星虹堂通信

旧ブロマガ「スローリィ・スローステップの怠惰な冒険」の移転先です

女が仮面を外す時〜黒沢清監督『スパイの妻』



 今、某局のレギュラー子供番組で、ドラマパートの演出に参加しているのだけど、ウチの制作スタッフにはドラマ現場未経験の新人女性しかいないため、撮影スケジュールを予定通りに回すのが難しいことが判明。そこで、前回の撮影では他の回で演出を担当している若手監督にチーフ助監督をお願いしたのだが、その監督さん、東京藝大の大学院で映画を学び、教授を務める黒沢清監督から大きな影響を受けたという。

「学生の時に『LOFT』と『叫』を観て、すげぇ、これこそ本物の映画だ、と感動しました」

 と、彼が藝大の門を叩いた動機を聞き、高校生のころに『ドレミファ娘の血は騒ぐ』をレンタルビデオで観て、伊丹十三製作総指揮の『スウィートホーム』の公開初日に駆けつけた世代の黒沢ファンとしては少し感慨深いものがありました。
 さらに、撮影期間中にヴェネチア映画祭黒沢清が銀獅子賞(監督賞)を受賞したというニュースが飛び込んできたので、現場で彼とその話題を口にしていたところ、

「あ、『スパイの妻』ならオレ、現場についてたよ」

 と技術スタッフの一人が声をあげたので驚いた。さっそく現場の様子を訊いてみると、

「1日にワンシーンかツーシーンのゆったりしたスケジュールでね、長いカットが多くてテイクも少ないから、16時には終了でラクな現場だったなぁ

 そこがいちばん印象深かったらしい。
 なるほど、日本の映画・ドラマ界はよほどの大作でない限り、昼の撮影が終わればそのまま夜間撮影に突入というスケジュールがしょっちゅう。ワンカット撮り終えたらキャメラマンは三脚抱えて次のポジションへすっ飛んでゆくのがあたりまえの日常からすると、黒沢組は別世界に映ったようだ。

「いい監督というのは、スタッフ・キャストに対する要求が高いものだ。さんざん大変な目に遭わせてなお、彼らから『もう一度仕事がしたい!』、と思われるのが一流だぞ。『あの監督はすぐ終わるし楽チンだから大好き!』なんて言われる奴は三流以下だ」

 と、かつて師匠から聞かされたものだが、確かに昔の映画を見れば、粘り屋の撮る映像の方が、早撮りの人にくらべて充実度が高く、時の風化に堪えている例は多い。とはいえ、酷使に見合う残業代をつけていた時代ならいざ知らず、薄給でパワハラつきの長時間労働に人が集まるわけがなく、その上できあがった作品が、配信で観られる海外作品にくらべてあまりにもショボいのでは、スタッフのモチベーションが上がるはずもない。
 これからの演出家は、「現場の熱は画面に映らない」という真理を肝に銘じつつ、時間と予算と安全性を見極めた上で、最善の効果をあげるマネージメント能力が求められるのは間違いないだろう。

 で、ベテランの技術スタッフが驚くほど効率的に演出をこなし、なおかつ海外の有名映画祭で受賞するという、誰にとっても理想的な結果を導き出した黒沢清の『スパイの妻』、先日やっと観賞しました。

「今さらヴェネチア監督賞なんて遅い遅い、『CURE』のころに受賞して、『アカルイミライ』のころにはカンヌでパルムドールぐらい獲ってなきゃオカシイでしょ!」

 長年の黒沢ファンとしてはこのように叫びたいところではあるが、正直な話、黒沢映画はストーリーに弱さのあるものが多く、国際映画祭で評価が浸透するのに時間がかかったのはやむを得ない。そういえば、かなり昔のトークショーで、黒沢監督が「実際にあった事件や出来事を題材にした作品に挑戦してみたい」と発言するのを聞いたことがあり、彼の魅力は、その非リアリズム性漂う描写がいつしか独特のファンタジー世界を形成するところにある(その意味で戦後の小津安二郎に近い)、と思っていた私には意外だった。イーストウッドスピルバーグをはじめ実話の映画化が大流行している昨今だが、作品内の「リアル」の基準をどんどんズラしてゆくのが特徴の黒沢演出が「実話」というリアリズムが担保された世界をきちんと描けるのか、少し疑問に思ったのだ。
 監督の発言は、当時企画中だった『一九〇五』(明治時代の横浜が舞台の時代劇だったが中止になった)を念頭に置いた上でのものだったろう。しかし、『スパイの妻』を見ると、改めて黒沢清がどのように「歴史」と触れ合おうとしていたかが垣間見え、そこが私にはひときわ興味深かった。

 濱口竜介と野原位によるオリジナル脚本『スパイの妻』は、かつて関東軍満洲で人体実験をはじめとする非道な研究を行っていた、という事実を前提とする架空の物語で、「禍々しいものが映ったフィルム」、「階段のある部屋」、「窓外が不自然な乗物」、「霧に消えゆく船」、「制服のファシスト集団」などなど、黒沢映画の定番モチーフを散りばめつつ、夫婦間の恋愛サスペンスとして巧みにまとめられている。
 鍵となる「関東軍の蛮行が記録されたフィルム」のディティールには過度に踏み込まず(マクガフィンという奴ですね)、そもそもなぜ一貿易商がそんな場面の撮影を許可されたのかもよくわからない。しかも登場する憲兵の制服は映画オリジナルのデザインとなると、これはいわゆる「歴史再現」とか「実録」とかいうものではなく、描かれるのは「映画の世界」として設計された1940年の神戸だということが見えてくる。多くの戦中サスペンス劇のように、凶悪な軍部と正義の民間人の諜報戦がリアリズムたっぷりに描かれるものと期待した人は、ここで乗り損ねてしまうかもしれない。
 しかし歴史を題材に、おなじみの映像遊戯に淫するのではなく、夫婦それぞれの思慕と、国家と個人のぶつかり合いが重なり合ってゆく古典的メロドラマを描きながら、憲兵東出昌大)、夫(高橋一生)、妻(蒼井優)の3人をめぐって「誰が『怪物』だったのか?」を観る側が探ってゆく特殊な怪奇映画として浮かび上がらせる手つき、このあたりに黒沢演出が新たな勝負に出ている様子が見てとれ、私は大いに興奮させられた。
 出演者では、出だしで無邪気な妻に見えた蒼井優が、夫の身辺に暴力の気配が感じられてくるや敏感に佇まいが変化するあたりと、作品中でもっとも「リアル」に撮られた劇中の自主映画で見せる表情がすばらしい。
 
 インターネットをのぞけば、ほんの数十年前の過去を積極的に忘却・払拭しようとする人々が多数いる現状、そんな「今の日本」を射程にとらえた諷刺劇としても観賞可能な『スパイの妻』は、テレビ用の小品なれど海外でロケを行ったりCGを駆使した近作よりも、いっそう懐の深いスケール感を獲得できていたと思う。
『岸辺の旅』、『散歩する侵略者』に並んで、近年もっとも見応えある黒沢作品。劇場には大人の観客がたくさん集まっていた。

 

「落語」を通して世界を見よう〜頭木弘樹『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』



 前回の更新から早くも2ヶ月半が経過してしまった。

 休業期間が明けてからというもの、仕事のスケジュールがすさまじい立て込みようで、映画を見たり記事を書いたりする余裕がまったく持てなくなったのですよ。休業期間中に貯めこんだ「ヒマ」が利子付きでかっさらわれてしまったような忙しさ。とはいえ、若いころのように2週間会社に泊まり込んで夜討ち朝駆け、といった泥臭い働きぶりにはならずにすんだのだから、「働き方改革」は地道に浸透しつつあるのかもしれぬ。

 そんな日々を送りながら、スキマ時間にできる息抜きといえば読書しかない。
 しかし長い小説や読みづらい評論に手を出す余裕はなく、何か軽いエッセイ的なものを……と、手を出したのが頭木弘樹『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫。全4章34節に分かれた落語入門書なので、連日ちびちびと読み進めるにはちょうどいい、と思って読み始めのが運の尽き。
 
 面白すぎるのだ。

 自宅に帰るや読みふけり、仕事そっちのけでたちまち読み終えてしまいました。
 著者は『絶望名人カフカの人生論』で知られるカフカ研究者であり、『絶望図書館』などのアンソロジーも編む文学紹介者。頭木氏の著作はすべて「初心者向け」に書かれているのが特徴で、この『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』も落語の魅力がわからない人、あるいは落語未経験者が素朴に浮かべる疑問、例えば、

「面白くない落ちがあるのはなぜ?」
「話の途中なのに終わるのはなぜ?」
「『毎度ばかばかしいお笑いを一席』と言うのはなぜ?」
「どうしていつも熊さん八つぁんが出てくるの?」
「なぜ落語は一人で演じるの?」

 などなど合計34問を設定し、これに次々と回答を与えてゆく形で進行する。

 思えば、私が漫才やコントなどの演芸番組をマメにチェックしたり、落語のレコードやカセットテープを聴くようになったのは高校生のころ。古今亭志ん生桂文楽三遊亭金馬といった往年の名人に熱中していた当時、ふと思った疑問に「落語には『古典落語』があるのに、漫才やコントに『古典』がないのはなんで?」というものがある。エンタツアチャコの「早慶戦」や、コント55号の「机」のような傑作は、文化遺産としてほかのコンビによって演じられ、受け継がれてもよいのではないか?
 当時の私は「著作権ってものがあるからなぁ」とつまんない答えをひねり出してそれ以上考えることをしなかったが、この本は違う。ちゃんと「漫才やコントと落語はどこが違うの?」という質問が用意されており、さらに古典落語なのに新しさも感じられるのはなぜ?」「語り継ぐとなぜ面白くなるの?」、「落語と一人芝居はどこが違うの?」という質問へと読み進んで落語の特性を理解すれば、若き日の私の疑問にもほぼ答えが与えられるのだ。

 この本がユニークなのは、「現代人に落語を面白がれない人が多いのはあたりまえ」という観点から始まることで、通人の観賞眼自慢とは真逆の視点から、落語という文化の魅力を以下のように掘り下げてゆく。

・落語は口承文学の生き残りであり、落語家は「むかし話」の語り部のようなもの
・落語はそもそも物語としては不完全なものである
・落語の「落ち」は面白さよりも物語を終わらせる機能が重要である
・落語は昔から変わらぬ人間のダメさを語りの芸で描いている
・「耳の物語」である落語には「目の物語」である小説や演劇とは違った魅力が備わっている

 まだまだ続くのだが、これらの説を補強するため、夏目漱石谷崎潤一郎志賀直哉カフカ、ガルシア=マルケスイタロ・カルヴィーノ、J.M.クッツェーといった文学をはじめ、手塚治虫の漫画、M・ナイト・シャマランの映画など、さまざまな作品が召喚され、その「落語的」な部分が解説されてゆく。この本は初心者向け落語案内に見えて、じつは「物語の魅力」や「語り口の芸」についてきちんと考察した文芸批評でもあったのだ。
 特に第四章「落語は世界遺産」で、古典落語の中には、元ネタが『千夜一夜物語』や『イソップ物語』、アフリカ・コモロ諸島の民話にまで遡れるものがあることを指摘しつつ、その国際的普遍性を秘めたお話が日本文化の中で独自に発展し、「江戸落語」と「上方落語」と二つの方向性に分かれたこともきっちり解説してくれる手つきのあざやかさはゾクゾクさせられる。落語の「くすぐり」を松竹梅の三段階にランク付けして解説してくれる演芸本なんて初めて読んだ。

 本書じたいがまるで長い芸談を聞かせてもらうような感覚で読める大傑作。
 読み終えて興奮おさまらず、古いCDや録画をひっぱり出してかつて愛聴した名人たちの落語を改めて聴いてみた。いささか額縁に入った感のあった古典落語の世界が、今ではなまなましく立体的になって迫ってくる。落語ファンや演芸愛好家だけでなく、世界の文学や映画・演劇に興味がある者が読んでもたくさんの発見を得られるだろう。

古今亭志ん生(五代目)の貴重な録画「風呂敷」。「千夜一夜物語」に同じ話があるとは知らなんだ。

 

“7日間ブックカバーチャレンジ”で紹介した本

 前回のブログから、はやくも2ヶ月あまりが経過しました。
 みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 5月の終わりごろからぼちぼちと仕事を再開し、6月に入って2ヶ月ぶりに電車に乗って出勤、その後半から延期されていた仕事が本格的に再開決定となり、またたくまに目が回る忙しさとなっております。
 まぁ、この間も東京の感染状況変化や都知事選などいろいろあった。言いたいことはたくさんあるが、ともあれいちばんの心配事は梅雨前線の被害と今後、そして全国の新型コロナウイルス感染者数の増加についてですね。なにしろ今月下旬にはいよいよ撮影週間を迎える身、またその直前に「緊急事態宣言」に対応するため延期決定などということになったら、どう処理するかそのシミュレーションも考えねばならず、やるべき対応策が増えるばかり。

 そんな中、再開したブログの第1弾は、休業期間中に流行ったタグを使ってFacebookの方で紹介した記事をまとめたものをお送りします。
“7日間ブックカバーチャレンジ”とか“7days bookcover challenge”とかいう好きな本を紹介するアレ。普段はチェーンメール的な企画には乗ることはない、めんどうくさがりな私ですが、複数の人から誘われたのと、ヒマだったので書きました。
 それとこの数年、仕事で書籍の物撮りなんてまったくやらなくなってしまったので、データを貼り付けて編集でデザインという安易な制作手法に慣れきってしまった自分に喝を入れるべく、カメラを取り出してせっせと撮影しました。しかし、これをやりだすと照明器具が欲しくなって困りますなぁ。
 それでは7日間のブックガイド、始まります。


第1日



中原弓彦『喜劇の王様たち』(校倉書房・1963)
中原弓彦『笑殺の美学』(大光社・1971)
小林信彦『世界の喜劇人』(晶文社・1973)
小林信彦『世界の喜劇人』(新潮文庫・1983)

 これ、内容としては全部同じ本でバージョン違いですね。
 収録内容・構成にそれぞれ微妙な違いがあります。
 装丁は上2冊が小林泰彦、下2冊が平野甲賀
 中2の時に『世界の映画作家vol.26バスター・キートンと喜劇の黄金時代』を読んだのがきっかけで、「スラップスティック喜劇」という世界に興味を持ち、続けてこの『世界の喜劇人』新潮文庫版を読んだことで、その後の嗜好を決定づけられた気がします。
 この本を片手に、お昼のロードショーや深夜の映画枠に放送される、マルクス兄弟ジェリー・ルイスリチャード・レスターの映画をせっせとビデオ録画した日々を思い出します。


第2日



筒井康隆東海道戦争』(早川書房・1965)
筒井康隆ベトナム観光公社』(早川書房・1967)

 装丁はすべて真鍋博
 筒井康隆の最初期の短編集は、このハヤカワSFシリーズで発行された後、収録作品を削って再編集されたものがハヤカワ文庫に入り、その内容のまま中央公論社で改めて単行本化され、後に中公文庫に入るというややこしい過程をたどりました(当時の人気作家というのは何度も本が出せたのですなぁ!)。
 中央公論社版も装丁は真鍋博で、中学生の私はこの版で愛読したものですが、「あとがき」を読むと作者本人が、最初の本が出せて非常に嬉しかったこと、刊行順では第3短編集は『アフリカの爆弾』(文藝春秋)の方が少し早いのだけど、自分としては『アルファルファ作戦』が3冊目と思っていることなど、熱い思いを綴っていたので、筒井ファンとしてはSFシリーズ版も揃えなくてはと思ったのでした。
 ずいぶん時間がかかったけど、揃えられた時は感無量でしたよ。


第3日



横山隆一『百馬鹿』(奇想天外社・1979)

 小学生のころ、田舎の市民センターの図書館分室に本を借りに通っていたのですが、なぜかここには筑摩書房の「現代漫画」シリーズがどさっと置かれてあり、横山隆一馬場のぼる鈴木義司・冨永一朗・園山俊二東海林さだお福地泡介といった大人マンガのナンセンス性に夢中になったものです。「コロコロコミック」のギャグ漫画なんて読めなくなってしまったものね。マセた子供でした。
 折しも、テレビアニメ版の『フクちゃん』が放送されたいたころで、その原作者である横山隆一に『百馬鹿』(1968〜1970)という連載一コマ漫画があることを知って驚いた。単行本化はされず、奇想天外文庫や実業之日本社から選集が出ていたのだけど、こんな豪華愛蔵版が出版されていたのですね。数年前に手に入れました(この本のためにかなりの原稿が改稿されている)。
 50年代〜60年代の半ばまで全盛を誇った大人向けナンセンス漫画が、70年代に入るや急速に衰退した理由はいろいろ考えられます。

・漫画=ストーリー物が一般化した
・子供と大人の読者の差がなくなった
・男性作家ばかりでお色気ネタや家族像などに視点の偏りがあった

 時代は変われど横山隆一の『百馬鹿』と、この本にも収録された『人造首相』や『貧乏神』といったナンセンス短編の数々は、今読んでも鋭く人間の滑稽さをえぐっていると思います。


第4日



ミシェル・シマン『キューブリック』(白夜書房・1989)

 もともとの原書はフランス語で書かれたもので1981年発行。
 2年後に英訳版が出て、1987年に増補版が登場。この増補版の邦訳が、後列に並ぶ黒い本です(左の白いのは箱)。監訳は内山一樹
 本の中身は、前半が雑誌「ポジティフ」の批評家ミシェル・シマンの論文ですが、これはほとんど読んでない。目玉は後半、スタンリー・キューブリック本人への1972年、1976年、1980年、そして1987年(これは手紙で行った)の貴重なインタヴューが収録されているのです。そのほかに、美術監督ケン・アダムや撮影監督ジョン・オルコット、脚本担当マイケル・ハーなど、スタッフへのインタヴューも豊富。大判の美しいスチール写真も珍しいものが多く、食い入るように見たものです。
 キューブリックの死後、2001年に『アイズ・ワイド・シャット』まで収録したさらなる増補版が登場、アメリカ取材の際に書店で見つけて買ってきました。それが前列の本です。スタッフやキャストのインタヴュー記事が増えてますね。
表紙のディレクターズ・チェアはマシュー・モディーンが撮影したものだとか。
なんでも、この取材時にシマンが録音したインタヴューテープを素材としたドキュメンタリー『Kubrick by Kubrick』が制作され、日本ではNHK-BS17月13日の深夜キューブリックが語るキューブリック』というタイトルで放送とのことこれも楽しみです。



第5日



アルベール・カミュ『反抗的人間』(新潮社・1958)

 コロナ禍の中で『ペスト』がベストセラーになるなど、改めて注目されているカミュ
『反抗的人間』というとなんだか難しそうだけど、原題は「むかつきを覚える人」って感じの意味だそうです。
「不条理」をめぐる哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』(原書・1942)は文庫化され、今も読み継がれているというのに、「革命」を論じたその続編的存在『反抗的人間』(原書・1951)は文庫化されず、日本では存在が忘れられています。しかし、この本に対してサルトルが行った批判に始まる「カミュサルトル論争」をまとめた『革命か反抗か』は文庫化され、現在も書店で流通中、という奇妙な状況になっているのですね。
 これは、60〜70年代における、サルトル信奉の時代の負の遺産が今も引き継がれている表れなのではないかと考えます。あの論争で、カミュサルトルにノックアウトされた、ということになっているので……。
 しかし21世紀の今、読むに値するのは「暴力革命」を否定したカミュの方なのは、多くの人々が認めるところ。私も若いころに背伸びして読んだ思想書の中で、最も内容に切実さを感じたのがコレでした。
『ペスト』が売れてる今こそ、新訳・復刊が望まれる一冊ですね。


第6日



斎藤守弘『ショック! 写真構成 人体の怪奇大百科』(学習研究社・1974)

 これは父の死後に書庫から発掘した本で、「水曜スペシャル」とか「UFO特集」とか「ユリ・ゲラー」とかのテレビ番組を絶対に見逃さないオカルト少年だった私は、むさぼり読んだものです。
「写真構成」を謳うだけあって、「毛だらけの多毛少女」とか「早老症で見た目90歳の少年」とか「顔が2つある双顔児」とか「頭が2つある双頭児」とか「頭の上に巨大な瘤ができた髄膜瘤の幼児」とかの写真が大量に掲載されています。もちろん目線・モザイクいっさいナシ。
「実際の病気に苦しむ人を“怪奇”などと紹介するのは許されるのだろうか?」という疑問を抱かないこともなかったですが、やはりこの見世物小屋感覚は刊行当時も問題とされたようで、抗議を受けて回収されることになった曰く付きの一冊だとか。

 さてこの本では、いくつかの症例が「実録劇画」の形で紹介されています。その中に「骨のない人間がいた!」と「人体から吹き出す五色の綿!」というエピソードがあり、劇画担当は『エコエコアザラク』の古賀新一





 後に、安部公房の『密会』(1977)を読んだ時、「溶骨症の少女」や、その母親の「綿吹き病の女」という奇病キャラクターが登場するので、すぐにこの本を思い出しました。おそらく、安部公房もここからネタを拾ってきたのだろう、というのが私の読み。
 後期の安部がテーマの投影体となるべきモチーフを探り当てるのに苦労していたことがうかがえます。
 


第7日



『MIND OVER MATTER:The Images of Pink Floyd』(1997)

 ロック音楽のアルバム・ジャケットを、「作品の一部」を構成する芸術へと価値を高めたデザイナー集団「ヒプノシス」と、そのリーダーであるストーム・ソーガソンの作品から、ピンク・フロイドのアートワークを集めた作品集です。邦訳は出ておらず、パルコ・スペースPART3でやった「ストーム・ソーガソン展」で買った記憶があります。
 表紙の「顔」はピンク・フロイド1994年のアルバム『対』(Division Bell)の一枚。

 原題の意味は「(困難を)精神力で乗り越える」みたいな意味だとか。ソーガソン、意外に精神主義なのね。
 箱に筆で書かれた文字「愚公移山」は中国故事で「根気よく努力を続ければ大願は成就する」という意味なので、これが原題の東洋版ということなのでしょう。というかよくそんな故事を知ってるなぁ。
 ルネ・マグリットシュルレアリスムや、マックス・エルンストのコラージュの感覚よりも、ヒプノシス作品の方が出会いが早かった私。これと「モンティ・パイソン」におけるテリー・ギリアムの切り抜きアニメに、反世界を好む「基礎」を作られたように思います。



告白的錯乱論〜吉田喜重『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』

 

吉田喜重『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(文藝春秋
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163910994


 早いもので、休業期間に入って4週間が経過した。4月8日に緊急事態宣言が出て以来、突如中断された仕事は一人で勝手に進めることもできないし、空いた時間ができれるたびにのぞいていた映画館や古書店はもちろん、なじみの飲食店や銭湯までほぼ閉店という状況ではどうにも身動きが取れない。
 まぁ、私はワーカホリックとはまったく逆、時間を無為に過ごすことに関しては達人級な男なので、降って沸いた「休暇期間」もぜいたくに蕩尽している。ここを鍛錬の時期ととらえ、ネット配信の動画コンテンツの最新状況をチェックするとか、語学の勉強をするとか、志高き理想に邁進すれば大物になれるのだろうが、現実はチマチマした家事をこなすのと、長年「積読」となっている本やDVD、録画コンテンツを消化するのでせいいっぱい。

 が、先日は珍しく新刊小説を読み終えた。映画監督・吉田喜重、初めての小説作品となる『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』がそれである。
嵐が丘』(1988)の公開後、次の作品『鏡の女たち』(2002)まで14年も待たされたものだから、「次回作もまた14年待ちなのかねぇ」などと吉田ファンはみな不安を口にしたものだが、そのまさかをゆうに超え、18年も待たされて登場した「新作」は映画ではなく小説であった。それも主人公はナチス副総統ルドルフ・ヘス! 
 ルドルフ・ヘスといえば、アドルフ・ヒトラーの活動初期から個人的な信頼を得ていた秘書であり、『我が闘争』の口述筆記を担当した男でもある。ナチス副総統の地位まで上りつめながら、1941年に自ら戦闘機を操縦してイギリスに飛行、勝手な和平交渉を進めようとして逮捕されたという奇行の人としても知られ、当時は「精神錯乱」と伝えられた。
『エロス+虐殺』(1969)では大杉栄、『戒厳令』(1973)では北一輝という近代史の怪人を主人公に描いた吉田喜重が、ルドルフ・ヘスを主人公に据えたというのだから、どうしたって期待が高まる。いったいなぜ今、ヘスなのか?

ルドルフ・ヘス(1894〜1987)

 

 小説『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』は、4つのパートによって構成されている。いちばん最初の「何故わたしはルドルフ・ヘスに興味を持つようになったのか」は、著者の少年期の回想を私小説的に描く部分で、出征した従兄が残した古新聞の中から、1941年にナチス副総統のヘスがイギリスへの単独飛行を果たしたと報じる記事を見つける場面、そして空襲や敗戦の体験を経て、ニュルンベルク裁判を伝えるニュース映画で被告席に座るヘスと再会するまでを、繊細かつ映像的な文章で綴っている。
 次の「『わたし』という主語を欠落させたルドルフ・ヘス自身の手記」では、逮捕された晩年のヘスが、ベルリンの刑務所で行った回想を何者かが書き留めた手記、という体裁になっている。章題通り「主語」のない文章が語るのは、ヘス自身の視点による少年時代の回想から恩師カール・ハウスホーファーとの出会い、「H」という記号で表記されるカリスマ政治家への心酔、やがて始まる第二次世界大戦、その敗北を予期してイギリスへの単独飛行、と至る過程。囚人の手記らしからぬ正確さと、老人の回顧録らしい淡々とした描写で描かれる。
 続いて「アルブレヒトハウスホーファーによる宛名のない奇妙な、それでいて真摯な手記、あるいは遺書」という、カール・ハウスホーファーの息子アルブレヒトが、1945年にゲシュタポの捜索から潜伏中に書いた手記という「新発見資料」が続き、ここではアルブレヒトの視点から、ナチスにおけるヘスの行動が見返されてゆく。この二つの手記については、ひんぱんに「筆者による注」が挿入され、偽書の可能性に関する検討や、さまざまな情報の捕捉をしてくれるのだ。
 そして最終部にはルドルフ・ヘスによる最後の告白、あるいは遺言」という明白な「フィクション」が配置されるのだが……。


カール・ハウスホーファー(1869〜1946)とルドルフ・ヘス

 

 ナチス・ドイツをテーマに、フィクションなのかノンフィクションなのか曖昧な手法でまとめた小説としては、2010年にローラン・ビネの『HHhH プラハ、1942年』という傑作があった。1942年にチェコで起きた、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を題材に、「歴史的事実」とそれを調査する作者自身の視点が入り乱れながら展開、「歴史小説」を書くとはどういうことかについて、徹底的に意識的であろうとした一種のメタフィクションでもあった。
 しかし『HHhH』はその構造が、歴史的事実の魅力をいっそう増幅させ、読者にスリリングな読書体験を提供していた、という点ではきわめてマトモな小説だったと言える。ところが『贖罪』は最後まで読んでも、ルドルフ・ヘスの印象が刷新されたり奇天烈な仮説が展開することもなく、作者がこれを「書く」意図は明瞭にならない。ヘスによる自己弁明のような、あるいは「分断」が進む21世紀への批評のような手記(という設定の原稿)をながながと読まされた挙句、読者はきわめて居心地の悪い読後感に包まれる。作中、アルブレヒトヒトラーを映画『カリガリ博士』(1919)に例える場面がある。催眠術師カリガリ博士ナチス出現の予見とする解釈は、ジークフリート・クラカウワーの『カリガリからヒトラーへ』以降、かなり有名になったもので、著者もこれを引用して解説するのだが、著者=吉田喜重もまた、少年時代に薄暗い納戸の中で、新聞記事に書かれた「ルドルフ・ヘス」という名を目にした瞬間から、なにか催眠術にかけられてしまった男なのかもしれない。そして、眠り男チェザーレのように、70年余りの時を超えて妄執を維持させた結果、87歳になろうとする著者の「わたし」という人称が、93歳になったルドルフ・ヘスそのものへとスライドしてゆく「夢遊病者の夢」を、過剰に理知的な形で描いてゆく構造そのものに、往年の吉田演出の影を受け止めることができる。

 吉田喜重が書く文章の特徴について、

「言葉とともにある主体が、『著者』という身分の占めるべき空間上の一点をにわかに信じていそうにないことだけは、誰にも敏感に察知できるに違いあるまい」

 と指摘し、その映画作品においても、

「作品のすみずみまで支配権を行使するのが『作者』の特権であるなら、できればその特権的な『作者』の位置から思い切り遠くありたいというのが、吉田喜重の基本的な姿勢」

 と喝破したのは蓮實重彦だが、『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』での吉田喜重は、冷静な夢遊病者として抱えてきた妄執を、あるいはヘスの「精神錯乱」の根底にある深淵を、著者の特権的な立ち位置からできるだけ距離を取りながら、覗いてみたくなったのかもしれない。
『HHhH』を原作とする映画ナチス第三の男』(2017)は、ユニークな語りの構造を取っ払った凡庸な歴史劇になっていたが、吉田喜重が自ら『贖罪』を映画化したなら、どんな演出でこの構造を活かしながらナチスの内部で苦悩する男を映像化するのだろう。読了後はそんな想像の愉しみも待っている。

 緊急事態宣言下で「巣ごもり」を要請される今、47歳から93歳までを囚人として過ごしたルドルフ・ヘスの後半生は、著者の意図とは別に奇妙な実感を伴いながら迫ってくる。今、われわれがいる世界もまた、カリガリ博士の精神病院の中なのかもしれない。そんな疑いを抱きながら、今一度攻めの姿勢で読み返してみたい。

 

 

曖昧で猥褻な日本と私〜『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

 いやはや……。
 じつは先週末から「休業」を仰せつかり、自宅で過ごしています。
「在宅勤務」とか「自宅待機」とかじゃないですよ。かなり早めのゴールデンウィーク休み、しかも「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に罹らないようくれぐれも注意」という要請付きの休暇期間に突入です。ま、感染したらオフィスや仕事先への影響が甚大ですからね。

 1月に話題になり始めた頃には、アジアのローカルな問題として終わるかに見えた新型コロナウイルス、横浜に停泊したクルーズ船での集団感染を経てたちまち欧米にも拡大し、収束の気配はいまだに見えません。その対応によって、各国政府の対策システムの違いと練度を否応なく見せつけられるわけですが、東京オリンピックを控えていたがために、なるべく金と労力をかけることなくやり過ごそうとした我がニッポンは、今に至るも予算と手間を出し渋り、曖昧な「自粛要請」を続けるばかり。薬局のマスク不足すら解消できないありさまです。7日には安倍首相が「緊急事態宣言」を出すという話ですが、はたしてどうなるか。

 当方も今月から始まる新しいレギュラー番組に参加していたものの、製作はいったんストップすることに。私が演出を担当する回の撮影も延期となってしまいました。9年前の地震原発事故以上に、生活を蝕む気配が強いこの病気、蟄居状態でテレビやネットの情報を追っていると、迷走しまくりの政府に呆れたり、著名人の感染報告にため息をついたりで精神衛生上すこぶる悪い。
 もっとも、そのおかげでこうしてひさびさに記事を書く時間を作ることができたわけで、休業期間に入る前に観た映画の感想でも記しておくとしましょう。豊島圭介監督のドキュメンタリー三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』であります。

公式サイト https://gaga.ne.jp/mishimatodai/

 1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会は、後に『美と共同体と東大闘争』という本に採録されていて、今では角川文庫で入手できます。討論の内容だけ知りたい人は、そっちを読んだほうが手っ取り早いでしょうね。
 しかしこの討論会、本で「意味」を追う場合と、記録された「パフォーマンス」として鑑賞する場合とでは、相当に印象が異なることは間違いありません。私は「本では眠くなったけど、映像で観ると面白い」派。実際、三島の狙いも全共闘との対話以上に「行動する作家」としての自己アピールに置かれていたはず。しかしそんな魅力的なパフォーマンスを収録したドキュメンタリーが、映画として面白く仕上がったかというと、そうとも言えないのが難しいところです。

 メインとなる記録映像は、TBSに「封印」されていたという触れ込みですが、じつは以前にもこのフィルムを素材に、登壇した全共闘メンバーが往時を回想する構成のテレビ番組が製作されたことがあります。あれは90年代だったかな。確か学生側の北村修、芥正彦、小阪修平(当時は存命)らが改めてインタヴューを受けていましたね。
 今では消されてしまったみたいだけど、その番組から記録映像の部分を抜粋した動画がニコニコ動画にも長いことアップされていて、その動画に寄せられたコメントといえば、ほとんどが全共闘学生を罵倒するものでした。そりゃ、あの映像だけいきなり見せられれば、やさしい言葉でユーモアをまじえながら孤軍奮闘する三島の頭の良さが際立つばかり、硬直したポーズで観念的な議論をふっかけてくる学生たちが青臭く見えるのは当然です。現代日本の停滞は団塊の世代に原因あり、との世代論を信奉する者ほど学生たちが腹立たしく映るようですね。私なんかは正直、「昔の学生というのは、ずいぶん難しい言葉で議論ができたんだなぁ」とすっかり感心してしまったものですが。
 まぁ、我々はその後の全共闘運動の末路を知っているし、女性の姿がほとんど見えない会場にも世代の差を感じてしまうから、学生の主張が時代遅れの流行歌めいたものに聞こえるのはいたしかたないでしょう。一方、自刃した三島に対しては、残された肉声から何か手がかりを得ようと愛読者が真剣に耳を傾けてくれるわけです。そんな構図の自画像を残せた時点で、このイベントはパフォーマー三島由紀夫の大勝利だったと言えるのではないでしょうか。


討論を採録した『美と共同体と東大闘争』(角川文庫)

 今回新たに作られた『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』というドキュメンタリーは、「せっかく記録映像があるんだから、両者の意見をじっくり聞き直してみましょうや、そうバカにしたもんでもなさそうですぜ」、という意図のもとに製作されたらしく、交わされる討論の内容を、ナレーションと証言者を交えながら愚直に解説してくれます。討論に登壇した北村修や芥正彦、聴衆の一人だった橋爪大三郎やTBS記者たち、さらに楯の会メンバーたちの回想。三島と親交あった瀬戸内寂聴や三島ファン代表で平野啓一郎、なぜか内田樹小熊英二まで動員され、壇上で飛び交った懐かしさの漂う言葉の現代的意味をわかりやすく解釈してくれる構成で、親切といえば親切だけど、結局のところ印象として浮かび上がるのが「文豪・三島はスゴい!」だったり、「あの頃はみんな熱かった!」という政治の季節への郷愁感だったりというのが、二十数年前のテレビ番組の時と変わらぬ図式でちょっぴり辟易です。こういうのも「記憶の美化」なんじゃないかと思ってしまう。
 むしろ、小林正樹の『東京裁判』のように、討論の記録映像を中心に、その前後の世相や三島関連の映像資料を収集し、69年当時、死の1年半前の三島の「仮面」の裏には、どんな表情が隠されていたか、現代人の回想やら解釈やらに頼ることなく、当時の資料を駆使して作家の晩年をつきつめてゆく構成にした方が、50年という時間を超える生々しさを掴み得た気がするんですが、そこは予算および覚悟の問題かもしれません。

 例外的にちょっと面白かったのが、全共闘Cこと芥正彦のインタヴュー。あの討論会でただ一人、三島の狙いを見抜いてパフォーマンスで対抗しようとしたのがアングラ演劇の雄だった彼で、赤ん坊を抱えて登場し、不逞な態度で三島を挑発しようとする敵役ぶりはなかなかのもの。芥と三島による「解放区」の本質をめぐる議論は、この日の討論でもっとも聞き応えのある部分です。70歳を超えた芥が、三島の最期について問われ「嬉しかったね。彼にとっては大願成就でしょう」と答えるのは、いかにも演劇人らしい感想で、彼もまた三島同様、半透明の薄膜で現実世界から遮断されたまま生き続けている者なのだな、と納得させられてしまう。
 また、芥は三島とあなたとの共通の敵はなんだったかと問われ、「曖昧で猥褻な日本国」と答えるのですね。三島は戦後日本における「曖昧で猥褻」の象徴を日本国憲法と仮定し、改憲のための抗議の死という形で自刃、彼の考える「英雄の死」を演じて見せたわけですが、さて現代も脈々と継続中の「曖昧で猥褻な日本国」、新型コロナ騒動で改めて浮き彫りになりつつある、しかも相当に腐敗の進んだ相手に、われわれはどう対峙するべきか。

 討論の席上「私は安心している人間が嫌い」と言い放ち、モーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』を引用しながら、「君たちも権力者の眼の中に不安を見たいのだろう。私も見たい」と学生たちを煽った三島。世の中が改めて「不安」に覆われることで、このドキュメンタリーはやや今日的な要素を持ち得たのかもしれません。

 

テリー・ジョーンズの死とテリー・ギリアムの新作〜『Hなえっちな変態SMクラブ』と『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』



公式サイト http://donquixote-movie.jp/ 

 先週は、モンティ・パイソンのメンバーであるテリー・ジョーンズの訃報(享年77)が飛び込んだのと、テリー・ギリアムの新作が日本公開を迎えるという、パイソンズのファンにとっては泣き笑いの一週間となった。

 イギリスの伝説的コメディ番組空飛ぶモンティ・パイソン(1969〜1974)のビデオが発売されたのは80年代。当時10代だった私も熱中し、多大な影響を受けた。グレアム・チャップマンジョン・クリーズケンブリッジ卒コンビが生み出すシニカルで論理的なギャグも面白かったが、テリー・ジョーンズマイケル・ペイリンのオクスフォード卒コンビが生み出すシュールで映像的なギャグがことのほか好きだった。ジョーンズ&ペイリン組は、後にリッピング・ヤーン』(1976〜1979)というシリーズをBBCで製作するが、これなどはイギリス流のユーモア・スケッチ映像版としてマレな傑作なので、未見の方にはぜひお薦めしたい。『Mr.ビーン』あたりとは次元の違う面白さだ。


リッピング・ヤーン』第1話「トムキンソンの学校生活」

 パイソンズはケンブリッジ派とオクスフォード派のほかに、音楽ネタを得意とする一匹狼エリック・アイドルと、奇抜なアニメーションを制作するアメリカ人、テリー・ギリアムの6人によって構成されていたわけだが、このメンバーが初のオリジナル長篇映画モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』1975)を製作するにあたって、共同で監督を担当したのがテリー・ジョーンズテリー・ギリアムだった。情熱的で仕切りたがりのジョーンズと、映像センス抜群のギリアムとの分担作業がとてもうまく行ったように見える映画化だが、やはり撮影現場で個性の強いメンバーを束ねるのは大変だったようで、以後の『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)、『人生狂騒曲』(1983)といったパイソン映画では、ジョーンズが単独で監督を担当、作家性の強いギリアムは美術や特殊効果のみを請け負うことになる。

 テリー・ジョーンズは『カンタベリー物語』のジェフリー・チョーサーの研究家としても知られ、童話作家としても活躍した多才な人物だったが、映画監督としては『Personal Services』(1987)という作品が忘れがたい。日本では『Hなえっちな変態SMクラブというポルノまがいの邦題でビデオ化されたのみだったが、最近CSでも放送された。息子の学費を稼ぐため、ウェイトレスをしながらコールガールに部屋の又貸しをして稼いでいたシングルマザーが、ついに自ら売春を始めるという話で、いつしか仲間が集まり事業拡大、彼女の娼館はさまざまな性癖を持つ人々が訪れる「変態の楽園」として大繁盛。さながら『にっぽん昆虫記』のイギリス版だ。
 これ、シンシア・ペインという娼館経営者が逮捕された実話を元にしており、脚本を書いたデヴィッド・リーランドはシンシアをモデルに映画を作るにあたって、まず彼女の少女時代にスポットを当て『Wish You Were Here』(1987)という青春映画を自ら監督した。そう、ピンク・フロイドの名曲と同じタイトルなんですねぇ。フロイド曲の邦題は「あなたがここにいてほしい」だったが、映画の邦題は『あなたがいたら/少女リンダ』。その実質的な続篇として、大人になった彼女が起こした事件を脚色したのが 『Personal Services』だ。邦題でいうと『あなたがいたら/少女リンダ』が『Hなえっちな変態SMクラブ』へと成長したわけで、なにやら無常感が漂う。撮影は現代最高のキャメラマンの一人、ロジャー・ディーキンス。巧みな移動撮影が演出を助けている。

映画『Personal Services(Hなえっちな変態SMクラブ)』予告編

 テリー・ジョーンズ『エリック・ザ・バイキング〜バルハラへの航海』(1989)や『ミラクル・ニール!』(2014)のようなファンタジー色の濃いコメディを撮ると、どうもスケール感を出せずにギャグも弾まない傾向があり、堅苦しいお国柄をセックスの面から風刺する、『Personal Services』のような重喜劇(©︎今村昌平)が向いていたのではないかと思う。
 ただ、男性との売春行為をいっさい疑わない主人公たちが、世間から「変態」とされる人々を肯定することでリベラルかつパワフルなヒロインとして描かれるこの作品、「良識」で取り繕った社会へのカウンターカルチャーとして成立したのは20世紀までな気がする。「良識」が溶解した現在において、このメッセージを正しく伝えるには、さらにもうひと工夫が必要かもしれない。


テリー・ギリアムドン・キホーテ』(2018)予告編

 バロックな世界を視覚的に楽しませてくれる天性の映画監督は、あきらかにテリー・ギリアムの方だったわけだが、その彼もバンデットQ(1983)、未来世紀ブラジル(1985)、『バロン』(1989)の「夢想者三部作」を撮って以後は、『ブラジル』での最終編集権をめぐる争いや、『バロン』での大幅な予算超過といったトラブル続きが災いしたのか、「不遇」の一語が離れないフィルムメーカーになってしまった。同年輩のリドリー・スコットが今もハリウッドの最前線で豪速球を投げまくり、同じアニメーション畑出身のティム・バートンがダーク・ファンタジーの第一人者として多彩な活躍をしているのにくらべると、大きく水をあけられた感は否めない。しかし、時に優秀な「職人」に徹することができるスコット、バートンらとは違い、ギリアムは作品に自分の体臭をこすりつけようと愚直に格闘してしまう不器用な「芸術家」。ファンもまた、ギリアムの個人的体臭が薄めの作品には容赦なく不満を口にする。上出来にまとまった作品など、ハナから期待していない。

 で、そんなテリー・ギリアムが1990年代から抱えていた企画が、『The Man Who Killed Don Quixote(ドン・キホーテを殺した男)』。2000年にジョニー・デップ主演で撮影開始にこぎつけるが、強引にプロジェクトを組んだ無理が祟り、ロケ地の不首尾や悪天候ドン・キホーテ役のジャン・ロシュフォールの病気といったトラブルが重なって、ついに製作中止に陥った顛末は、ドキュメンタリー映画『ロスト・イン・ラマンチャ(2002)にくわしい。
 その後もギリアムが『ドン・キホーテ』の製作を再開した、という噂が流れること数度、主演俳優の情報はコロコロ変わるが、どうしても撮影開始にこぎつけられぬままポシャってしまう、幻のプロジェクトとなっていた。ギリアムの「ドン・キホーテ企画発進」は、「宮崎駿の引退宣言」と同じくらいアテにならない情報として映画ファンに知れ渡り、「ギリアム先生、このまま『見果てぬ夢』を抱えたまま世を去ってしまうのでは……」とファンも本人も心配になっていたところ、いつの間にかアダム・ドライバージョナサン・プライスの主演で撮影開始、無事に完成へと至ったのだから驚いた。

 とはいえ、完成したからって油断はできぬ。だいたい「構想ウン十年の夢のプロジェクト」が、蓋を開けたら熟成させすぎで酢になっていた、なんてことはよくある話。過度な期待は禁物、禁物……。
 が、公開初日に現物を観てもう一度驚いた。テリー・ギリアムドン・キホーテと邦題がつけられたこの新作は、ひさびさにギリアムの体臭がプンプン漂う純度100%の力作だったのだ。しかも、内容はまさかの「夢想者三部作」の完結篇(みたいな感じ)。21世紀になって80年代の夢の続きが観られるとは思わず、客席で快哉を叫びたくなった。
 2000年にジョニー・デップで撮影した時点では、現代のイヤミなCMプロデューサーが、17世紀にタイムスリップして本物のドン・キホーテに遭遇するという、マーク・トゥエインの『アーサー王宮廷のヤンキー』に似た物語だったようだが、完成した作品では、売れっ子CMディレクターが、学生時代に撮ったドン・キホーテ映画のロケ地を再訪したところ、当時の撮影に参加した老人が今もドン・キホーテを演じ続けており、その妄想世界に巻き込まれるという、きわめて内省的な物語になっていた。主人公のCMディレクターと、ドン・キホーテを演じる老人は、ハリウッドの「商業」の論理に苦しみながら、個人的な「夢」を追い続けて悪戦苦闘するギリアム自身が分裂した姿に違いない。
 さらに、「ドン・キホーテを連れ帰るため村人が仮装して芝居を打つ」とか「『前編』を読んだ公爵夫妻がドン・キホーテをからかうため屋敷に招く」といったセルバンテス原作のエピソードもしっかり流用、夢と現実が行き来するメタフィクション構造にいっそうの奥行きを与えている。主演のアダム・ドライバーが長い手足をバタバタさせながら演じるサンチョ・パンサもいいが、ジョナサン・プライス演じるドン・キホーテはさながら『未来世紀ブラジル』の主人公が転生した姿で、彼がロシア人富豪のパーティーで愚弄される場面は悲痛なものがあった。


ギュスターヴ・ドレが描くドン・キホーテとサンチョ(『バロン』に続いてギリアムのイメージ源となった)

 いっぽう、映画としては弱点も多い。脚本をいじりすぎたせいだろう、前半の展開はモタモタして冗長だし、女性キャラクターを活気づかせられないのも相変わらずだ。あえてCGを多用せず、歴史的建造物を借りてのロケが中心となったようだが、やはりユニークなセットを駆使した全盛期の映像にくらべると視覚面ではヴォリューム不足。予算の都合か『ロスト・イン・ラマンチャ』の時は準備していた、マリオネットの兵士たちとのチャンバラ場面も削除されてしまったらしい。
 それでも、仮装舞踏会での迷宮感はひさびさのギリアム節に酔わせてくれるし、原題「ドン・キホーテを殺した男」の意味が判明するラストは胸に迫るものがあった。夢の破綻と再生。『バロン』のラストの語り直しとはいえ、「夢VS現実」のドラマを愚直に描き続けるガンコ一徹な芸術家ギリアムによる「オレは絶対に夢から覚めないぞ!」という高らかな宣言が聞けて、嬉しかった。

 だが、『Personal Services』の諷刺がストレートに通じにくくなったのと同様、「夢の勝利」を信じるギリアムの姿勢は、「分断」が進む現在において、はたして有効なのだろうかと疑問に思わなくもなかった。今、下層の側が抱くことのできる「夢」とは、例えばポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』(2019)のラストが描くような、絶望の一形態にほかならないのではないだろうか。それともギリアムは「白鳥の歌」を歌うにあたって、『未来世紀ブラジル』のラストを鮮やかに転換させた、ととらえるべきなのだろうか。
 夕陽に向かって消えてゆくドン・キホーテの姿をまぶたに浮かべつつ、自分自身がドン・キホーテとしてあるならば、これからどんな戦い方ができるのか、観終わって思いを巡らせずにはいられなかった。

 

2010年代映画ベスト・テン



 「こんちはー、今年のベストテンをうかがいにまいりましたー」

 「三河屋の御用聞きみたいに現れるな、君は」

 「そんな昭和な例えじゃ、わかる世代はもう限られてますよ」

 「今年も忙しい中、新作映画をまめに観て歩いたけど、アンテナの感度が鈍ったのか、あまりのめり込めるものがなかった。疲れがたまるばかりでね」

 「つまりトシを取ったと?」

 「かもね。それに、テレビドラマや配信系の映像作品など、『映画』の成り立ちが複雑化した今、劇場公開作品に限定した形でベストテンを選ぶことの意味なんて、ほとんどないでしょう」

 「そんなもん個人の思い出以上のものがあるわけないじゃないですか。リアルタイムの資料として記録しておけばいいんですよ」

 「確かにね。なので、2019年で選ぶのはしんどいが、せっかくの10年代最後の年、『2010年代に映画館で観た作品のベスト・テン』というくくりで選んでみることにしたよ。10年後には『劇場公開作品』に限定した選出なんて価値がなくなりそうだからね」

 「ははは、そもそも2029年には生きてるかどうかも怪しいじゃないですか。では、さっそく見てみましょう」

1.マッドマックス 怒りのデス・ロード(2015)
 監督:ジョージ・ミラー

2.スリー・ビルボード(2017)
 監督:マーティン・マクドナー

3.かぐや姫の物語(2013)
 監督:高畑勲

4.ダンケルク(2017)
 監督:クリストファー・ノーラン

5.ニーチェの馬(2011)
 監督:タル・ベーラ

6.ロジャー・ウォーターズ ザ・ウォール(2014)
 監督:ロジャー・ウォーターズ&ショーン・エヴァンス

7.ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012)
 監督:庵野秀明

8.バーフバリ 王の凱旋(2012)
 監督:S.S.ラージャマウリ

9.LEGO(R)ムービー(2014)
 監督:クリス・ミラー&フィル・ロード

10.ダークシステム[完全版](2013)
 監督:幸修司

次.神々のたそがれ(2014)
 監督:アレクセイ・ゲルマン

次.親密さ(2012)
 監督:濱口竜介

 

 「ほほう、1位はマッドマックス 怒りのデス・ロード。なんだ、ブログ『男の魂に火をつけろ!』がやったアンケート結果(http://washburn1975.hatenablog.com/entry/2019/12/22/221931)と同じじゃないですか」

 「トシをとって感性が平均化されてしまったのかなぁ、と思いつつやはりコレしかなかったのだ」

 「2010年代の1位が『マッドマックス』とジョージ・ミラーでいいんですかね。あまりに後ろ向きでは?

 「でもね、往年のコンテンツとクリエイターが、新たな視点を経て『更新』を果たすのも、21世紀映画の重要な方向性だと思うんだな。以前は業界のネタ切れだと批判的に見ていたが、これはこれで映画文化の成熟を示すものだと考え直した。その最大の達成をジョージ・ミラーが果たした、というのは大きいよ」

 「なるほど。2位はスリー・ビルボード、これも去年の大評判作です」

 「ミステリ映画としての面白さに加え、ブラックコメディとしての味わいも非常に巧みで、画の切り取り方も好みだった。マーティン・マクドナーは劇作家出身だが、本来映画志向らしいね。これから長い付き合いになりそうな監督だな」

 「3位はかぐや姫の物語。高畑作品は相性が悪いと言ってませんでしたっけ?」

 「凄い演出家だと思うけど、あまり見返したくならないし、視点の置き方がいちいち気に障るんだな。しかしこれは原作への目の向け方と解釈の方向性が私の趣味にぴったり。『セロ弾きのゴーシュ』(1982)以来の傑作と思いました」

 「4位はこれも苦手と言っていたクリストファー・ノーラン

 「鈍重で下世話な印象があったノーランだけど、『ダンケルク』を3度観たら、根本的になにか読み間違えていたかもしれない、という気持ちになった。来年の新作公開の前に、また全作品見返してみたい人です」

 「5位はタル・ベーラ。今年は伝説の『サタンタンゴ』(1994)が一般公開されましたね」

 「ようやく観ましたよ、7時間18分の大作を。先に『サタンタンゴ』を観たらどう思ったかわからないけど、やはりニーチェの馬は彼の到達点だったんだなぁ、という思いを深くしたのでここに入れました」

 「そして6位にロジャー・ウォーターズ ザ・ウォール。このブロマガで詳細な記事を書きましたね」

 「2010年代は、ロジャー・ウォーターズが新作アルバムを出すだけでなく、『ザ・ウォール』と『US+THEM』の2本の映像作品を完成させたという、長年のファンとしては特別な年代となったわけだから記録に残さないわけにはいかない。しかもいずれも完成度がすばらしいんだからね」

 「7位はまた日本アニメですか。庵野監督ならシン・ゴジラ』じゃなくていいんですか?

 「2010年代の日本映画を代表する作品として『シン・ゴジラ』が挙げられることに異論はないけど、私が強く支持したいのは『ヱヴァQ』の方なのね。来年の完結篇と『シン・ウルトラマン』への期待を込めてランクインさせました」

 「8位は大評判になったインド映画ですね」

 「もちろん1作目のバーフバリ 伝説誕生と合わせた上でのこの評価と思っていただきたい。堂々のスター映画であると同時に、日本の時代劇、マカロニ西部劇、香港活劇の遺伝子を受け継いだ現代娯楽映画。ハリウッドのアメコミ映画もいろいろあったけど、この作品のインパクトを超えるものはなかったな」

 「9位のLEGO(R)ムービー』は2014年度のベストワンに挙げてましたね」

 「私が選ぶ以上は、コメディ映画を混ぜておきたいと思ってさ。マシュー・ヴォーン『キック・アス』(2010)やゴア・ヴァービンスキーローン・レンジャー』(2013)もよかったけど、やはりCGアニメから選ぶことにした。クリス・ミラー&フィル・ロードのチームはこれからも期待できそうだしね。今年公開のパート2も面白かったよ」

 「10位の『ダークシステム[完全版]』は自主映画ですよね?」

 「Hey!Say!JUMPの八乙女光が主演した連続ドラマ『ダークシステム 恋の王座決定戦』(2014)の原作になった傑作だよ。私としては『カメラを止めるな!』(2017)以上に感銘を受けた低予算コメディさ」

 「ググってみましたが監督の幸修司さんは現在、脚本家として活躍されてるみたいですね」

 「監督としての新作も期待したいところだ」

 「そして次点が2本。まず、アレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』

 「ゲルマンの変わらぬ映画力に敬意を表して入れたかったがはみ出ちゃった。でも、邦題は『神様はつらい』のままにしてほしかったなぁ」

 「『神様はつらい』じゃ、なんだか寅さんが出てきそうですよ。もう一本の『親密さ』はENBUゼミナールの卒業制作で4時間以上ある映画なんですね」

 「濱口竜介監督はその後、『ハッピーアワー』(2015)や『寝ても覚めても』(2018)で第一線の監督に躍り出たけど、私としては『親密さ』の劇構造がいちばん刺激的だった」

 「こうして1ダースの作品を見渡すと、なかなか面白い映画が登場した10年だったんじゃないですか? 次の10年はどうなるんでしょう」

 「私はわりと楽天的に見てるんだ。これからMCUをはじめとするアメコミ大作と、Netflixなど配信系が製作する映画がせめぎあって、豊穣な作品市場を生み出すのか、いずれもタコツボ化して映画観賞という行為自体が好事家のものへと閉じてゆくのか、それはわからない。だけど、映画が技術の進化と世相の変化を反映しながら進歩する総合文化なのは今後も変わらないだろう。ハードの発展によって、思いもよらぬところから思いもよらぬ『映画』が飛び出してくればいいんじゃない?」

 「なるほど。でも、この12本に今年の作品は入らない……と」

 「たまたまだよ。ようやく『スター・ウォーズ』9部作が完結するかと思えば、『寅さん』が復活する2020年の正月映画界だからね。来年も何が起こるかわからない」

「年明け早々にはポン・ジュノの新作も待っていますよ」

「映画ファンは常に“Always Look on the Bright Side of Life”の精神で行きましょう」

「それではみなさん、来年もよろしくお願いします」