星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

金沢城と七尾城

f:id:goldenpicnics:20211226144318j:plain白亜の城・金沢城

 

 この3ヶ月あまりの間に、仕事で何度も金沢に行っていました。

 その仕事とは金沢城関連のもの。コロナ禍で城めぐりもひさしくできなかった分、存分に城郭探訪を楽しんでまいりました。仕事の方では触れられなかった部分を中心に旅の感想を書き記しておきます。

 

f:id:goldenpicnics:20211226123337j:plain金沢城・石川門(重要文化財

 

 加賀百万石の居城・金沢城には過去に2度訪問しています。

 最初の訪問は、「平成の築城」による五十間長屋と菱櫓の復元が完成した直後の2001年秋。この時は午前中に福井の丸岡城を、午後に金沢城兼六園を回るという強行軍だったため、忙しすぎてぼんやりとしか記憶に残っておりません。やはり城見物は時間をかけないとダメですね。

 2度目は2015年の初頭、石川近代文学館で開催した「島田清次郎展」を見に行ったついでの訪問。しかし、前日から悪化した胃腸風邪のおかげで体調最悪、おまけにみぞれ混じりの雪が降る非常に寒い日だったため、今ひとつ集中できず……。

 なので、今回改めて資料を見ると、金沢城は白亜の城として知られている」とあるので、「え、そんなだっけ?」と思ってしまいました。じつは、金沢城の「白さ」の特徴は鉛瓦が輝く屋根、この鉛瓦って、雨風に触れて時間が経たないと、酸化による鉛白が発生しないのですよ。

 

f:id:goldenpicnics:20211226124208j:plain金沢城の巨大城壁・五十間長屋

 なので、2001年に訪問した時点では、五十間長屋の屋根瓦はまだ鉛色そのもの、2015年の再訪時は悪天候で瓦が濡れていたため、その真価に気づけなかったようなのですね。

 今回3度目の訪問でようやく、「白亜の城」の魅力を堪能することができました。

 

f:id:goldenpicnics:20211226124500j:plain金沢城・菱櫓を鈍角100度の方向から見上げる

 

 こちらは五十間長屋の北端に建つ物見櫓・菱櫓。鈍角100度、鋭角80度の菱形に作られた櫓で、鈍角側のどっしりとした構えは今や石川門に代わって金沢城の「顔」という感じになっていますが、鋭角側をとらえた写真があまり知られていないようなので載せておきます。こっちの風景の方がちょっと面白いかもしれない。

 なんでわざわざ菱形にしたのかは、「侵入する敵を広く見渡すため」と言われますが、じつは石川門の続櫓も軽い菱形状になっており、地形に合わせて建物を作ったらこうなっただけなのかもしれません。

 

f:id:goldenpicnics:20211226124653j:plain金沢城・菱櫓を鋭角80度の方向から見上げる

 

 ところで「復元」と書きましたが、金沢城の再現建築は、いずれも「復元的整備」というやつで、残された図面や写真資料に基づいて、木造で可能な限り再現はしたけれども、内部には耐震整備や防火設備が取り付けてあり、エレベーターやスロープなどバリアフリー環境も完璧に施した、現代建築なのです。

 

f:id:goldenpicnics:20211226150216j:plain復元された金沢城・五十間長屋の内部

 

「『復元』なんだから、中身も建造当時を再現しなきゃ意味ねーだろ!」と嘆く歴史ファンもいるかもしれませんが、昔通りの完全再現なんて今じゃ建築基準法を通過しないのだから絶対無理、特別措置法を得て実現したところで、観光客を大量に入れることはできなくなるでしょう。それに、いつ地震や火事で失われるかわかりません。大予算のプロジェクトでそんなリスク高い復元建築を作るよりは、伝統工法を意識しつつ、防災設備やバリアフリーにも配慮して、利用者に長く愛される建物にした方がいい。今後の城郭復元はこちらの思想が中心になってゆくものと思われます。

 さて、金沢城の再建工事は今も続けられており、昨年は鼠多門が復元されました。出来たてホヤホヤなので、なんだかプラスチック製なのかと疑いたくなるほど全体にピカピカ。

 

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2020年に復元されたばかりの金沢城・鼠多門

 

 海鼠壁の漆喰が黒っぽいので、鼠色をした門ですが、その鉛瓦はやはりまだ灰色が残っているようですね。

 比較して面白いのは、石川門と同じ現存建築の三十間長屋。

 

f:id:goldenpicnics:20211226125334j:plain金沢城・三十間長屋(瓦の色が変化しているのに注目)

 

 幕末に再建された本丸の倉庫で重要文化財ですが、その鉛瓦を見てみると、およそ半分が赤茶色に染まってしまっており「白」の美しさが損なわれています。この原因、公式には不明とされていますが、熱心なボランティアガイドさんの調査によると、昭和40年代の修復工事で瓦を葺き直した際、昔ながらの純度の高い鉛瓦と、混ぜ物が多い鉛瓦が混在したためらしいのだとか。どうも鉄分が混じって赤錆が出てしまったみたいなのですね。

 

f:id:goldenpicnics:20211226125658j:plain金沢城・石川門の石垣(左が粗加工石積み、右が切石積み)

 

 さらに、金沢城の名物といえば、「石垣の博物館」の異名を取る多彩な石垣。今年の『ブラタモリ』でも特集されておりました。

 城門の枡形(敵を侵入させにくくするための構造)が完全に現存する石川門でも、門をくぐった内側では左右で石垣の積み方が違う、という奇妙な光景を見られます。これは火災による修復工事を何度も繰り返したため、技術の異なる石垣が共存しているのだとか。そりゃ石垣を全部組み直していたら、予算も工程もかかりすぎますからね。もっとも「この方が趣があって面白い」と思って残した可能性もあります。

 

f:id:goldenpicnics:20211226130009j:plain金沢城・本丸丑寅櫓下の石垣(1592年ごろ建造と思われる)

 

 本丸の近辺では、築城初期の1590年代に築かれた石垣も残っています。荒く割った無骨な自然石積み(野面積み)の石垣が、猛将・前田利家の時代を彷彿とさせますな。

 

f:id:goldenpicnics:20211226130138j:plain金沢城・三十間長屋の石垣(金場取り残し積石垣)

 

 これが1750年代の宝暦時に改修された三十間長屋の石垣となりますと、ピタッと隙間なく合わせる切石積みの技法を使いながら、真ん中だけ石の凸凹を残して荒々しさを演出しています。「金場取り残し積み」というのですが、石垣も強度より興趣が重視されるようになってさらに技術が発展したことがうかがえます。

 この種の変わり石垣の白眉が、玉泉院丸庭園にある色紙短冊積石垣。色紙型の正方形の石や、短冊型の縦長長方形の石垣を組み合わせ、戸室石の色違いをモザイク風に組み合わせた石垣で、2015年秋に庭園ごと復元されたもの。

 

f:id:goldenpicnics:20211226130610j:plain金沢城・玉泉院丸庭園の色紙短冊積石垣

 

 これを見るのは私も初めて、金沢城独自の芸術的石垣ということで期待したのですが、なんとまぁカビのようなシミがべったり貼り付き、すっかり黒ずんでしまっているではありませんか。復元からわずか数年でこの有様はなんともひどい。ブラシでゴシゴシこすってやりたくなります。

 汚れの原因は排気ガスを含んだ酸性雨のせいだとか。表面を研磨する方法はあるらしいけど、そうすると石の色味が落ちてしまう可能性もあり、手をつけるのが難しいようです。

 

f:id:goldenpicnics:20211226131104j:plain金沢城・玉泉院丸庭園(奥に色紙短冊積石垣)

 

 とはいえ、この玉泉院丸庭園は二の丸のさらに奥にあり、藩主が家族や気心の知れた者たちと過ごす憩いの場だったとか。外交用に使用された大名庭園兼六園の広大さと見比べるのも一興でしょう。

 

 今回の仕事では、前田利家金沢城に入る前に本拠地としていた、能登国の七尾城にも訪問できました。

 駅からバスで資料館前まで行き、そこから山道を上ること約1時間。ハイキングコースの森の中から巨大な石垣が現れるのは圧巻です。

 

f:id:goldenpicnics:20211226134102j:plain能登・七尾城(登山道から桜馬場へ通じる石垣)

 

 まぁ、この石垣は前田利家が入城した際に建造されたのか、それ以前の領主である能登畠山氏が基礎を築いていたのか、いろいろ議論があるようです。特に遊歩道に沿った部分の石垣は多くは後に積み直されているそうで、建造年代がよくわからないみたいなのですね。

 

f:id:goldenpicnics:20211226134932j:plain七尾城・桜馬場の五段石垣

 

 このように犬走りをつけて階段型の積み方にするのは、高石垣を組む技術が当時未発達だったことをうかがわせます。石垣の裏に裏込石がつめられていることもありません。前田利家が入場する以前の支配者、畠山氏は上杉謙信に攻められて滅亡しているのですが、この上杉戦の頃には現在の城郭はほぼ出来上がっていたのではないかという見方もあるようです。

 これが、最も古い時期の建造と思われる二の丸の石垣。堂々の自然石積み(野面積み)ですね。

 

f:id:goldenpicnics:20211226135223j:plain七尾城の二の丸石垣

 

 一方、本丸を支える石垣は、石の形と表面を揃えて組んだ形跡があり、この辺は前田利家の時期に修復したのではないかと推測できます。

 

f:id:goldenpicnics:20211226135337j:plain七尾城本丸の石垣

 

 こちらは、城を落とした上杉謙信が絶賛したという、本丸からの光景。七尾港まで一望できます。

 

f:id:goldenpicnics:20211226135819j:plain七尾城本丸から見た城下町

 

 本丸の下にあたる調度丸(武具などを整えた場所)では、現在も発掘作業が進行中。どうも、この一帯は険しい尾根になっていたのを、本丸を切り開く際に生じた土で埋め立てて平地を築いていたようで、そうした土木工事の跡を発見し、建物の痕跡や廃棄された生活品を見つけ出しているとのこと。

 

f:id:goldenpicnics:20211226140028j:plain七尾城・調度丸で進む発掘現場

 

 こうした調査が進めば、七尾城の新しい顔が浮かび上がってくるかもしれません。逆に、大予算が組まれて城の保存と復元作業が進むと、今見ることのできる、森の中の素朴な城址光景が消し飛んでしまう可能性もあるかも……(ないかな?)。

 

f:id:goldenpicnics:20211226135942j:plain七尾城調度丸の発掘現場で見つかった土器

 

 そして金沢城も、現在は二の丸を発掘調査中。ここに建っていた二の丸御殿の復元計画が進行中とのことで、もし実現すれば、二条城二の丸御殿や名古屋城本丸御殿の約3倍になる、3200坪の巨大建築が復活するわけですが、さすがに石川県の予算にも限りがあり、全体復元は夢のまた夢。とりあえず端っこの玄関付近(全体の1/4部分)の調査に留めている様子。

 しかし、いずれ御殿の一部が再現されたら、改めて訪問してみたいものです。