで本当なのかはわかりません。が、告白を聞いたデイヴィスはアストンを決定的に見下すようになります。

 参考として紹介しますが、下の動画は、1963年に公開された映画版『管理人』(監督クライヴ・ドナー)で、ロバート・ショウのアストンが、ドナルド・プレゼンスのデイヴィスに、二幕最後のモノローグを語る場面。この二人はニューヨーク公演の舞台版でも同じ役を演じていました。ロバート・ショウにはマッチョなイメージがありましたが、ゆっくりした台詞回しで心を病んだアストンを表現する技術は見事です。

映画『管理人』(1963)でロバート・ショウが演じる「アストンの独白」https://www.youtube.com/watch?v=kRi7AVCAKKc

そしてこちらは、2010年にBBCテレビの番組でコリン・ファースが演じて見せた「アストンの独白」です。聴衆を相手に、淡々として訥々、それでいて雄弁という難しい語りの芸を見せてくれます。

BBCの番組でコリン・ファースが演じる「アストンの独白」https://www.youtube.com/watch?v=VsllVbjFvLA

『管理人』のラスト、デイヴィスを拒絶したアストンは部屋の奥の窓辺に立ち、懸案の納屋を建てるつもりである庭に目をやります。ガラクタに囲まれた部屋から外に向かう意志を明確にしたアストンを描く明るい結末なのか、それともデイヴィスともミックとも関係が断絶し、アストンの孤独が今後も続くことを示唆する暗い結末なのか、判断の難しいラストシーンです。遠近法の強調されたセットでは、部屋の奥の窓辺に立つアストンがぐっと大きなシルエットとなり、「共生」を拒否したために居場所を失ったデイヴィスが、舞台の手前で立ちつくす姿がちっぽけな存在に見えるという、巧みなデザインが施されています。

 ピンターが16年後に発表した『誰もいない国』では、舞台セットはなんの変哲もない屋敷のリビングだけ。しかし、ナショナルシアター版に主演した2人の名優は、その平凡な場所が、主人公にとって「立ち入り不能な地(No Man’s Land)」となっていたことを、超絶技巧の演技力でくっきり浮かび上がらせました。
 一方、誇張した演技とセット、照明効果によるアンサンブルを積み重ね、『管理人』のラストシーンの「割り切れなさ」を立体的に引き立てた今回の森演出も、ピンターとの格闘の成果を感じさせるものでした。

 ピンターのノーベル賞受賞記念講演を収録した新書『何も起こりはしなかった〜劇の言葉・政治の言葉』という本があります。この中でピンターはアメリが戦後、中南米、東南アジア、東欧、アフリカ、中近東などさまざまな地域で、虐殺・紛争・人権侵害に関わってきた最大のテロリスト国家でありながら、「何も起こっていませんよ」という顔をし続けていることを激しく非難しています。大衆も、ナチスドイツやソ連共産党が行った蛮行は知っているのに、まさに進行中であるアメリカの暴力行為については、何も知らされないままでいる、知っていても知らないふりをさせられている、と。
 政治・司法・経済の面で数々の重大事態が進行しているのに、スポーツ・芸能で埋め尽くされたメディアの表層「だけ」を見ていると、「何も起こっていない」という錯覚に陥ってしまう現状。これはまさに現代日本に住む我々にとっても身近な感覚ではないでしょうか。
 一見、何も起こってないように見える芝居の中で、しかし決定的な「何か」が起こっている。そんな感覚を唯一無二な技法で描くハロルド・ピンターの戯曲は、不条理という言葉がノスタルジックな響きを持つようになった21世紀においても、やはり生々しさを保ち続けていると思うのです。


ハロルド・ピンター『何も起こりはしなかった-劇の言葉、政治の言葉』 http://urx.red/HNRa